療養室の灯りは、枕元の小さなランプ一つに落とされていた。
王城が崩れ落ちた、その夜のことだった。母が運び込まれた医師リーフの診療所の一室は、白く洗われた敷布も、かすかな薬草の匂いも、窓の外に広がる王都の夜も、何もかもが地下の石壁とはかけ離れていて、セレナはここへ来てから何度も、自分がどこにいるのかを確かめるように部屋を見回していた。
寝台では、母が眠っている。
「身体の方は、ひとまず手を尽くしました」
診察鞄の口を閉じながら、リーフが言った。夜更けまで働きづめのはずなのに、その声はよく落ち着いている。
「長く血を失っていたせいで、ずいぶん弱ってはいます。ですが、命に関わる段階は越えました。あとは食事と休養で、少しずつ戻っていくはずです」
「……ありがとうございます」
リーフは一礼して、部屋の奥へ下がった。イレーネは相変わらず扉のそばの壁際に控えていて、そこにいると知っていなければ見落としてしまいそうなほど、静かに気配を消していた。
セレナは椅子を寝台の脇へ寄せ、母の顔を見下ろした。
削げた頬。血の気の薄い唇。枕の上に散った髪には、ところどころ白いものが混じっている。本当なら、まだ若いと言っていい歳のはずの人だった。
気づけば、小さく歌を口ずさんでいた。
記憶の底に、ずっと沈んでいた旋律だった。誰かの腕に抱かれて、ゆっくり揺らされながら聴いた歌。顔も声もおぼろげなのに、この節回しだけは、なぜかはっきりと覚えている。
ここはもう、地下ではない。時間はかかるかもしれない。けれど、いつかは。
歌をやめ、そっと母の手に触れかけて、セレナは指を止めた。起こしてしまうのが怖かった。それ以上に、目を覚ました母が最初に何を見るのか、それが自分であっていいのかが、まだ分からなかった。
◆
セレスが目を覚ましたのは、夜半を少し過ぎた頃だった。
瞼が震え、ゆっくりと開く。焦点の定まらない目が天井を彷徨い、次の瞬間、その身体がびくりと強張った。
「……っ、どこ……」
掠れた声が、寝具の上を這う。
セレナが腰を浮かせかけたとき、それより早く、リーフが寝台の傍らへ進み出ていた。すれ違いざまに目で留められ、セレナは足を止めて、リーフの背の陰に立った。
「大丈夫です。落ち着いて」
穏やかで、よく通る声だった。
「ここは地下ではありません。王都の診療所です。あなたはあの場所から出されて、今は治療を受けているところです」
「……ちか、じゃ……」
「国王は、もう王ではありません。あなたを閉じ込めていた者は、もういない。あなたはもう、どこへも戻らなくていいんです」
セレスは答えなかった。
視線だけが、落ち着きなく動いていた。天井から壁へ、壁から窓へ。カーテンの隙間から差し込んだ月明かりが、白い帯になって寝具の上に落ちている。セレスはその光をぼんやりと見つめ、おそるおそる指先を伸ばして、敷布の表面に触れた。
それから、ひどく疲れたように目を細めた。
「……また、この夢」
「夢ではありません」
「いつもそう。明るくて、柔らかくて……起きたら、全部なくなるの」
リーフの言葉は、届いていなかった。セレスは敷布を撫でながら、誰に聞かせるでもなく呟き続けている。今日の分がまだ、あの人が、と、途切れ途切れの言葉が口の端からこぼれては消えていく。
リーフの背中越しに、セレナはそれを見ていた。
地下から出ても、母はまだ、あの石の部屋の中にいた。
「お母様、夢じゃありません。本当に、もう――」
堪えきれずに、セレナはリーフの背の陰から、ランプの灯りの中へ踏み出した。
セレスの視線が、こちらへ流れた。
目が、合った。
ぼんやりとしていた顔が、そのまま固まった。濁っていた目だけが、ゆっくりと見開かれていく。
「……どうして」
ひび割れた声だった。
「どうして、まだいるの」
「代わりが来たのに……どうして、私はまだ……」
言葉の途中で、セレスの視線がセレナの目に吸い寄せられた。青い瞳。その色を捉えた瞬間、戸惑っていた顔から、迷いが消えた。
「……やっぱり」
唇が震える。
「見てる。あの人が、見てる」
「違います、私は――」
「嘘」
セレスは首を振った。ついさっきまで月明かりを見つめていた目が、今度は逃げ道を探すように、せわしなく動きはじめる。
「嘘……ここも、あそこなんでしょう。そうなんでしょう」
「落ち着いてください。ここは本当に――」
セレナは寝台へ駆け寄った。
「お母様……」
伸ばした手が肩に届くより早く、セレスの身体が大きく跳ねた。
寝台から転げ落ち、敷布ごと床へ崩れて、それでも止まらず、部屋の隅へと這っていく。背中を壁に押しつけて両手で顔を覆い、その指の隙間から、声にならない声が漏れた。
「見ないで……」
ずり落ちた袖の下から、細い傷痕が幾重にも重なった手首がのぞいていた。その傷痕に、爪が立てられる。
「見ないで……もう取らないで……出して……出して、出してよ……」
皮膚を掻きむしる音が、静まり返った部屋にいやに大きく響いた。
リーフがそばへ寄り、低く語りかける声が続く。やがて、壁際で丸まった身体から、ゆっくりと力が抜けていった。
セレナは寝台のそばで、差し出しかけた手を下ろすことさえ忘れていた。
母を安心させられると思っていた。そばにいれば、いつか。そう信じて、この夜をずっと待っていた。
けれど今の母にとって、自分もまた、あの地下の一部だった。
セレスが寝台へ戻されるあいだ、セレナは窓際に立っていた。母の視界に入らない場所を、気づけば選んでいた。
「……殿下」
手当てを終えたリーフが、静かに呼んだ。
「はっきり申し上げた方がいいと思います」
「……はい」
