用意してもらった客室で一晩ゆっくり休み、翌朝は日の出と共に起きた。
と言っても、窓の外は相変わらず靄がかかっていて薄暗い。これでは住民たちの気分も鬱いでしまうし、農作物の収穫量にも影響しそうだ。おそらくこれも、月神が封印されているせいなのだろう。
「早くなんとかしないとな……」
「ムー……」
ムーも朝日に当たれなくて不満げだった。
里の人たちは盛大にもてなしてくれようとしたが、困窮している時に少ない物資を使わせるのは忍びないので断り、自分たちの生活を優先するように伝えた。
「さあ、参りますわよ!」
ハオリンも久々に実家で休んで、疲れはすっかり取れたようだ。いつにも増して気合いが入っている。
「祠まではどれくらい?」
「そう遠くありません。三十分もかかりませんの」
片道徒歩三十分はじゅうぶん遠いと思うのだが。山育ちは感覚が違った。
案内される道は傾斜がきつく、木や岩によって度々迂回していた。それでも道が階段状に整備されているおかげで、里に来た時に使った近道よりはずっと歩きやすい。月神が毎日のように里と祠を行き来するため、住民たちの手で常に保全されているのだそうだ。
しかし。
「また魔物が増えてきましたわね……」
ハオリンが、また魔物を一体切り伏せながら呟いた。
「ムー様を万全の状態でお連れするために、タキ様にもできる限り戦わないでいただきたいのに」
里を出た頃には薄曇り程度だった靄が祠に近づくほど濃くなり、その中から次々と魔物が出てくる。基本的にハオリンに任せてはいるが、群れで襲ってきた場合には俺も応戦せざるをえなかった。
「封印されてたって、一応ユエリヤ神に近づいてるんだから、むしろ減るものじゃないのか?」
「……里の皆様が言っていた、大きな魔物のせいかもしれませんの」
ハオリンが、また泣きそうな顔をしている。
「ムー」
ムーが俺の肩からハオリンの肩に飛び移り、一声鳴いた。
「ありがとうございます、ムー様。落ち込んだところで状況は変わりませんわね。急ぐだけですの」
そしてまた、飛び出してきた魔物を薙いだ。
「祠はあの門の先ですの!」
一際傾斜がきつくなった階段の上に、白い石の柱が見えた。ハオリンが門と言ったとおり、道の両側に一本ずつ建っていて門柱のように見える。
門をくぐると、拓けた場所に出た。広場の中心には三角形の屋根が特徴的な木造の小屋のようなものが建っている。
――周りに仕切りがあるわけでもないのに、なんとなく門の外よりも気温が下がったような気がした。
「ワンシュ様! ワンシュ様はおられませんか! ハオリンが戻りました!」
俺が息を整えている横で、ハオリンは精霊の名を呼ぶ。だが返事はなく、姿も見えない。
「そのワンシュ様って、どんな見た目なんだ?」
「ええと、真っ白でふわふわで、大きなワンちゃんのような方ですの」
腕を目一杯広げて大きさを表現しようとした。ハオリンが小柄なので実際にどれくらいなのかはわからないものの、とにかく大きいらしいということはわかった。
「犬? 兎族の里なのに?」
「ワンシュ様はユエリヤ様と一緒にいらっしゃいましたので、兎族とは関係ありませんのよ。でもワンシュ様の毛のお手入れは巫女の仕事で――」
と、話が脱線しかけたところで、地の底から響くような低いうなり声が辺り一帯に響き渡った。
「ムー!」
最初に気付いたのはムーだった。視線の方角に目を向けると、一際濃い靄の中に黒い巨大な影が見えた。
「何かいる」
潜んでいることに気付けなかったのは、靄のせいか。魔獣肉が纏っているものと似た魔力はずっと感じていたが、その中に長くいるせいで感覚が麻痺しかけていた。
「来ますの!」
ハオリンが構えたのとほぼ同時に、靄の中から影が飛び出してきた。
「例の魔獣か!」
建物よりも巨大な四つ足の獣がハオリンに飛びかかる。その爪は鋭く尖っていて、受けきれないと判断したハオリンは素早く飛び退いた。しかし着地した黒い魔獣は瞬時に方向を変え、今度は俺目がけて突っ込んでくる。
「【
ハオリンの剣よりも大きな黒く光る爪が、目の前で透明な壁に食い込んだ。
「【
動きを止めるべく放った雷は、獣の顔すれすれを掠めていく。
「避けた!?」
巨体に似合わない俊敏さで即座に俺から距離を取り、前傾姿勢で構えた。離れたことでようやく全貌が見え、首に金色の鎖が見えた。
「何だこいつ、普通の魔獣じゃない……」
動きから見て、おそらく知能はかなり高い。そして鎖を付けているということは、もしや人に飼われていたことがあるのか。
「その鎖……。まさか、ワンシュ様ですの?」
俺と同じところを見ていたらしいハオリンが、目を見開いていた。声が震えている。
「見覚えがあるのか?」
「ええ、あの鎖はユエリヤ様がワンシュ様に贈った、眷属の証ですの……」
「ってことは、魔物堕ちした精霊か。厄介だな……」
精霊は大気中の魔力を吸って生きているため、動物よりも周辺環境に影響されやすいと聞いたことがある。
そして漂っている靄の正体はおそらく汚染された魔力だ。
ワンシュは今まで月神の魔力を受け取っていたのだろうが、封印されたことで供給が絶たれ、靄の魔力を取り込むしかなくなってしまった。
「ワンシュ様、ハオリンです。おわかりになりませんの?」
ハオリンが呼び掛けながら一歩近づくと、姿勢を低くしてグルルと唸った。牙を剥いて威嚇し、その隙間から涎が落ちる。だが、先ほどのように襲ってはこなかった。
「戸惑ってる……?」
完全に魔物になってしまったのなら、なりふり構わずハオリンに飛びかかるはずだ。だがワンシュは、自身の中の何かと戦っているように見えた。
しかしそれも束の間、すぐに靄の中に退避し、こちらを攪乱するように木々の間を走り回り始める。
「ハオリン、俺が前に出る。ムーを任せていいか」
その気配から気を逸らさないようにしながら、ムーを差し出した。返事を聞くより早く、毛玉は心得たとばかりに自らハオリンの肩に飛び移る。
「え? でも……」
「無理だろ。あれがワンシュ様だってわかった上で、刃を向けることなんて」
「う……」
ハオリンは明らかに戦意を失っていた。先ほどの動きができる相手が、この隙を見逃すとは思えない。少しでも躊躇った瞬間、再び魔に呑まれたワンシュの爪が喉を切り裂くだろう。
「ムー、俺がワンシュ様の動きを一瞬止める。その隙に浄化できるか?」
もし月神の眷属としての記憶と性質が少しでも残っているのなら、元に戻る望みはある。ムーはやはり切り札だ。
「ムー!」
間髪入れずに鳴き返した。やってみる、という心強い返事だ。
「大丈夫。警察官っていうのは、殺すより捕まえる方が得意なんだ」
ついネネにやるようにわしわしと頭を撫でると、ハオリンはぽかんとした後、徐々に顔が赤くなった。
「年上ですわよ! 子ども扱いしないでくださいまし!」
「言い返せるなら大丈夫だな。ワンシュ様を助けよう」
「くー! わかりましたの! 覚えていらして!」
そして俺はハオリンとムーを背にして、靄の中の黒い影を見据えた。