引きこもり、魔法学校にぶち込まれる   作:年中有休

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昨日の続きです。


僕達は天使と悪魔だった

 目を覚ますと、身体が揺れていた。

 

 背中には硬い床の感触があり、車輪が地面を噛む音と、馬の蹄の音がすぐ近くで聞こえている。

 

 馬車だ。

 

 そう理解した瞬間、意識が一気に戻ってきた。

 

「……っ」

 

 起き上がろうとして、両手首に重い違和感が走る。

 

 見下ろすと、手首には金属製の枷がはめられていた。ただの手枷ではない。表面には細かな魔法文字が刻まれており、そこから魔力の流れを押さえつけるような感覚が伝わってくる。

 

 魔力が、動かしにくい。

 

 完全に封じられているわけではない。けれど、いつもなら自然に流せるはずの魔力が、細い穴を無理やり通されているように詰まっていた。

 

 隣を見ると、エイン君も同じように転がされていた。両手には手枷。足も軽く縛られている。首筋を打たれたせいか、まだ目を覚ましていない。

 

「エイン君」

 

 返事はない。

 

「エイン君、起きて」

 

 肩を揺する。

 

「うぅ……あと五分……」

 

「二度寝できる状況じゃないよ」

 

 もう一度揺すると、エイン君はようやく目を開けた。しばらくぼんやりと天井を眺め、自分の手首を見て、最後に僕を見る。

 

「おはよう。ここどこ?」

 

「二人とも、目が覚めたようだな」

 

 馬車の中には、僕たち以外に帝国兵が二人いた。一人は扉の近く。もう一人は、僕たちの正面に座っている。どちらも腰に剣を帯び、こちらから目を離さない。

 

「抵抗はするな。命令により、エインを護送する。フレッド、お前は引き渡し対象ではないが、妨害が入らぬよう同時に拘束させてもらった。王国でエインを引き渡した後、お前は解放する」

 

「王国まで……」

 

 分かっていた。

 

 帝国は、僕たちを王国に引き渡すと決めた。皇帝は、帝国を守るためにそう判断したのだ。

 

 理解はしている。それが、今の帝国にとって一番被害の少ない選択なのだということも分かる。

 

 けれど、実際に手枷をはめられ、馬車の床に転がされていると、簡単には割り切れなかった。

 

「その枷は魔力出力を制限する。魔法は使えない。無駄な抵抗は考えるな」

 

 兵士の言葉に、エイン君が手枷を持ち上げる。

 

「あ、これ知ってる。裁判の時につけられたやつだ」

 

「裁判の時?」

 

「王族殺害未遂で捕まった時のやつ」

 

 兵士二人の表情が、少しだけ引きつった。

 

 僕も引きつった。

 

「エイン君、そういう自己紹介はしなくていいよ」

 

「でも事実だし」

 

「事実だから困るんだよ」

 

 エイン君は気にした様子もなく、手枷を観察している。

 

「まあ、いいや。二回目だし、なんとかなるだろ」

 

 そう言うと、エイン君は正面の兵士を見上げた。

 

「錠を解いてくれ」

 

 あまりにも自然な声だった。

 

 お願いではない。

 命令だった。

 

 そして、兵士は淡々と答えた。

 

「できない。私は鍵を持っていない」

 

「……え?」

 

 エイン君の表情が止まった。

 

「鍵、持ってないの?」

 

「持っていない」

 

「あー……じゃあいいや。あとは黙ってて」

 

 馬車内に妙な沈黙が落ちた。

 

 扉側の兵士が、怪訝そうにこちらを見る。

 

「今のは何だ」

 

「鍵持ってたら開けてくれるかなって」

 

「馬鹿かお前は。俺たちがそんなことをするはずがないだろう」

 

「あー、普通はそうですよね」

 

 エイン君はしれっと答えた。

 

 けれど、正面の兵士は、さっきまでと少し様子が違っていた。姿勢も表情も大きくは変わっていない。ただ、こちらへ向けていた警戒の鋭さが、ほんの少しだけ薄れている。

 

 かかっている。

 

 エイン君の 【精神支配】(ブレインウォッシュ) だ。

 

 この手枷は、魔法を完全に封じるものではない。出力は大きく絞られている。けれど、極小の魔法なら通る。

 

 それは、裁判の時も、今も、見ていた。

 

 エイン君にできたなら、僕にもできるかもしれない。

 

 最初に考えたのは、手枷を壊すことだった。

 

 火を出す。

 風の刃を作る。

 金属を砕く。

 

 どれも無理だ。この状態で、そんな出力は出せない。無理にやれば、手枷より先に僕の手首が傷つく。

 

 攻撃魔法は、外側のものを変える魔法だ。火を起こし、風を動かし、物を壊す。当然、それだけの魔力がいる。

 

 でも、精神魔法は違う。

 

 だから、エイン君は精神魔法を使った。

 

 彼は以前、精神魔法は人の認識や意思の向きを変えるだ(・)け(・)の魔法だと言っていた。

 

 その言い方には抵抗がある。人の意思を変えることを、「だけ」で済ませていいとは思えない。

 

 それでも、魔法の理屈としては分かる。

 

 外界を大きく変えるより、人の内側にある意識の向きを、ほんの少し変える。魔法として見れば、それはずっと小さな変化なのかもしれない。

 

 そう思った瞬間、胸の奥で何かが噛み合った。

 

 理解できた。

 

 理解できてしまった。

 

 僕は息を整える。

 

「【精神支配】(ブレインウォッシュ)」

 

 声は、ほとんど息に近かった。

 

「鍵は誰が持っていますか」

 

 僕は尋ねた。

 

「今は前の馬車にいる護衛隊長が持っている」

 

「この後、鍵がこちらに来ることは?」

 

「夜警の交代時に、見張りへ受け渡される」

 