「長い監禁で、心そのものが深く傷ついています。記憶も混乱していますし、恐怖の反応もひどく強い。通常の治療を続けることはできますが、どれだけの時間がかかるかは分かりません。何年もかかるかもしれない。そして、それで良くなるという保証も、私にはできません」
リーフは、そこで一度言葉を切った。セレナの顔を見て、言うべきかどうかを確かめるような間があった。
「……それから。殿下のお姿を見ると、症状がさらに悪くなってしまうようです」
「……分かりました」
リーフは小さく頷いて、部屋の奥へ戻った。
寝台の上のセレスは目を閉じたまま、時おり浅く息を乱している。眠っているのか起きているのか分からない、ひどく浅い眠りだった。
セレナは、寝台の脇の椅子へ戻った。
膝の上で両手を握りしめたまま、セレナは長いあいだ、動かなかった。
それから、そっと目を閉じた。
母が薄く目を開けても、この目を見なくて済むように。
「お母様」
囁くように呼んだ。
「……忘れたいですか」
返事はなかった。
しばらくして、寝台の上から、かすかな声が漏れた。
「……忘れたい」
「全部……忘れたい……」
「……」
「あの人に、会う前に……戻りたい……」
目を閉じたまま、セレナは息を詰めた。
譫言は、まだ続いていた。
「あの子の顔……もう、見たくない……」
すぐ隣にいる娘のことを、母は、そこにいない誰かのように語った。
「産めば……出してくれるって……」
声が、一度途切れる。
「言ったのに……」
セレナは泣かなかった。
これが了承ではないことは、分かっている。
それでも、この苦しみだけは本物だった。
目を開けたとき、心は決まっていた。
「イレーネ」
壁際から、音もなく侍女が進み出る。
「エインさんを、呼んできてください」
イレーネは何も訊かなかった。ほんの一瞬だけ主の顔を見つめ、それから深く頭を下げた。
「かしこまりました」
扉が閉まる。
待つあいだ、セレスは深く眠っていた。先ほどまでの浅い眠りとは違う、穏やかな寝息だった。
セレナは首の後ろへ手を回し、鎖の留め具を外した。服の下から引き出したブローチを、掌の中に握りこむ。
それから、目を開けたまま、母の顔を見ていた。細い眉。長い睫毛。薄く開いた唇。
母が眠っているときにしか、セレナは母を見ることができなかった。
◆
扉が開いたのは、それからしばらくしてのことだった。
イレーネに続いて入ってきたエインは、寝台の上のセレスを見て、それから部屋の奥のリーフに目を留めた。
リーフの方は、エインの顔を見て目を見開いていた。
「あなたは……」
「あ、どうも」
軽く頭を下げたエインの目が、すぐにセレナへ移る。
セレナは椅子から立ち上がった。
「エインさん。お願いがあります」
声が揺れないよう、息を整える。
「母は、さっき一度、目を覚ましました。……でも、まだあの地下にいると思い込んだままで。私を見たら、もっとひどく取り乱してしまって」
言葉を選びながら、ひとつずつ置いていく。
「お医者様にも、治るかどうかは分からないと言われました」
エインは口を挟まなかった。
「母は……忘れたい、と言っていました。あの人に会う前に、戻りたいと」
もう一度、息を吸う。
「だから、お願いします。母の記憶を、父と出会う前まで、消してください」
エインの動きが、止まった。
「……は?」
聞き間違いを疑うような声だった。
「記憶を、消す? セレナの、母さんの?」
「はい」
「父親と会う前までって……それ、セレナのことも全部――」
「分かっています」
遮るように答えた。最後まで言わせたら、決めたことが崩れてしまいそうだった。
エインはしばらく、セレナの顔を見ていた。
「……それで、いいのか」
答えたのは、セレナではなかった。
「お話は、先に伺いました」
部屋の奥から、リーフが静かに言った。
「医師として、手放しで勧められることではありません。ですが……今のままでいるよりは、良いと思います」
エインはちらりとリーフを見て、それから、小さく首を振った。
「……そうじゃなくて」
もう一度、セレナへ向き直る。
「本当に、消すだけでいいのか」
その意味は、すぐに分かった。
母が、自分を怖がらずに見る。名前を呼んで、微笑んで、記憶の底に沈んでいるあの腕のように、抱きしめてくれる。
一度だけ、その光景を思い描いてしまった。
セレナは、寝台の上の母を見た。
眠っていてもなお、母の眉間には、消えない強張りが刻まれていた。
あの人に会う前に戻りたい、と母は言った。
「……それは」
喉が、うまく動かなかった。
「それは、お母様ではありませんから」
エインは何も言わなかった。リーフも、何も言わなかった。
母の中に何を残すかを、自分の望みで選びたくはなかった。
エインはしばらくセレナを見ていたが、やがて、小さく頷いた。
寝台の脇に立ち、眠るセレスの額へそっと手をかざす。
指先に灯った淡い光が、額の奥へ静かに沈んでいく。
光が消えると、リーフが寝台へ歩み寄り、セレスの脈を取った。
セレナは、寝台の上の母を見つめていた。
眠る顔から、ずっと消えずにいた強張りが、ほどけていた。
◆
セレスが再び目を覚ましたのは、それから間もなくのことだった。
ぱちりと瞼が開き、天井を見上げた目が、一度、二度と瞬いた。
「……あれ?」
拍子抜けするほど、明るい声だった。
セレスは身を起こしかけ、思うように動かない身体に眉をひそめてから、部屋の中を見回した。見知らぬ天井。見知らぬ調度。見知らぬ人間が、四人。
「え、ちょっと待って。どこ、ここ? ……あなたたち、誰?」
「落ち着いてください」
リーフが寝台の傍らに膝をついた。
「私は医師のリーフと申します。あなたは、馬車の事故に遭われたんです」
「事故……?」
