数ヶ月ぶりに外に出られたユエリヤ神は、里の人々に元気な姿を見せるのだと言って、徒歩三十分の復路に付いてきた。
ワンシュもユエリヤ神から力を分け与えられてすっかり元気になり、のっしのっしと後ろに続く。
「月見の里って、こんな所だったのか」
俺とムーはそのふかふかの背に揺られながら、ようやく山本来の景色を拝んでいた。さすがに疲れて地面に座り込んでいたら、ワンシュが乗せていってやると申し出てくれたのだ。
「美しい場所だって言いましたでしょう?」
「ああ、確かに」
「ムー!」
快晴の青空から日光が降り注ぐ里は、初めて来た時と違って遠くまで見渡せる。山の斜面を利用した階段状の田畑が広がり、水路を流れる水は底を泳ぐ魚がはっきりと見えるほど澄んでいた。
その中を、里の人々が笑顔で歩いている。
子どもがトンボを追いかけて走り出し、こちらを見た。
「ユエリヤ様だ!」
その声を聞きつけて、仕事に勤しんでいた大人たちが続々と俺たちに気付く。
「ワンシュ様もいるぞ!」
「ご無事だったんだ!」
「おーい! ヒカリヌシ様がユエリヤ様を助けてくださったぞ!」
耳が良い兎族は、全員に噂が広まるまで一瞬だった。
里長に無事と成功を報告しに行くと、そのまま屋敷の庭で宴会の準備が始まってしまった。
設営をしている人たちに振る舞われている具だくさんの味噌汁を昼食がわりに分けて貰い、にわかに活気づく様子を縁側から眺める。
「まだ、そんなに余裕はないんじゃ……」
今度こそ俺とムーの歓迎も兼ねるつもりだと聞いて、少ない備蓄を消費しないでほしいと申し出たものの、ハオリンは首を振った。
「こういう時こそ、盛大にお祝いしますの! これから実りの季節ですし、少しくらい大丈夫ですわよ」
後から知ったことだが、兎族は満月の夜ごとに酒盛りをするくらい祭り好きらしい。そして巫女は里で起きたあらゆることを記録するのも仕事の一つなのだとか。
「今回の月神封印事件についても、お二方についても、しっかりと後世に残しますの」
するとユエリヤ神もころころと笑った。
「きっとこれから毎年、里が蘇った記念のお祭りをすることになるんじゃなあい?」
「ええ……?」
『良いではないか。祝い事はいくらあっても構わぬ』
ワフッと太い尻尾を振ったワンシュを見て、俺はふと気になった。
「……祭りってことは、里の皆さんがユエリヤ様とワンシュ様を拝みにきますよね?」
「もちろん。我が家の庭に舞台を建設中ですの」
それを聞いて、俺は提案する。
「……ワンシュ様、シャンプーしませんか?」
『しゃんぷー?』
薄汚れた白い毛を気にもせず、ワフ? と首を傾げる姿は、いよいよ犬だった。
ワンシュを洗うことにしたはいいものの、ムーと違ってこの大きな身体を入れられる水桶などない。どうやって洗おうかと思っていたら、なんと里には温泉施設があるという。
魔物の数が増えてからは閉鎖しており、これから湯を張ると言うので、その前に場所を貸してもらうことにした。
「よし、やろう」
里長に汚れてもいい服はないかと聞いて借りたバスローブのような服に着替えて、袖が落ちてこないようにハオリンに紐で縛ってもらった。
それから、ハオリンと一緒にワンシュの毛をブラッシングする。見た目は犬でも一応精霊なので、抜け毛がないのは幸いだ。
「なかなかやりますわね」
「こういうのは慣れてるんだ」
「くー! 一つくらい勝ちたいですの」
学生時代のアルバイトを思い出しながら丁寧に毛玉を解していたら、何故か対抗意識を燃やされた。
それから鞄を漁り、ガラス瓶の容器を取り出す。ムーに出会った日にセルジオに調達してもらった、ペット用シャンプーだ。
『何だ、それは』
タオルを使ってせっせと泡立てている俺の背後から、ワンシュが覗き込む。
「ムー」
肩に乗っているムーが、ワンシュに向かって鳴いた。
『我々の毛を洗うための洗剤? ほう……』
どうやらワンシュにはムーの言葉がきちんと伝わっているらしい。というか、ムーはそういうことも理解していたのか。思っていた以上に賢い。