「あなたの順番はありますか」

 

「ある。今夜にも回ってくる」

 

「その時、僕たちの錠を解いてください」

 

「分かった」

 

「それまでは、僕たちが話していても異常なしとして扱ってください。必要のない報告もしないでください」

 

「分かった」

 

「おー、やるなぁフレッド」

 

 エイン君が、妙に晴れやかな顔で頷いた。

 

「これでひとまず安心だな。鍵が来たら逃げよう」

 

「まだ安心できないよ」

 

「え?」

 

「このまま逃げたら、帝国からは脱走犯として追われる。王国から見れば、帝国が僕たちを逃がしたように見える。そうなったら、国王は帝国を裏切り者扱いするかもしれない」

 

「あー」

 

 エイン君は、そこでようやく少し考える顔をした。

 

「じゃあ、帝国が怒られるのか」

 

「怒られるだけならまだいいよ。支配された人たちを使って、帝国の中でまた誰かが暴れるかもしれない。戦争になるかもしれない」

 

 言葉にしてから、胸の奥が冷えた。

 

 戦争。

 

 その言葉は、もう遠い話ではなかった。

 

「エクス村だって、また巻き込まれるかもしれない」

 

 エイン君の表情から、軽さが少しだけ消えた。

 

 僕たちは前に、一度それを見ている。

 

 王国と帝国が鉱山を巡って争い、村が兵の拠点にされ、普通に暮らしていた人たちが、当たり前のように巻き込まれた。

 

 あれが、また起きるかもしれない。

 

 その結果、どこかの誰かが死ぬかもしれない。

 

「だから、逃げるだけじゃ駄目なんだ」

 

 あるいは、逃げられないのかもしれない。

 

 王国へ着くまでに、僕たちは次の手を決めなければならなかった。

 

 


 

 

200:引きこもり転生者

というわけで、フレッド君と仲直りは無事にできたんですけど、また別の問題が発生しました。

 

201:名無しの転生者

どういうわけだよ

 

202:名無しの転生者

なんで友達と仲直りするだけなのにそんなスケールの大きい話に発展するかなぁ

 

203:名無しの転生者

このお話はセカイ系だった……ってコト?

 

204:名無しの転生者

結局イッチはどうするつもり?

逃げるの?

 

205:引きこもり転生者

>>204

このまま逃げる→戦争始まる

このまま護送される→ワイ処刑される

 

どっちもヤバいので、これからどうすればいいか一緒に考えよう!

 

206:名無しの転生者

え、素直に処刑されればいいんじゃないの?

 

207:名無しの転生者

結論出たな、じゃあ議論は終わり! 閉廷! 以上! みんな解散!

 

208:名無しの転生者

こうしてイッチは世界平和の礎となったのだった。めでたしめでたし。

 

209:名無しの転生者

よかった。これでかいけつですね。

 

210:引きこもり転生者

勝手に議論終わらすな! そしてワイを勝手に殺すな!

 

211:名無しの転生者

でも逃げたらあかんのやろ?

 

212:名無しの転生者

逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ

 

213:名無しの転生者

イッチが戦争の火種を産むなら、イッチが死ぬしかないじゃない!

 

214:名無しの転生者

でも言うほどイッチが死ぬだけで解決するか?

 

215:名無しの転生者

少なくとも巨悪は斃れるけど

 

216:名無しの転生者

そらそうやけど国王という小悪党がまだ残ってるやろ。

大体、イッチが死んだとしても国王が馬鹿正直に攻め込まない理由もないやん。

戦力的に圧倒的優位なのに、わざわざ他国に気遣う意味もないからな。

 

217:名無しの転生者

確かに

 

218:名無しの転生者

となると、イッチを死なせた上で、更に戦争が起きないように行動せなあかんのか。

 

219:名無しの転生者

結構難しいな

 

220:引きこもり転生者

いやワイが死ぬ必要ある?

そもそも、戦争ってどうやって止めるもんなんや?

 

221:名無しの天才軍師

>>220

それは私が解説しよう!

 

222:名無しの転生者

>>221

誰だお前は!?

 

223:名無しの天才軍師

今までの戦績は4003勝! 誰が呼んだか天才軍師! それがワイや!

 

224:引きこもり転生者

お、王国軍追い出すときに色々教えてもらった軍師ニキやん

 

225:名無しの転生者

4千回も戦争勝てるとかすごそう

 

226:名無しの転生者

>>223

いや、それただの変換ミスで正確には四戦三勝だからね。

しかもこいつ、チート頼りの勝ち方で大した知識持ってないからな

 

227:名無しの天才軍師

>>226

大した知識も持ってるよ!

前回あんま役立てなくて反省したから、ちょっとだけ勉強してきたんや!

 

228:名無しの転生者

ほーん、なら存分に語ってもらおうやないか

 

229:名無しの天才軍師

ええか? 戦争を止めたいなら、

 

・攻めるメリットをなくす。

・攻めるデメリットを増やす。

 

この二つが重要や。

 

230:引きこもり転生者

なるほど

 

231:名無しの転生者

それで続きは?

 

232:名無しの天才軍師

いや、これで終わりだけど

 

233:名無しの転生者

は?

 

234:名無しの転生者

全然大したこと言ってねーな

 

235:名無しの転生者

期待させといてそれかよ

 

236:名無しの転生者

もしかして、お前の言う「ちょっと勉強」ってそれだけ?

 

237:名無しの天才軍師

うん。頑張って参考書読んだんだけど、ワイ活字苦手だから最初の数行でダウンしちゃった。

 

238:名無しの転生者

あのさぁ……

 

239:名無しの転生者

もっと詳しいやつはおらんのか!?