「ええ。それから、ずっと眠っておられました。今日、ようやく目を覚まされたところです」
セレスは眉を寄せ、思い出そうとするように宙を見つめた。
「馬車……うーん、全然覚えてない。頭でも打ったのかしら」
自分の頭をぺたぺたと触り、痛むところがないと分かると、ほっとしたように息をつく。
「それで、ずっとって……どのくらい?」
リーフは、少しだけ間を置いた。
「……十五年近くになります」
「――そんなに!?」
跳ね起きようとして、思うように動かない身体に小さくうめく。
「嘘でしょう、十五年!? え、待って、それじゃあ……」
指を折って数え始め、途中で数えるのをやめて、自分の手をまじまじと見つめる。覚えているよりずっと細く、骨ばった手だった。
「……じゃあ私、もう三十過ぎってこと……?」
それから、傍らに立つセレナへ目をやって、しみじみと呟いた。
「あなたくらいの娘がいても、おかしくないじゃない」
セレナは、微笑んでみせた。
微笑めた、と思う。
「……そうですね」
「やだもう、信じられない。十五年も寝てたなんて」
大げさに頭を抱えてから、セレスはぱっと顔を上げた。
「起きるまで、そばについててくれたんでしょう? ありがとう」
地下では、一度も見たことのない顔だった。セレナは、ただ小さく首を振った。
「ねえ、あなた。お名前は?」
「……セレナ、です」
「セレナ」
セレスはその名前を、口の中で転がすように繰り返した。
「いい名前ね」
それから、嬉しそうに手を打った。
「私、セレスっていうの。セレスとセレナ。なんだか似てるわね、私たち」
楽しそうに笑って、セレスはふと、セレナの顔をじっと覗き込んだ。何かに気づいたように、目が丸くなる。
「それに、よく見たら……ねえ、あなた、私に似て美人じゃない?」
「……え」
「目の色なんて、私とおんなじ」
セレスの青い瞳が、セレナの青い瞳を映していた。
「きれいな青ね」
返事をするまでに、少し時間がかかった。
「……ありがとう、ございます」
微笑んだまま、セレナは答えた。
それ以上の言葉は、出てこなかった。
セレナは、握りしめていた手をいっそう強く握ってから、そっと開いた。
掌の上で、古びたブローチがランプの灯りを受けて鈍く光った。
「これ……落とし物です」
セレスの目が、ブローチに吸い寄せられた。
「あら……これ、私の?」
受け取って裏を返し、また表に返す。間違いない、というように頷いて、表情を緩めた。
「事故のときに、落としちゃったのね。拾ってくれてありがとう。これ、すごく大事なものなの」
セレスはブローチを両手で包み、胸元へ押し当てた。
「母様からもらったの。代々、母から娘へ受け継いでるのよ」
愛おしそうに、指先で縁をなぞる。
「私もいつか、娘に渡すのかしらね」
セレナは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
その「いつか」は、もう来ていた。
空になった掌に、ブローチの形がまだ残っていた。
リーフがセレスの肩に毛布を掛け直し、横になるよう促した。セレスは素直に頷いて、枕に頭を預ける。
セレナは一礼し、扉の方へ向かった。イレーネがそれに続き、エインもその後に続く。リーフは寝台の傍らに残った。
扉に手をかけたとき、背後から声がした。
「気をつけて帰ってね、セレナ」
振り返ると、セレスが枕の上から小さく手を振っていた。
セレナは微笑んだ。
「はい。……お元気で」
それだけ言って、扉を閉めた。
廊下は、しんと静まり返っている。
セレナは扉の前を離れ、廊下を歩き出した。
数歩も行かないうちに、背後から歌が聞こえてくる。
小さな、柔らかい声。今夜、母の枕元で自分が口ずさんでいたのと同じ旋律だった。
今、あの部屋で母が口ずさんでいる歌は、自分に向けたものではなかった。
セレナは振り返らなかった。背筋を伸ばして、王女として教わった通りに、まっすぐ歩いた。歌が遠くなり、やがて聞こえなくなっても、足を止めなかった。
診療所の扉を押し開けると、夜明け前の冷たい空気が頬に触れた。
石畳の通りには、まだ誰もいない。数歩だけ外へ出たところで、ようやく足が止まった。
隣を歩いていたエインも、立ち止まった。
「じゃ、俺、明日戴冠式あるから、そろそろ――」
おやすみなさい、と返すつもりで、セレナはいつも通りの顔を作っていた。
こちらを向いたエインの言葉が、そこで途切れた。
セレナの顔を見たまま、エインは動かなかった。何か言いかけて、やめる。持ち上がりかけた手が、宙で一度止まって――
それから、引き寄せられた。
ぎこちない腕だった。どこに力を入れればいいのかも、どこへ手を置けばいいのかも分かっていないような。それでもその腕は、セレナの身体を胸の中に収めた。
「……エインさん? どうか、しましたか」
エインの胸に額を押し当てたまま、セレナは訊いた。声は、まだいつも通りに出せた。
頭の上で、少年が言葉を探す気配がした。
「え、あー……何となく?」
いつもと同じ、気の抜けた声だった。
いつの間にか、その胸に身体を預けていた。
喉の奥で、何かがほどけた。
声を殺すことも、できなかった。エインの服を握りしめたまま、セレナは泣いた。
「え、ちょ、ちょっと待って。セレナ? なんで。なんで泣くの」
頭の上で、エインのうろたえた声がした。背中に回っていた手が離れかけ、行き場に迷って、また戻ってくる。
「イレーネさん。なあ、イレーネさん。これ、どうすればいいんだ」
「そのままで結構です」
「いや、そのままって――」
「そのままで」
素っ気ない声だった。いつもと同じ、感情の読めない声。
エインは何か言いかけて、結局、口を閉じた。
頭の上で、小さく息を吐く音がする。途方に暮れたような、それでいて、どこか腹を決めたような音だった。
