剣を愛し、剣に生き、剣に死んだ男



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剣士の人生

 ◆

 

 朝靄が立ち込める森の中で、剣士は愛剣を抜いた。

 

 刃が朝露を弾く。

 

 その輝きに剣士の瞳は恍惚とした光を宿した。

 

 柄を握る手に、剣の鼓動が伝わってくる。

 

 そう、剣士にとって剣は生きていた。

 

 鋼の中に宿る魂を、剣士だけが感じ取ることができる。

 

「また朝から剣の手入れ?」

 

 勇者が呆れたような声を上げる。

 

 赤い髪を後ろで束ね、革の鎧に身を包んだ勇者は、既に出発の準備を整えていた。

 

 剣士は答えない。

 

 ただ柔らかい布で刃を拭き上げていく。

 

 一筋の曇りもない刃に自分の顔が映る。

 

 その顔は恋する者のそれだった。

 

 聖女が焚き火に薪をくべながら苦笑した。

 

「もう三時間も磨いているわよ」

 

 白いローブに身を包んだ聖女の金の髪が、朝日を受けて輝いている。

 

 その美しさに気づかない男などいないだろう。

 

 剣士を除いては。

 

 賢者は魔導書から顔を上げることもなく呟く。

 

「恋人みたいなものね、あの剣は」

 

 黒いローブの賢者は、その鋭い洞察力で真実に最も近いところにいた。

 

 その言葉に剣士の手が一瞬止まった。

 

 恋人。

 

 違う。

 

 これは恋などという生温いものではない。

 

 剣士にとって、この剣こそが全てだった。

 

 信仰にも似た、絶対的な愛。

 

 それが剣士と剣を結びつけていた。

 

 鋼の冷たさ。

 

 研ぎ澄まされた刃の美しさ。

 

 戦いの中で見せる残酷なまでの切れ味。

 

 全てが愛おしい。

 

 剣士の指が刃の腹を撫でる。

 

 ひんやりとした感触が指先から全身に広がっていく。

 

 この感覚。

 

 他の何にも代えがたい。

 

「出発するわよ」

 

 勇者の声に、剣士はゆっくりと剣を鞘に納めた。

 

 鞘に収まる瞬間の、あの微かな金属音。

 

 それすらも剣士の心を震わせる。

 

 完璧な調和。

 

 剣と鞘が一つになる瞬間の美しさ。

 

 剣士は立ち上がり、剣を腰に差した。

 

 その重みが心地よい。

 

 常に共にある証。

 

 魔王城への道のりは長い。

 

 だが剣士にとって、それは剣と共に過ごせる至福の時間でもあった。

 

 歩くたびに剣が揺れ、太腿に当たる。

 

 その感触すらも愛おしい。

 

 森を抜け、草原を横切る。

 

 風が吹くたびに、剣の鞘が腰で揺れる。

 

 まるで剣が風と戯れているようだった。

 

「ねえ、剣士」

 

 聖女が並んで歩きながら話しかける。

 

「その剣、特別なものなの?」

 

 剣士は少し考えてから、小さく頷いた。

 

 特別。

 

 そんな言葉では表現しきれない。

 

「どんな風に?」

 

 聖女の好奇心に満ちた瞳が剣士を見つめる。

 

 剣士は腰の剣に手を置いた。

 

 この剣との出会いは十年前。

 

 まだ駆け出しの傭兵だった頃、ある廃墟で見つけた。

 

 埃にまみれ、錆に覆われていた剣。

 

 誰もが見向きもしなかった。

 

 だが剣士には分かった。

 

 その錆の下に眠る、真の輝きが。

 

 三日三晩かけて錆を落とし、刃を研いだ。

 

 そして現れたのは、この世のものとは思えない美しさだった。

 

 波紋のような刃文。

 

 完璧なバランス。

 

 そして何より、手に取った瞬間に感じた一体感。

 

 これだ、と剣士は確信した。

 

 運命の出会いとは、このことを言うのだと。

 

「聞いてる?」

 

 聖女の声で現実に引き戻される。

 

 剣士は小さく頷いただけで、それ以上は語らなかった。

 

「もう、つれない人」

 

 聖女が頬を膨らませる。

 

 その仕草は愛らしかったが、剣士の心を動かすことはなかった。

 

「魔物よ!」

 

 賢者の警告と同時に、剣士は前に出た。

 

 巨大な熊型の魔物が唸り声を上げている。

 

 黒い毛皮に覆われた体躯は、軽く三メートルを超えていた。

 

 剣士は剣を抜いた。

 

 抜刀の瞬間、世界が変わる。

 

 音が消え、時間が緩やかになる。

 

 剣と一つになる感覚。

 

 陽光を受けて煌めく刃。

 

 美しい。

 

 何度見ても、この瞬間に心が震える。

 

 魔物の爪が振り下ろされる。

 

 剣士は最小限の動きでそれを躱し、横薙ぎに一閃した。

 

 刃が肉を断つ感触。

 

 骨を断ち切る手応え。

 

 血飛沫が舞う。

 

 剣が魔物の肉を切り裂く感触が、柄を通じて手に伝わってくる。

 

 剣が喜んでいる。

 

 その本来の役目を果たせることに。

 

 この瞬間のために生きている。

 

 剣が剣として最も輝く瞬間。

 

 それを感じるために。

 

 魔物が断末魔の叫びを上げて倒れる。

 

 剣士は血に濡れた刃を見つめた。

 

 鮮血に濡れた刃は、妖艶な美しさを放っていた。

 

 まるで化粧を施された美女のように。

 

「怪我は?」

 

 聖女が駆け寄ってくる。

 

 剣士の左腕には深い爪痕があった。

 

 肉が裂け、血が流れている。

 

「治療するから」

 

 聖女の手が傷口に触れる。

 

 温かい癒しの光が傷を塞いでいく。

 

 聖なる力が剣士の体を巡る。

 

 だが剣士の目は、ただ剣に注がれていた。

 

 刃についた血を丁寧に拭き取る。

 

 一滴も残さず、優しく、愛おしむように。

 

「ありがとう」

 

 聖女がそう言った。

 

「私たちを守ってくれて」

 

 剣士は首を横に振る。

 

 守ったのではない。

 

