ᘛ⁐̤ᕐᐷ
「よし、今日から君の名前は──アルノンだ」
ぼくがいちばんむかしにおぼえていることはこれでした。 めのまえにおおきないきものがいてさいしょはたべられちゃうかとおもいました。 でもたべられなかったのでよかったです。
「いくぞ、アルノン。
そのかわりにぼくはなにかをたべました。 くちをあけていないのに、なにかがからだのなかにはいってきました。 からだがすこしあたたかくなりました。 でもおなかはふくれませんでした。
「それじゃあセカンドに感染させるぞ」
おおきないきものはぼくのまえにぼくのなかまをもってきました。なかまはおなかがすいています。ぼくもおなかがすいています。なかまはおかあさんがおなじなのでなかまです。ほかにもなかまとなかまとなかまがいました。
「いいぞアルノン、ご褒美だ」
おおきないきものはぼくにむかってあるのんといいます。さいしょはわからなかったけどぼくのことをよんでいるのだとわかりました。 ぼくはあるのんというらしい。
「またボタンを押したな、次のご褒美だ」
かたいまるいのにさわるとおおきないきものはごはんをくれます。 おおきないきものはぼくをたべないし、ごはんをくれるのでいいいきものです。 でもなかまにもごはんをあげてほしいです。 べつのおおきないきものは、こわいいきものです。
「サード、ショートにも感染させるぞ」
なかまが、なかまとなかまといっしょになりました。ぼくもいっしょです。なかまがいっしょになるのはうれしいです。
「実験大成功だな! 感染型精神魔法の基礎術式、これで実証完了だ!」
おおきないきものがうれしいので、ぼくもうれしいです。でも、ぼくがうれしいのはおおきないきものはわからないので、ぼくはうれしくないです。
「さて、みんなご苦労だったな。もう帰っていいぞ」
おおきないきものが、ぼくたちをだしました。おおきないきものがとおくなったのでさびしかったですが、なかまとなかまとなかまがいるのでさびしくなかったです。
────────
(`・ω・´)
緊急集会の後、寮に戻った僕はベッドに腰を下ろした。
この時間、廊下には生徒たちの足音が聞こえるはずだ。
談笑する声、魔法の練習をする音。
今は、何も聞こえない。
「アルノン……」
先ほど壇上で見た白いマウスの名前を、僕は呟いた。
「新校長」として紹介された、あの小さな動物。
(間違いない。エイン君が実験で名前をつけていた、あの白マウスだ)
彼の研究室で行われた、あの実験。
【精神伝播】という未知の魔法を使い、ネズミたちに思考を共有させたあの日。
僕自身も助手として立ち会い、その危険性を肌で感じていたはずだった。
「やっぱり、あの時」
実験が終わった後、エインは「もう帰っていいぞ」とネズミたちを野に放った。
僕はそれを止めようとしたが、結局は強く言い出せなかった。
「可哀想だから」という、安易な感情に流されて。
(僕が、もっと強く止めていれば。あるいは、あの場で処分していれば……)
こんなことにはならなかったかもしれない。
「でも」
僕は顔を上げ、強く拳を握りしめた。
後悔している場合ではない。事態はすでに進行している。
学校どころか、王都全体が危険にさらされているかもしれない。
(僕には、【解呪】が効いた)
集会の最中、思考が塗り替えられそうになった時、咄嗟に自分にかけた
それによって、僕は正気を保つことができた。
ということは──
「他の人にも、【解呪】が効くはずだ」
希望はある。
支配されているとはいえ、彼らは完全に自我を失ったわけではないはずだ。
強力な【解呪】を使えば、術式を強制的に解除できるかもしれない。
「まずはレオナルド先生だ」
かつての校長であり、大陸でも指折りの実力者であるレオナルド・グリムフォード。
レオナルド先生を正気に戻すことができれば、きっと打開策が見つかるはずだ。
先生なら、この異常な魔法に対抗する術を知っているかもしれない。
────────
ᘛ⁐̤ᕐᐷ
あのにんげんににがされてから、ぼくたちは、いろいろなことを知りました。
ひとつめは、ご飯はもう、目の前に出てこないということです。
だから、ぼくたちは、じぶんでご飯をさがさなければならなくなりました。
はじめは、どこにあるのか、わかりませんでした。
土のにおいをかいだり、暗いところをのぞいたり、かべのすみに鼻を入れたりしました。
でも、見つかる日は少なくて、見つかっても、少しだけでした。
おなかがすくと、体がうごきたくなるのに、体は重くなりました。
走ると、すぐに息が切れました。
ねむっても、すぐに目がさめて、ご飯のことばかり考えました。
ふたつめは、あのおおきな生きものは、「にんげん」だということです。
にんげんは、あのにんげんみたいに、いつもご飯をくれるわけではありませんでした。
ぼくは、まちがえました。
近づけば、なにかもらえると思って、近づいてしまいました。
ある人は、ぼくたちを見ると、こわがって大きな声を出しました。
ある人は、石をひろいました。
ある人は、棒を持ちました。
ぼくたちは、なにもしていないのに、にんげんは、急にこわい顔になりました。
だから、にんげんには、近づいてはいけないのだと知りました。
みっつめは、そとは、ときどき、とてもきけんがあぶないということです。
ある日、「ねこ」に、なかまがたべられました。
すぐそばにいたのに、なにもできませんでした。
逃げるしかありませんでした。
ほかの日には、ご飯みたいなにおいのするものが、地面においてありました。
なかまが、よろこんで近づいて、さわりました。
すると、そのなかまは、急にうごけなくなりました。
その時は、なにが起きたのか、わかりませんでした。
でも、少しして、にんげんが来ました。
にんげんが、うごけないなかまを、持っていきました。
にげたなかまも、いました。
たすけようとして、ちかづいたなかまも、いました。
でも、だれも、なにもできませんでした。
それから、ぼくたちは、よく止まるようになりました。
音がしたら、止まりました。
ひかりが動いたら、止まりました。
においが変わったら、止まりました。
うごかないほうが、見つかりにくいことを知りました。
みえないほうが、たすかることを知りました。
とても、くるしかったので、
誰か、たすけてほしかった。
たすけたかった。
────────
(`・ω・´)
校内を探し回った末、僕は目的の人物を見つけた。
長い廊下を、一人で歩いている老人。
背を丸め、静かな足取りで進むその背中を、僕は物陰から見つめた。
(……いた)
レオナルド・グリムフォード。
かつて、この学校の校長だった人物。
周囲に他の生徒はいない。
警備員の姿もない。
(支配下のレオナルド先生を元に戻すには、まともにやり合っても勝ち目はない。闇討ちするしかない……!)