どうすればいいのか分からないまま、それでもエインは、腕を解こうとはしなかった。その腕はただ、セレナが崩れてしまわないように、そこにあった。
セレナは泣き止むまで、その胸の中で泣いた。
通りの向こうで、空が白み始めていた。
◆
王城の瓦礫から、まだ煙が上がっている朝だった。
戴冠式の会場になったのは、王城を失った者たちの避難先として押さえられた、王都一のホテルの大広間だった。本来なら舞踏会に使われる部屋で、磨き上げられた床に朝の光が長く伸びている。
壇上には一晩で運び込まれた玉座が据えられ、その背後の壁には、夜通し縫い直されたらしい真新しい旗が掛けられていた。貴族たちの椅子は形も高さも揃っておらず、壁際の飾り布の端からは、隠しきれなかったホテルの紋章がのぞいている。
関係者席の端で、フレッドは背筋を伸ばして座っていた。
伸ばしていないと、そのまま椅子からずり落ちてしまいそうだった。昨日は王城に突入して国王と戦い、その王城を丸ごと吹き飛ばした。一晩明けたら、親友の戴冠式に列席している。
「ねえ、フレッド君」
隣から、弾んだ声がかかった。
アリアは膝の上で手を組んだまま、目を輝かせて壇上を見つめていた。
「見て。エインったら、あんなに立派な服を着せてもらって」
壇の脇には、式服に身を包んだエインが立っていた。大人用の礼装を急ぎで詰めたせいか、肩の線が少し余っている。本人はそれを気にする様子もなく、会場を眺め回しては、ときどき欠伸を噛み殺していた。
「村を出るときは、学校なんて行かないって、あんなに嫌がってたのに。それが今日は王様ですって」
アリアは頬に手を当てて、しみじみと息をついた。
「まさか、こんなに出世するなんて」
「出世……」
フレッドは言葉に詰まった。
出世と言えば、出世なのかもしれない。村の少年が魔法学校に入り、首席になり、教師になり、帝国の代表になり、そして国王になる。並べてみると、順番からしてどこかおかしかった。
しかもその途中には、指名手配と、鉱山の消滅と、世界規模の精神支配と、王城の爆破が挟まっている。
「……出世、ですね」
「でしょう? きっとフレッド君のおかげね。エインのこと、ずっと助けてくれたんでしょう?」
「僕のおかげ……」
全人類に精神魔法を感染させたのは自分だった。王城へ正面から乗り込む作戦を立てたのも、王城を壊す方向へ舵を切ったのも。今日のこの式場へ至る道を一番せっせと舗装したのは、もしかすると自分だったのかもしれない。
「……では、あるかもしれません」
「まあ。謙遜しないの」
謙遜ではなかった。
フレッドは前方の席へ目をやった。最前列には、旧王家の王子と王女たちが並んでいる。その列の端にセレナがいて、背後にイレーネが控えていた。
セレナは背筋を伸ばし、まっすぐ前を向いて座っていた。
ただ、目元がほんのわずかに赤かった。
そして、最前列の中央。
両脇を衛兵に固められ、手首に魔封じの枷を嵌められた男が、壇上の空の玉座を睨みつけていた。
ハロルド・エルディス。昨日まで、この国の王だった男だ。
その頭の上には、まだ王冠が載っていた。
壇上に、宰相が進み出た。
宰相は深々と頭を下げ、会場を見渡した。ざわめきが、前の列から順に消えていく。
「これより、戴冠の儀を執り行う」
「先日来の動乱により、王国は未曾有の危機に瀕した。王家の秘匿術式による精神支配は国内外に及び、王城は崩れ、旧体制はその正統性を失った。しかし、国は倒れていない。我々はここに新たな王を戴き、新たな国として歩み出す」
宰相は一度言葉を切り、背後の旗を示した。
「本日この時をもって、エルディス王国は新たな名を戴く」
会場の視線が、旗へ集まった。
「――エイン王国である」
会場の空気が、一瞬止まった。
フレッドは旗を見た。縫い直されたばかりの布に、確かに金糸でその名が刺繍されていた。
国名だった。
国の名前が、自分の親友の名前になっていた。
会場のあちこちから押し殺したどよめきが漏れる中、壇上のエインだけが、旗を見上げて感心したように頷いている。
「おお。かっこいいじゃん」
フレッドは静かに両手で顔を覆った。
「いい名前ねえ」
隣でアリアが、心底嬉しそうに言った。
◆
宰相は懐から書状を取り出し、朗々と読み上げ始めた。
「旧国王ハロルド・エルディス。王家秘匿術式【啓導の光輪】を用い、王国民ならびに他国の民、各国中枢に至るまで精神支配を施したこと。王権を私し、国家の秩序を自らの野心のために損なったこと。王家の血を引く者を監禁し、術式維持のために長年にわたり搾取したこと――」
罪状は続いた。かつて命令として通っていた事柄が、一つずつ罪として読み上げられていく。ハロルドの顔は、少しずつ赤黒くなっていった。
「――以上をもって、ハロルド・エルディスは王たる資格を失ったものとする」
書状を畳み、宰相は壇を降りた。ハロルドの前に立って一礼し、両手で王冠を取る。
ハロルドの首が、小さく持ち上がった。離れていく王冠を、頭が追いかけようとしたかのようだった。
宰相は王冠を掲げたまま、再び壇上へ上がった。
「新王、前へ」
エインが玉座の前へ進み出る。跪くよう促され、一瞬「え、膝つくの?」という顔をしたが、宰相の目配せを受けて素直に膝を折った。
その頭上に、王冠が降ろされる。
王冠はエインの額を素通りし、そのまま目元まで沈んだ。
エインは無言で王冠を押し上げた。止まらずに、また沈む。もう一度押し上げ、今度は後頭部へ少し傾けることで、どうにか引っかかった。
宰相は何事もなかったかのように顔を上げた。
「ここに、新王の即位を宣言する。エイン王国国王、エイン陛下に、栄えあれ」