 ただ剣に、その本来の仕事をさせたかっただけだ。

 

「でも、結果的に私たちを守ってくれたでしょう?」

 

 聖女が微笑む。

 

 その笑顔は、多くの男を虜にしてきたに違いない。

 

 純粋で、優しく、そして少し寂しげな笑顔。

 

「あなたって、本当に優しいのね」

 

 剣士は答えない。

 

 優しさなど持ち合わせていない。

 

 ただ剣への愛があるだけだ。

 

 ◆

 

 夕暮れ時、一行は小さな村にたどり着いた。

 

 宿屋は一軒しかない。

 

「部屋は二つしか空いてないって」

 

 勇者が宿の主人と話して戻ってくる。

 

「私と聖女と賢者で一部屋、剣士で一部屋ね」

 

 賢者が肩を竦める。

 

「まあ、しょうがないわね」

 

 夕食は質素なものだった。

 

 固いパンと薄いスープ、それに少しの干し肉。

 

 だが旅の空の下で食べる野営の食事に比べれば御馳走だ。

 

「明日には峠を越えるわ」

 

 勇者が地図を広げる。

 

「そうすれば、魔王城まであと一週間」

 

 聖女が不安そうに呟く。

 

「本当に、私たちだけで魔王を倒せるかしら」

 

「大丈夫よ」

 

 賢者が魔導書をめくりながら答える。

 

「私たちには勇者の聖剣があるし、私の魔法もある」

 

「それに剣士もいる」

 

 勇者が剣士を見る。

 

「ね?」

 

 剣士は小さく頷いた。

 

 魔王など、どうでもいい。

 

 ただ、最強と謳われる敵と剣を交えられる。

 

 それだけで十分だった。

 

 夜。

 

 宿屋の一室で、剣士は剣を膝に乗せていた。

 

 月光が窓から差し込み、刃を青白く照らす。

 

 月の光を受けた剣は、昼間とはまた違った美しさを見せる。

 

 神秘的で、どこか妖しい輝き。

 

 剣士は指先で刃の平を撫でた。

 

 冷たい。

 

 硬い。

 

 そして限りなく美しい。

 

 剣士の体温が刃に移っていく。

 

 だが剣は決して温まらない。

 

 永遠に冷たいまま。

 

 それがいい。

 

 人肌の温もりなど、剣には似合わない。

 

 唇を刃に近づける。

 

 金属の味がした。

 

 鉄と、かすかに血の味。

 

 昼間の戦いの名残だろうか。

 

 舌先で刃の表面をなぞる。

 

 危険な行為だ。

 

 少しでも力加減を誤れば舌を切る。

 

 実際、剣士の舌には無数の小さな傷があった。

 

 だがその緊張感すらも愛おしい。

 

 剣に傷つけられることすら、愛の証のように思える。

 

 扉を叩く音がした。

 

 剣士は舌を引っ込め、剣を脇に置いた。

 

「入っていい?」

 

 勇者の声だ。

 

 剣士は立ち上がり、扉を開けた。

 

 勇者は薄い寝間着姿で立っていた。

 

 赤い髪を下ろし、いつもの凛々しさとは違う、女性らしい柔らかさを見せている。

 

「眠れなくて」

 

 勇者が部屋に入ってくる。

 

 賢者の寝息を確認してから、剣士の近くに座った。

 

「明日から峠越えでしょう?」

 

 勇者が窓の外を見る。

 

「危険な道のりになるわ」

 

 剣士は頷く。

 

 峠には獰猛な魔物が多い。

 

 剣にとっては良い相手だ。

 

 勇者の視線が床に置かれた剣に向けられる。

 

「本当に大切にしているのね」

 

 剣士は頷いた。

 

 大切。

 

 そんな言葉では足りない。

 

「いつから?」

 

 勇者の問い。

 

 剣士は少し考える。

 

 いつからだろう。

 

 気がついた時には、既に剣が全てだった。

 

「私たちのことは?」

 

 勇者の問いに、剣士は沈黙で答える。

 

 仲間。

 

 それ以上でも以下でもない。

 

「そう……」

 

 勇者は寂しそうに微笑んだ。

 

 月光が勇者の横顔を照らす。

 

 美しい横顔だった。

 

 多くの男が恋をするだろう。

 

「でも、いつか振り向いてくれるかもしれないでしょう?」

 

 勇者の手が剣士の手に触れる。

 

 温かい。

 

 人の温もり。

 

 だが剣士には、それは不要なものだった。

 

 剣士は窓の外を見た。

 

 月が雲に隠れていく。

 

「あなたの過去を知りたい」

 

 勇者が囁く。

 

「どうして剣を、そんなに愛するようになったの?」

 

 剣士は目を閉じた。

 

 過去。

 

 あの女は幼い俺を捨てたが、俺は剣を捨てたりはしない。

 

 そんな事を思う剣士。

 

 瞳に一瞬影が差す。

 

「聞かせて」

 

 勇者が促す。

 

 だが剣士は首を振った。

 

 過去など、もはやどうでもいい。

 

「──そっか、厭な事を聞いちゃってごめんね。おやすみなさい」

 

 勇者が立ち上がる。

 

 扉の前で振り返った。

 

「でも、諦めないから」

 

 勇者が部屋を出て行く。

 

 剣士は再び剣を手に取った。

 

 月は完全に雲に隠れ、部屋は闇に包まれた。

 

 だが剣士には見える。

 

 闇の中でも、剣の輝きが。

 

 人の温もりなど要らない。

 

 この冷たい鋼の感触だけがあればいい。

 

 ◆

 

 翌朝、一行は峠に向かって出発した。

 

 山道は険しく、足場も悪い。

 

「気をつけて」

 

 賢者が杖で足場を確かめながら進む。

 

「この辺りは岩竜の縄張りよ」

 

 岩竜。

 

 峠に棲む強大な魔物。

 

 その鱗は岩のように硬く、並みの剣では傷一つつけられないという。

 

 剣士の手が剣の柄に触れた。

 

 試してみたい。

 

 この剣なら、きっと。

 

 突然、地面が揺れた。

 

「来るわ!」

 

 賢者の叫びと同時に、岩肌から巨大な竜が姿を現した。

 

 全長十メートルはあろうかという巨体。

 