 

240:名無しの転生者

>>229

まぁ、言ってることは間違いないんだけどね。

敵国が資源を欲しくて攻めてくるなら、その資源を焼いちゃえばいいし、敵国が核兵器を使うなら、こっちも核兵器をちらつかせればいい。

戦争の基本よね。

 

241:名無しの転生者

相互確証破壊ってやつか

 

242:名無しの転生者

そもそも、素人が戦争に介入しようとしても複雑な作戦なんて取れないからね。

最初に軍師ニキが言ってたことも、シンプルで十分理にかなってるし、それを元に作戦考えるしかないんじゃない?

 

243:引きこもり転生者

りょ。

フレッド君にもそこら辺伝えて一緒に考えてみるわ。

 

 

 

…

 

 

315:引きこもり転生者

なんかフレッドくんが作戦思いついたって

 

 


 報告が届いたのは、夜だった。

 

 帝国宮城の一角にある小会議室には、昼間とは違う緊張が満ちていた。

 

 窓の外には篝火が増やされ、廊下にも松明が並んでいる。けれど、明かりが増えたところで、不安が消えるわけではない。

 

 誰が王国の目なのか分からない。

 誰の身体が、次の瞬間、刃になるのか分からない。

 

 皇帝を守るために兵を増やせば、その中に支配された者が混じる危険も増える。かといって、兵を減らせば、何かが起きた時に守りきれない。

 

 帝国中枢は、味方の数さえ疑わなければならない状況に追い込まれていた。

 

 皇帝は椅子に座っていた。

 小さな身体に厚手の外套を羽織り、膝の上で両手を握っている。時折、刃を突きつけられていた喉元へ触れては、そこに残る冷たい感触を思い出したように肩を震わせていた。

 

 ヴォルフは、その前に立っている。

 

 部屋に残している護衛は最小限。

 しかも、ヴォルフ自身が選んだ直属の兵だけだった。

 

 そこへ、慌ただしい足音が近づいてくる。

 

「失礼します!」

 

 扉を開けて入ってきたのは、ヴォルフ直属の兵だった。

 夜道を急いできたのだろう。鎧には土埃がつき、額には汗が浮かんでいる。

 

 ヴォルフの眉が動いた。

 

「報告しろ」

 

「はっ! 護送中のエイン、およびフレッドが逃走しました!」

 

 小会議室の空気が凍った。

 

 皇帝が椅子から半分立ち上がる。

 

「逃げた!? いつじゃ!?」

 

「およそ半刻前です。夜警の隙をついて逃走した模様で、こちらには伝言だけが残されております」

 

 ヴォルフの声が低くなる。

 

「伝言だと?」

 

「はい」

 

 兵士は一瞬、言いづらそうに口を引き結んだ。

 

「『寄り道したら戻る』と」

 

 沈黙が落ちた。

 

 皇帝が目を見開く。

 

「よ、寄り道……? 寄り道とは何じゃ!? この状況で寄り道とは何なのじゃ!? あやつら、自分たちが国家存亡級の荷物だという自覚がないのか!?」

 

 皇帝は半泣きだったが、ヴォルフは報告官から目を逸らさなかった。

 

「二人はどこへ向かった」

 

「鉱山方面です」

 

 その言葉に、ヴォルフの目が細くなる。

 

「鉱山!? なぜ鉱山なのじゃ!? あやつら、何をするつもりなのじゃ!?」

 

 皇帝はそこで、さらに顔色を悪くした。

 

「いや、それ以前に、護送中に逃げられた時点でまずいではないか! もし王国側に知られれば、帝国が要求を拒んだと見なされるぞ! また宮廷魔道士が爆発するかもしれぬのじゃ!」

 

 焦りが隠せない皇帝に対し、ヴォルフは首を横に振った。

 

「王国側に露見している可能性は低いでしょう」

 

「なぜ言い切れるのじゃ!」

 

「護送兵と報告官は、私の直属です。全員、平民上がりの兵を選びました」

 

「平民上がり……?」

 

「王国の支配は、対抗戦関係者、またはその血筋を中心に届いています。確実ではありませんが、貴族社会や魔法の才から遠い者ほど、支配されている危険は低い」

 

 皇帝は唇を噛んだ。

 

「つまり、妾の周りにいる者ほど危ないということではないか!」

 

「はい」

 

「はい、ではないのじゃ! お前も信用できないではないか!」

 

 皇帝は頭を抱えた。

 

 ヴォルフは淡々と続ける。

 

「私自身は平民出身です。絶対とは言いませんが、他の側近たちよりは支配されている可能性が低いでしょう」

 

 皇帝はヴォルフを見上げた。

 

「……なら、お主が一番安全ということか」

 

「少なくとも、私自身はそう判断しています」

 

「自分で言うと少し怖いのじゃ」

 

「疑い始めれば、誰も動けません」

 

 ヴォルフの声は硬かった。

 

「エイン護送は、国家存亡級の最重要課題です。逃走が国王に露見すれば、王国は帝国が要求を拒んだと判断するかもしれない。かといって、正規軍を大きく動かせば、その中に支配された者が紛れ込む危険があります」

 

「では、どうするのじゃ」

 

「私が行きます」

 

 皇帝の顔が強張った。

 

「お主がか?」

 

「はい。少人数で追跡します。私と同じく、平民出身の者たちで編成します」

 

「しかし、お主がここを離れたら……」

 

「ここに残っても、全ては守れません」

 

 ヴォルフは短く言った。

 

「今は、あの二人が鉱山で何をするつもりなのか確認する必要があります。放置すれば、王国だけでなく帝国にとっても取り返しがつかない事態になりかねません」

 

 皇帝は小さく震えた。

 

 部屋の外には近衛がいる。

 宮城には兵もいる。

 

 だが、今の皇帝にとって、それらは安心材料ではなかった。

 

 誰が操られているか分からない。

 誰が自分に刃を向けるか分からない。

 

 ならば、最も信用できる者のそばにいるしかない。

 