「栄えあれ!」
唱和が返り、拍手が起こった。最初はまばらに、やがて波のように広がっていく。その中でエインは立ち上がり、傾いた王冠を片手で押さえたまま会場を見渡した。関係者席に母の姿を見つけると、少しだけ笑った。
◆
「陛下。さっそくではございますが、新王としての最初のご裁可を賜りたく存じます」
「ん? いいよ。何?」
エインは玉座に腰を下ろし、ずり落ちかけた王冠をまた押し上げた。
「ハロルド・エルディスの処遇についてです」
宰相は最前列の男を手で示した。
「この者の罪は国内に留まりません。各国の中枢までもが、この男の術式によって操られておりました。今、国外の目はすべて、この国がこの男をどう扱うかに注がれております」
「うん」
「自国の民も同じです。新たな王が旧い王をどう裁くか。それによって民は、この国が本当に変わったのかどうかを判断するでしょう」
「うん」
宰相は、控えていた文官から新たな書面を受け取った。
「つきましては――ハロルド・エルディスの処刑を、ご命令いただきたく」
エインの動きが止まった。
「……処刑?」
「はい」
「俺が? 命令すんの?」
「陛下以外に、それをなし得る方はおられません」
エインは玉座の上で、露骨に顔をしかめた。
「えー……いや、あのさ。俺、手配を消したくて王様になっただけなんだけど」
「存じております」
「それで、王様になって一番最初の仕事が、人を殺せって命令すること?」
「新体制が旧体制と完全に決別したことを示すには、これ以上の方法はございません」
宰相の声は、あくまで穏やかだった。
「陛下が政務に慣れておられないことは、我ら臣下一同、よく承知しております。今後の行政も、法務も、外交も、すべて我らがお支えいたします。陛下にお願いするのは、この一件のみ」
宰相は深く頭を下げた。
「最初で最後のお務めと思し召して、どうか、ご辛抱を」
エインは黙った。
肘掛けに頬杖をつき、最前列のハロルドを眺める。ハロルドは枷を嵌められた手を膝に置いたまま、エインを睨み返していた。怯えも懇願もない目だった。
「……こいつのことは嫌いだよ。セレナにしたことも、今でもムカついてるし」
独り言のような声だった。
「でも、殺したいほどじゃねえよ」
「陛下、それは国の内外に――」
「――殺せ」
低い声が、宰相の言葉を遮った。
最前列からだった。ハロルドが、枷の嵌まった手を膝に置いたまま背筋を伸ばし、壇上を見上げていた。
「何を躊躇う。敗れた王は首を差し出し、勝った王はそれを刎ねる。それを国の内外に示してこそ、民も諸国もひれ伏す」
口の端が、わずかに吊り上がった。
「殺せ。……それが王というものだ」
エインは、ハロルドを見下ろした。しばらく、何も言わなかった。
やがて、その視線がふと宙へ逸れた。頬杖をついたまま、何かを転がすように天井を眺めている。フレッドは、その顔をよく知っていた。何かを思いついたときの顔だ。そして、そのあとにろくなことが起きた試しはなかった。
「……じゃあ、やだ」
ハロルドの笑みが、そのまま固まった。
「お前、養子決定」
会場が、凍った。
「……は?」
宰相の口から、初めて素の声が漏れた。その後ろでは、書記官が記録してよいものかとペンを浮かせていた。
「だってさ。王様の家族なら、そう簡単に処刑とかできないだろ? 王様の息子を殺せとか、さすがに誰も言えないじゃん。はい解決」
その場の誰一人として、どこから反論すればいいのか分からなかった。
最初に声を上げたのは、当のハロルドだった。
「ふざけるなッ!」
枷の鎖が鳴った。衛兵が慌てて両肩を押さえる。それでもハロルドは身を乗り出し、壇上の少年へ唾を飛ばした。
「誰が貴様の息子だ! この我が、貴様のような小僧の――」
「こら」
エインが、ぴしゃりと遮った。
「お父さんと呼びなさい」
「貴様ァ!」
「返事は『はい』だろ。反抗期か?」
ハロルドの顔が、赤黒いを通り越して紫になった。
エインはそれを気にも留めず、会場へ向き直った。
「つーわけで、こいつは今日から俺の息子な。俺の家族に手ぇ出すやつは、許さないからな」
会場の誰もが、一斉に目を逸らした。
処刑を進言したばかりの宰相が、何も言わずに一歩下がった。
関係者席で、フレッドは椅子の上でずるずると沈んでいった。その隣でアリアが「まあ。エインったら、もうお父さんなのね」と、なぜか感慨深げに頷いていた。
◆
「へ、陛下」
宰相が、どうにか立て直した声で言った。額に汗が浮いている。
「仮に……仮にでございます。ハロルド一人を陛下のお家へ移しても、ほかの方々は旧王家の者として残ります。そちらへ支持者が集まり、継承権を掲げれば――」
宰相の目が最前列へ向き、エインの目もそれを追った。
エインは、並んだ旧王家の人々を眺めた。それから、事もなげに言った。
「じゃあ、全員養子にすればいいじゃん」
宰相が、完全に言葉を失った。
「全員俺の家族にしちゃえば、旧王家とかもう関係なくなるじゃん。はい、ベイル。お前も今日から俺の息子な」
名指しされたベイルは、たっぷり三秒ほど、無言でエインを見つめた。
「…………は?」
「お前、俺の、息子。わかる?」
「俺の方が年上だぞ」
「親子に年齢は関係ないだろ」
「関係しかないだろうが!」
ベイルが椅子から腰を浮かせかけたが、エインはもう次へ目を移していた。
「で、その隣。ノレークも息子」
「ルークだと言っているだろうがッ!!」
第二王子が、反射のような速さで絶叫した。式の間じゅう俯いたまま一言も発していなかった男が、その一言にだけは魂の底から反応していた。
「で、カイル。お前も息子」
第三王子カイルは、兄たちのように声を荒らげはしなかった。片眉を上げ、少し考えるように間を置いてから、静かに口を開いた。