 灰色の鱗が朝日を受けて鈍く光る。

 

「散開!」

 

 勇者の指示で、一行は散り散りになる。

 

 岩竜が咆哮を上げた。

 

 その声は山全体を震わせる。

 

 剣士は剣を抜いた。

 

 いつもの感覚。

 

 世界が研ぎ澄まされていく。

 

 岩竜の動きが、手に取るように分かる。

 

 尾を振るってくる。

 

 剣士は跳躍してそれを避け、竜の背に飛び乗った。

 

 剣を振り下ろす。

 

 硬い。

 

 だが、確かに刃が通った。

 

 鱗が砕け、血が噴き出す。

 

 剣が喜んでいる。

 

 強敵と渡り合える喜び。

 

 竜が身を捩って剣士を振り落とそうとする。

 

 剣士は剣を鱗に突き立てて体を支える。

 

「無茶よ!」

 

 聖女の声が聞こえる。

 

 だが剣士には関係ない。

 

 剣が活きている。

 

 それだけで十分だ。

 

 勇者の聖剣が竜の脇腹を切り裂く。

 

 賢者の雷撃魔法が竜の頭部に炸裂する。

 

 聖女の防御結界が仲間を竜の攻撃から守る。

 

 そして剣士は、ただ斬り続けた。

 

 硬い鱗を、厚い皮を、強靭な筋肉を。

 

 剣が全てを切り裂いていく。

 

 この感触。

 

 この手応え。

 

 生きている。

 

 剣も、自分も、今この瞬間を生きている。

 

 竜が最後の咆哮を上げて崩れ落ちた。

 

 剣士は竜の死骸から飛び降りる。

 

 剣は竜の血に濡れ、赤黒く染まっていた。

 

「すごい……」

 

 聖女が息を呑む。

 

「あんな戦い方、見たことない」

 

 賢者も驚きを隠せない。

 

「まるで死を恐れていないみたい」

 

 死。

 

 剣士にとって、それは恐れるものではなかった。

 

 剣と共にあれば、死すらも美しい。

 

「怪我は?」

 

 勇者が心配そうに剣士を見る。

 

 剣士の体は傷だらけだった。

 

 竜の爪が掠めた跡、鱗で切れた傷、無数の打撲。

 

「すぐ治療するわ」

 

 聖女が駆け寄る。

 

 その手から温かい光が溢れ、傷を癒していく。

 

 剣士は治療を受けながらも、剣から目を離さない。

 

 竜の血に濡れた剣を、愛おしそうに見つめている。

 

 旅は続く。

 

 山を越え、谷を渡る。

 

 魔物との戦いは日常となった。

 

 剣士は常に最前線に立つ。

 

 森の中で出会った人食い花。

 

 巨大な花弁が開き、毒の花粉を撒き散らす。

 

 剣士は息を止め、一気に距離を詰めた。

 

 剣が茎を断ち切る。

 

 緑の体液が噴き出し、花は断末魔の震えと共に枯れていく。

 

 沼地で遭遇した大蛇。

 

 全長二十メートルはある巨体が、泥の中から突如として現れた。

 

 剣士は大蛇の口の中に飛び込み、内側から切り裂いた。

 

 危険極まりない戦法。

 

 だが剣にとっては、これ以上ない活躍の場だった。

 

 廃墟で待ち受けていたアンデッドの群れ。

 

 腐った肉から悪臭が漂い、蛆が湧いている。

 

 剣士は嫌悪感など微塵も見せず、ただ斬った。

 

 腐肉を斬る感触も、剣にとっては経験の一つ。

 

「無茶をしすぎよ」

 

 賢者が傷だらけの剣士に言う。

 

 夜、焚き火を囲んでの会話だった。

 

「このままじゃ、魔王城に着く前に倒れるわ」

 

 剣士は肩を竦めるだけだ。

 

 倒れても構わない。

 

 剣と共に戦えるなら。

 

「どうしてそこまで」

 

 賢者が首を傾げる。

 

「理解できないわ」

 

 理解される必要はない。

 

 剣士と剣の関係は、二人だけのものだから。

 

 戦わなければ、剣はただの鉄の塊になってしまう。

 

 それは耐えられない。

 

 剣は戦うために生まれた。

 

 人を斬るために、魔物を倒すために作られた。

 

 その本質を発揮させることこそが、剣への愛の証明だった。

 

「あなたにとって、私たちは何?」

 

 賢者の瞳が焚き火に照らされて揺れる。

 

 剣士は少し考えてから、口を開いた。

 

「仲間」

 

 それだけだった。

 

「それだけ?」

 

 賢者が苦笑する。

 

「つれないのね」

 

 剣士は焚き火に薪をくべる。

 

 火の粉が舞い上がり、夜空に消えていく。

 

「でも、嫌いじゃないわ」

 

 賢者が呟く。

 

「そういう一途なところ」

 

 一途。

 

 確かにそうかもしれない。

 

 剣士の愛は、ただ剣にのみ向けられている。

 

 ◆

 

 ある夜、賢者が剣士の天幕を訪れた。

 

「話があるの」

 

 賢者は剣士の向かいに座る。

 

 剣士は剣を磨く手を止めない。

 

 月光を受けて、刃が青白く輝く。

 

「あなたの剣術の秘密を知りたいの」

 

 賢者の瞳が月光に光る。

 

 知識欲に満ちた、探究者の目。

 

「どうしてそんなに強いの?」

 

 剣士は手を止めた。

 

 強さ。

 

 それは技術の問題ではない。

 

 愛の問題だ。

 

 剣を道具として見る者に、真の強さは宿らない。

 

 剣と一つになること。

 

 剣の望みを理解し、それに応えること。

 

 剣が斬りたがっている角度を察知し、剣が求める速度で振るう。

 

 それができれば、自然と強くなる。

 

「教えてくれる?」

 

 賢者が身を乗り出す。

 

 その瞳には、剣術への興味以上のものが宿っていた。

 

 女としての興味。

 

 剣士のような男に惹かれる自分への戸惑い。

 

 剣士は首を振る。

 

 教えられるものではない。

 

 これは理屈ではなく、感覚の問題だから。

 

「そう……」

 

 賢者は立ち上がる。

 

 黒いローブが揺れる。

 

