残響は水底より   作:くにゅたろ

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Episode 54「回帰する花弁」

 

 

 「回帰する花弁を探せ」――その言葉が繰り返し都市を包んでいた。

 

 音として聞こえるというより、脳の深層に直接触れてくるような感覚だった。

 ミリは光環の拍動を観測しつつ、言葉の意味を手繰っていた。

 だがその時、フィノが何かに気づいたように顔を上げた。

 

「“花弁”……図書塔の隔離階だ。あそこに、初期の黒百合標本が保管されているはず」

 

「隔離階……まだ封鎖中でしょう?」

 

「僕なら入れる。旧階層のアクセスコードは、再構築前から保持してる」

 

 それは、彼の記憶と、責任の証でもあった。

 深淵病が都市を侵していた最初期、感染の疑いがある植物や器物は、図書塔の下層に封印された。

 黒百合の標本も、例外ではなかった。

 

 フィノは一人で向かおうとしたが、ミリがすぐに後を追った。

 

「危険かもしれないわ。無理に止めないけど、ひとりで行かせる気はない」

 

 ふたりは図書塔の裏手から入り、封鎖された階層へ向かった。

 埃の匂い。鉄のきしみ。静寂の底に残された記録たち。

 誰も近づかないこの場所で、時間だけが取り残されていた。

 

 封印扉を開いた瞬間、白い霧のようなものが一瞬だけ舞い上がった。

 中には、透明ケースに納められた黒百合の標本が整然と並んでいた。

 

 だが、何かが変わっていた。

 

「……白く、なってきてる」

 

 最奥のケースの一つ。その黒百合は、花弁の一部がわずかに変色していた。

 黒に近い灰が、乳白色へと染まりかけている。

 

「共鳴が進んでいるのかも。光環の影響で、転写が始まってる」

 

 ミリの分析は冷静だった。だがその声の奥に、かすかな震えがあった。

 

「持ち出そう。光環の下に」

 

 ふたりはケースごと標本を持ち出し、都市中央の広場へと運んだ。

 空に浮かぶ光環は、静かに拍動を続けている。

 

 そして――その真下に黒百合が置かれた瞬間、空気が変わった。

 

 重力がわずかに変化したような圧力。

 都市中の音が遠のき、代わりに深層から浮かび上がるような“ざわめき”が耳に満ちる。

 

 光環が脈打つたびに、黒百合の花弁が震え、色が褪せていく。

 黒が灰へ、灰が白へ。

 それは、まるで“恐怖”という記憶が、ゆっくりと浄化されていく過程のようだった。

 

「転写してる……!」

 

 ミリが叫んだ。

 黒百合が――白百合へと“変化”していく。

 それはただの変色ではない。記憶の置換、あるいは昇華。

 恐怖が希望へと書き換えられていくような、奇跡的なプロセスだった。

 

 そして最後の一枚の花弁が白く染まりきったとき、黒百合は淡い光を放ち、音もなく空へと溶け込んだ。

 

 その瞬間――光環が一段と強く輝き、都市の空を染め上げた。

 

 フィノが顔を上げた。

 

「座標が……確定された」

 

 彼の携帯端末に、空間座標が表示されていた。

 それは、今まさにこの都市の中心――黒百合が消えた場所に、直線的に対応していた。

 

 大地が震えた。

 

 地面からゆっくりと、光の筋が伸びあがっていく。

 それはひとつの螺旋を描きながら、空へ、さらにその先へと続いていく。

 

「階段……?」

 

 ミリが呟いた。

 それは確かに、巨大な螺旋階段だった。光で編まれた、空への道。

 

「門が……そこにある」

 

 フィノは、確信とともに言った。

 

 回帰する花弁は、探された。

 恐怖は、希望へと転写された。

 そして今、門への道が開かれる。

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