「……光栄だ、とでも言えばいいのか?」
「受け入れるな、カイル!」
ベイルが弟の肩を掴んだ。カイルはその手を払うでもなく、冷めた目で壇上を見上げたまま答えた。
「受け入れてなどいない。ただ、新しい陛下は一度言い出したら聞かないだろう、兄上」
「だからといって――」
「で、そっちの三人は、名前何だっけ?」
エインは構わず、女性王族の列を指差した。
「アナスタシア様、エレオノーラ様、クラリス様でございます」
宰相の補佐が反射的に答え、すぐに口を押さえた。
「じゃあ、その三人も俺の娘で」
三人の王女が、揃って固まった。一人は扇を取り落とし、一人は口元を押さえ、一人は隣の姉の袖を掴んだまま動かない。
列の端まで、あと一人。
エインの視線が、最後の席へ移った。
セレナは、ほかの王族たちのように声を上げることも、腰を浮かせることもしなかった。まっすぐに座って、エインの方を見ていた。いつも通りの、穏やかな顔で。
膝の上で重ねた指先だけが、互いを握りこんでいた。
「で、最後にセレナも――」
エインが、口を開いた。
「セレナを、俺の――」
そこで、声が途切れた。
エインの口は、次の言葉の形のまま止まっていた。セレナの顔を見たまま、瞬きもしない。
会場中が、続きを待った。宰相も、王族たちも、ハロルドさえも、壇上の少年が次に何を言うのかを待っていた。
エインは、何も言わなかった。
セレナの赤い目元を、ただ見ていた。
長い沈黙のあと、エインはがりがりと頭を掻いた。その拍子にずり落ちかけた王冠を、慌てて押さえる。
「……やっぱ、なし」
「な、なし、と申されますと……セレナ殿下を、ご養子とされるお話をでございますか」
「いや」
エインは首を振った。
「全部」
「……全部、と申されますと」
「全部。ハロルドのも、ベイルのも、ノレークのも」
「ルークだと言っ――」
「カイルのも、そっちの三人のも。全部なし。取り消し」
書記官が、ペンを持ったまま宰相の顔を見た。
「……だそうだ、兄上」
カイルが小さく肩をすくめた。
ほかの王族たちは、怒ればいいのか安堵すればいいのか分からない顔で、揃って椅子に沈み込んでいた。三人の王女だけが、互いの手を取り合っていた。
フレッドは、列の端を見た。
セレナの指先から、力が抜けていた。
◆
「……陛下」
宰相が、長い沈黙のあとで口を開いた。その声には疲労がはっきりと滲んでいた。
「では、改めてお伺いいたします。ハロルド・エルディスの処遇は、いかがなさいますか」
振り出しだった。
エインは傾いた王冠を指でつつきながら、ふう、と息をついた。
「……俺、王様やめるわ」
宰相の手から、処刑の書面が滑りかけた。
「……へ、陛下?」
「めんどいし。俺、手配消したかっただけだし、もう消えたし」
エインは頭の上の王冠を外し、指に引っかけてくるくると回した。
「だから、ベイルがやって。王様とか、そういうの向いてるだろ」
「お、お待ちください!」
宰相が、今日初めて声を荒らげた。
「ベイル殿下は、旧王家の血を引いておられます! 旧王家の起こした事件の直後に、その血筋の方を王位に就けては、国内外に示しがつきません! だからこそ陛下に――」
「え、でもさ。今の王様って、俺だろ?」
「は、はい」
「じゃあ、今の王家って俺じゃん。で、ベイルは俺の家族じゃないんだから、もう王族じゃないだろ」
宰相の口が、開いたまま止まった。
「ただのベイル。旧王家とか、もう関係ない。だから、今の王様の俺から、ただのベイルに王位を渡す。何か問題ある?」
問題しかなかった。
代わりに声を上げたのは、ベイル本人だった。
「――貴様」
ベイルは椅子から立ち上がっていた。
「人の家を、何だと思っている。息子にしたかと思えば取り消し、王族ではないと言ったかと思えば王になれ、だと? 王位を、用の済んだ道具のように――」
「あ、嫌ならいいよ」
エインはあっさりと言った。
「別に、ベイルじゃなきゃいけないわけじゃないし。他の人に頼むから」
「……何?」
「では」
すかさず、声が上がった。
宰相だった。先ほどまでの動揺が嘘のように一歩前へ進み出て、胸に手を当てている。
「僭越ながら、この私が、その任をお引き受けいたしましょう」
速かった。あまりにも速かった。
「あ、じゃあ宰相さんで」
エインは何の疑いもなく、王冠を宰相の方へ差し出した。
宰相の手が、それへ伸びる。
「待て待て待て待てッ!」
ベイルが壇上へ駆け上がり、宰相の指が届く寸前で王冠をひったくった。
宰相の指が、空を掴んだ。
「……何だよ。やりたくないんじゃなかったのか」
「そうは言っていない!」
ベイルは王冠を胸に抱え込んだまま、荒い息をついた。それから、宰相を一瞥した。宰相は空を掴んだ手をそっと下ろし、小さく咳払いをした。
ベイルは、その宰相を長いこと見ていた。
それから、エインへ向き直った。
「……父の後始末を、他人にさせるわけにはいかない」
怒鳴っていたときとは違う、低い声だった。
「俺がやる」
エインは黙って、ベイルの顔を眺めた。
「そっか。じゃ、あとは全部頼んだ」
それから、最前列のハロルドを顎で示した。
「そいつも、好きにしていいから」
ベイルの肩が強張った。
最前列で、ハロルドが顔を上げた。息子の名を呼ぼうとしたのか、唇がかすかに動いた。けれど、それが声になることはなかった。
ベイルは、父から目を逸らさなかった。
◆
エインは玉座から降りた。肩のマントの留め具を外し、近くの椅子の背へ放る。
壇を下り、最前列へ向かって歩いていく。貴族たちの視線が、その背中を追う。
エインは、列の端で足を止めた。
セレナの前だった。