「でも、あなたのことをもっと知りたい」

 

 賢者の手が剣士の頬に触れる。

 

 冷たい手だった。

 

 魔法使いの手。

 

「私じゃ、ダメ?」

 

 剣士は賢者の手をそっと外した。

 

 申し訳ないとは思う。

 

 だが、心に偽ることはできない。

 

 賢者が天幕を出て行く。

 

 その後ろ姿に、諦めきれない想いが滲んでいた。

 

 剣士は剣を抱きしめた。

 

 お前だけが分かってくれる。

 

 お前だけが必要だ。

 

 剣は何も答えない。

 

 ただ月光を反射して、静かに輝いているだけ。

 

 それでいい。

 

 剣は語らない。

 

 だからこそ美しい。

 

 ◆

 

 ある日、一行は大きな街に到着した。

 

 魔王城まであと三日の距離。

 

 最後の補給地点だった。

 

「今夜は豪華に行きましょう」

 

 勇者が提案する。

 

「最後の晩餐になるかもしれないし」

 

 縁起でもない、と聖女が眉をひそめる。

 

 だが確かに、魔王との戦いを前に英気を養う必要はあった。

 

 街一番の宿屋に部屋を取る。

 

 久しぶりの柔らかいベッド、温かい風呂。

 

「極楽ね」

 

 賢者が湯上りの顔で微笑む。

 

 夕食は豪華だった。

 

 肉料理、魚料理、新鮮な野菜、上質なワイン。

 

「乾杯」

 

 勇者がグラスを掲げる。

 

「魔王討伐の成功を祈って」

 

 剣士も形だけグラスを合わせる。

 

 酒は飲まない。

 

 剣を振るう感覚が鈍るから。

 

「剣士は本当に酒を飲まないのね」

 

 聖女が不思議そうに見る。

 

「一滴も?」

 

 剣士は頷く。

 

 酒に酔うより、剣に酔う方がいい。

 

 食事の後、剣士は自室に戻った。

 

 剣を抱えて窓際に座る。

 

 街の灯りが剣身に映り込む。

 

 美しい。

 

 いつ見ても、どんな時でも美しい。

 

 扉が開いた。

 

 振り返ると、聖女が立っていた。

 

「入ってもいい?」

 

 剣士は頷く。

 

 聖女は剣士の隣に座った。

 

 白いドレスに着替えている。

 

「明日には魔王城ね」

 

 聖女の声は震えていた。

 

 恐怖だろうか。

 

「怖いか?」

 

 剣士が尋ねる。

 

 珍しく、自分から口を開いた。

 

 剣士は以前、彼らを仲間だと言った。

 

 そう、仲間なのだ。

 

 捨て駒ではない。

 

 剣士には余り人間への情はないが、仲間をどうでもよいなどと思う男でもなかった。

 

「……ええ」

 

 聖女が頷く。

 

「でも、それ以上に」

 

 聖女の手が剣士の手に重なる。

 

「あなたを失うのが怖い」

 

 剣士は聖女を見た。

 

 青い瞳に涙が浮かんでいる。

 

「死なないで」

 

 聖女が懇願する。

 

「お願い、無茶をしないで」

 

 剣士は答えられない。

 

 剣が望めば、命など惜しくない。

 

「私、あなたが好き」

 

 聖女の告白。

 

 剣士は窓の外を見た。

 

 月が昇っている。

 

「剣なんかより、私を見て」

 

 剣なんか。

 

 その言葉に、剣士の中で何かが冷たく固まった。

 

 剣を侮辱する者と話す事などなかった。

 

 仲間でも許されない事はあるのだ。

 

 無論、絶対的な関係の亀裂というわけではないが、気は悪くなる。

 

「ごめんなさい」

 

 聖女が謝る。

 

「そんなつもりじゃ」

 

 剣士は立ち上がった。

 

 部屋を出て行こうとする。

 

「待って」

 

 聖女が剣士の袖を掴む。

 

「お願い、行かないで」

 

 剣士は振り返らずに言った。

 

「一度は許す。もう剣を悪く言うな」

 

 それだけ言って、剣士は部屋を出た。

 

 聖女の泣き声が背中に聞こえたが、振り返らなかった。

 

 屋上に出る。

 

 月明かりの下、剣を抜いた。

 

 一人、型の稽古を始める。

 

 基本の型から、応用の型へ。

 

 剣が空を切る音が、夜の静寂に響く。

 

 美しい。

 

 月光の下で舞う剣の軌跡。

 

 銀の線が空中に描かれては消えていく。

 

「見事ね」

 

 声がして、賢者が姿を現した。

 

「眠れないの?」

 

 剣士は型を続けながら頷く。

 

 明日の戦いに備えて、剣と対話している。

 

「聖女が泣いていたわ」

 

 賢者が屋上の縁に腰掛ける。

 

「あなた、きつく言ったんでしょう」

 

 剣士は答えない。

 

 ただ剣を振るい続ける。

 

「でも、分かるわ」

 

 賢者が夜空を見上げる。

 

「あなたにとって、剣は命より大切なものなのね」

 

 剣士の動きが一瞬止まる。

 

 理解者がいた。

 

「私も似たようなものよ」

 

 賢者が魔導書を取り出す。

 

「魔法に全てを捧げてきた」

 

 魔導書のページが風にめくれる。

 

「だから、少しだけ分かる」

 

 賢者が立ち上がる。

 

「でも、たまには人の温もりも悪くないわよ」

 

 そう言って、賢者も去っていった。

 

 剣士は一人、朝まで剣を振り続けた。

 

 剣と語らい、剣と共に夜を明かした。

 

 ◆

 

 魔王城が見えてきた。

 

 黒い尖塔が空を突き刺すように聳えている。

 

 瘴気が城を覆い、空は暗く淀んでいた。

 

「ついに来たわね」

 

 勇者が緊張した面持ちで言う。

 

 聖剣が腰で光を放っている。

 

 聖女が祈りを捧げ、賢者が防御魔法を展開する。

 

 剣士は剣を抜いた。

 

 最後の戦い。

 

 剣にとって最高の舞台だ。

 

 刃が震えている。

 

 いや、震えているのは自分の手か。

 

 武者震い。

 

 剣も興奮しているのだろう。

 