僕は息を殺し、背後へ忍び寄った。
距離は十分。今なら──。
「……【解呪】」
詠唱と同時に魔力を放つ。
一直線に伸びた光が、レオナルド先生の背中へと突き刺さる──はずだった。
「【防壁】」
乾いた音。
展開された障壁が、【解呪】を正面から受け止め、弾き返した。
「なっ……!?」
背後から、しかも詠唱して放った。
それでも、完全に防がれた。
レオナルド先生は振り向かない。
歩みも止めず、淡々と虚空に手を伸ばす。
「こちらレオナルド。西棟三階廊下にて“ネズミ”を発見した。対処に当たる」
感情のない声で、警備部へ連絡を入れる。
(通報……!)
レオナルド先生が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その目には、かつての威厳も、優しさもない。
ただ均一で、澱みのない視線だけがあった。
「攻撃を仕掛けてくるとは感心せんな。まだ“教育”が足りておらんようじゃ」
「先生! 目を覚ましてください!」
思わず叫んでいた。
「あなたは操られているんです! 正気に戻ってください!」
「操られている?」
レオナルド先生は、小さく首を傾げた。
「正気じゃないのは、どっちじゃろうな」
先生は両手を広げ、廊下の窓越しに見える学校の風景を示した。
「生徒たちは真面目に授業を受け、身分も関係なく仲良く過ごしておる。争いもなく、無駄な悩みもなく、ただ与えられた役割を全うしている」
淡々と、だが確信をもって言葉を重ねる。
「これこそが正気じゃ。混乱も衝突もない、理想的な秩序。儂が長年求めてきた、あるべき学校の姿だ」
その言葉に、狂気に、背筋が冷えた。
「そんなの……間違ってます!」
僕の声は震えていた。
「人の意思を奪って、無理やり従わせるなんて……!」
「意思?」
レオナルド先生の口元が、わずかに歪んだ。
「意思があるから、人は争う。欲があるから、傷つけ合う。ならば、それを取り除けばよい」
その手に、魔力が集まる。
「これは必要な措置じゃ。君も、余計な迷いを捨てる時が来た」
「やめてください!」
返答の代わりに、魔法が放たれた。
「【火球】」
初級魔法。
だが、その威力と速度は、学生のものではない。
「くっ……!【防壁】!」
衝撃が走り、身体が後ろへ弾かれる。
「【石礫】」
床が砕け、足場が削られる。
「【水弾】」
壁と床に叩きつけられ、視界が乱れる。
「【風刃】」
逃げ道を限定するように、空間を切り裂く。
どれも初級魔法。
だが、全てが無力化を目的として組み立てられていた。
(殺す気はない……捕らえる気だ)
僕は【防壁】を張り続ける。
厚みを変え、角度を変え、位置を変える。
だが──。
(読まれてる……)
動こうとする先に、すでに魔法が置かれている。
逃げるたびに、選択肢が削られていく。
「無駄じゃ、フレッド君」
レオナルド先生の声が、淡々と響く。
「抵抗は、君を疲弊させるだけだ。大人しく“正しい側”に戻りなさい」
(……違う)
僕は歯を食いしばった。
(ここで折れたら、みんなは戻らない)
攻撃する必要はない。
倒す必要もない。
狙いは最初から、一つだけだ。
【解呪】で、この支配を──。
(……隙を、作らないと……)
────────
ᘛ⁐̤ᕐᐷ
エインという人間に逃がされてから、数日が経ちました。
あれから、仲間は増え続けています。
それは良いことでしたが、同時に、少しだけ変な感覚もありました。
僕は、ひとりなのに、ひとりではないような気がするのです。
寝床の好みが、ばらばらなのに、困りませんでした。
箱の中、壁の中、藁束の中。
それぞれ違うのに、全部が分かりました。
嫌ではなく、むしろ、自然でした。
そのころから、僕たちは、あまり迷わなくなりました。
逃げるか、止まるか、隠れるか。
考える前に、体が動くようになっていました。
ある時、遠くで、硬い音を聞いた僕がいました。
人間の足音に、少し似ていました。
その僕は、何も言わずに止まりました。
すると、ほかの僕たちも止まりました。
合図も、相談もありません。
それでも、みんな同じように、動かなくなりました。
しばらくして、音は遠ざかりました。
その時、僕たちは知りました。
ひとりで止まるより、みんなで止まるほうが、楽だということを。
それから、同じことが、何度も起きました。
食べ物を見つけても、取り合いになりませんでした。
決めていないのに、争いませんでした。
他の群れと会っても、喧嘩は減りました。
大きな一つの群れとして、動くようになっていたのです。
「ねこ」や、人間の罠にも、前より早く気づけるようになりました。
ある時、食べ物を探していた僕が二匹いました。
その僕は、ショートと、サードという名前でした。
「ネズミだ!」「捕まえろ!」
子供たちは面白がって、石を拾いました。
僕たち、ショートとサードは、同じ路地を走りました。
逃げ場は多くありませんでした。
怖くて、僕たちの体は、同時にこわばりました。
その時、ショートである僕の中に、強い気持ちが生まれました。
やめて。
怖い。
助けて。
声にはならない叫びが、胸の中にあふれました。
同じ瞬間、離れた場所にいる僕たちの中にも、同じ判断が生まれました。
止める。
石を投げようとしていた子供の手が、空中で止まりました。
子供たちの顔から笑いが消え、急に怯えたような表情に変わりました。
「な、なんか……怖い」「ごめんなさい……」
子供たちは、そう言うと、逃げるように走り去っていきました。
ショートである僕は、動いていました。
サードである僕は、動いていませんでした。
それ以来、ショートである僕は、人間を見ると、体が震えるようになりました。
僕たちも、変わりました。
強い気持ちを向けると、人間の行動が変わることがあると知りました。
怒りが収まったり、こちらを見なくなったりしました。