「妾も行く」

 

「なりません」

 

 ヴォルフは即座に答えた。

 

「危険です」

 

「ここに残る方が危険なのじゃ!」

 

 皇帝は椅子から立ち上がった。

 

 背は低い。

 声も震えている。

 だが、その目だけはヴォルフから逸れていなかった。

 

「妾の周りには、信用できる者がいない。側近も、宮廷魔道士も、近衛も、誰が操られているか分からぬ。お主が一番信用できる。なら、妾はお主のそばにいる」

 

「陛下」

 

「それだけではない」

 

 皇帝は、外套の前を小さな手で握りしめた。

 

「エインが何をするつもりなのかで、帝国が戦火に包まれるかどうかが決まる。王国に従うのか、抗うのか、見逃すのか、止めるのか。その判断を、お主一人に背負わせるわけにはいかぬ」

 

 涙はまだ残っていた。

 それでも、皇帝は目を逸らさなかった。

 

「妾は皇帝じゃ。怖くても、見るべきものは見なければならぬ」

 

 ヴォルフはしばらく皇帝を見ていた。

 

 やがて、短く息を吐く。

 

「分かりました。ただし、私の指示に従っていただきます」

 

「うむ!」

 

「勝手に叫ばない。勝手に走らない。勝手に泣かない」

 

「最後のは約束できぬ!」

 

「努力してください」

 

「努力はするのじゃ!」

 

 ヴォルフは直属の兵に最低限の護衛を選ばせた。

 人数は少ない。

 

 皇帝は小さな身体に外套を被せられ、馬車ではなく軍用の小型馬車に乗せられた。豪奢さはない。乗り心地も悪い。それでも、今は目立たないことが最優先だった。

 

 宮城を出た時、夜はまだ深かった。

 

 篝火の明かりが遠ざかり、帝都の外れを抜ける頃には、空の端にわずかな白みが差し始めていた。

 

 誰も余計な口を開かなかった。

 

 道中、ヴォルフは何度も部下に斥候を出した。大きな街道は避け、鉱山へ向かう脇道を選ぶ。軍旗も掲げない。皇帝の馬車であることを示す装飾も、すべて外させていた。

 

 朝日が昇る頃、一行は一度だけ馬を替えた。

 

 皇帝は揺れる馬車の中で何度も眠りかけ、そのたびに自分の額を膝にぶつけて目を覚ました。

 

「うう……皇帝の移動とは、もっとふかふかの座席で行うものではないのか……」

 

「今は皇帝の移動ではなく、逃亡者の追跡です」

 

「妾、皇帝なのに……」

 

 昼が近づくにつれ、山の稜線がはっきり見え始めた。

 

 鉱山はもう遠くない。

 

 正午に差しかかる頃、一行は鉱山へ続く街道に入った。

 


 

 鉱山へ続く道には、土埃が立ちこめていた。

 

 最初に見えたのは、人の群れだった。

 

「何じゃ、あれは……」

 

 皇帝が馬車の中から身を乗り出す。

 

 昼の光の下、鉱山から続く平原には、混乱した人の流れが広がっていた。労働者たちの手足に枷はない。すでに外されている。だが、自由になった喜びよりも、何が起きているのか分からない困惑の方が強いようだった。

 

 ヴォルフはすぐに、彼らの格好に気づいた。

 

「鉱山労働者です」

 

「労働者?」

 

「正確には、鉱山奴隷。罪や借金により働かされている者たちでしょう」

 

 ヴォルフは馬車を止めさせた。

 

 人垣の外側で、責任者らしき男が立ち尽くしている。

 

 怒鳴っているわけではない。

 労働者たちを連れ戻そうとしているわけでもない。

 

 ただ、外された枷と、平原に広がる労働者たちと、静まり返った坑道を順番に見て、呆然としていた。

 

 ヴォルフが近づくと、男ははっとして振り返った。

 

「しょ、将軍閣下……!?」

 

「状況を説明しろ」

 

「それが、その……」

 

 責任者が言葉を濁した、その時だった。

 

 平原の向こうから、二人の少年が歩いてくる。

 

 鉱山から直接出てきたのではない。すでに坑道からは距離を取り、労働者たちの流れから少し外れた位置を、こちらへ向かっていた。

 

 エインとフレッドだった。

 

 エインは両手に奇妙な魔道具を持っている。片方は金属板と水晶を無理やり組み合わせたような形で、もう片方は筒状の部品が取り付けられていた。

 

 ヴォルフは責任者から視線を外し、二人へ向き直る。

 

「エイン。フレッド」

 

「あ、ちょっと待って」

 

 エインは、それだけ言って手元の魔道具へ視線を戻した。

 

 怒鳴られる前に逃げるつもりもなければ、慌てて言い訳をするつもりもないらしい。その態度は、逃亡犯というより、作業中に声をかけられた職人に近かった。

 

 ヴォルフは足を止めた。

 

 今すぐ拘束すべきか。

 問い詰めるべきか。

 それとも、何をしているのか見極めるべきか。

 

 一瞬の判断のあいだにも、エインとフレッドは準備を進めていた。

 

 エインは地面に片方の魔道具を置く。

 

「こっちが受信機だよね」

 

「そうだ。頼むぞ」

 

 フレッドは短く息を吸った。

 

 皇帝が、ヴォルフの後ろで小さく身を固くする。

 ヴォルフは黙って二人を見ていた。

 

 事情を聞くより先に、何かが始まる。

 

 そう判断したからだった。

 

 フレッドは、地面に置かれた魔道具へ手を向ける。

 

「【転送】(アポート)」

 

 受信機、と呼ばれた魔道具が淡い光に包まれる。

 

 次の瞬間、それは地面の上から消えた。

 

 


 王立魔法学校の訓練場は、静まり返っていた。

 