 城門が開く。

 

 中から魔物の群れが溢れ出してきた。

 

 下級悪魔、スケルトン、ゴーレム。

 

 数は百を超える。

 

「行くわよ!」

 

 勇者の号令と共に、戦いが始まった。

 

 剣士は真っ先に敵陣に飛び込んだ。

 

 剣が唸りを上げる。

 

 右に薙ぎ、左に斬り上げる。

 

 スケルトンの骨が砕け散り、悪魔の血が噴き出す。

 

 剣が生きている。

 

 剣が喜んでいる。

 

 それが分かる。

 

 これほど多くの敵を斬れる機会など、そうはない。

 

 剣士の顔に笑みが浮かぶ。

 

 それは戦いを楽しむ笑みではない。

 

 愛する者の喜びを感じる、慈愛の笑みだった。

 

「剣士!」

 

 聖女の叫び声。

 

 巨大な斧が剣士の背中を掠めた。

 

 ゴーレムの一撃。

 

 深い傷から血が流れる。

 

 だが剣士は振り返りもしない。

 

 ただ前へ、前へと進む。

 

 剣と共に。

 

 勇者の聖剣が光の斬撃を放つ。

 

 賢者の魔法が敵を薙ぎ払う。

 

 聖女の回復魔法が仲間の傷を癒す。

 

 そして剣士は、ただ斬り続けた。

 

 いつしか、剣士の周りには死体の山ができていた。

 

 剣は血に濡れ、赤黒く染まっている。

 

 それでも剣士は止まらない。

 

 剣が求める限り、斬り続ける。

 

 城門前の戦いが終わった。

 

「すごい……」

 

 勇者が息を呑む。

 

 剣士が倒した魔物の数は、他の三人の合計を超えていた。

 

「でも、無理をしすぎよ」

 

 聖女が剣士の傷を治療する。

 

 全身傷だらけだった。

 

「このままじゃ、魔王と戦う前に」

 

 剣士は聖女の手を押しのけた。

 

 まだ戦える。

 

 剣がまだ戦いたがっている。

 

 城の中は薄暗く、瘴気が充満していた。

 

 壁には不気味な紋様が刻まれ、時折赤く脈動する。

 

「気をつけて」

 

 賢者が警告する。

 

「魔力の濃度が異常よ」

 

 剣士には関係ない。

 

 ただ剣を握り、前に進む。

 

 廊下を進むたびに、新たな魔物が現れた。

 

 影から襲いかかる暗殺者型の悪魔。

 

 天井から降ってくる蜘蛛型の魔物。

 

 壁から生えてくる触手。

 

 剣士は全てを斬り捨てた。

 

 剣が魔物の血を吸うように、赤く染まっていく。

 

 まるで剣が成長しているようだった。

 

 大広間に出た。

 

 そこには上級悪魔が待ち構えていた。

 

「人間どもめ」

 

 悪魔が嘲笑う。

 

「ここが貴様らの墓場だ」

 

 三体の上級悪魔。

 

 それぞれが下級悪魔の百倍の力を持つ。

 

「散開!」

 

 勇者の指示で、各自が一体ずつ相手をする。

 

 剣士の相手は、四本の腕を持つ剣の悪魔だった。

 

 それぞれの手に曲刀を持っている。

 

 剣と剣の戦い。

 

 剣士の血が沸き立った。

 

 悪魔の四本の剣が同時に襲いかかる。

 

 常人なら一瞬で切り刻まれるだろう。

 

 だが剣士には見えた。

 

 四本の剣の軌道が。

 

 そして何より、自分の剣が教えてくれる。

 

 どう動けばいいのかを。

 

 剣士は最小限の動きで攻撃をいなし、カウンターを返す。

 

 悪魔の一本の腕が飛んだ。

 

「ぐあああ!」

 

 悪魔が怒りの咆哮を上げる。

 

「人間ごときに!」

 

 攻撃が激しさを増す。

 

 だが剣士は冷静だった。

 

 剣と一体となり、水が流れるように攻撃を受け流す。

 

 そして隙を見つけては、確実に悪魔を斬りつける。

 

 二本目の腕が落ちる。

 

 三本目。

 

 そして最後の一本も。

 

 腕を全て失った悪魔が膝をつく。

 

「ば、馬鹿な……」

 

 剣士は剣を振り上げた。

 

 そして、容赦なく振り下ろす。

 

 悪魔の首が転がった。

 

 他の二人も、それぞれの敵を倒していた。

 

「やったわ」

 

 聖女が安堵の息をつく。

 

 だが、これは前哨戦に過ぎない。

 

 階段を上る。

 

 上に行くほど、瘴気は濃くなっていく。

 

「もうすぐよ」

 

 勇者が聖剣を握りしめる。

 

 最上階。

 

 巨大な扉の前に立つ。

 

「行くわよ」

 

 勇者が扉を押し開ける。

 

 ◆

 

 玉座の間。

 

 魔王が待っていた。

 

 巨大な体躯。

 

 漆黒の鎧。

 

 そして、禍々しいオーラ。

 

「よくぞ来た、勇者よ」

 

 低い声が響く。

 

「そして、その仲間たちよ」

 

 魔王が玉座から立ち上がる。

 

 手には巨大な魔剣。

 

「我が名はベルゼビュート」

 

 魔王が魔剣を掲げる。

 

「この世界の支配者だ」

 

 戦いが始まった。

 

 魔王の放つ闇の魔法が空間を歪める。

 

 重力が変化し、立っているのも困難になる。

 

 勇者の聖剣が光を放ち、闇を切り裂く。

 

 賢者の魔法が炸裂し、魔王の魔法を相殺する。

 

 聖女の結界が仲間を守る。

 

 そして剣士は、ただ斬った。

 

 斬って、斬って、斬り続けた。

 

 魔王の鎧は硬い。

 

 並みの剣なら刃が立たないだろう。

 

 だが剣士の剣は違った。

 

 愛を込めて振るわれる剣は、不可能を可能にする。

 

 鎧に亀裂が入る。

 

「ほう」

 

 魔王が興味深そうに剣士を見る。

 

「面白い剣だ」

 

 魔王の魔剣と剣士の剣が激突する。

 

 火花が散る。

 