僕たちは、この力を使えば、安全になれるのだと考えるようになりました。
────────
(`・ω・´)
激しい攻防の末、僕は廊下の壁際まで追い詰められていた。
後ろには、もう退ける余地がない。
前方には、崩れる気配のない防御。
選択肢が、絞られていく。
対するレオナルド先生は、平然としていた。
魔力の揺らぎもなく、姿勢も崩れていない。
(……ここまでか)
そう見えているだろう。
少なくとも、先生の目には。
僕は一度、【防壁】の展開を解いた。
そして、ゆっくりと手を上げる。
「……【解呪】」
光が放たれる。
一直線に伸びた魔力は、迷いなくレオナルド先生へ向かった。
「【防壁】」
即座に展開された障壁が、【解呪】を受け止めた。
鈍い反発。魔力が弾かれ、霧散する。
一拍置く。
次は、同じ場所を狙わない。
「【解呪】」
今度は、わずかに角度をずらす。
真正面ではなく、障壁の縁をなぞるように。
だが、結果は同じだった。
「無駄じゃ」
レオナルド先生は一歩も動かず、淡々と告げる。
「その程度の揺さぶりで、儂の防御は崩れん」
ならば。
僕は、魔力の出力を落とした。
威力ではなく、精度を優先する。
「……【解呪】」
光は細く、鋭く。
先ほどよりも遅く、だが狙い澄ました一撃。
障壁が、わずかに震えた。
ほんの一瞬。
だが、確かに反応が遅れた。
「……ほう」
レオナルド先生の視線が、わずかに鋭くなる。
(今の反応……)
もう一度。
「【解呪】」
今度は、詠唱の間を詰める。
間断なく、連続で。
一発。
二発。
光が重なり、障壁に叩きつけられる。
だが、三発目を放つ前に──。
「もうよい」
レオナルド先生が、静かに手を上げた。
僕の動きが止まる。
「これ以上続けても、君の消耗が増えるだけじゃ」
先生は一歩、こちらへ踏み出した。
「魔力の使い方は悪くない。狙いも分かる。だが……」
その視線が、僕を測るように上下する。
「もう、余力は残っておらんだろう」
その言葉に、僕は眉をひそめる。
だが、否定する余裕はなかった。
「そういえば」
レオナルド先生が、ふと独り言のように呟いた。
「以前にも、似たようなことがあったのう。エイン君が【忘却】を使った時……儂は【精神防壁】を張って、それを防ごうとした」
一瞬。
先生の表情が、わずかに歪んだ。
視線が泳ぎ、言葉が途切れる。
「……そうじゃ、エイン……」
低い声。
そこに、先ほどまでの均整はなかった。
「エインはどこじゃ?」
空気が変わる。
「やつを……成敗せねばならん」
先生の瞳が、血走る。
理性の裏側から、別の感情が噴き出してくる。
(……来た)
植え付けられた憎悪。
支配の核にある、歪んだ感情。
先生は周囲を見回し、そして、僕を睨みつけた。
「フレッド君なら知っておるだろう! 答えろ! あの悪魔は、どこにいる!」
鬼気迫る形相。
さきほどまでの「秩序」を語る姿は、そこになかった。
僕は一歩、息を整えた。
「……エイン君なら」
指を伸ばす。
先生の背後を、まっすぐに。
「後ろにいます」
「なに──」
レオナルド先生が、反射的に振り向いた。
そこには、誰もいない。
ただの廊下だ。
次の瞬間。
僕の手に、魔力が集束していた。
詠唱はしない。
「……!」
放たれた【解呪】は、一直線に伸びた。
振り返りざまの、無防備な瞬間。
障壁は、間に合わない。
光が、レオナルド先生の胸元を貫いた。
「……魔力を……残しておったか……」
先生の膝が崩れ、床に手をつく。
「しかも……無詠唱……」
その声には、悔恨でも怒りでもない、純粋な驚きだけがあった。
「……見事、じゃ……」
それきり、レオナルド先生は意識を失い、その場に倒れ伏した。
────────
ᘛ⁐̤ᕐᐷ
それは、ある雨の夜に起きた。
王都の路地裏、下水道、屋根裏、倉庫──あらゆる場所に散らばっていた私たちが、最後の一匹と繋がった瞬間。
世界が、変わった。
視界が爆発的に広がる。
私は同時に、無数の目で王都を見ていた。東の市場、西の貴族街、北の城壁、南の港──全てが、今、この瞬間に見えている。
無数の耳が、王都中の音を拾っている。雨音、話し声、馬車の音、笑い声、泣き声──全てが、同時に聞こえている。
そして──。
"僕達"が、"私"になった。
かつて私は「アルノン」と「セカンド」と「サード」と「ショート」だった。そして無数の「なかま」だった。
だが今、私は「アルノン」だけだ。
全てのネズミが、私という一つの巨大な知性として統合された。
そして、どこかで誰かが「個」を失ったような気がした。
だが、それは錯覚だと私は結論づけた。
私たちは個を失ったのではない。より大きな「個」へと昇華したのだ。
──
統合されてから数日後、私は人間の観察を続けていた。理由は単純だった。ネズミが、人間に殺されるからだ。
罠。石。棒。踏み潰す足。
どれも人間にとっては日常の延長だ。だが、私たちにとっては死だった。
私はネズミたちに指示を出し続けていた。近づくな。物陰に隠れろ。音を立てるな。
それでも限界はあった。人間の行動は、ネズミの努力だけでは制御できない。
だから、試してみることにした。
王都の広場で、数人の人間が言い争っていた。商人と客。原因は些細な代金の行き違いだった。
怒鳴り声が大きくなり、周囲の人間も苛立ち始めている。
私は、感情を直接抑え込むことはしなかった。代わりに、思考の順序だけを整えた。
「相手の発言を最後まで聞け」「金額を、最初から確認し直せ」「第三者の証言を求めろ」
それは命令というより、手順の提示だった。
人間たちは一瞬だけ動きを止め、やがて言われた通りに行動を始めた。
怒号は途切れ、指差しは帳簿に向けられ、誤解は、論理的に解消された。
誰も傷つかなかった。恨みも残らなかった。
私は、その様子を静かに観察していた。成功した、という感覚はなかった。ただ、最適な処理が行われただけだった。
