トレーナーに触れたいマックイーンの変態的な思いつき。
※「pixiv」でも投稿しています。

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アプリ寄りのマックイーンです。


メジロ椅子

 所用で少し外に出ていて、トレーナー室に帰る途中の廊下。

 校内に放課後を知らせるチャイムが響き渡り、玄関の方からグラウンドへと向かうウマ娘たちのにぎやかな声が聞こえた。

 

 ということは、そろそろ担当のメジロマックイーンが来る時間だろう。

 急ぎ足でトレーナー室に戻ったが、まだ彼女の姿は見えなかった。

 

 ──なんだこれ?

 

 仕事机に腰を下ろすと、パソコンの横に角形2号の大きな茶封筒が置かれている。

 その封筒は妙に厚みがあって、不思議なことに宛名も差出人も書かれていない。

 たづなさんが持ってきてくれたのだろうか。

 しかし、心当たりがない。

 

 それでも、この机の上に置かれている以上、自分に宛てられたものなのだろう。

 不審に思いながら封を切って中身を取り出すと、紙束が現れた。

 

 それは原稿用紙を綴じたものであった。

 読書感想文? それとも小説の原稿だろうか?

 

 だが、どうしたことか、表題も署名もなく、突然「トレーナーさんへ」という呼びかけの言葉で始まっている。

 

 もしかしてこれは手紙なのではないか、そう思って二行三行と目を走らせて行く内に何となく異常で、気味悪いものを予感した。

 しかし、持ち前の好奇心が彼をして、どんどん先を読ませていくのであった。

 

 ──トレーナーさんへ

 

 突然このようなお手紙を差し上げますことを、どうかお許しくださいませ。

 こんなことを申し上げますと、トレーナーさんはさぞかし驚かれることでしょうが、私は今、あなたの前に、私の犯してきました罪を告白しようとしているのです。

 

 この数ヶ月の間、私は人目を忍んで悪魔のような趣味に没頭しておりました。

 もし何事もなければ、永遠にこの秘密を胸にしまっていたことでしょう。

 ところが、近頃になりますと、私の心に変化が起こりまして、どうしてもこの因果な身の上を懺悔しないではいられなくなったのです。

 

 色々ご不審に思われる点もございましょうが、どうか最後までお読みくださいますようお願い申し上げます。

 そうすれば、なぜ、私がこのような気持ちに至ったのか。

 また、なぜ、この告白をトレーナーさんにお聞きいただかねばならないのか。

 その全てがお分かりいただけるかと存じます。

 

 さて、何から書き始めればよいのか。

 あまりに常人離れしている事柄ゆえ、筆が重く、恥ずかしさで手が震えます。

 でも、迷っていてはいけませんわ。

 とりあえず、ことの始まりから順を追って書いていくことにしましょう。

 

 あれは放課後のトレーニングでのことでした。

 私はいつものようにトラックを走っておりましたが、中盤あたりでふと左足に鈍い違和感を覚えました。

 最初はただの疲労だと軽く考えていたものの、じわじわと痛みが増してくるのを感じ、ついに練習を中断せざるをえなくなったのです。

 

「無理しないで休んでいていいよ」

 

 そう声をかけてくださったトレーナーさんの視線に、私は恥ずかしさと情けなさが混じった気持ちでいっぱいでした。

 しかし、どうしても動かすたびに痛みが走るため、ついに声を震わせてこう言いました。

 

「トレーナーさん、……足が痛くて、動けません」

 

 私は立っているだけでも痛みをこらえきれず、ついに膝を折りかけました。

 その瞬間、トレーナーさんはすぐに駆け寄り、そっと両腕を私の背中と太ももへと回しました。

 そのときの温もりと、私を安心させようとするその力強さに、頭ではまだ理解しきれぬまま、思わず全身の力が抜けてしまったのです。

 

 やがて私は、肩越しに見下ろすトレーナーさんの顔を見上げて、小さく息を呑みました。

 その視線の優しさ、そして静かに囁かれたひと言──

 

「大丈夫、俺がなんとかするから」

 

 その声を聞いた瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちるような気がしました。

 鼓動が早鐘のように鳴り、頬を伝う熱いものに気づくまで、私には何が起こったのか分かりませんでした。

 ただ、トレーナーさんに抱かれて揺れる身体の中で、次第に確信めいた想いが芽生えたのです。

 

 ──これが、恋なのだ、と。

 

 保健室までの数分が永遠にも思えるほどに長く、か細い声も出せず、ただ胸の奥の熱だけが騒ぎ立てていました。

 この時トレーナーさんの腕の中で感じた安堵と甘酸っぱい気持ちを、私は一生忘れることができないでしょう。

 