 衝撃が剣士の腕を痺れさせる。

 

 だが、剣は折れない。

 

 剣が魔王の剣と渡り合っている。

 

 剣士の顔に笑みが浮かぶ。

 

 そうだ、お前は強い。

 

 どんな敵にも負けない。

 

 剣が魔王の肉体を切り裂くたびに、剣士の心は震えた。

 

 これだ。

 

 これこそが剣の本懐。

 

 最強の敵と相対し、その命を断つこと。

 

 魔王の反撃で剣士の体は傷だらけになった。

 

 左腕はもう動かない。

 

 右脚からは血が止まらない。

 

 肋骨も何本か折れている。

 

 それでも剣士は止まらない。

 

 剣がまだ戦えるから。

 

 剣がまだ斬れるから。

 

「愚かな」

 

 魔王が剣士を見下ろす。

 

「そこまでして戦う理由があるのか」

 

 剣士は答えない。

 

 ただ剣を構える。

 

 理由など必要ない。

 

 剣が望むから戦う。

 

 それだけだ。

 

 激戦が続く。

 

 勇者の聖剣が魔王の左腕を切り落とす。

 

 賢者の究極魔法が魔王の魔力を削る。

 

 聖女の奇跡が仲間の致命傷を癒す。

 

 そして剣士は、魔王の隙を見逃さなかった。

 

 全身全霊を込めた一撃。

 

 剣が魔王の胸部装甲を貫く。

 

「ぐっ」

 

 魔王がよろめく。

 

「とどめよ!」

 

 勇者の聖剣が魔王の心臓を貫いた。

 

 光が玉座の間を満たす。

 

 魔王が崩れ落ちる。

 

「終わった……」

 

 魔王の最期の言葉。

 

「だが、これで終わりではない……」

 

 魔王の体が塵となって消えていく。

 

 戦いは終わった。

 

 剣士は血に濡れた剣を見つめた。

 

 美しい。

 

 今この瞬間の剣が、最も美しい。

 

 魔王の血を吸い、最強の敵を倒した剣。

 

 これ以上の栄光があるだろうか。

 

「やったわ!」

 

 聖女が歓声を上げる。

 

「私たち、勝ったのよ!」

 

 賢者も安堵の表情を浮かべた。

 

「長い戦いだったわね」

 

 勇者が剣士に近づく。

 

「ありがとう」

 

 その瞳には涙が浮かんでいた。

 

「あなたがいなければ、勝てなかった」

 

 剣士は剣を鞘に納めた。

 

 鞘に収まる時の、あの心地よい音。

 

 それを聞きながら、剣士は満足感に包まれた。

 

 勝利の余韻など、剣士には関係ない。

 

 ただ剣が、その役目を全うしたことが嬉しかった。

 

 魔王城を出る。

 

 瘴気は晴れ、青空が広がっていた。

 

「帰りましょう」

 

 聖女が微笑む。

 

「みんなが待ってるわ」

 

 ◆

 

 王都への道のり。

 

 来た時とは違い、穏やかな旅だった。

 

 魔物もいない。

 

 戦いもない。

 

 剣士には、少し物足りなかった。

 

 王都への凱旋。

 

 人々の歓声が響く中、勇者パーティーは英雄として迎えられた。

 

 花吹雪が舞い、人々が名前を呼ぶ。

 

「勇者様!」

 

「聖女様!」

 

「賢者様!」

 

 そして。

 

「剣士様!」

 

 剣士は、ただ黙って歩いた。

 

 称賛など必要ない。

 

 剣と共に戦えた。

 

 それで十分だった。

 

 王城での謁見。

 

 王が勇者たちを讃える。

 

「よくぞ魔王を倒してくれた」

 

 王が玉座から言う。

 

「褒美を取らせよう。望みは何か」

 

 各々が望みを言っていく。

 

 そして剣士の番が来た。

 

「何も」

 

 剣士の答えに、王が驚く。

 

「何も望まぬと?」

 

 剣士は頷いた。

 

 既に最高の褒美は得ている。

 

 剣と共に最強の敵と戦えた。

 

 それ以上の褒美などない。

 

 王城での祝宴。

 

 貴族たちが集い、勇者たちを讃える。

 

 音楽が流れ、人々が踊る。

 

 剣士は壁際に立ち、ただ腰の剣に手を置いていた。

 

 剣の感触を確かめるように。

 

「踊らない?」

 

 聖女がドレス姿で近づいてくる。

 

 青いドレスが、聖女の美しさを際立たせていた。

 

 剣士は首を振る。

 

 踊りなど、剣の動きに比べれば退屈だ。

 

「つまらない人」

 

 聖女は微笑む。

 

「でも、そんなあなたが好き」

 

 剣士は答えない。

 

 好きと言われても、どう反応すればいいのか分からない。

 

 聖女の手が剣士の手に重なる。

 

「ずっと一緒にいたい」

 

 剣士はゆっくりと手を引いた。

 

 一緒にいる相手は、既に決まっている。

 

 聖女の瞳に悲しみが宿る。

 

 しかし剣士は踵を返し、その場を去った。

 

 聖女の呼ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。

 

 祝宴の後、勇者が剣士を呼び止めた。

 

 城の庭園。

 

 月明かりの下、二人は向かい合った。

 

「これから、どうするの?」

 

 剣士は肩に担いだ荷物を示す。

 

 旅立つつもりだった。

 

 まだ世界には、剣を振るうべき場所がある。

 

「待って」

 

 勇者が剣士の腕を掴む。

 

「私と一緒にいて」

 

 その瞳は真剣だった。

 

 月光を受けて、赤い髪が燃えるように見える。

 

「愛してるんだ、あなたを」

 

 勇者の告白。

 

 剣士は勇者の手をそっと外した。

 

 愛。

 

 その感情は、既に剣に全て注がれている。

 

 他に分け与える分など、残っていない。

 

「どうして?」

 

 勇者の声が震える。

 

「私じゃダメなの?」

 

 剣士は腰の剣に手を置いた。

 

 これが答えだ。

 

 剣以外に愛するものはない。

 

 剣と共にあれば、それで十分。

 

 賢者も現れた。

 

 黒いドレスに身を包み、いつもとは違う妖艶な雰囲気を纏っている。

 

「行くのね」

 