 つい先日まで、四か国対抗戦の決勝が行われていた場所である。

 観客の熱気も、各国関係者の怒号も、国王の声も、今はもう残っていない。

 

 地面には踏み荒らされた跡があり、防壁に弾かれた魔法の痕跡が焦げ跡となって残っている。

 

 だが、人の姿はなかった。

 

 国王の世界支配宣言。

 各国関係者の混乱。

 そして、エインとフレッドの逃走。

 

 そのすべてが過ぎ去った後の訓練場は、祭りの跡というには、あまりにも不穏だった。

 

 その中央に、ひとつの魔道具が現れた。

 

 落下音はなかった。

 何もなかった地面の上に、最初からそこにあったかのように置かれている。

 

 通常の通信魔道具とは似ても似つかない形だった。

 金属板と水晶と、用途の分からない細い部品が、無理やりひとつに繋ぎ合わされている。洗練された魔道具というより、壊れた部品をかき集めて、どうにか動くようにした何かだった。

 

 魔道具が、かすかに震える。

 

 次の瞬間、底面から淡い光が広がった。

 

 訓練場の床に、巨大な魔法陣が浮かび上がる。

 

 白い線が地面を走り、円を描き、いくつもの文字列が噛み合っていく。

 だが、その形は、王家の儀式で使われる整然とした魔法陣とは違っていた。

 

 どこか継ぎ接ぎで、無理やりで、そして妙に実用的だった。

 

 魔法陣の中心で、魔道具の水晶が光を帯びる。

 

 その光は訓練場の中だけに留まらず、王都全体へ向けて、見えない波のように広がっていった。

 

    ◆

 

 この日、王都の人々は、同じものを見た。

 

 市場で野菜を並べていた商人が、ふと手を止める。

 通りを警備していた兵士が、槍を握ったまま空を見上げる。

 宿屋の二階で窓を開けていた旅人が、目の前に割り込んできた光景に息を呑む。

 

 それは、幻覚のようだった。

 

 けれど、意識を奪われる感覚はない。

 身体が勝手に動くわけでもない。

 ただ、視界の一部に、別の場所の光景が強引に映し込まれていた。

 

 どこかの平原。

 

 背後には、山肌を削った巨大な鉱山がある。

 周囲には、混乱した労働者たちと、帝国兵らしき者たちの姿が見えた。

 

 その中心に、二人の少年が立っている。

 

 一人は、黒髪の少年。

 もう一人は、茶髪の少年。

 

 しばらくして、黒髪の少年がこちらに向かって手を振った。

 

『やあやあ王都の皆さん、見えてるかな? 聞こえてるかな?「エインとフレッドのガキの使いやあらへんで」の放送のお時間です。さあ、はじまるザマスよ!』

 

 王都のあちこちで、空気が固まった。

 

 市場の商人が、持っていた大根を落とす。

 兵士の一人が、反射的に槍を構える。

 窓辺に立っていた旅人は、目の前に割り込んだ光景を理解できず、ただ息を呑んでいた。

 

 映像の中で、フレッドが慌ててエインの肩を掴む。

 

『ちょっ、何を言ってるの!? 真面目に始めなさいよ!』

 

『ほら、王都の皆さんも見てるから、多少は退屈しないようにって』

 

『そういうのいいから!』

 

 フレッドはエインを押しのけるようにして、前へ出た。

 

 その顔には、疲労が色濃く浮かんでいる。

 だが、声は震えていなかった。

 

『王都の皆さん、突然すみません。本当は、国王陛下にだけこのメッセージを届けたかったんです。でも、国王陛下だけに確実に届く方法がありませんでした。だから、通信用の魔道具に【精神感応】(テレパス)の魔法を組み込んで、王都全体へ届ける形になっています』

 

 王都の人々は、誰も言葉を返せない。

 

 問い返したところで、向こうに声が届くのかも分からない。

 だが、見えている。

 聞こえている。

 

    ◆

 

 王都の人々に映し出された光景の中で、平原の騒ぎが大きくなっていった。

 

 鉱山から離された労働者たちは、最初、何が始まったのか分かっていないようだった。

 手足の枷は外されている。見張りも、彼らを坑道へ戻そうとはしていない。

 それでも、長く命令されることに慣れた者たちは、自由になっても、すぐには動き出せなかった。

 

 やがて、労働者の一人が黒髪の少年に気づいた。

 

『あ、あいつらだ! 俺達の鉱山で暴れたのは! 俺達を鉱山から追い出しやがったんだ!』

 

 その声をきっかけに、周囲の視線が一斉に少年へ集まる。

 

 黒髪の少年は、労働者たちを見た。

 

 その表情に、罪悪感はなかった。

 助けた相手へ向ける慈愛もなかった。

 

『帝国からつれてこられた鉱山奴隷どもか』

 

 その声が、王都全体に響いた。

 

 聞いていた者たちは、意味が分からないまま息を呑む。

 映像の中の労働者たちも、動きを止めた。

 

 黒髪の少年は続ける。

 

『いつかは労働から解放されたいと、希望を持っていたな』

 

 労働者たちの中に、ざわめきが広がった。

 

 誰かが顔を上げる。

 誰かが逃げるべきか迷う。

 誰かが、まさか本当に解放されるのかと、信じきれない顔をする。

 

 少年は、笑った。

 

『解放されるといいなぁ』

 

 そして、背後の鉱山を指さした。

 

 山肌を削り、坑道を穿ち、帝国と王国が奪い合おうとしていた場所。

 労働者たちが働かされていた場所。

 戦争の火種となった場所。

 

 王都の人々は、その指先を見た。

 

 何をするつもりなのか、まだ理解できなかった。

 理解したくなかった。

 

 少年の声だけが、あまりにも明るく響く。

 

『よく見ろ、シャバに行ってもこんな面白いショーは見られんぞ』

 

