研究局棟の地下二階、温度も時間も不感症な書庫回廊。その最奥にある閲覧許可窓口は、今日も例外なく「面倒くさい」の五文字を背負っていた。
フィノはそこへ立ち、拳ほどの端末に申請データを転送する。虹色のバーが残り三割で粘っている隙に、ミリへ目配せ。ミリは緊張で背筋を硬直させつつも、霧色の瞳だけは好奇心で跳ねていた。
「大丈夫、形式的な手続きよ」そう囁くフィノ自身の声が、いちばん震えているのは内緒。
ビーッという水平音。転送完了を告げると同時に、カウンター裏の自動扉が滑り開く。出てきたのは白衣の男、セルゲ管理官——フィノの師であり、この局の幽霊装置とあだ名される男だ。
「また君か。規則違反をコレクションするのが趣味なのかね?」
低いからか、高いからか、音域が判じにくい声。ミリは思わず一歩後退したが、セルゲの視線は彼女ではなくフィノの端末に落ちている。
「補完調査です。塔関連のオーディオロールと譜面を閲覧したいだけ」フィノは抑揚を削ぎ落とした声で応じる。
「“だけ”ね」セルゲは指で端末を弾いた。表示がノイズじみた残響波形に切り替わり、フィノの嘘をピストルのように炙り出す。「本音は塔を開く気だろう」
ミリの肩が跳ねる。銃声は鳴っていないのに、耳奥で火薬が弾けた感覚。セルゲはその反応を見逃さず、視線を初めてミリへ移す。灰色の瞳孔が、一枚のX線のように少女を透視する——いや、透視したかのような表情で、口の端をわずかに上げた。
笑み。しかし歓迎でも嘲笑でもなく、診断結果をカルテに書き込む外科医の微笑。それは宣告だ。ミリは理由のない寒気を覚えた。
「君が“声を運ぶ器”か」セルゲの呟きは、カウンターより低い音量で床へ落ちた。
器。昨夜譜面に刻まれていた単語が、現実世界で発声される初体験。ミリは喉を詰まらせ、フィノは即座に一歩前へ。師弟でありながら、立場は対峙へ転換。
「仮説を口にするのは結構ですが、証明なくして診断は成立しません」フィノは冷静を装うが、掌は白衣の裾を握り潰しそうな勢い。「許可をお願いします。解析が終われば自ずと結果が出る」
セルゲは肩を竦める。「出た結果が世界を壊すならどうする?」
「世界が壊れない保証をせずに放置する方が、研究局の怠慢です」
応酬が跳弾し合う中、ミリは自分の鼓動がいつの間にか双方の声より大きくなっているのに気付く。塔の鐘ではなく、自分の胸が金属を叩く。器ならば、外からの音だけでなく内側の音も閉じ込めてしまうのか?
セルゲは微笑を消し、長い溜息で場を包む。「塔は開けるな。それが十年前の結論だ」言外に滲む私情。深淵病で仲間を喪ったという噂が脳裏をかすめる。
しかし男はポケットから一枚のバッジ型カードを取り出し、カウンターの上に滑らせた。金属光沢の裏面には制限時間が赤い数字で点滅している。二十四時間。短いようで、研究者にとっては永遠のように濃密な猶予。
「罠かもしれませんよ」フィノは囁き声で牽制する。
「罠と知っていて踏むのが探究心さ」セルゲは目を伏せる。「その代わり、必ず記録を残せ。後で我々が続けるために」
我々——自分は既に第一線から退いたと暗に語る単語選択。フィノはバッジを受け取り、深く頭を下げた。弟子としてではなく、同じ失敗を恐れる後進として。
カウンターを離れた二人は、回廊の蛍光灯に照らされながら歩く。足音が重なるたび、天井裏で配管が軋むのは祝砲か警鐘か。
「怖くない?」フィノがようやく息を吐く。
「怖いけど、期待の方が大きい」ミリはありのままを答えた。「あの人、ほんとは優しいんだと思う」
「優しいかどうかは分からない。ただ——」フィノはバッジを光に翳し、赤い数字を見つめる。「私たちに未来を預けたのは確かね」
通路の先、封印区画へ続く昇降リフトが無音で開く。中は闇色の静寂。二十四時間の砂時計が落ち始める音は、まだ誰にも聴こえない。
それでも二人は足を踏み入れる。リフトの床材は旧世界の黒曜石、踏むたび反射する顔が歪む。自分たちが誰なのか、影が先に忘れようとするかのようだ。
扉が閉じる直前、遥か背後でセルゲが小さく手を振るのが見えた。別れの挨拶か、あるいは未来への布石か。答えを確かめるには、赤い数字が零へ傾く前に真実へ届くしかない——。
リフトが下降を始める。重力より速く胸が落ち、静寂より早く鼓動が響く。ミリとフィノは視線を交わし、言葉の代わりに小さく息を合わせた。それは勇気の簡易封印具だ。