 トレーナーさんの素早い処置のおかげで、足の痛みは大事に至らず、数日の休息で無事に回復いたしました。

 しかしながら、この、胸の痛みはいっこうに消えません。

 あのとき抱きかかえられた光景が幾夜も夢に現れ、その度に私は鼓動を抑えきれず、汗ばんだ枕を抱いて目覚めるのです。

 

 それ以来、私はトレーナー室に足を運ぶたびに、あのとき触れられた手の感触を思い出し、頬は自然と紅潮し、心臓は高鳴るばかりでした。

 

 そうして、トレーナーさんがいつものように優しい笑顔で、こうお尋ねになるのです。

 

「どうしたの、元気ないみたいだけど。お昼食べすぎちゃったのかな?」

 

 私は思わず顔を上げ、ムキになって「そんなことありませんわっ!」と強がってしまいました。

 

 しかし、本当は──もう一度、トレーナーさんに抱かれたいと思っていたのです。

 本当に、たった一度でいいから、その温もりの中で胸の奥が弾む感覚を味わいたいと願っていたのです。

 しかし、私はメジロのウマ娘ゆえ、そのようなはしたない願いを口にすることなどできません。

 

 いいえ、本当はトレーナーさんに拒絶されることが、何よりも怖いのです。

 トレーナーさんのからすれば、私はただ学園の一生徒に過ぎず、そのような対象としてみることすら憚られることでしょう。

 そのため、私はこの想いを口にできなかったのです。

 

 こうして、私の心は甘く苦しい恋の牢獄に囚われたまま、日々を過ごすこととなりました。

 トレーナーさんが向けてくださる優しさのひとつひとつが胸を締めつけるようで、目を合わせるたびに言葉を失ってしまうのです。

 

 ええと、これまでレース一筋だった私がこのようなことを書くとお笑いになるかもしれませんが、その頃の私は、余暇時間に恋愛小説を読むようになりました。

 慰めに、フィクションの世界に自分を当てはめては、甘い想像に浸るのです。

 もちろん、相手役はトレーナーさん。

 例えば──

 

 ある小説には、夕暮れの廊下を二人並んで歩きながら、ふいにそっと手を取り合う描写がありました。

 その指先が触れ合うたび、ただ読書しているだけだというのに、頬が火照る感覚とともに心の奥底から幸福感がじんわりと広がるのを感じたのです。

 

 別の章では、夏祭りの夜、浴衣に身を包んで屋台を巡る二人が描かれていました。

 金魚を掬うたびに何度も頬を寄せ合い、手持ち花火を一緒に握った瞬間、火花が散るたびに胸の鼓動が高鳴り、その瞬間だけは世界が優しく輝いて見えたのです。

 

 そして物語の最後には、幸せな結婚生活を送る二人の将来がほのめかされておりました。

 朝日が差し込むリビングで、トレーナーさんが私を抱きしめて「行ってきます」と微笑む。

 穏やかな日常の中、共に食卓を囲み、休日は寄り添って過ごし、いずれは子を授かる。

 私にとってあまりにも愛おしい夢でありましたわ。

 

 しかし、物語には必ず終わりがあるものです。

 ぱたんと本を閉じれば、夢の光景はたちまち消え失せ、哀れ、残されたのは私一人。

 望みが大きければ大きいほど、それに手が届かぬ絶望もまた大きくなるのだと、痛感いたしました。

 

 そんな空虚を埋めようと新たな一冊に手を出し、そうして物語を読み終えるたびに、私は言いしれぬ味気なさと寂しさに襲われました。

 その、なんとも形容しがたい嫌な気持ちは、日を追うごとに膨れ上がり、やがて私には耐えきれないものへと成長していったのです。

 

「こんな想いを抱えて生きるくらいなら、もういっそ、すべてを捨ててトレーナーさんを押し倒してしまいたい」

 

 暗い衝動が暴走しそうになるたび、自分を必死に抑え込もうとしましたが、その思いは日に日に強くなっていきます。

 

「でも、そう思うのであれば、それほどの決心ができるのであれば、もっと他にやり方があるはずですわ。例えば──」

 

 そうして、私の思考は徐々に恐ろしい方向へと傾いていくのでした。

 

 ちょうどその頃、メジロ家のお屋敷ではラウンジの改装工事が行われており、それに伴って家具を一新することになりました。

 使われなくなった家具は物置に一時的に収められ、行き先が決まらなければいずれ処分されると知った私は、早速その物置へと足を運びました。

 

 というのも、トレーナー室で使われている椅子は、トレーナーさんがサブトレーナーだった頃の先生にあたる先代のトレーナーから譲り受けたものをそのまま使っていて、そろそろ壊れそうだと耳にしていたからです。