 次の瞬間、鉱山が消えた。

 

 光が走った。

 

 最初に見えたのは、白だった。

 昼の光よりも白く、炎よりも眩しい光が、鉱山の中心から真上へ突き抜ける。

 

 遅れて、轟音が来た。

 

 放送越しであるにもかかわらず、王都の人々は反射的に耳を塞いだ。

 実際に音が鼓膜を打ったのか、それとも見せられた光景がそう錯覚させたのか、誰にも分からない。

 

 鉱山は砕けたのではなかった。

 崩れたのでもなかった。

 

 上へ吹き飛んだ。

 

 山肌が、岩盤が、坑道が、積み上げられた資材が、まるで見えない巨大な槌で真下から叩き上げられたように、空へ向かって爆ぜた。

 

 衝撃波が平原を走る。

 

 ただし、不自然なほど横には広がらなかった。

 近くにいた労働者たちは、尻餅をつき、悲鳴を上げ、土埃に包まれたものの、吹き飛ばされはしない。

 

 その代わり、鉱山のあった場所から、岩も土も坑道も、まとめて空へ吸い上げられるように噴き上がっていた。

 

 王都が、静まり返った。

 

 鍛冶屋の炉の前にいた男が、火箸を落とす。

 パン屋の娘が、焼き上がったパンを抱えたまま動かなくなる。

 通りの兵士が、槍を構えたまま膝を震わせていた。

 

『たーまやー!』

 

 放送の向こうで、黒髪の少年が笑っていた。

 

 高く。

 楽しそうに。

 

 その笑い声だけが、王都の空気を凍らせていく。

 

 やがて、映像の中で、小さな皇帝が震える声を漏らした。

 

『お主、今、何をしたのじゃ……?』

 

 黒髪の少年は、当然のように答えた。

 

『何って、ただ魔法で鉱山をふっとばしただけだが? 苦労したんだよ、周囲に被害が行かないように真上だけに吹っ飛ばすのは』

 

『馬鹿な、そんな魔法あるはずない! どれだけの魔力を使ってもこんな威力が出るわけない!』

 

『それがあるんだよなぁ~』

 

 黒髪の少年は、どこか得意げに胸を張った。

 

『俺が教師だったときに開発した、反物質を生成する魔法だ。反物質って便利だよぉ。魔力量が俺みたいに一般人並みでも、対消滅のお陰であれだけの威力が出せるからねぇ』

 

 映像の中で、誰も動かなかった。

 

 帝国兵も、労働者たちも、小さな皇帝も、ただ少年を見ている。

 王都の人々も同じだった。

 

 鉱山を消し飛ばした魔法。

 それを、少年は便利な道具を紹介するような調子で語っていた。

 

『しかも原理は結構簡単なんだよ。反物質のことを理解していれば、【水球】みたいな、物質を生み出す魔法と難易度は同じだからね。普通の物質と違って生成する量も少なくて済むし』

 

『待て』

 

 小さな皇帝の声が震えた。

 

『それ以上、軽く言うでない』

 

『え? でも、そこら辺の魔法を使えない子供でも、小一時間勉強させれば、あれくらいできるようになると思うよ。実際、フレッドも五分で覚えられたからね』

 

 その一言で、平原の空気が完全に凍りついた。

 

 王都のどこかで、誰かが悲鳴を漏らした。

 それは映像の外の声だったのか、内側の声だったのか、もう分からなかった。

 

 少年は気にせず、さらに続ける。

 

『あ、そうだ。論文あるからあげようか? それを読めば誰でも使えるようになるよ! ほら、俺って帝都魔法学校の生徒として卒業までの単位を全部取ってることになってるじゃん。でも卒論は流石に現物があったほうがいいよね? 今度持ってくるよ!』

 

 誰も返事をしなかった。

 

 返事ができなかった。

 

 今この瞬間、王都の人々は理解した。

 

 目の前の少年は、鉱山を消しただけではない。

 鉱山を消す方法を、誰でも扱えるようにしている。

 

 その事実が、あまりにも恐ろしかった。

 

 誰が言ったのかは分からない。

 

『あ、悪魔だ……』

 

 その一言が、放送に乗った。

 

 黒髪の少年の笑いが止まる。

 

『俺が悪魔……?』

 

 彼は、少しだけ首を傾げた。

 

 次の瞬間、胸を張る。

 

『違う、俺は天使だ。奴隷どもを強制労働という地獄から解放させてやったんだからな』

 

 誰も突っ込めなかった。

 

 鉱山は、もうそこにはなかった。

 労働者たちは、確かに労働から解放された。

 その理屈だけを見れば、少年の言葉は間違っていないのかもしれない。

 

 だからこそ、余計に恐ろしかった。

 

 小さな皇帝が、震える指で少年を指した。

 

『こ、殺せ! 今すぐ殺せ! こいつは王国の敵でも、帝国の敵でもない、世界の敵じゃ!』

 

 悲鳴のような命令だった。

 

『あんなやつを生かしておいたら、地上は破壊し尽くされてしまう!』

 

 周囲の帝国兵たちが、一瞬、動きかける。

 

 だが、その前に将軍が手を上げた。

 

『待て!』

 

 鋭い声が、兵たちを止める。

 

 小さな皇帝が振り返った。

 

『なぜ止めるのじゃ! 見たじゃろう!? あやつを放っておけば、次は帝国が、王国が、世界中の国が、あの鉱山みたいに吹き飛ぶのじゃ!』

 

 将軍は、黒髪の少年から目を離さなかった。

 

『だからだ!』

 

『何が、だからなのじゃ!』

 

『離れた鉱山を、あれだけ正確に爆破できる。つまり、ここも爆破できるということだ!』

 

 小さな皇帝の口が止まった。

 

 周囲の兵士たちも、完全に動きを止める。

 

