せっかくもう一泊することになったので、さっそく貸切風呂を使わせてもらって汗を流した。
「広い風呂っていいな」
「ムー」
実家の風呂はそれなりに広いものの、精神的に窮屈だし、家族の目を気にして長風呂なんてできなかった。
そして首都は土地が余っていないので、住居の設備が全体的にコンパクトだ。自宅の風呂も例に漏れず狭い。
そもそも時間がもったいないとシャワーで済ませてばかりで、湯を溜めて使った覚えがほとんどない。
「次に引っ越すことがあったら、風呂の設備をちゃんと見よう」
人一人暮らすだけなんだから広い部屋は必要ないと切り捨ててきたが、ここに来て改めてゆとりのある環境の大切さを知ることになるとは。
「というか、ペットが飼える物件を探さないといけない?」
「ムー?」
俺はすっかりムーと暮らすつもりになっていた。湯気の中を漂う毛玉は、よくわかっていなさそうだ。
もし魔物だった場合、首都で飼うには審査が必要になる。そのためにも早く正体をつきとめなければ。
一息ついてからリリーの様子を見に行くと、ケーキの生地が焼き上がっていて、部屋全体にいい匂いが漂っていた。
「おかえりなさい! すみません、もう少しかかります。これから飾り付けなので」
「見ててもいい?」
「はい」
フルーツを挟んだスポンジ生地にせっせと生クリームを塗る姿は、活き活きとしていた。
使い終わった器具を洗っているグレンも、リリーの目が輝いているのを見て安心しているようだ。
キッチンに並ぶ調理器具はどれも手入れが行き届いていて、大切にしてきたことは一目でわかった。
「やりたい仕事か……」
改めて考えてみても、特に思いつかない。なにしろ、食べることが好きだと気付いたのもここ数日のことなのだ。俺はリリーよりも未熟だ。
やりたい仕事はわからなくても、幼い頃からの夢ならある。
「ホールのケーキ、一人で食べてみたかったんだよ」
テーブルに鎮座する円形のショートケーキを前に、俺は未だかつてないほど笑顔になっていた。
イチゴは旬から少し外れるので桃を中心にしたそうだが、柔らかい色合いでまた違った良さがある。
「いくらタキさんがいっぱい食べるって言っても、さすがにまるごとは厳しいんじゃ……」
「いや、行ける気がする」
直径は大体十五センチメートル、五号サイズというやつだ。ホテルバイキングで食べた量を考えたら、むしろ余裕があると言っていい。
切り分けもせず、絞った生クリームで飾られた端にフォークを突き刺した。
「本当に、ポスターと全然違うな……」
「クラスにも【瞬光魔術師】のファンの子いるのに。これは見せられないね……」
目の前で二人が呆れていても、気にしない。
「やっぱり、疲れたら甘い物だな」
口に入れた途端にクリームが溶け、甘さと香りが広がった。スポンジが軽めでクリーム自体は甘さが控えめなので、リリーの心配に反していくらでも食べられそうだ。
「お、美味しいですか?」
「うん、すごく」
完熟の桃の香りと甘さとクリーム、スポンジのバランスが絶妙だ。いいパティシエになれると思う。
「良かったあ。タキさんきっと美味しいものたくさん食べてるだろうから、自信なかったんです」
えへへと嬉しそうにはにかむリリーにまた妹を重ねて微笑ましく思っていたら、グレンがジトッと見てきた。嫉妬か。
これだけわかりやすかったら、村人たちはグレンの恋心のことも長年見守っているに違いない。
ちなみにホールケーキはきちんと全て平らげた。こうやって、小さな夢をひとつずつ叶えていくのも楽しいかもしれない。
***
しっかり休んだ翌朝は、またしてもムーに顔を突っ込んで目を覚ました。
「いつか俺の寝返りで潰されるぞ……」
「ムー」
日に日に毛艶が良くなっていく気がする毛玉は、丸い身体でシーツの上をころころと転がっていった。逃げるから大丈夫だと言いたいようだ。
布団の中には入ってこないので寒いわけではなさそうだが、添い寝がしたいのだろうか。
ずっと暗い屋敷に監禁されていたから、寂しいのかもしれない。
「そもそもお前、どこから来たんだ? 社会性がありそうだし、群れで暮らしてたんじゃないのか?」
「ムー?」
一瞬、暖かい日差しが降り注ぐ草むらに、大量の白い毛玉が集まって暮らしている様子を思い浮かべた。囲まれて寝たら安眠できそうだ。
「いや、現実逃避してる場合じゃない。今日こそグラニスに辿り着かなきゃ」
午後にエルダリス警察から調査が来るらしいが、鉢合わせると面倒くさそうなので、必要なことは親方に伝えて退散するつもりだ。
何かあったらサリが連絡してくるだろう。
ハンターたちと知り合えたおかげで、午前中にグラニス方面に出発する配送車に乗せてもらえるよう、昨日のうちに話がついていた。
「タキさん!」
乗せてもらう代わりに積み込みを手伝っていたら、リリーとグレンが走ってきた。
「二人とも、どうしたの。俺、何か忘れ物してた?」
「違います! 最後に挨拶したくて! 間に合って良かった!」
体力があるはずのグレンまで息切れしている。もしやペンションに俺を迎えに行って入れ違い、二人で坂道を全力疾走してきたのか。
「あの、いろいろとありがとうございました」
「大したことはしてないよ」
「いえ、タキさんのおかげです、全部……」
ほんの数日ともに過ごしただけなのに、リリーは目に涙を浮かべていた。グレンは何か言おうとして、結局良い言葉が思いつかなかったようで、目を泳がせた。
「別に最後でもないだろ。二人の夏休みが明けたら、今度は首都で会える」
その頃には俺も首都に戻っているはずだ。たぶん。
俺の言葉を聞いて、リリーはぽかんと口を開けた後、みるみるうちに満面の笑顔になった。
「はい! 一緒にスイーツ店巡りしましょうね!」
「いいな、それ。その時には妹も連れていくよ」
「妹さんですか?」
「ああ、ネネっていうんだ。今度高等部に入学するはずだから、もし見かけたらよろしく」
「わかりました。妹さんに会えるの、楽しみにしてます!」
思わぬところで歳の離れた友人ができた。首都から離れることばかり考えていたが、帰るのが少し楽しみになった。
積み込みを三人で手伝って、ようやくグラニスへと出発する。
荷台は乳製品と野菜でいっぱいなので、カルディナに来た時と違って今度は助手席だ。
魔導車が動き出すと、涼しい風が入ってきた。
窓から顔を出して後ろを振り返ると、リリーはまだ手を振っていた。
グレンはそんなリリーをちらりと見てから、俺の視線に気付いて小さく頭を下げた。