セレナは椅子に座ったまま、エインを見上げた。
ついさっき、この人は自分を娘にしかけて、やめた。今度は何を言われるのか、セレナには分からなかった。
エインが、何か言いかける。
それから、ふいに踵を返した。
「……え?」
セレナが声を漏らしたときには、エインはもう壇上へ戻っていた。ずかずかとベイルの前まで歩いていき、その腕の中から王冠をひったくる。
「おい!?」
「ちょっと借りる」
「借りるとは何だ! たった今、お前が俺に――」
「へ、陛下!? まさか、譲位のお話まで取り消しに――」
「いや、俺もう陛下じゃないし」
宰相の悲鳴を背中で受け流し、エインは王冠を抱えてセレナの前へ戻ってきた。
両手で王冠を持ち、じっとそれを見下ろす。
エインの両手のあいだで、王冠が淡く光り始めた。
光は表面を這うように広がり、黄金の輪を包み込んでいく。硬い金属が蝋のように輪郭を失い、少しずつ細く縮んでいく。飾られていた宝石がひとつ、またひとつと沈み、最後に、青い石がひとつだけ残った。
「お、俺の王冠がッ……!」
壇上から、ベイルの悲鳴が上がった。
セレナは、それを遠くに聞いていた。
光がひときわ強く瞬いて、消える。
エインの掌の上に、指輪が一つ、載っていた。
細い金の輪だった。飾りらしい飾りはない。ただ、あの青い石が一粒、嵌め込まれていた。
「……王冠に、青いのがあったから」
エインが、ぽつりと言った。
「セレナの目の色」
セレナは、何も言えなかった。
エインは指輪を持ったまま、しばらく黙っていた。いつもなら、考えるより先に口が動く少年だった。
「えっと……俺、村に帰るんだけど」
そこで、声が一度途切れる。
「一緒に、来てほしい」
セレナが口を開きかけた。けれど、エインの言葉はまだ終わっていなかった。
「セレナのことが、好きなんだ」
言ってから、エインはふいと目を逸らし、そのままセレナの前に片膝をついた。
「だから、結婚してください」
大広間から、音という音が消えた。
セレナは膝の上から手を持ち上げ、差し出されたエインの手の下で、そっと掌を開いた。その上に、指輪が載せられる。
昨夜、この掌からブローチが離れていった。空になった掌には、いつまでもその形が残っていた。
今そこにある指輪は、見た目よりずっと重かった。
セレナはそれを摘まみ上げ、自分の手で、自分の指に嵌めた。青い石が、朝の光の中で小さく光る。
顔を上げると、跪いたままのエインと目が合った。今度は、エインも目を逸らさなかった。
「私も、エインさんが好きです」
声が、かすかに震えた。
それでも、セレナは微笑んだ。
「お友達からの、その先を――よろしくお願いします」
◆
魔法学校の正門は、昼下がりの陽に照らされていた。
表の通りには、村へ向かう馬車が一台停まっている。御者は荷台の荷物の具合を確かめ、馬は退屈そうに鼻を鳴らしていた。
見送りに出てきたのは、レオナルドと、フレッドと、イレーネの三人だった。それと向かい合うように、エインとセレナとアリアが門の外に立っている。
「――のう、エイン」
レオナルドが、白い髭を撫でながら口を開いた。
「本当に、戻ってくるつもりはないのかのう」
答えを待たずに、レオナルドは続けた。
「今さらお前さんが生徒に戻ると言うても、文句を言う者なぞ……」
そこで一度、言葉が途切れた。老人の目が、ちらりと校舎の方へ泳ぐ。
「……そこまでは、おらんじゃろう」
「いや、いいよ。学校で学ぶこと、もうないし。村に帰る」
「そうか」
レオナルドは、それ以上引き止めなかった。エインの顔を眺め、それから、ゆっくりと目を伏せた。
「……すまんかったのう」
「え、何が?」
「お前さんを、無理やり村から引っ張り出したのはワシじゃ。この学校で、正しく導いてやれると思うておった」
老人は、苦く笑った。
「じゃが結局、ワシは何もしてやれなんだ。退学に、解雇に、指名手配。果ては王城まで吹き飛んだ。導くどころか、振り回されてばかりじゃった」
「そんなことないって」
エインは、あっさりと首を振った。
「学校、結構よかったよ。フレッドとか、セレナとか、ほかにもいろんなやつに会えたし」
門の内側で、フレッドが小さく咳き込んだ。
「村にいたら、たぶん一生会ってなかったし。知らない魔法もいっぱい見れたし、村じゃできないことも、いろいろやったし」
エインは少しだけ言葉を探すように、空を見上げた。
「まあ、なんだかんだ。楽しかったよ」
エインは、レオナルドを見上げた。
「だから、連れ出してくれてありがとな。校長先生」
レオナルドは、しばらく何も言わなかった。
それから、皺の刻まれた顔いっぱいに笑った。
「……そうか」
白い髭が、小さく震えていた。
「そう言うてもらえるなら、あのとき村まで出向いた甲斐があったわい。……達者でな、エイン」
「おう。校長先生も」
レオナルドが一歩下がると、代わりにフレッドが前へ出た。
何か言おうとして、口ごもる。それから、少し照れくさそうに笑った。
「……寂しくなるね」
「え、なんで?」
エインは、きょとんと首を傾げた。
「なんでって……エイン君は村に帰るんでしょ。僕はまだ王都にいるし。そうそう会えなくなるし――」
「会えるよ。学校に転移陣、置いてあるし」
フレッドの表情が、固まった。
「……は?」
「俺の寮の部屋に。さっき置いてきた」
「さっき!?」
「ほら、ヴォルフ将軍からもらった緊急用の転移魔道具あったろ。あれ見てて、何回も使えたら便利じゃんって思って」
背後で、レオナルドが「……寮の部屋を何じゃと思うとるんじゃ」と呟いた。
「で、村にも置くから。そしたら繋がるし。研究もしたいし、ときどき遊びに来る」
エインは、当たり前のことのように言った。