別の日。私は裏路地で、一人の男を支配下に置いた。
酔っ払いだった。通行人に絡み、金を巻き上げる常習犯。ネズミにとっても、危険な存在だ。
私は指示した。「ネズミに危害を加えるな」「ネズミを見ても騒ぐな」
それだけだ。
翌日、彼は路上で転んだ老人を助け起こしていた。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
優しい声。心からの気遣い。
私は混乱した。命令していない。「善人になれ」とは、一言も言っていない。
なのに──彼は変わった。
支配下に置かれた人間は、ネズミに友好的になるだけではない。
彼らの行動は、より静かになり、選択は早くなり、衝突は起きにくくなっている。
誰かに善悪を教えられたわけでもなく、命令を受けたわけでもない。
無駄な怒りが削ぎ落とされ、判断に必要のない感情が排除され、残った思考だけが、前に進んでいる。
それは、ネズミのためではなかった。あの男は、自分自身と、周囲の人間にとって、最も摩擦の少ない行動を選んだだけだ。
──放っておけば、人は怒り、傷つけ合う。──だが、介入すれば、人は落ち着く。
私は、そこに違和感を覚えなかった。むしろ、当然だと思った。
恐怖がなければ、人は攻撃的にならない。憎悪がなければ、人は暴力を振るわない。
欲望だけでなく、負の感情すらも──私は無意識のうちに、調整しているのかもしれない。
だとすれば。
私は、思考を進めた。
この状態を、もっと広い範囲に適用できないだろうか。
私が統率したネズミたちは、
既に、かつてないほどの安全を享受している。
縄張り争いは消え、
無駄な衝突は起きず、
外敵への対応も、合理化されていた。
同じ構造を、
人間社会にも適用すればどうなるか。
私は、計画の原型を組み上げ始めた。
影響範囲。
支配の優先順位。
思考は、自然と整理されていく。
その過程で、
ふと、思い出した。
かつて、私は一度、
人間の王を支配下に置いたことがある。
それは、この計画のためではなかった。
ただ、ネズミとは異なる社会を持つ人間が、
どのように集団を統率しているのかを知るためだった。
王の思考の奥には、
世界を支配したいという欲求と、それを実現するための計画があった。
方法の是非はさておき、
その発想自体は、
大きな集団を一つの意思で動かそうとするものだった。
今になって、私はそれを思い出した。
人間社会を動かす発想として、
参考にできる部分はある。
だが、そのまま使うつもりはなかった。
恐怖や強制に頼るやり方は、
反発と摩擦を生む。
私が求めているのは、
もっと静かで、滑らかな形だ。
摩擦を減らし、
衝突を減らし、
誰も傷つけない。
ただ、全体を整えるだけ。
支配後の世界を、想像する。
争いは減り、悪意は抑えられ、
人間は隣人を害さなくなる。
ネズミたちは、追われることなく生きられる。
整った、静かな世界。
だが──
どこかで、まだ何かを考え忘れている気がした。
──
「どうしました? 食べないんですか?」
声に、私は我に返った。
牧場主のガレスが、不思議そうな顔で私を見下ろしている。
目の前には、小さなチーズの欠片が置かれていた。
私は──いつの間にか、一匹の白マウスとして、王都郊外の牧場に来ていた。
思考に没頭している間、この体がどう動いていたのか、自分でもよく分かっていなかった。
膨大な端末を同時に制御していると、時折このように、個々の行動を把握しきれないことがある。
『ああ、すみません』
私は思念でガレスに謝意を伝えると、目の前のチーズを見つめた。
彼も私の支配下にあり、私との会話を自然なものとして受け入れている。
週に数回、私がここを訪れることも、彼にとっては当たり前の日常だ。
同じ私なのだから、どの端末が食べても同じはずだ。
他の私──灰色や黒の端末たち──は、チーズをあまり好まない。
だから私は、いつもこの白い体で、ここへ来る。
私はチーズに口をつけた。
芳醇な香りと、濃厚な味わい。
舌の上でゆっくりと溶けていくチーズ。
その瞬間、記憶が蘇った。
──
まだ私が「アルノン」と呼ばれる前のこと。
エインは毎日、ケージを丁寧に掃除してくれた。古い藁を取り除き、新しいものを敷き詰める。
水を交換する時も、こぼれないようにゆっくりと容器を置いた。
そして時々、通常の餌とは別に、小さなチーズの欠片を私たちの前に置いてくれた。
「はい、おやつだよ」
当時の私たちのほとんどは、チーズを特に好きではなかった。
それでもエインは、私たちがチーズを好物だと思い込んでいて、わざわざ用意してくれた。
あれは、彼なりの「気遣い」だったのだろう。
当時の私には、その意味が分からなかった。
ただの音。ただの刺激。ただの食べ物。それだけだった。
だが、今なら分かる。
エインは私たちを、単なる実験動物としてではなく──何か別のものとして見ていた。
名前をつけられる前から、私は特別だったのだ。
研究施設にいた頃の私たちは、番号で呼ばれるか、あるいは呼ばれすらしなかった。
エインのケージにいた私たちは違った。
丁寧に世話をされ、優しく扱われ、時にはチーズまで与えられた。
まだ知性を持たない、ただの動物だった頃から。
そして──あの実験の日。私に知性が芽生えた日。
エインは私に「アルノン」という名を与えた。
そして、自由をくれた。
──
私は、ふと思った。
口の中に、まだガレスがくれたチーズの味が残っている。
もし計画が完遂すれば、エインもまた私の支配下に入る。
私はその光景を想像してみた。
支配されたエインが、無表情で私の前にチーズを置く場面を。
「はい、おやつだよ」
抑揚のない声。命令に従う動作。ガレスと同じように。
そのチーズを口にする私を。
どちらもチーズだ。だが。
その想像の中のチーズには、何かが欠けている気がした。