 

 それなら、わざわざ新たに購入するよりも、まだ使えそうな椅子を見つけてトレーナーさんに使っていただきたいと思ったのです。

 

 物置には四脚の椅子が並んでおり、中でも最も状態の良かった一脚を選び出しました。

 外観には多少の傷やほつれが見られたものの、舶来品らしい重厚な木製フレームとしっかりとした構造が伺えます。

 クッションはそこそこ痛んでおりましたが、張り替えれば十分に蘇るに違いありません。

 

 何よりメジロにゆかりのあるものをトレーナーさんに使っていただくこと──それこそが私のささやかな願いでもありました。

 

 翌日、私はその椅子を学園に持ち込み、先生の許可を得て空き教室を借りました。

 さあ修復だ、と思ったものの、素人の私の手では作業は思うように進みません。

 

 まずは長年のほこりと布の汚れを落とすため、カバーを外そうと釘を抜き始めましたが、力加減を誤れば木目を傷めてしまい、一度分解したものを元どおりにする自信も無く、思わぬ苦戦が続いたのです。

 

 気づけば、一週間も作業をしていました。

 そしてついには、昼休みになる度にどこかに行ってしまう私を不審に思って、ゴールドシップさんが尾行してくるほどでした。

 

「見つけたぜ! まさか、マックちゃんが黒の組織のボスだったなんてな!」

 

 と、彼女は楽しげに空き教室に飛び込んできました。

 

 そんなこんなで、結局、ゴールドシップさんに手伝ってもらったおかげで、それはもう見事な出来栄えとなりました。

 彼女は木材の切り込みやタッカーの扱い、釘打ちに至るまで手慣れた様子で、まさに器用の極み。

 不思議な人ですわ、まったく。

 

 さて、私は早速その椅子にゆったりと腰を下しました。

 

 なんという座り心地でしょうか。

 ふっくらとしたクッションは硬すぎず柔らかすぎず絶妙なねばりを保ち、張り替えたばかりの灰色の生地は、あえて染色を施さずに残したなめし革の肌触りを楽しませてくれます。

 適度な傾斜を保って背中をしっかりと支える豊満な背もたれと、デリケートな曲線を描いてこんもりとふくらむ両側の肘掛け。

 それらすべてが不思議な調和を保ち、まるで「安楽」という言葉そのままを形にしたかのようでした。

 私は深く身を沈め、両手で肘掛けを撫でながら、思わずため息をつきました。

 

 そのとき、突如として私の頭に一つの考えが浮かびました。

 まさに悪魔の囁きとでも呼ぶべき、夢のように荒唐無稽でありながら、非常に不気味な計画。

 しかし、その不気味さこそが魅力となって私をそそのかし、ついに私はその計画を実行に移そうと決意したのでございます。

 

 側にいたゴールドシップさんに思い切って打ち明けると、彼女は目を輝かせてはしゃぎました。

 

「天才か? すっげぇおもしれぇじゃねえか!」

 

 私たちは大急ぎでその椅子をバラバラに分解し始めました。

 何しろ、大型のアームチェアですから、座面は床すれすれまで革で覆われ、背もたれも肘掛けも分厚いクッションに包まれています。

 その内部には、ウマ娘一人が隠れていても外からは決して分からないほどの大きな空洞があったのです。

 

 フレームには頑丈な木の骨組みと多数のスプリングが取り付けてありましたが、それらに細工を施し、椅子の形に座りさえすれば、背もたれの奥に首から胴まで潜り込めるような空間を確保しました。

 そうした細工は、ゴールドシップさんにとってはお手のものですから、十分手際よく、便利に仕上げてくれました。

 

 さらに、呼吸や外部の物音を聞くために革の一部に極めて小さな隙間を作り、背もたれ内部の頭の横あたりには小さな棚を取り付けて、水筒と堅パンを詰め込みました。

 また、ある用途のために大きなゴム袋を備え付けるなど、食料さえあれば長時間そこで過ごせるよう、様々な工夫を重ねていったのです。

 そしてこの椅子は、一人用の小さな部屋としての機能を備えるようになったのでございます。

 

「くれ悪じゃぞ!」

 

 そう意味不明な言葉を残して、ゴールドシップさんは窓から飛び出していきました。

 

 その日の放課後、私はトレーニングを始める前に、修復を終えた椅子をトレーナー室へ届けました。

 サプライズの形にはなってしまいましたが、トレーナーさんは格別の笑顔を見せてくださり、胸がほんのりと温かくなったのを覚えております。

 