「面白そうねえ。私も参加していいかしら?」
手を泡まみれにして、手首で額の汗を拭っていたら、里の人々に囲まれていたユエリヤ神が浴室にひょっこり現れた。
「ユエリヤ様!? ワンシュ様のお世話なら、わたくしが……」
「いいのいいの。それよりハオリン、里長が呼んでいたわよ」
「本当ですか。では、失礼いたします」
入れ替わりに出て行くハオリンを見送り、何をするにも楽しそうなユエリヤ神に犬の洗い方を教えつつ、二人がかりで巨体を隅々まで洗った。
「ワンシュ、どう? 気持ち良い?」
『とても!』
彼らがいつからこの里にいるのか知らないが、反応を見るにシャンプーは初めての経験のようだ。
「水浴びはよくしているし、毛並みは巫女が整えてくれていたけれど、こうやって洗うといいのねえ」
「穢れにあてられてからは、水浴びもしてなかったんじゃないですか?」
『うむ……。よもやここまで汚れていようとは……』
足元に滴る水が茶色く濁っているのを見て、ワンシュは少し落ち込んでいた。
長毛を念入りに絞っているところで、案の定ワンシュがぶるぶると身体を振った。
『はっ! も、申し訳ございません』
やってしまってから俺とユエリヤ神がびしょ濡れになっていることに気付き、しおしおと頭を下げる。
「うふふ、ハオリンも、あなたの水浴びの後にはよくびしょ濡れになっていたわね」
「クゥン」
強い力を持つ精霊も、本能には抗えないようだ。
持ってきてもらった大量のタオルで水気を取ってから、魔術で一気に乾かしながらもう一度ブラッシングする。
「面白ーい」
ユエリヤ神は俺が使う温風の魔術を真似して、反対側から乾かすのを手伝ってくれた。どうやらこの女神、人の真似をするのが好きらしい。
『これは良いものですな』
つやつやの真っ白な毛並みを取り戻したワンシュは、気持ちよさそうにされるがままだ。
「ワンシュ様も、光の精霊なんですか?」
日光の下で輝く姿はうっすら発光しているように見えた。その頭の上に乗るムーとそっくりだ。
『ああ、ユエリヤ様に仕える前はそうだった』
「私もよ。もう、ずっとずっと昔のことだけど」
「え!? じゃあ、ユエリヤ様も昔はこんなだったんですか!?」
「ムー」
思わず毛玉を指差したら、こんなとは何だと抗議してきた。
「そうねえ。よく覚えてないけれど、ムーくんと同じように人間の肩に乗ってあちこち旅していたから、そうだったんじゃないかしら?」
だから、その加護を受けているハオリンにもムーが初めから友好的だったのか。
「てことは、『ヒカリヌシ様』がユエリヤ様?」
「それは別の個体ね。私がここに来たずーっと後、大きな龍を追って、山を登ってきたの。あの子の『親友』からも、あなたみたいにエンブラちゃんの匂いがしたわ」
懐かしむように目を細める。
「エンブラ神とは、親しいんですか」
「ええ、仲良しよ。毎年一緒にお酒を飲むくらい」
「毎年!?」
思っていたより近い関係だった。
「ソリオンくんと三人でね。人がお供えしてくれたお酒を持ち寄って、飲み比べするの」
飲み友達ということは対等な関係に違いない。慌てて本題に迫った。
「じゃ、じゃあ、俺にかかってるエンブラ神の寵愛を解いたり、上書きしたりすることは……」
「それはできないわねえ。横取りするつもりかって、エンブラちゃんに怒られちゃうもの」
そんな獲物みたいに。もしや彼らにとっては、寵愛や加護を与えた者たちが繰り広げる様々な出来事が、酒の肴になっているのか。
「でも、助けてくれたのに何もしないっていうのもねえ。……そうだわ。ムーちゃんに私の加護をあげる。それくらいならきっと大丈夫よ」
そう言うと、ユエリヤ神はワンシュの頭にいたムーをひょいと持ち上げ、目の上辺りにそっと口づけを落とした。
「ムー!」
途端にムーの身体がきらきらと輝き、すぐに元どおりになった。
「あなたたちのこれからの旅が、楽しくありますように」
どちらかというと、平穏を願ってほしかった。やはり神に祈りは通じない。