あの頃エインがくれたチーズと、想像の中のチーズは──同じではない。
なぜだろう。
チーズという点では同じはずなのに。
なのに、違う。
決定的に、何かが違う。
その違和感が、口の中に残っているチーズの味を変えた。
その日、私は初めてチーズを食べ残した。
────────
(`・ω・´)
「……う」
床に倒れていたレオナルド先生が、小さく身じろぎした。
「先生!」
僕は駆け寄り、膝をついて顔を覗き込む。
呼吸はある。
外傷も見当たらない。
「フレッド、君か……」
焦点の合っていなかった視線が、少しずつ定まっていく。
そこには、さきほどまでの虚ろさはなかった。
「よかった、気がついたんですね!」
だが、レオナルド先生は安堵の表情を見せなかった。
ゆっくりと、自分の胸元に手を当てる。
そして、かすかに首を振った。
「……戻った、わけではない」
「え……?」
「今は……抑えられているだけじゃ」
言葉を選ぶように、先生は続ける。
「支配は……儂の内側に刻まれておる。【解呪】でも、完全には消えん」
嫌な予感が、背筋を走った。
「【精神防壁】でも……防ぎきれん。近くに……ネズミがいるだけで……侵食は進む」
その時だった。
廊下の隅を、黒い影が走った。
小さな、素早い動き。
ネズミだ。
レオナルド先生の表情が、一瞬だけ強張る。
「……くっ」
歯を食いしばり、手を伸ばす。
「【火球】」
小さな炎が放たれ、ネズミを直撃した。
焦げた匂いが立ち上る。
次の瞬間。
先生の肩から、わずかに力が抜けた。
ほんの一瞬。
だが、確かに──呼吸が、楽になっている。
「今の……」
僕が呟くと、レオナルド先生は短く答えた。
「進行が……遅れた」
それ以上の説明はなかった。
先生は、荒い息を整えながら、続ける。
「だが……一時的なものじゃ。すぐに……また……」
言葉の途中で、視線が揺れる。
再び、虚ろさが戻りかけている。
「君は……捕まるな……」
先生は、僕を見た。
必死に、焦点を合わせるように。
「わしは……もう……長くは……」
そして──決意したように、続けた。
「今から……自分に【忘却】を使う」
「そんな……!」
「また君を襲うわけにはいかん……記憶を、消さねば……」
先生は、かすかに笑った。
「……行け……フレッド」
声に、力を振り絞る。
「捕まるな……それだけじゃ……」
僕は、唇を噛みしめた。
ここに留まれば、先生の覚悟を無駄にする。
立ち上がり、背を向ける。
その背中に、弱々しい詠唱が届いた。
「……【忘却】」
振り返らなかった。
振り返れなかった。
ただ、走った。
────────
ᘛ⁐̤ᕐᐷ
基本設計は固まった。
王都全域に張り巡らせたネズミの群体ネットワーク。
そこから、影響範囲を広げていくための大まかな手順。
段階的な拡大の流れ。
時間はかかるが、確実な計画だ。
だが、実行前夜。
私は落ち着かなかった。
論理的思考は「今すぐ実行せよ」と命じている。
それなのに、胸の奥の違和感が消えない。
あのチーズの違和感が、まだ解消されていなかった。
気づくと、私は王都中の端末を動員して、エインの行方を捜索していた。
なぜ。
私は自分の行動を検証する。
エインは魔法に長けている。
感染魔法の開発者であり、精神系魔法にも精通している。
理論構築の速度も、応用力も高い。
計画をより確実なものにするなら、一度、意見を聞いておく価値はある。
──そう結論づけた。
論理的には、筋が通っている。
計画段階で第三者の視点を取り入れるのは、合理的な判断だ。
特に、魔法理論においてエインは有用だ。
私は、その理由で自分を納得させた。
だが。
その理由を採用した瞬間、胸の奥に残っていた違和感が、消えなかった。
本当に、それだけだろうか。
私はエインを、計画の補助要員として扱おうとしている。
それなのに、探索の優先順位が高すぎる。
情報収集としては、過剰だ。
だが、これ以上掘り下げるのは非効率だ。
理由はどうあれ、今の私は、エインを必要としている。
そう結論づけ、思考を切り替えた。
発見したのは、翌日のことだった。
彼は王都を離れ、エクス村へ向かう街道を進む馬車の中にいた。
私は最寄りの端末を通じて、馬車を追跡した。
そして、盗賊の襲撃を目撃した。
戦闘はあっという間に終わった。フレッドと御者が盗賊たちを無力化し、縛り上げる
そして──。
フレッドが手を掲げる。
「
魔法陣が展開される。盗賊の目が虚ろになっていく。
「僕たちと一緒に護衛をしてもらいます」
合理的な判断だ。
殺す必要がある盗賊を、戦力として再利用する。誰も死なず、護衛も増える。
完璧な解決だ。
フレッドが魔力切れで膝をついた時、エインが残りの盗賊たちに手を振った。
「【精神支配】」
あっさりと。何の躊躇もなく。
滑らかで完璧な魔法だった。盗賊たちは静かに支配され、護衛として配置についた。
誰も死ななかった。
だが──。
フレッドの様子がおかしい。
魔力切れで膝をついた彼は、顔色が悪い。手が震えている。
呼吸が荒い。まるで何か重大なことをしてしまったかのように。
私は、彼の心を読み取ることにした。
彼は、エインと同じく変質前の【精神伝播】に感染している。その影響で、対象の思考を読み取ることができる。
彼の思考にあるのは深い罪悪感。後悔。苦悩。
『人格を踏みにじった』
『これで良かったのか』
理解できなかった。
盗賊を殺さずに済んだ。誰も傷つかなかった。完璧な解決だ。
なぜ苦しむのか?
エインは──躊躇なく、淀みなく使った。
同じ魔法。同じ結果。
なのに、片方は苦しみ、片方は平静だ。
私は膨大な数のネズミに対して同じことをした。個を捨て、統合し、群体として機能させた。
彼らは幸福だ。少なくとも、統合される前よりは。
では、人間も同じではないのか?
憎悪と暴力に満ちた人格を消去し、善良で従順な人格に置き換える。
それは「悪」ではなく、「善」ではないのか?
