買い物を済ませてペンションに帰る頃には、午後六時を回っていた。山に囲まれているため日暮れが早く、空は黒いシルエットの向こうに夕焼けが見えるだけになっていた。
「おかえりなさい。お夕食の前にお風呂はいかがですか」
「そうします」
一階の奥にあるという貸切風呂は、基本は三十分、その後十分単位で借りられるということだった。しかし今日は他に客がいないので、適当に使って良いそうだ。
「お前も入るか」
「ムー?」
洗った時にも温水で気持ちよさそうにしていたから、風呂も好きに違いない。女将さんに面倒を見てもらおうかと考えていたが、せっかくなので一緒に行くことにした。
脱衣所で服を脱いで、ガラスの扉を開ける。少し湿った涼しい風が抜けていった。
「おお、露天風呂だ」
バルコニー同様、ここも景色を眺められるようになっている。周辺で一番高い場所にあるので、仕切りがなくても人目を気にしなくていい。
「ムーには熱いかな」
まずは身体を洗ってから、岩を組んで作られた浴槽の縁にそっとムーを下ろし、かけ湯をして温度を確かめてから足を入れた。
少し熱めで俺は好みだが、と思いながら、ゆっくり浸かる。
溢れた湯でムーの毛が濡れたものの、嫌がりはしなかった。
「洗面器にしようか?」
俺が足を伸ばして肩まで浸かれる広さの風呂だ。ムーにとっては深いので、溺れたりしないだろうかと心配した。
「ムー」
しかし本毛玉は問題ない、と言いたげに一鳴きして、風呂の縁からそろりと湯の中に入ってくる。
縁を蹴ったように見えたが、相変わらず手足は見当たらないのでどうやって動いているのかはわからない。
「ムー!」
気に入ったらしい。また顔を上にして、すいーっと水面を漂う。人間に例えるなら背泳ぎのような感じだろうか。
「意外と順応性が高いな……」
「ムー?」
ムーを見習わねばならないことはたくさんありそうだ。
しっかり温まって、頭に乗せたムーと自分の髪をまとめて風の魔術で乾かしながら出てくると、カウンターの前に人影があった。
「タキさん! おかえりなさい」
僕の顔を見るなり、リリーがパッと顔を輝かせる。
「ただいま……?」
おかえりと言われて反射的に答えてから疑問形になってしまったが、たぶんただいまでいいはずだ。
「どうしたんだ、こんな暗くなってから。何か用だった?」
「荷物置いて両親に挨拶もしたので、改めてお話聞きに来たんです!」
「ああ……」
そういえばそんなことを言っていた。グレンが窘めても、まだ諦めていなかったようだ。
「リリー、そんな風に押しかけたらご迷惑よ」
「でも、すぐグラニスに行っちゃうんでしょう? こんな機会もうないかもしれないし……」
勉強熱心なのは良いが、学生時代にしでかしたことを自分で話すのはちょっとした拷問だ。
サリがいたら、酒の肴に面白おかしく話しただろうに。
「ほら、もうお食事の時間だから。邪魔しないの」
「うう……」
そう、さっきからどこからともなくいい匂いがするのだ。
でも、せっかく訪ねてきてくれた後輩の頼みを無碍にするのも憚られる。
「食べながら少し話すくらいなら。大した話はできないけど」
「ありがとうございます!」
愛嬌のいい子だ。魔術師は陰気に思われやすいから、こういう子がいると少しはイメージも変わると思う。
食事は一階のダイニングスペースでとるようになっていた。
「リリーの夕飯は?」
「もう食べてきましたから、お気遣いなく」
と言って、配膳まで率先して手伝っている。
さすが酪農の村というべきか、畑の野菜を使ったサラダのほか、ミルクやチーズを使った料理が次々に並べられた。
角切りのトマトとクリームチーズの和え物、野菜がごろごろ入ったクリームシチュー、三角形のチーズビスケット。
そしてスキレットに入った肉やソーセージ、野菜の上に、目の前で大量のラクレットチーズがかけられた。
「パンもおかわりできますから、気軽に言ってくださいね」
そんなことを言われたらおかわりせねばならない気がしてくる。
「はい、これはムーちゃんの分」
テーブルの隅で運ばれてくる料理を眺めていたムーの前に、皿に盛られたスイートコーンが置かれた。
「ムー!」
ぴょんと小さく跳ねて喜びを表した。礼を言ったようにも見えた。
「こちらはタキさんの分です」
俺の前には、こんがりと焼色がついたコーンが一本丸ごと運ばれてきた。すでに香ばしい匂いがする。
「張り切ってたくさん作っちゃいましたけど、大丈夫かしら?」
「大丈夫だよ、タキさんいっぱい食べるもん」
おかしい、リリーには昼食しか見られていないはずなのに。
「と、とにかく、冷めないうちにいただきます」
「はい、召し上がれ」
慌ててラクレットに手を付けたら、熱くて口の中を火傷した。
こちらも村で作っているという太めのソーセージは、噛んだ瞬間に肉汁が溢れてきた。香草が入っているようで、爽やかな匂いがする。
「ムーちゃん、お皿から直接だと食べにくいでしょ。あたしが食べさせてあげる」
リリーが、コーンをスプーンで掬ってムーの口がありそうな辺りに近付けた。粒にぱくっと齧り付く。
「かわいいー!」
よし、この調子で俺に聞きたいことがあったことなんか忘れてくれ。
存在を薄くしながら頬張ったクリームシチューは、生クリームとバターの風味が濃くて、大きめの具にしっかりと味が染みていた。シンプルな美味しさだ。
「タキさんって、学生時代の魔術の勉強はどんなことをしてたんですか?」
忘れてくれなかった。
「どんなこと……? 授業の予習復習と、ゼミでの研究がメインだったけど。あとは週に魔術専門の家庭教師が一度来て、最新の論文とか図書館で読んだ内容の再現とか……」
「わあ」
何だろう、少し引かれた気がする。
「……それで、一般教科の勉強と剣術の練習もして、生徒会長してたんですよね?」
「うん」
生徒会長は父にやれと言われて立候補したら受かってしまっただけだ。武術の指南には、父の後輩で既に退官した元刑事が週に一度来てくれていた。
「大変じゃなかったですか?」
「今思うと、確かに無理してたことはあったかな……。でも、当時はそれが当然だと思ってたから」
さすがに窮屈だったので、一般教科だけでも家庭教師が必要ないと思わせて少しでも自由時間を手に入れるために、自主勉強は欠かせなかった。
「あたしも頑張らなくちゃ……」
リリーは根が真面目なようだ。
「俺の家がおかしいだけだから、あまり参考にしないで」
とてもじゃないが人に勧められるようなやり方ではない。
「周りに勧められることをやるのもいいけど、やりたいことがあるならそれを目指してもいいと思うよ。違うと思ったら、やり直せばいいんだから」
「やりたいことですか……」
他人の人生に無責任なことは言えないが、少なくとも、義務感で俺みたいにならないでほしい。
と思いながら、チーズビスケットを囓った。塩味が強くて美味い。確か今日寄った店にあった。明日追加で買おう。