ご主人様。
さっきは何の気なしに呼ばわれたそれを、なぜだか躊躇ってしまう。
”……ネル? ”
「いっ、いや……別に……」
純粋な疑問が浮かんだその声に、上手く返答を返せない。声と同時に見つめられるその視線に、どこか射すくめられるような感触を覚える。
「別にっ……そのッ……」
うまく、たったの四文字程度の発音が出来ない。
”ネル”
普段より幾分トーンの下がった、自分の名を呼ぶ声に。どこか焦燥感めいたモノを覚える。でも、イラつき、怒りではなく。ちゃんと返答しないと、と。そういう思い。普段ならアカネがノリそうだと、どこか冷静な思考がささやいている。そんなとりとめのない考えがただの時間稼ぎなのだと心が確信している。
いやでも。……ご主人様、とは。なぜだか抵抗が。そんな混濁した思いの中、自分の発した言葉に驚く。
「……ッ……ご主人……、様」
そう、自分の口から音を出した途端。
ドクンと。
表現できない自分の奥底に、確かに籠る熱を感じた。
口に出した途端。熱の在処が分かる。自分の、体の奥。どこだと上手く言葉に載せられない部分から、けれど確かに。
”ネル。どうした? ”
自らを見つめる視線に。呼応して背筋が震える。普段の、戦闘なら何の問題も無い筈の、ただの熱。戦闘における火照りだと自分に言い聞かせてみたけど。
だけどこれは。普段とは違う、私を敵視するでも厄介だと思うでもなく。ただの、
でも。……自分にこんなので喜ぶ余地があるとは信じたく無くない。
それでも。
「なんだよ……命令なんかし──」
”──”ネル”
「……っあ……何用でしょうか?」
違う。違うんだって。そんなので喜ぶようなあたしじゃ。
”返事は? ”
「……ッ……はい……ご主人様」
自らが出した声の、その音色とでも言うべき部分に。随分と「愉しさ」が混じっていると。そう実感してしてしまい。
超えてはいけない一線が崩れた。
そんな予感がした。
───
──────
─────────
あたしがスカジャンを脱ぐ。
それが、この奇妙な関係を始める時の合図になっていた。
最初は確か、服が汚れるからとか。そんなことを理由にしていたような。それは嘘じゃない。だけど本当の理由でも無かった。
ミレニアムの三年生であり。C&Cのリーダーであり。そんな、あたしの象徴でもあるスカジャン。なんというか、そう。例えるならスイッチを切り替える。そういった感覚。
これを着ていない間は、心身ともにメイドをやっていても自然な事だと。普段の自分とは違うから。恐らく無意識に自分にそう言い聞かせていた。
なのに。
”あ、待ってネル。今日はスカジャン、着たままにしようか”
そんな唐突な提案が、いきなりもたらされた。
「は? ……いやほら、だってさ……そ、そう! こんなごっこ遊びで汚す訳にはいかねーだろ!?」
この流れはまずい。何がまずいのか自分でもわかっていないが、とにかくまずい。
鍛え上げられたあたしの勘がそう告げている。こういうのは無視しない方が良い。その経験があたしにはある。
だからその感覚に従って。先生の言を否定しようとして──
”ネル。それは脱がない。いいね? ”
「っ……ぁ……はい、承知、しました」
普段のふざけている時とはまるで違う。冷たく、温度を感じないその声と視線に。反論の出鼻をくじかれる。
──スイッチを、入れられた。
別に特別なことは何もしない。当番で仕事を手伝ったり、お茶を入れたり。軽食なんかも作ってみたりと。……生憎書類仕事は得意でも何でもないのだが。
とにかく。行動は普段と何も変わらない。ただ、先生の接し方だけが。普段と変わるだけ。
朗らかに笑うような。優しい声色とか。誰かの無茶に困ったような表情を浮かべるとか。そういう要素を全て消して。
冷たく。短く。あたしに「命令」する。それが求められているのだと、そう理解した上で。
それでも。それでも普段なら。幾分自覚してきたこの、命令されることに対する悦びのような。そういった感覚に素直に従えた。
……普段のあたしと違うから。
ミレニアムの三年生ではなく、
そうやって自分を切り離して、どこか後ろめたさと恥ずかしさを抱えながら。それこそが甘い愉悦に繋がっているのだと心のどこかに確信を持ちながら。
でも、これは、混ざる。そうだ。混ざってしまう。冷静に切り離せていた自分。
ミレニアムの三年生で秘密組織C&Cのリーダーでコールサインダブルオーで。そんな今までの自分と。
スカジャンを脱いで命令を求めてそれに傅くことに喜びを覚えた、新しい自分の。
境界線が、曖昧になる。
服従する愉しさ。悦び。……快感。それらが「ごっこ遊び」に興じている間は切り離したと思っていた。あたしの勇ましい部分。今まで通りの、頼れるリーダーの部分を。
ふと、窓に映ったあたしの姿が目に入った。普段ではあり得ないような、警戒ゼロの姿。無様に棒立ちになって、スカジャンを脱ごうとして手を肩にかけたまま動けなくなった、そんなマヌケなあたし。
なのにあたしの口元には、はっきりと笑みが浮かんでいた。
──ああ、これだ。この感覚だ。これこそがあたしの警鐘を鳴らした理由。これ以上嵌ったら戻れなくなる。それを無意識に感じていたから鳴ったアラート。
自分の中に引いていた一線がぐにゃぐにゃになって見当もつかなくなって。でもそれがたまらなく気持ちよくて。
今までが文字通り「お遊び」だったのだと。本番はこれからなのだと。
──真に傅く悦びは「これ」なのだと。
切り替えた自分ではなく、どちらも本当のあたしが。ひとくたになって交じっていく。
より一際強い陶酔感が、あたしの意識を満たす。
時間にすればほんの数秒だっただろうか。それとも数分。はたから見ればただ突っ立っていたあたしの姿を、満足そうに先生は見据えていた。その視線で分かる。今のあたしの思考を見透かされたのだと。そう告げている。
”また、秘密が増えたね”
「……ッ」
瞬間、脳裏に走るのは。知られたくないでもなく。否定の言葉でもなく。
もしC&Cのメンバーに知られてしまったら。「その時」に一体どんな悦びがあるのだろう。そう考えただけでも、自然と背筋を流れるのは冷や汗ではなく、甘い痺れだった。
「……っは、はい。今は、まだ」
いつかアカネが雑談代わりに話していた礼儀作法、カーテシーを取って。頭を下げる。なぜ「まだ」と、そう言ったのか。そんな思考が頭を過りながらも。下げた頭を上げ、先生と視線がぶつかる。その目を見て、確信した。
「ははっ」
思わず。自分の口から笑いが漏れる。
もう戻れない一線を越えた諦めの声なのか。はたまたこれから先、特大の愉しさが控えている事への愉悦なのか。
自分でも判断がついていない。けれど結局あたしはスカジャンを脱がないまま、
それが何よりも雄弁な、答えだった。