「回帰する花弁を探せ」――その言葉が繰り返し都市を包んでいた。
音として聞こえるというより、脳の深層に直接触れてくるような感覚だった。
ミリは光環の拍動を観測しつつ、言葉の意味を手繰っていた。
だがその時、フィノが何かに気づいたように顔を上げた。
「“花弁”……図書塔の隔離階だ。あそこに、初期の黒百合標本が保管されているはず」
「隔離階……まだ封鎖中でしょう?」
「僕なら入れる。旧階層のアクセスコードは、再構築前から保持してる」
それは、彼の記憶と、責任の証でもあった。
深淵病が都市を侵していた最初期、感染の疑いがある植物や器物は、図書塔の下層に封印された。
黒百合の標本も、例外ではなかった。
フィノは一人で向かおうとしたが、ミリがすぐに後を追った。
「危険かもしれないわ。無理に止めないけど、ひとりで行かせる気はない」
ふたりは図書塔の裏手から入り、封鎖された階層へ向かった。
埃の匂い。鉄のきしみ。静寂の底に残された記録たち。
誰も近づかないこの場所で、時間だけが取り残されていた。
封印扉を開いた瞬間、白い霧のようなものが一瞬だけ舞い上がった。
中には、透明ケースに納められた黒百合の標本が整然と並んでいた。
だが、何かが変わっていた。
「……白く、なってきてる」
最奥のケースの一つ。その黒百合は、花弁の一部がわずかに変色していた。
黒に近い灰が、乳白色へと染まりかけている。
「共鳴が進んでいるのかも。光環の影響で、転写が始まってる」
ミリの分析は冷静だった。だがその声の奥に、かすかな震えがあった。
「持ち出そう。光環の下に」
ふたりはケースごと標本を持ち出し、都市中央の広場へと運んだ。
空に浮かぶ光環は、静かに拍動を続けている。
そして――その真下に黒百合が置かれた瞬間、空気が変わった。
重力がわずかに変化したような圧力。
都市中の音が遠のき、代わりに深層から浮かび上がるような“ざわめき”が耳に満ちる。
光環が脈打つたびに、黒百合の花弁が震え、色が褪せていく。
黒が灰へ、灰が白へ。
それは、まるで“恐怖”という記憶が、ゆっくりと浄化されていく過程のようだった。
「転写してる……!」
ミリが叫んだ。
黒百合が――白百合へと“変化”していく。
それはただの変色ではない。記憶の置換、あるいは昇華。
恐怖が希望へと書き換えられていくような、奇跡的なプロセスだった。
そして最後の一枚の花弁が白く染まりきったとき、黒百合は淡い光を放ち、音もなく空へと溶け込んだ。
その瞬間――光環が一段と強く輝き、都市の空を染め上げた。
フィノが顔を上げた。
「座標が……確定された」
彼の携帯端末に、空間座標が表示されていた。
それは、今まさにこの都市の中心――黒百合が消えた場所に、直線的に対応していた。
大地が震えた。
地面からゆっくりと、光の筋が伸びあがっていく。
それはひとつの螺旋を描きながら、空へ、さらにその先へと続いていく。
「階段……?」
ミリが呟いた。
それは確かに、巨大な螺旋階段だった。光で編まれた、空への道。
「門が……そこにある」
フィノは、確信とともに言った。
回帰する花弁は、探された。
恐怖は、希望へと転写された。
そして今、門への道が開かれる。