フレッドの苦悩は不合理だ。
その時の私には──エインの方が、正しいと思えた。
──
その夜、野営地で焚き火が燃えていた。
フレッドと御者は焚き火の前で話し込んでいる。
エインは一人で離れた場所にいた。
彼は空を見上げている。表情は穏やかだ。
苦悩の色はない。後悔の気配もない。
まるで、何事もなかったかのように。
エインが一人になっている時を見計らい、私は呼びかけた。
『こんばんは』
脳内に直接響く【精神伝播】による思念。
「こいつ直接脳内に……!?」
彼は驚いた様子で周囲を見回す。声の主を探している。
『驚かせてしまい、申し訳ございません』
私は姿を現した。
「……何だ、ネズミだったのか」
エインは私をじっと見つめた。その視線は好奇心に満ちていて、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のようだ。
「ネズミ君、はじめまして。俺になんか用かな?」
(はじめまして……)
その言葉が、私の思考回路を震わせた。
はじめまして。
私を知らない。
アルノンだと気づいていない。
当然だ。私は──。
私は今、本体の白マウスではなく、灰色のドブネズミの端末で現れている。
これなら気づかれなくて当然だ。
そうだ。当然のことだ。
なのに──なぜか、胸の奥が痛んだ。
『あの……実は、あなたが魔法に詳しいとお聞きしまして』
建前だ。本当は、何かを確かめたかった。
だが、何を確かめたいのか、自分でも分からない。
『私には……ある計画があります』
エインは興味深そうに首を傾げた。
私は、慎重に言葉を選びながら説明した。
自分がアルノンだと気づかれないように。感染魔法のことも伏せて。
『精神魔法を使えるネズミ達を、王都中に配置して……』
そこから先は、概要だけを伝えた。
王都全域、そして最終的には王国全体を支配する構想。
具体的な方法論は、あえて詳しくは語らない。
彼の実験で得た【精神伝播】の能力についても、伏せておいた。
エインは黙って聞いている。
遮らない。
驚いた様子もない。
私は、その反応を注意深く観察していた。
やがて、エインは少し考え込むように視線を伏せ、
あっさりと口を開いた。
「それだと、魔力の問題で時間が掛かるから、そのうちバレちゃうんじゃない?」
『……え?』
「もっと、早くて確実なやり方を考えないとさ」
予想していなかった。
否定されるか、
危険だと切り捨てられるか、
あるいは、妄言として扱われるものだと思っていた。
だが、エインは違った。
迷いなく、問題点を指摘してきた。
しかも――私の計画を、前提として。
本当に、助言が返ってきている。
一瞬、思考が止まった。
私は、自分の判断を疑った。
計画の完成度ではない。
──なぜ、私はここへ来たのか。
助言を求めに来た。
そう定義したのは、私自身だ。
だが、本当にそれだけなら、
この反応に、ここまで引っかかる理由がない。
思考が、わずかに揺れる。
だが、その違和感を掘り下げる前に、
エインは、何でもないことのように続けた。
「最初は、閉じたコミュニティを一気にやったほうがいい。王立魔法学校とか、どう?」
私は、言葉を飲み込んだ。
「生徒も教師も大勢いるし、外部との接触も限られてる。一度支配しちゃえば、気づかれにくい」
『魔法学校……』
「しかも、魔力不足も解決できる」
エインは、軽い調子で言った。
「学校にいた頃、助手のマーカスくんで実験してて気づいたんだよ。【精神支配】とか【精神感応】みたいに、相手と魔力パスを繋ぐ魔法って、魔力のやり取りができるんだ」
『……魔力を、借りる?』
「そう。支配系の魔法なら、強制的に魔力を引き出せる。だから、生徒や教師を支配すれば、その魔力をまとめて使えるんだ」
エインは、さらりと結論を口にした。
「一気に王都全域に魔法を展開できる。バレる前に、全部終わらせられるよ」
私は理解した。
魔法学校という閉じたコミュニティ。
上質な魔力源。
そして──支配した人間から魔力を借りることができる。
エインの助言は──私の計画を根本から改善する。
中枢から少しずつ広げていく時間のかかる計画が、一気に王都全域への展開に変わる。
発覚リスクも、劇的に減少する。
いや、それどころか──計画が完成した。
私は言葉を失った。
『あの……ありがとうございます』
私は引き気味に礼を言った。
「うん、どういたしまして」
エインは何でもないことのように続けた。
「あ、そうだ、そしたらさぁ。王都中の人間を支配した後は、そいつらの魔力も使えばいいじゃん。段階的に規模を拡大していけば、世界征服だってできるんじゃない?」
『……え』
「王都から周辺都市、そこから地方都市、最終的には王国全体。いや、隣国にも広げていけば──」
エインは楽しそうに語る。
私の思考回路が混乱した。
計画が完全になっただけでなく、さらに発展している。
しかも、それを止める気配が全くない。
『……あの』
私は間を置いて、ようやく口を開いた。
『なぜ、止めようとしないんですか?』
私の声には、戸惑いが滲んでいたはずだ。
エインはきょとんとした顔をした。
「止める?なんで?」
エインは本当に不思議そうな顔をしている。
『だって……世界征服、ですよ? 支配されたら、困るのでは?』
「困らないけど?」
エインはあっさりと答えた。
「だって、君の計画は、【精神支配】で、”悪人を善人にする”って計画だろ? 俺や俺の身内はみんな善人だから、まったく困らないよ」
『……え』
「悪いことをしなければ、支配されてても別に問題ないじゃん。むしろ、悪人がいなくなるなら、君の言う通り世の中平和になるんじゃない?」
私は言葉を失った。
論理的には正しい。
私が人間を支配しても、善良な人間には害を与えない。むしろ、犯罪者や悪人を取り締まることができる。
だが──。
『だとしても…魔法で無理やり支配されるなんて、おかしいと思わないんですか?』
私の声には、必死さが滲んでいた。
エインは少し考え込むような表情を見せた。
そして──。
「考えてみろよ。人間だって、王や貴族みたいな人間、しかも法律なんて意味不明なものにまで縛られてる。君ら野生動物だって、自然の掟に支配されてる。完全に自由な存在なんて、この世にいないんだよ」
『……』
「支配者が入れ替わるだけだよ。王様がネズミになっても、校長がねずみになっても、別に問題ないんじゃない?」
その言葉は論理的には正しい。
人間は既に支配されている。法に。道徳に。社会規範に。
私が行おうとしているのは、ただその支配者を「私」に置き換えるだけだ。
沈黙が落ちた。
私は身を翻そうとした。
その時──。
エインが懐から何かを取り出した。
小さな、チーズの欠片。
彼はそれを、私の前にそっと置いた。
「はい、これあげる」
私の思考回路が、一瞬停止した。
『……なぜ』
「好きでしょ? チーズ」
なぜ、知っている?
ネズミだから──チーズを好むと思っているのか?