 その表情は諦めたような、それでいて未練の残るものだった。

 

「私も、あなたが好きよ」

 

 賢者が苦笑する。

 

「知識欲だと思っていたけど、違った」

 

 賢者が剣士に近づく。

 

「あなたという人間に惹かれていた」

 

 剣士は一歩下がる。

 

 これ以上近づかれては困る。

 

「でも、勝てないのね。剣には」

 

 賢者の瞳に理解の光が宿る。

 

「あなたの剣への愛は、人間への愛とは次元が違う」

 

 剣士は頷いた。

 

 そうだ。

 

 勝負にすらならない。

 

 最初から、剣以外に愛するものなどなかったのだから。

 

「一つだけ教えて」

 

 賢者が問う。

 

「剣の何が、そんなにあなたを惹きつけるの?」

 

 剣士は少し考えてから、口を開いた。

 

「完璧だから」

 

 それだけだった。

 

 人間のように裏切らない。

 

 人間のように変わらない。

 

 人間のように醜くない。

 

 ただ美しく、強く、永遠に剣であり続ける。

 

 脳裏にふと女の影がよぎった。

 

 剣士を女の影。

 

 お守り代わりにと持たせてくれた短剣は、幼い剣士の命を幾度も救った。

 

 決して、裏切る事なく。

 

 三人の女性を残し、剣士は王都を去った。

 

 振り返ることもなく。

 

 ただ腰の剣の重みを感じながら。

 

 ◆

 

 新たな旅の始まりだった。

 

 放浪の旅が始まった。

 

 魔王軍の残党はまだ各地に潜んでいる。

 

 剣士はそれらを探し出し、倒していった。

 

 剣のために。

 

 剣に戦いを与えるために。

 

 北の雪山では、氷の竜と戦った。

 

 吹雪の中、視界も効かない状況での戦い。

 

 だが剣士には剣の位置が分かる。

 

 剣が導いてくれる。

 

 氷の竜の息が全てを凍らせる。

 

 剣士の体も、徐々に感覚を失っていく。

 

 だが剣を握る手だけは離さない。

 

 最後の一撃で、竜の心臓を貫いた。

 

 竜が断末魔の叫びを上げて倒れる。

 

 剣士も雪の上に倒れ込んだ。

 

 凍傷で指先の感覚はない。

 

 だが剣はしっかりと握られていた。

 

 東の砂漠では、砂の魔人と対峙した。

 

 砂嵐を操り、姿を自在に変える強敵。

 

 剣が砂を切っても、すぐに再生する。

 

 だが剣士は諦めない。

 

 剣が諦めていないから。

 

 魔人の核を探し、見つけ、斬る。

 

 それを何度も繰り返した。

 

 ついに魔人の真の核を見つけ、両断した。

 

 砂が崩れ、魔人は消滅した。

 

 南の密林では、植物の魔王と戦った。

 

 巨大な食虫植物が森全体を支配している。

 

 蔦が剣士を絡め取ろうとする。

 

 毒の花粉が充満する。

 

 剣士は息を止め、剣で蔦を切り払いながら進む。

 

 本体にたどり着くまでに、半日かかった。

 

 巨大な花の中心に、核がある。

 

 剣士は躊躇なく飛び込み、核を両断した。

 

 植物の有害な体液にまみれながら、剣士は脱出した。

 

 服は溶け、体中に火傷を負った。

 

 だが剣は無事だった。

 

 それだけで十分だった。

 

 西の荒野では、岩の巨人と激突した。

 

 身長二十メートルはある巨体。

 

 一撃で大地が割れる。

 

 剣士は巨人の体を駆け上がり、急所を狙う。

 

 だが岩の体は硬く、なかなか刃が通らない。

 

 それでも剣士は斬り続けた。

 

 剣を信じて。

 

 ついに岩に亀裂が入る。

 

 そこに全力の一撃を叩き込んだ。

 

 巨人が崩れ落ちる。

 

 剣士も瓦礫の下敷きになりかけた。

 

 だが最後の瞬間、剣を突き立てて体を支えた。

 

 剣が剣士を救った。

 

 ある村では、盗賊団から人々を守った。

 

 百人を超える盗賊団。

 

 村人たちは絶望していた。

 

 だが剣士一人で十分だった。

 

 夜襲をかけてきた盗賊たちを、剣士は迎え撃つ。

 

 松明の明かりの中、剣が舞う。

 

 盗賊たちは次々と倒れていく。

 

 頭目が現れた。

 

 巨漢で、大斧を振るう。

 

「たかが一人で」

 

 頭目が嘲笑う。

 

 だが、その笑いはすぐに凍りついた。

 

 剣士の剣が、大斧を真っ二つに切り裂いたから。

 

 そして次の瞬間、頭目の首が飛んだ。

 

 残った盗賊たちは逃げ散った。

 

 村人たちは剣士を英雄として称えた。

 

 だが剣士は礼も受け取らず、去っていった。

 

 またある町では、暴走した魔法生物を斬った。

 

 魔法実験の失敗で生まれた怪物。

 

 触れるもの全てを腐らせる。

 

 剣士は間合いを計り、一撃で仕留めた。

 

 剣が腐食することはなかった。

 

 剣士の愛が、剣を守っているかのように。

 

 年月が流れた。

 

 剣士の名は各地に轟いていく。

 

「一人で魔物の群れを全滅させた剣士がいる」

 

「神業の様な剣技を振るう」

 

「まるで剣と一体になっているようだった」

 

 人々は剣士を英雄と呼んだ。

 

 詩人たちは剣士の武勇を歌にした。

 

 だが剣士にとって、それはどうでもいいことだった。

 

 名声など必要ない。

 

 ただ剣と共にあれればいい。

 

 剣が剣として存在できればいい。

 

 ある時、かつての仲間たちの噂を聞いた。

 

 勇者は女王となり、国を治めている。

 

 聖女は大司教となり、人々を導いている。

 

 賢者は宮廷魔導師となり、後進を育てている。

 

 皆、それぞれの道を歩んでいる。

 

 剣士も自分の道を歩いていた。

 

 剣と共に生きる道を。

 

 ◆

 

 二十年が過ぎた。

 

 剣士の髪に白いものが混じり始める。

 