 鉱山は遠くにあった。

 それを、少年は平原から指さして吹き飛ばした。

 しかも、周囲に被害を出さないように調整して。

 

 ならば。

 

 ここもできる。

 

 王都の人々は、同じ結論にたどり着いた。

 

 今、映像の向こうにいる少年は、鉱山だけを消せるのではない。

 王都も、帝都も、城も、軍も、望めば消せるかもしれない。

 

 それを止める方法が、誰にも分からない。

 

 小さな皇帝は、青ざめた顔で少年を見た。

 

『……では、妾たちは、あやつを殺すことすらできぬというのか』

 

『少なくとも、今ここで不用意に手を出すべきではありません』

 

 将軍の声は硬かった。

 

 その横顔に、後悔のような表情が浮かんでいた。

 

『……ここまでとは、思っていなかった』

 

    ◆

 

 王都は、まだ声を失っていた。

 

 鉱山が消えた。

 

 それをやった少年は、消し方を論文にして渡そうとしている。しかも、魔法を使えない子供でも覚えられると、料理の手順でも教えるように語っていた。

 

 誰も隣の者と目を合わせない。

 

 言葉にすれば、今見たものが現実として固まってしまう。

 そんな沈黙が、街を覆っていた。

 

 映像の中では、小さな皇帝が半泣きで黒髪の少年を指さしている。将軍は兵士たちを止めたまま、剣の柄から手を離さない。労働者たちは腰を抜かし、帝国兵も動けずにいた。

 

 沈黙を破ったのは、茶髪の少年だった。

 

 彼は一度、深く息を吐く。

 

『王都の皆さん、聞いてください』

 

 声は大きくない。

 それでも、よく通った。

 

 人々の視線が、黒髪の少年から彼へ移る。

 

『まず、論文を配布するという話は想定外です。僕も今、初めて聞きました。本当に想定外です。ごめんなさい。エイン君、論文は王都に帰ったら燃やすからね』

 

 黒髪の少年が横から口を挟む。

 

『でも卒論にはちょうどよくない?』

 

『よくない』

 

 短く切り捨て、茶髪の少年は再び正面を向いた。

 

『でも、鉱山を爆破したのには理由があります』

 

 市場の騒めきが、わずかに戻る。

 

 あの爆破に。

 鉱山を消し飛ばした行為に、理由があるという。

 

『先日、国王陛下は、王立魔法学校で開かれた対抗戦で、【啓導の光輪】(ルクス・グノーシス)という魔法を使い、各国の要人を支配しようとしました。会場にいた人たちだけではありません。既に帝国にも、聖教国にも、共和国にも、そして王国の中にさえ、支配は届いています』

 

 兵士たちが互いの顔を見る。

 国王の名を口にしかけた男は、慌てて唇を結んだ。

 宿屋の客が、扉までの距離を測るように視線を動かす。

 

『帝国では、皇帝陛下の側近が操られました。宮廷魔道士も操られ、自爆させられました。王国は人質を使って帝国を脅迫しています。要求を拒めば、帝国の中枢を内側から壊し、戦争を始める。そう脅しているんです』

 

 遠い国の話だった戦争が、急に王都の通りへ降りてきた。

 

『これは正当な外交ではありません。正当な戦争でもありません。人質を取って、魔法で言うことを聞かせているだけです』

 

 少年は怒鳴らない。

 一つずつ、確かめるように言葉を置いていく。

 

『僕は、国の政治も、戦争も、正直よく分かりません。王国の都合も、帝国の都合も、全部理解しているとは言えません』

 

 少しだけ視線を落とす。

 

『でも、人を無理やり支配して従わせるやり方は支持できません。戦争も起きてほしくありません。普通に暮らしている人たちが、上の都合で巻き込まれて死ぬのは、嫌です』

 

 市場の片隅で、子供を連れた女が、その肩を抱き寄せた。

 

 難しい理屈ではなかった。

 だから、聞いている者にも意味が分かった。

 

『だから、僕たちは戦争をやめる理由を作りました』

 

 茶髪の少年が背後を振り返る。

 

 そこには、もう鉱山がない。

 

『この鉱山は、王国と帝国が争う理由でした。帝国に渡せば王国が困る。王国が取り返そうとすれば帝国が困る。だから、戦争になるかもしれなかった』

 

 再び正面を向く。

 

『でも、鉱山はなくなりました』

 

 無茶苦茶な話だった。

 

 だが、反論できる者はいない。

 鉱山が消える瞬間を、王都中が見ていた。

 

『攻め込んでも、得るものはありません。帝国へ攻め込まないでください。国王陛下がこの放送を聞いているなら、どうか戦争を止めてください』

 

 少年は少し間を置いた。

 

『……言いたいこと、分かりますよね?』

 

 市場で、誰かが喉を鳴らした。

 

 お願いではある。

 だが、それだけではない。

 

 攻める理由は消えた。

 それでも攻めるのなら、次に何が消えるか分からない。

 

 その時、黒髪の少年が当然のように前へ出た。

 

『そういうわけで、俺は帝国に鉱山を取らせないようにしてやった。これは王国への大功績だろ』

 

 茶髪の少年の顔に、露骨な嫌な予感が浮かぶ。

 

『待って。今それ言う?』

 

『言うだろ。俺、王国のために頑張ったんだぞ』

 

 黒髪の少年は胸を張った。

 

『俺は王国に十分貢献した。国王は俺の殺害要求を取り消せ。王国を救った功労者として、ちゃんと丁重に扱え。それくらいの功績には値するはずだ。フレッドにも金一封をやるべきだ』

 

 王都の空気が、別の意味で冷えた。

 

 茶髪の少年がどうにか整えた話へ、黒髪の少年の要求が土足で踏み込んでくる。

 

『これでも功績が足りないというのなら、よその国境でも同じようにやってやる。山でも、森でも、湖でも、何でも爆破してやる』

 