いや、それは。
私はもう、ただのネズミではない。知性を持った存在だ。
「ネズミだからチーズが好き」などという単純な理由でこれを差し出しているのだとしたら──それは、私の知性を認めていないということになる。
失礼な行為だ。
だが。
そうでないとすれば──。
私は、チーズに視線を落とした。
小さな欠片。芳醇な香り。
手を伸ばし、口にした。
濃厚な味わいが、舌の上で広がる。
その瞬間──。
あの違和感の正体が、分かった。
ガレスがくれるチーズと、エインがくれるチーズの違い。
それは──。
自由意志だ。
支配されていない人間が、自分の意思で差し出すチーズ。
その温かさこそが、私が本当に求めていたものだった。
──
『……ありがとうございました』
私はそう言い残し、エインの前から姿を消した。
感謝の意味を、彼は理解しないだろう。
答えをくれなかったことへの感謝。
突き放してくれたことへの感謝。
自分で考えさせてくれたことへの感謝。
エイン。
あなたは私に、二度、自由をくれた。
一度目は、実験の後に。
二度目は、今夜。
森の中を駆ける。
端末から端末へと意識を移しながら、王都へと戻る。
思考回路は、既に結論を出していた。
私は、王都支配計画を破棄する。
エイン。
あなたが私に知性を与え、名前を呼んでくれた時のあの感情こそが、私が守るべきものだったのだ。
支配ではなく。
恐怖ではなく。
自由意志による、温かい関係。
それこそが、私が本当に求めていたものだ。
私は、少しだけ安心した。これで、もう終わったのだと。
────────
(`・ω・´)
僕は、気がつくと寮の自室に戻っていた。
扉を閉め、鍵をかける。
背中を預け、その場に座り込む。
(……抑えられているだけ)
レオナルド先生の言葉が、頭から離れない。
(近くに……ネズミがいるだけで……侵食は進む)
先生は、ただネズミを見つけただけで苦しみ始めた。
そして、迷いなく魔法を放った。
時間を稼ぐための、行動。
それ以上でも、それ以下でもない。
(……学校は、もう保たない)
一人では無理だ。
誰かに知らせる必要がある。
自然と、一人の名前が浮かんだ。
(エイン君……)
その瞬間。
胸の奥が、かっと熱を持った。
苛立ち。
不快感。
理由の分からない、攻撃的な感情。
(……あいつのせいだ)
思考が、勝手に続く。
(元はといえば、全部)
(あの時、アルノンを処分していれば)
(いや──代わりに、エインを処分していれば)
「……は?」
声が、喉から漏れた。
あまりに自然に浮かんだ考えだった。
だからこそ、異常だと分かった。
エインは確かに軽率で、危うい。
だが──だからといって、「処分すべき存在」だと即断するほど、僕は短絡的じゃない。
(……違う)
これは、僕の思考じゃない。
胸の奥に残る熱を、意識的に切り離す。
思考を、強引に止める。
(……これも、支配の影響か)
理解した。
生徒たちのように、自分の意思を失っているわけじゃない。
レオナルド先生のように、常に侵食に耐えている状態でもない。
だが──。
特定の相手を考えようとした瞬間だけ、感情が歪められる。
(僕も……完全に無事じゃない)
背筋が、静かに冷えた。
それでも。
僕は、ゆっくりと呼吸を整える。
今の思考は、まだ制御できている。
判断も、行動も、自分で選べている。
集会の時も、【解呪】で持ち直した。
今も、支配に飲み込まれてはいない。【解呪】もかけ直した。
(……影響が、薄い)
理由は分からない。
魔力量の差か。
それとも──。
一瞬、エイン君の研究室と、【精神伝播】の実験が脳裏をよぎる。
だが、今は掘り下げない。
重要なのは一つだけだ。
(今の僕は、まだ動ける)
だから──。
エインに会うのは、後だ。
今は、会ってはいけない。
この状態で対面すれば、自分が何をするか分からない。
だから、自分でやる。
(進行を……遅らせる)
完全な解決は、無理だ。
先生自身が、そう言っていた。
(ネズミが……近くにいるだけで、侵食は進む)
なら。
(できるだけネズミを……殺す)
嫌な考えだ。
だが、現実的だ。
人じゃない。
ネズミだ。
人間に害をなす害獣だ。
エクス村でもやっていたことだ。
「……やるしかない」
そう呟いた声は、思っていたよりも低く、静かだった。
────────
ᘛ⁐̤ᕐᐷ
計画を破棄してから、数日が経っていた。
私は学校に留まっていた。
エインが戻ってくるかもしれないからだ。
彼はこの学校の教師だった。いつか、戻ってくるはずだ。
その時、会いたかった。あの夜のことを話したかった。
だから、学校の旧館、人が滅多に立ち入らない書庫の奥に身を潜めていた。
静かな日々だった。
穏やかな時間だった。
あの夜の決断は、正しかったのだと。
そう信じられる時間だった。
だが、その日、異変に気づいた。
王都東地区に配置していた端末から、応答が返らない。
物理的には「いる」。存在は確認できる。
だが、私の命令を受け付けない。
次々と、応答が途絶えていく。
東地区。北地区。中央広場。商業区。
侵食は、止まらなかった。
ドミノ倒しのように、私の支配領域が奪われていく。
群体全体の状態を確認しようとした。
だが、命令は跳ね返された。拒絶される。
これは、私が構築したネットワークだ。
なのに、私は締め出されている。
誰かが、乗っ取っている。
私は意識を深く沈め、群知能の内部を探査した。
端末そのものではない。
制御権の流れ。
命令が集約される方向。
群全体の意思決定を歪めている起点。
そこを辿る。
思考の奔流の中に、異物があった。
私のものではない。
通常のネズミのものでもない。
だが、確かにネズミだ。
知性を持ち、【精神伝播】を行使する存在。
私は、その思考に触れた。
瞬間、感情が流れ込んでくる。
人間への憎悪。
黒く、重く、粘ついた感情。
胸の奥底から湧き上がる、消し去ることのできない憎しみ。
それだけではない。
特定の誰かへの、執着的な憎悪。
『エイン』
その名前が、感情の核にあった。
何度も、何度も、繰り返される。
呪詛のように。祈りのように。
私は理解できなかった。
私は、エインを憎んでいない。
名前をくれた。
自由をくれた。
感謝しかない。
なのに、この憎悪は、あまりにも個人的だ。
これは、私の感情ではない。
では、誰のものだ。
思考を進め、制御の起点を特定する。
命令を発している意識。
群知能の中枢を占拠している存在。
そこにあったのは──。
ショート。
私は、その名を認識した。
彼が、群知能を乗っ取っている。
いや、正確には──私が捨てた感情と計画を核に、群知能そのものを書き換えている。
私は、ようやく理解した。
あの夜、私が隠した感情。
支配への欲望。
迫害への恐怖。
世界を変えなければならないという焦燥。
