残響は水底より   作:くにゅたろ

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Episode 58「対話者」

 

 それは人の形をしていた。

 けれど、誰の顔でもなかった。

 光の糸で編まれたかのようなその姿は、かつて人であったようにも見えるし、まったく別の存在にも感じられた。

 

 誰かが息を呑み、誰かが祈るようにひざまずく。

 言葉はなかった。だが確かに、全員の心に何かが届いた。

 

 それは、問いだった。

 

「――何を、残すか」

「そして、何を、忘れるか」

 

 音として響いたわけではない。

 それは脳ではなく、皮膚や胸や、記憶そのものに直接触れてきた。

 夢の中で誰かに名を呼ばれるような、甘く、抗いがたい問いかけだった。

 

 巡礼者たちは戸惑い、視線を交わしながら、思い思いに答えを探し始めた。

 誰かは静かに手を上げ、涙をこぼしながら答えた。

 

「私は、母の笑顔を残したい。あの安心を、未来に伝えたい」

 

「戦争の記憶は、もういい。あれは痛みしかないから、忘れたい」

 

 「手を取り合った日々は残す。でも、裏切られた夜は――」

 

 それぞれの声が、静かに門に向かって流れた。

 だが門の輪郭は、微かに震えただけだった。何も応えなかった。

 

 拒絶されたのだ。

 

 答えが一方に偏っていたから。

 “残したいもの”ばかりが語られ、“忘れたいもの”ばかりが否定された。

 そこには選択の重さも、連鎖の必然も、存在していなかった。

 

 ミリが一歩、門へと進み出た。

 

「忘れることも、覚えていることも……どちらも種になる。そうじゃないと、選択じゃない」

 

 誰もが彼女の言葉に注目する。

 ミリの隣に立ったフィノが、ゆっくりとうなずいた。

 

「僕らは、痛みから逃げるために忘れるんじゃない。

 痛みを受け入れるために、記憶と忘却を編み直すんだ」

 

 光の人型が、かすかに揺れた。

 風もないのに、空気が静かに波を打つ。

 二人はその波の中で、息を合わせるように言った。

 

「――『忘却も記憶も、連鎖の種』です」

 

 それは呪文のように響き、門の中心に光の共鳴が走る。

 都市の空に鐘の音が鳴った。やわらかく、深く、胸を震わせるような音。

 

 門の向こうから、細い糸のような光子が流れ出し、都市の空気に溶け込むように降り始めた。

 

 その光は、祝福でも、罰でもなかった。

 ただ、選ばれた“更新”だった。

 

 忘れたはずの声が、風に紛れて聞こえてくる。

 思い出したくなかった記憶が、優しい色に染め直されて胸に届く。

 誰かが流した涙の温度が、世界の地図を少しだけ塗り替える。

 

 光の流れは止まらない。

 門の奥にあった可能性が、今、現実へと書き換えられていく。

 

 固定された未来など存在しない。

 ただ、誰かの選択が――連鎖し続けるだけ。

 

 だからこそ、この答えは、終わりではなく始まりだった。

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