 少年が、消えた鉱山の方へ手を向ける。

 

 王都のあちこちから、小さな悲鳴が上がった。

 

『国王、お前が侵攻をやめる意志を見せなければ、俺はこの地上を破壊し尽くすだけだぁ!』

 

 誰も笑わなかった。

 

 冗談かどうかを考える前に、鉱山の跡が答えを示していた。

 

 茶髪の少年が額に手を当てる。

 

『まだそれ言ってるの……? さすがに無理だって言ったでしょ。あんなことをして、僕たちが功労者扱いされるわけないよ』

 

『いや、意外と国王は話の分かるやつかもしれないだろ。世界征服はする悪者だけど、功績はちゃんと評価するタイプかもしれない』

 

『その可能性に賭けるのは危なすぎるよ』

 

『でもワンチャンある』

 

『ないよ』

 

 茶髪の少年の声には、深い疲れが滲んでいた。

 

 王都の人々も、同じ気持ちだった。

 

 ない。

 そうであってほしい。

 

 だが、国王が何を考えているのかも、黒髪の少年が次に何をするのかも、もう分からない。

 

 映像の中で、黒髪の少年は用が済んだとばかりに振り返った。

 

『じゃ、寄り道は終わったから、さっさと丁重に護送してもらおうか』

 

 小さな皇帝が、びくりと肩を震わせる。

 

『護送……?』

 

『うん。王国に着いたら凱旋してもらうんだ。王国を救った功労者としてな』

 

『なぜ凱旋できると思っておるのじゃ……』

 

『功績があるから』

 

『怖いのじゃ。この小僧、自分の理屈を本気で信じておるのじゃ……。じゃが、もうそれでよいわ……』

 

 小さな皇帝は送信機へ向き直った。

 

『国王よ! 聞いておるな!? 王国の要求どおり、この者は引き渡す! 引き渡すから、帝国への攻撃はやめるのじゃ! これは拒否ではない! 帝国は要求に従う! 従うから、これ以上、妾の臣下を操るでない! 爆発もさせるでない!』

 

 半泣きではあったが、意味は明確だった。

 

 帝国は要求を拒んでいない。

 少年は引き渡す。

 だから攻撃をやめろ。

 

 言い終えるなり、小さな皇帝は送信機へ駆け寄った。

 

 茶髪の少年が気づく。

 

『待ってください、まだ――』

 

『もう十分なのじゃ! 十分すぎるほど十分なのじゃ!』

 

 小さな皇帝は、兵士から奪った短槍を両手で構えた。

 

 体格に合わないせいで槍先がふらつく。

 だが、勢いだけはあった。

 

『これ以上、帝国はお前たちと関わりたくないのじゃあ!』

 

 短槍が送信機へ突き立てられた。

 

 水晶が砕け、映像が大きく乱れる。

 

 平原が歪み、鉱山跡がぶれ、黒髪の少年の顔が一瞬だけ近づいた。

 

『あー! それ改造するの苦労したのに!』

 

 その声を最後に、映像が暗転した。

 

 しばらく雑音が続き、それも途切れる。

 

 市場のざわめき。

 馬車の車輪。

 遠くの鐘。

 誰かの泣き声。

 

 現実の音が戻ってきた。

 

 だが、誰も元の生活には戻れなかった。

 

「今の、見たか……?」

 

「見たに決まってるだろ! 鉱山が、山が消えたんだぞ!」

 

「国王陛下は、本当に他国の要人も、王国民でさえも操っているのか?」

 

「馬鹿、声に出すな! 聞かれていたらどうする!」

 

「誰にだよ!?」

 

「分からないから怖いんだろうが!」

 

 市場で荷車がぶつかった。

 客は代金も払わず立ち去ろうとし、店主もそれを止めなかった。

 

「店を閉めろ! 今日はもう商売どころじゃない!」

 

「閉めてどうするんだよ! あいつが王都に来るんだぞ!」

 

「門を閉めればいいだろ!」

 

「鉱山を吹っ飛ばすやつ相手に、門が何の役に立つんだよ!」

 

 別の通りでは、兵士たちが立ち尽くしていた。

 

「上から命令は来ているのか?」

 

「まだだ!」

 

「なら避難誘導を――」

 

「誰の命令で動くんだ! 下手に動いたら反逆扱いされるぞ!」

 

「じゃあ、民をこのまま放っておくのか!」

 

「俺に聞くな!」

 

 誰かが王城を見上げた。

 

 だが、そちらへ向かう者はいない。

 

 国王が人を支配している。

 帝国を脅している。

 

 それが本当なら、王城は助けを求める場所ではなかった。

 

「お母さん、あの人、ここに来るの?」

 

 子供が泣きそうな声で尋ねる。

 

 母親は答えず、その頭を抱き寄せた。

 

「大丈夫。大丈夫だから」

 

「でも、山を消したよ」

 

「見ちゃ駄目」

 

「もう見えないよ」

 

 母親は唇を噛んだ。

 

 もう見えない。

 

 今どこにいるのかも。

 いつ王都へ着くのかも。

 次に何を消すのかも分からない。

 

「避難だ! 西門へ行け!」

 

「西門は駄目だ、王城に近い!」

 

「じゃあどこへ逃げるんだ!」

 

「知らん! 家に戻れ!」

 

「家にいたら潰されるかもしれないだろ!」

 

「何にだよ!」

 

「分からない!」

 

 怒号が重なった。

 

 一人が走れば、周囲も走る。

 事情を知らない者まで、流れに押されて駆け出す。

 荷車が倒れ、馬がいななき、兵士の笛が響いた。

 

 国王の支配。

 

 そして、黒髪の少年の帰還。

 

 二つの災厄が、同時に王都へ迫っていた。




次回、意外と平和です。

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