 顔には深い皺が刻まれた。

 

 動きも若い頃ほどの切れはない。

 

 だが剣は変わらない。

 

 相変わらず美しく、鋭い。

 

 それが少し羨ましくもあり、誇らしくもあった。

 

 それでも剣士は戦い続けた。

 

 剣が錆びることを恐れて。

 

 剣が忘れられることを恐れて。

 

 もう大きな脅威はない。

 

 魔王軍の残党もほぼ壊滅した。

 

 それでも剣士は、小さな魔物でも見つけては斬った。

 

 山賊が出れば退治し、猛獣が現れれば倒した。

 

 剣を振るう理由を探し続けた。

 

 ある日、剣士は思った。

 

 もう潮時かもしれない、と。

 

 世界は平和になった。

 

 剣を振るう必要も減った。

 

 剣士は山深い場所で庵を結んだ。

 

 人里離れた、静かな場所。

 

 剣と二人きりで過ごせる場所。

 

 もう魔物もほとんどいない。

 

 戦う相手もいない。

 

 それでも剣士は毎朝、剣を振った。

 

 夜明け前に起き、剣を手に取る。

 

 朝靄の中、剣が空を切る。

 

 その音が山にこだまする。

 

 一振り、また一振り。

 

 基本の型を、何度も何度も繰り返す。

 

 美しい。

 

 老いても変わらない剣の輝き。

 

 朝日を受けて光る刃。

 

 完璧な重心。

 

 研ぎ澄まされた切れ味。

 

 人は老いるが、剣は老いない。

 

 人は衰えるが、剣は衰えない。

 

 それが少し、羨ましかった。

 

 同時に、誇らしくもあった。

 

 自分が愛したものは、永遠に美しいままだ。

 

 秋が来た。

 

 山の木々が色づく。

 

 剣士は庵の前で剣を磨いていた。

 

 何時間もかけて、丹念に。

 

 刃の一寸一寸を、愛おしむように。

 

 ふと、若い頃を思い出した。

 

 勇者たちと旅をした日々。

 

 だが、それも遠い昔のこと。

 

 今は剣だけが現実だ。

 

 冬が来た。

 

 雪が山を白く染める。

 

 剣士の手は震え、もう剣をしっかりと握ることができない。

 

 関節が痛み、筋肉が衰えた。

 

 それでも剣を振ろうとする。

 

 雪の中、よろよろと立ち上がる。

 

 剣を構える。

 

 だが、剣が手から滑り落ちた。

 

 雪の上に横たわる剣。

 

 剣士は膝をついて、それを拾い上げようとする。

 

 指が剣の柄に触れる。

 

 冷たい。

 

 あまりにも冷たい。

 

 もう、この手では剣を握れない。

 

 涙が頬を伝った。

 

 それは悲しみの涙ではない。

 

 これまで共に在れたことへの感謝の涙だった。

 

 剣士は剣を雪の上に立てた。

 

 切っ先が空を向く。

 

 最後の時が来たと、剣士は悟った。

 

 恐れはない。

 

 剣と共に生き、剣と共に死ぬ。

 

 それが剣士の選んだ道だった。

 

 そして、それは間違っていなかった。

 

 剣士は剣の前に正座した。

 

 震える手で、剣の柄を支える。

 

 最後の力を振り絞って。

 

「ありがとう。お前と共にいられて、幸せだった」

 

 剣は答えない。

 

 ただ雪を反射して、白く輝いている。

 

 その輝きが、まるで応えているように見えた。

 

 剣士は身を乗り出した。

 

 切っ先が喉に触れる。

 

 冷たい。

 

 だが、それは慣れ親しんだ冷たさだった。

 

 五十年間、毎日触れてきた冷たさ。

 

 剣士は微笑んだ。

 

 これでいい。

 

 これが自分の望んだ最期だ。

 

 剣に殺されること。

 

 愛するものに殺されること。

 

 これ以上の幸福があるだろうか。

 

 最期の瞬間、剣士は思った。

 

 人は剣を道具だと言う。

 

 だが違う。

 

 剣は友であり、恋人であり、人生そのものだった。

 

 それを理解できたことが、自分の誇りだった。

 

 剣士は目を閉じ、体重を前にかけた。

 

 切っ先が喉を貫く。

 

 痛みはない。

 

 ただ、剣と一つになる感覚があった。

 

 温かい血が雪を赤く染める。

 

 剣士の体が剣に寄りかかるように倒れた。

 

 その顔には、安らかな笑みが浮かんでいた。

 

 まるで愛する者の腕の中で眠るような。

 

 そんな死に顔だった。

 

 春になって、山に入った木こりが剣士を見つけた。

 

 剣に寄りかかるようにして死んでいる老人。

 

 その表情の穏やかさに、木こりは息を呑んだ。

 

「まるで……」

 

 木こりは呟いた。

 

「恋人に抱かれて眠っているみたいだ」

 

 剣士の遺体は麓の村に運ばれた。

 

 村人たちは、この老人が伝説の剣士だと気づいた。

 

 かつて村を盗賊から救った、あの剣士だと。

 

 村人たちは英雄の死を悼み、手厚く葬った。

 

 だが誰も、剣を遺体から離そうとはしなかった。

 

 それがあまりにも自然に、一体となっていたから。

 

 まるで剣と剣士が、一つの存在であるかのように。

 

 剣士は剣と共に埋葬された。

 

 墓標には名前もない。

 

 ただ「剣と共に生きた者、ここに眠る」とだけ刻まれた。

 

 王都では、剣士の死が報告された。

 

 老いた女王、かつての勇者が涙を流した。

 

 大司教となった聖女が、剣士のために祈りを捧げた。

 

 宮廷魔導師の賢者が、一人静かに瞑目した。

 

 皆、それぞれの想いを胸に、剣士の死を悼んだ。

 

 やがてその墓も忘れられ、草に覆われた。

 

 だが土地の人々の間では、ある言い伝えが残った。

 

 風の強い日、あの山から剣の鳴る音が聞こえる、と。

 

 それは風が墓標を撫でる音かもしれない。

 

 あるいは……。

 

 剣士と剣が、今も共に在ることの証かもしれない。

 

 永遠に。

 

 完全に。

 

 美しく。

 

 

 (了)


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