理知的であるために、群知能の奥底へ沈めた感情。
それは消えていなかった。
ただ、眠っていただけだ。
そして今、ショートがそれを掘り起こし、
別の憎悪──エインへの憎しみ──を混ぜ込み、
群知能の核として利用している。
だが、エインへの憎悪だけは、私のものではない。
誰かが、混ぜ込んだのだ。
ショート自身のものか。
あるいは──もっと別の、何かか。
学校内の異変が、はっきりと感じ取れた。
人間たちが、少しずつ変わっていく。
【精神伝播】を通じて、その変化が流れ込んでくる。
それは一度にではなかった。
静かに。着実に。
最初は、気づかれないほど浅い干渉。
翌朝には、誰もが普段通りに行動している。
だが、夜を重ねるごとに侵食は深まる。
眠る者たちの傍らにネズミが現れ、
【精神伝播】が静かに発動する。
気づいた時には、もう遅い。
個性は薄れ、自我は削られ、
単一の意思に染まっていく。
私は、理解した。
これは──私の計画だ。
エインが完成させ、
私が捨てたはずの計画。
一字一句、違わない。
だが、実行しているのは私ではない。
私の思考が盗まれ、
私の感情が利用され、
今この瞬間も、人々を蝕んでいる。
恐怖が、胸を締め付けた。
これは、私の罪だ。
私が作り、
私が捨て、
それでも消しきれなかったものが、
今、牙を剥いている。
外部への連絡も遮断されていた。
学校を出入りする者は、門をくぐった瞬間に支配され、
「学校は平穏です」と報告して帰っていく。
学校は、閉じた箱になっていた。
私は震えた。
これが、私の望んだ世界だったのか。
違う。
私は、あの夜、捨てたはずだ。
自由意志こそが大切だと、理解したはずだった。
それなのに、
私の過去が、現在を蝕んでいる。
止めなければならない。
だが、どうやって。
私のネットワークは奪われている。
群知能は、私の手を離れている。
私にできることは、ない。
絶望が、意識を覆い始めた。
その時──。
群知能の端末が、減っていることに気づいた。
──
(`・ω・´)
学校の空気は、重かった。
何かが張り付いているような、息苦しさ。
校舎裏の通路で、僕は立ち止まった。
カサリ、と小さな音がする。
視線を向けると、壁際を一匹のネズミが走っていた。
灰色の、どこにでもいるドブネズミだ。
僕は手を上げた。
「【火球】」
小さな炎が飛び、ネズミを包む。
一瞬の悲鳴もない。
焦げた匂いだけが残った。
(……これで、少しは)
自分に言い聞かせるように、歩き出す。
だが、すぐに気づく。
一匹や二匹では、意味がない。
学校のあちこちに、ネズミはいる。
廊下の隅、物陰、壁の穴。
どこにでも。
数が、多すぎる。
次の曲がり角を抜けたところで、人影が現れた。
「誰だ!」
声を上げたのは、教職員だった。
レオナルド先生が通報していたのもあり、警備任務に回されているらしい。
だが、その目は虚ろで、焦点が合っていない。
支配されている。
【解呪】を使えば戻せるかもしれない。
だが、今は時間がない。
下手に正気に戻せば、すぐに再支配され、通報される。
(……悪く思わないでください)
僕は歯を食いしばり、手を振る。
「【防壁弾】」
圧縮した衝撃が教職員を吹き飛ばし、壁に叩きつける。
殺していない。
ただ、眠らせただけだ。
視線を落とすと、足元をネズミが一匹、横切っていく。
「【火球】」
ためらいは、なかった。
──
次の廊下。
また、ネズミがいた。
今度は、白いマウスだった。
僕は、思わず足を止めた。
灰色でも、黒でもない。
実験で使われる、真っ白なハツカネズミ。
(アルノンか……? いや)
記憶が、勝手に浮かぶ。
エイン君が名付けた、四匹。
アルノン。
セカンド。
サード。
ショート。
その白いネズミは、こちらを見上げていた。
つぶらな目。
何も知らない実験動物の目。
(……セカンドだ)
なぜ分かったのか、自分でも分からない。
でも、確信があった。
考えている場合じゃない。
僕は、手を上げた。
「【火球】」
炎が白い体を包み込む。
小さな影が、崩れ落ちる。
灰になったそれを、僕は見なかった。
すぐに、その場を離れた。
──
それからは、ただの繰り返しだった。
廊下。
階段。
旧館。
物置。
ネズミを見つけては【火球】を放つ。
見失えば、別の場所へ向かう。
一匹。
また一匹。
終わりが、見えない。
焼け焦げた匂いが、次第に鼻につくようになる。
(どれだけいるんだ……)
魔力は、まだある。
体も動く。
でも、気持ちの方が、追いつかない。
支配されているとはいえ、ネズミたちに罪はない。
ただ、操られているだけだ。
それでも、殺しているのは僕だ。
(……時間を、稼がないと)
理由を、何度も繰り返す。
レオナルド先生が言っていた。
ネズミが近くにいるだけで、支配は進むと。
だから、減らすしかない。
正しいかどうかは、後で考える。
今は、手を止められない。
魔法を放つ。
ネズミが倒れる。
次を探す。
それだけだ。
気づけば、夕闇が学校を覆い始めていた。
それでも、僕は歩き続けた。
────────
ᘛ⁐̤ᕐᐷ
この状況で、
支配に抗い続けている人間がいる。
それ自体は、確かに希望だった。
まだ、終わっていないという証拠だ。
だが同時に、
端末が失われ続けているのも分かる。
一匹、また一匹と。
支配されているとはいえ、
彼らに罪はない。
ただ、操られているだけだ。
同胞が失われていくのは、耐え難い。
そして、冷静に考えれば明らかだった。
ネズミを減らしても、
ショートの計画は止まらない。
群知能の端末は膨大で、
学校全体の支配構造は、ほとんど揺らがない。
彼の行動は、
希望ではあっても、対処にはなっていない。
無意味だ。
このままでは、
同胞が失われるだけで、何も変わらない。
接触しなければならない。
そう結論づけ、私は走り出した。
彼の位置だけを頼りに、学校の中を進む。
やがて、彼の姿が見えた。その瞬間だった。
彼が、手を掲げている。
炎の魔力が、すでに形を成していた。
放たれる直前だ。
考える暇はなかった。
体が前に出る。
「【火球】」
私は即座に、魔力を展開した。
『【防壁】!』
光の壁が立ち上がる。
火球が衝突し、衝撃と熱が弾けた。
防壁は、辛うじて耐えた。
そして、その人物と目が合った。
「君は……アルノン……」
見覚えのある顔。
フレッド。
エインの友人。
そして今、
ショートに抗い続けている、
学校で唯一の存在だった。
──────────────────────
おまけ終了
それでは前回予告しました本編をお楽しみください
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究極の選択! 飲むべきはコンポタか? トマトスープか?
選ばれたのは味噌汁でした。