「フレッドに会えないの、俺も寂しいし」
フレッドは、口を開けたまま動かなかった。
それから、両手で顔を覆った。
「……寂しいって言った僕の気持ち、返してよ」
「え、なんで?」
「いいよもう……」
顔を覆った手の隙間から、くぐもった声が漏れた。その声は笑っていた。
フレッドは手を下ろし、改めてエインを見た。
「……来るときは、ちゃんと声かけてね」
「おう。フレッドも遊びに来いよ」
「うん。行くよ」
フレッドが一歩下がると、セレナが前へ出た。門の内側に立つイレーネと、向かい合う。
「イレーネ」
セレナは少しだけ視線を落とし、それから顔を上げた。
「一緒に、来ませんか」
「いいえ」
迷いのない、静かな声だった。
「私は、ここでお見送りいたします」
「……どうして、ですか」
「セレナ様の隣には、もう、エイン様がいらっしゃいます。……私の役目は、ここまでです」
セレナは、首を振った。
「役目がなくなっても、イレーネは私の家族です」
イレーネは、すぐには答えなかった。
いつもの顔だった。冷静で、ほとんど感情を表へ出さない。けれど長く一緒にいたセレナには、その僅かな違いまで分かる。
ほんの少しだけ寄せられた眉。二人きりのときにしか聞いたことのない、僅かに柔らかくなった声。
それが、今はあった。
「……でしたら、今度は、セレナ様の方から会いにいらしてください」
セレナは、イレーネの袖をそっと摘まんだ。
「たくさん来ても、いい?」
「何度でも、お待ちしております」
セレナが笑うと、イレーネの口元も緩んだ。
それから、イレーネはエインへ向き直った。
「エイン様。セレナ様を、お任せします」
エインは、瞬きをした。
「任せるって……何すればいいんだ?」
イレーネは、目を細めた。
「そのままで結構です」
エインは少しだけ考えるような顔をして、それから、頷いた。
「任せろ」
馬車が動き出す。
門の前の三つの人影が、少しずつ遠ざかっていく。フレッドは大きく手を振り、レオナルドは穏やかに片手を上げていた。イレーネは門の前に立ったまま、まっすぐに馬車を見送っていた。
エインは一度だけ振り返って手を振ると、あとはもう前を向いていた。
角を曲がって見えなくなるまで、セレナは振り返っていた。
◆
【朗報】元引きこもりワイ、魔法学校から無事出所
100:元引きこもり転生者
というわけで王様をぶっ倒したワイは、新しい国王になって即退位して結婚して田舎に帰るのでした!めでたしめでたし!
101:名無しの転生者
ほんまむちゃくちゃしかしないなお前は
102:名無しの転生者
つーかなんでさらっと学校辞めたまま帰ってんの?
もともと無事に卒業するのが目標じゃなかった?
103:元引きこもり転生者
いやそれはほら、マッマが勉強してこいって言うから仕方なくて……
でも嫁さんもらえば田舎に帰る言い訳にもなるしちょうどええやろと思って……
104:名無しの転生者
は?まさかそんな理由で結婚したんか?
105:元引きこもり転生者
んなわけあるかい!結婚したかったからしたんや!
ヨッメが王都に残りたい言うたらワイももちろん残るつもりやったで!
それにしてもワイの嫁はかわええな。ほんま結婚してよかった
106:名無しの転生者
惚気うざ
107:名無しの転生者
リア充爆発しろ!
108:元引きこもり転生者
あとスレタイ見て気づいたけど、ワイもう元引きこもりちゃうな
109:名無しの転生者
何で?
110:引きこもり転生者
いやだって村帰ったらまた引きこもる予定だし
111:名無しの転生者
は?
112:名無しの転生者
いや仕事は?
113:名無しの転生者
嫁連れて帰ってくる引きこもりがおるか
114:引きこもり転生者
いやだって国王ぶっ倒した報奨金でアホほど金あるし。後はゆったりスローライフするわ
115:名無しの転生者
うーんこの
116:名無しの転生者
FIRE成功するの早すぎ!
117:名無しの転生者
散々スレ立てといて最終的にその結果かよ
118:名無しの転生者
まぁイッチらしいといえばらしいか……
119:引きこもり転生者
そういやスレではお前らにも色々助けてもらったな。サンガツ!
120:名無しの転生者
ええんやで
121:名無しの転生者
急に素直になったな
122:引きこもり転生者
ワイも成長したってことや。
ほなそろそろ村につく頃やし落ちるわ、またな
123:名無しの転生者
おつ
◆
ハテナ村は、何も変わっていなかった。
なだらかな丘と、畑と、点々と散らばる家々。どこかの家の煙突から、夕餉の支度の煙が赤く染まった空へ立ちのぼっている。
丘の上に、小さな家が一軒建っていた。古い木の扉と、少し傾いた郵便受け。窓辺には鉢植えが並んでいる。留守にしていた家の窓は、暗く静まり返っていた。
「着いたー」
エインが、大きく伸びをした。
セレナは、その家を見上げていた。王女として暮らしてきた部屋より、たぶん家全体の方が小さい。それでも、目を離せなかった。
エインが扉へ手を伸ばした。
「ちょっと待って」
アリアがその手を押しのけ、自分だけ扉を開けて、するりと中へ入っていった。扉が閉まる。
エインとセレナは、扉の前に取り残された。
家の中から、ぱたぱたと小さな足音が聞こえた。何かを動かす音。暗かった窓に、ぽっと灯りがともる。
やがて足音が止み、それきり静かになった。
しばらく待ってから、エインが焦れたように扉を開けた。セレナも、並んで敷居をまたぐ。
灯りのともった部屋の中で、アリアが二人を待っていた。
「お帰りなさい!」
セレナは一瞬、返す言葉に迷った。隣を見ると、エインもこちらを見ていた。
二人は顔を見合わせて、それから、笑った。
「「ただいま!」」