放課後を待たず、フィノはミリを屋上へ連れ出した。潮風のかわりに渡り鳥の影が飛び交う時間帯、二人の足下で校庭はまだ賑やかだったが、高さが騒音を押し流し、そこには鐘の余韻だけが届いていた。
「正式名称はエオリアの鐘楼」
切り出したのはフィノだ。塔の写真が投影された携帯端末を掲げ、銀髪を逆光で透かす。「昨夜まで黙っていたのは、確証がなかったから。でも今朝、局のデータベースが更新されてね。登録名が復旧した」
「エオリア……」
ミリは昨夜の保健室で朧げに口走った単語を反芻する。自分の発声なのに他人事のようだ。「意味は? 語源とか」
「旧世界語で“風を閉じ込める器”」
フィノは事務的に答えるが、瞳がわずかに揺れる。説明がこれで終わらないことを示す前触れ。
「塔はかつて、音を記憶媒体として封印する研究施設だったらしい。鐘は従業員の合図であり、同時にセキュリティキー。だからあなたの胸が疼く」
説明は論理的で、同時に情緒的だった。ミリは胸に手を当てる。疼きは既に痛覚ではなく、もっと抽象的な感触――風の重さを量る秤、という比喩が浮かぶ。
「じゃあ夢も関係ある?」
「夢?」
ミリは頷き、屋上の手摺に肘を置く。昼光がほとんど失われた西の空を見つめながら、早朝に見た光景を語り始めた。
崩れかけたアーチ橋。窓ガラスが波のように揺れる図書塔。制服の袖が灰を払いながら歩く自分。そこには誰も居ないのに、校歌だけが遠くで流れ続けていた――そんな断片的なビジョン。
語り終えると、フィノは端末を操作し、一枚の古地図を呼び出した。退色した線で描かれた学園都市の俯瞰図。その中央に塔と同形のシルエット。
「一致している」
フィノの声が硬質に変わる。「夢の橋、図書塔、校舎配置。縮尺の誤差を無視すれば、すべて現存しない施設ばかり。でも旧世界の資料には確かに――」
そこまで言って、フィノは言葉を切った。風が強くなり、端末のスクリーンに雲の影が流れる。
「つまり私は昔の街を見た?」
「あるいは、街があなたを見せた」
詩的過ぎる返答にミリは笑いそうになったが、同時に鳥肌が立つ。存在と記憶の主従が入れ替わる感覚。
「確かめよう」フィノが拳を握る。「資料室の禁書棚には当時のオーディオロールが保管されているはず。夢が残響なら、記録媒体と干渉する」
「でも立入許可が要るんでしょ?」
「取りに行く。師……セルゲ管理官に」
名を口にするとき、フィノの声に微かな亀裂が走った。ミリにはそれが風音か鼓動か識別できない。「私も行く」と即答する。
ミリは口を開く代わりに瞼を閉じた。視界の裏側で、崩れた街並みが鮮明化する。瓦礫の間を風が吹き抜け、割れた窓の残骸が風鈴のようにぶつかり合う。そこに居る自分は何も感じない。ただ音だけを採取する昆虫のように歩いている。「録音していた」とミリは呟く。「夢の私は、手にした小箱であちこちの音を収集してた」
「オーディオロールだ」フィノが即答する。「蝋で出来た円筒形の記録体。百年前の技術だけど、塔の地下アーカイブに眠ってる」
言葉が一致すると、景色がパズルのように噛み合う音がした。フィノは端末を閉じ、代わりに小さな鍵束を取り出す。それは研究局の身分証とは違う、古い真鍮製の鍵。表面に“閲覧区画B-7”と刻印。
「師から借りた非常用キー。本来は立入禁止だけど、データ補完の名目でなら潜り込める」
「怒られない?」
「怒られる前提で行動するのが研究者でしょ」
開き直った台詞にミリは吹き出す。笑声が空に吸われ、夕焼け雲を橙から桃へ変色させた。
階段を降りながら、二人は互いに背中を見失わない距離を保つ。その数歩の間合いが心地良いのは、まだ手を繋ぐほどじゃないからだ。校舎の自動ドアが閉まる頃、風向きが変わった。塔の影が伸び、二人の足首を結ぶ。ミリはその重力を振り払い、「行こう」と小さく宣言した。探究心が夜風より冷たく、友情が日暮より温かかった。二つの温度差が胸で渦を巻く。これがエオリア――風の器。ならば自分の身体もまた器になり得るのだろうか。
遠鳴りの鐘は、まだ沈黙を守っている。それが許可なのか拒絶なのか判別できないまま、二人は校舎裏の渡り廊下を抜け、研究局棟へ向けて歩き出す。影はやがて夜に溶け、足音だけが螺旋を刻む予告編のように静かに続いていた。