里を見下ろせる崖際に、小さな人工物がひっそりと佇んでいた。
「あれが月神の祠?」
ネネが持っていた人形の家をもう一回り大きくしたくらいの木造の家が、石の台座に乗っている。一目で里全体に蔓延している靄の発生源がここだとわかるくらい、どす黒い煙のようになった靄がまとわりついていて、全貌が見えないほどだった。
「中に収められている鏡が、ユエリヤ様のお住まいなのですが……」
先に辿り着いたワンシュが、バフッと鳴いて靄を少し散らし、前足を上げて爪の先で祠に触れようとする。
しかしその扉は、バチンという音を立てて開けられることを拒んだ。
『見てのとおりの有様だ』
「ムー……」
まさにムーが廃墟に閉じ込められていた時と同じ効果だった。本毛玉も同じことを思ったようで、毛を逆立てた。
「……やっぱり、グロリアの結界魔術だ」
「あの蛇の方、本当にろくなことをしませんのね……」
ハオリンがため息をつく。
『しばらくは、私がこの黒い煙を払っていたんだが……。今は散らすだけでやっとだ』
ワンシュもフサフサの尻尾を力なく下げた。
「そもそもこの靄、何なんだ?」
魔物の気配がして落ち着かないし、祠にかけられた魔術を解析するにも視界が悪くて邪魔だ。人間には今のところあまり影響がなさそうだが、明らかに良くないものだとわかる。そんなものがどうして月神の祠にまとわりついているのか。
『どうやら、人間が使う術式が刻んであるらしい。魔物の術なら私にもなんとかできるんだが、人間の術は勝手が違う。結局、根っこを取り除けなんだ』
ワフッと言いながら、鼻先で台座を示す。そこには確かに、古代魔術の痕跡があった。
「何だこれ。転移魔術に似てる……けど、少し違う」
屈んで式に触れ、複雑な式を少しずつ読み解く。どうやら別の場所から何かを送り込む術のようだった。
「この、魔物由来に見える穢れた魔力をどこかから調達して、ここに転送してる……?」
「そんなことができますの?」
「できるから、やってるんだろうな」
そうして送り込んだ魔力によって大量の魔物を発生させ、守護精霊であるワンシュを魔物堕ちさせ、里を滅ぼそうとしたようだ。――考えたくはないが、ワンシュが完全に魔物になっていたら、彼自身が里を襲う未来もあった。
「もし里が滅びたら、月神教の信者がごっそり減ることになる。生き残ったって、神を疑う人が出てくる。……一番強固な、里の住民の信仰心を薄れさせるのが目的か?」
「なんてこと……!」
信仰心がそのまま神の力になるのであれば、殺すことはできなくても力を削ぐことはできる。取るに足らない存在になるまで弱体化させれば、グロリアが動きやすくなるというわけだ。
『うう、私としたことが……』
ワンシュもクゥンと弱々しく鳴いた。
『ムーと、タキと言ったな。なんとかできないか?』
「ムー!」
俺が答えるよりも早く、ムーが威勢良く返事をした。それから、
「ムー?」
肩から俺の顔を見上げ、できるよな、と言いたげに鳴いた。
「お前が閉じ込められてた時と同じならな」
神を封じたからには、エルダリスの廃墟にかけられていたものより数段上の強力な魔術だろう。
しかも転送魔術と封印魔術の二段構えだ。ご丁寧に、封印魔術に使う魔力を転送魔術で送り込んだ魔力で補うために、二つの式を絡めてある。
「はあ……。このご時世に、古代魔術を解除できる人間が偶然ここに来る確率ってどんなもんなんだろうな」
俺がそういう力を持つことが決まっていたから寵愛を受けたのか、寵愛を受けたことによって力を持つ運命になったのか。どちらにせよ、今俺がここにいるということは、この封印が俺に解除できるということに違いない。
「ムー、靄を払えるか」
「ムー」
俺の頼みに応えたムーが一鳴きして眩く光り、辺りが少し晴れた。
「ありがとう」
「ムー」
浄化してくれたおかげで、今封印の魔術を動かしている魔力も使えそうだ。よく見えるようになった祠の扉に手を触れ、俺は小さく呟く。
「【
逆算された魔術の式が音を立てて青白く光る。抵抗する力は術の強さに比例するため、押し返されないように追加の魔力を流し込んだ。
「だ、大丈夫ですの?」
ハオリンは思わずワンシュに抱きついている。
「大丈夫。もう壊れる」
大きく頷くのと同時に青白い式が力を失って黒ずみ、端から崩れていった。
「成功だ。たぶん、これで――」
さっそく祠の中を確認すべく、扉を開いた。その時だった。
「やっと出られたわあ!」
何やらフワフワとした声と共に、正面に鎮座していた正円の鏡から光が溢れ出した。
「うわ、眩し」
「ムー!」
俺は思わず手で庇を作って後ずさったが、ムーは逆に飛び出した。
「あら、なんて可愛らしい。あなたが助けてくれたの?」
「ムー」
白銀の光の中、いつの間にか立っていた白い服の女性がムーを受け止める。
「ユエリヤ様!!」
『ユエリヤ様! よくぞご無事で……!』
長いプラチナブロンドをなびかせる美しい女性に、ハオリンとワンシュが慌てて駆け寄った。
「二人とも、心配をかけてごめんなさいね。私に呼びかける声はずっと聞こえていたのよ」
ややタイトで露出の多い服は、兎族の民族衣装とは違う。ハオリンが月神は異国から来たと言っていたことを思い出した。
「ユエリヤさまぁ……!」
慈愛に満ちた微笑みを見るや否や、ここまでずっと泣くのを堪えていたハオリンの目から、様々な感情が交ざった涙が零れ落ちた。
「良かったですの! もうダメかと思って、わたくし……!」
ユエリヤ神に抱きつき声を上げて泣く姿は子どもにしか見えなかったが、彼女もいろいろと一人で抱え込んでいたのだろう。
「もう、大げさなんだから。でも、私のために動いてくれてありがとう。そちらの、エンブラちゃんの気配がするあなたも」
「えっ!?」
全てを見透かしているような瞳が急に俺を見て、思わずたじろいでしまった。その反応を見て、ユエリヤ神はにこっと目を細める。
それから、背後の崖を振り返った。
「里のみんなにもずいぶん迷惑をかけちゃった。まずはこの、気持ち悪い魔力をなんとかしなくちゃね」
崖の端まで歩いて行き、足元を見下ろした。靄に覆われた向こうに、彼女が愛する里があるはずだ。
「そーれっ!」
ユエリヤ神は指揮棒を振るように、人差し指を立てた両手を大きく振った。途端に黒い靄が白い光の波に飲まれる。浄化の光は、そのまま山の麓までを静かに包み込んでいった。
「綺麗……」
「すごいな……」
それはムーの光とは桁違いの、まさに神の所業と呼ぶに相応しい光景だった。