 さて、トレーニングを終えた私は、いつものようにトレーナーさんとグラウンドで別れました。

 本来ならばそのまま寮へ戻るところでしたが、その日は駆け足でトレーナー室へ向かいました。

 

 あまりに急いだものですから、トレーナーさんはまだ戻っておらず、私はあらかじめ複製しておいた鍵でそっと扉を開け、内側から閉めなおしました。

 薄暗い室内には、私が贈った椅子だけが静かにたたずんでいます。

 鼓動が速くなるのを確かめながら、そっと椅子を持ち上げ、底に仕掛けた小さな蓋を開いて、誰にも気づかれぬようすっぽりと潜り込んだのです。

 

 それは実に変な気持ちでございました。

 暗闇は重く、息苦しく、まるで墓の中に潜り込んでしまったかのような不思議な感じがします。

 

 そう思うと、興奮していた頭もだんだんと冷静になってきました。

 もしかしたら私が椅子の中に入っていることがバレてしまうのではないかと、逆に恐ろしくなってきたのです。

 かといって、今更椅子の外に出て、運悪くその現場を目撃されたらと思うと、出ようにも出られません。

 

 私がこんなことをしていると知られれば、きっとトレーナーさんに嫌われてしまうでしょう。

 それだけは絶対に嫌でした。

 私はついにその場から動けなくなってしまいました。

 

 それからかなりの時間、少しの物音も聞き漏らすまいと全神経を耳に集中して、じっとあたりの様子をうかがっていました。

 

 しばらくすると、廊下の方からコツコツと足音が響いて来ました。

 間もなく、トレーナー室の扉が開く音がし、足音が近づいてきます。

 

 私は無意識に息を止め、身体をできる限り椅子の奥へと沈めました。

 すると突然、男性らしい大きな身体が私の膝の上にドサリと落ちてきて、クッション越しにふかふかと二度三度ほど沈んだのです。

 私の太ももと、そのしっかりとした臀部が、薄いなめし革一枚を隔てて温かみを感じるほどに密着しました。

 幅の広い彼の肩はちょうど私の胸にもたれかかり、両手は革ごしに私の手を包み込む形で重なり合っています。

 そして、嗅ぎ慣れたトレーナーさんの香りが、革の隙間を通して漂ってくるではありませんか。

 

「……マックイーン?」

 

 その言葉がトレーナーさんの口から発せられた瞬間、私は思わず叫び声を上げてしまいそうになりました。

 しかし、極限状態で発揮された精神力でどうにかそれを抑え、目をぐっと閉じたまま、ただ心臓の音だけがうるさかったのを記憶しています。

 

 やがて、トレーナーさんは鼻を数度鳴らし、ささやくように言いました。

 

「そうか、あの子が持ってきた椅子だから」

 

 その言葉にはただ淡々とした納得の調子がありました。

 そして、キーボードをカタカタと叩き始める音だけが、暗闇の中で聞こえてくるのでした。

 

 私はあまりの恐ろしさに椅子の中で身体を縮めていました。

 冷や汗が背中を伝い、思考がまったく働かなくなって、ただその場にじっとしているしかなかったのです。

 

 それから数時間。

 ようやく業務を終えたトレーナーさんは、椅子から立ち上がり、伸びをすると、戸締まりをしてトレーナー室を出ていきました。

 

 結局、トレーナーさんは最後まで私がそこにいることを──彼が柔らかいクッションだと信じ切っているものが、実は私というウマ娘の血の通ったふとももであるということを──少しも気づきはしなかったのです。

 

 私がのそのそと椅子の中から這い出すと、もうすっかり夜で、照明の落ちたトレーナー室に月明かりだけが差し込んでいました。

 

 知らず、私は笑っていました。

 長い緊張から開放された安堵とこの状況のあまりのおかしさに、狂ったように笑い続けたのです。

 そして、ひとしきり笑った後、私は立ち上がると両手を高く突き上げて、月に向かってガッツポーズをしました。

 

 それからというもの、私は隙を見ては何度もトレーナーさんの椅子の中に潜り込むようになりました。

 最初のうちはトレーニング後の数時間のみでしたが、やがて物足りなさを感じるようになり、昼休みや休憩時間のわずかな時間も逃さず入り込むようになりました。

 ついには、休日のトレーニングが無い日に、一日中その椅子の中で過ごすということさえあったのです。

 

 トレーナーさんと目を合わせるだけで顔が熱くなってしまう私が、同じ部屋にいるだけでなく、同じ椅子に身を潜めて、薄いなめし革一枚を隔てた距離で、肌のぬくもりを感じられるほどに密着しているだなんて。

 にもかかわらず、トレーナーさんは何の不安も示さずに、全身の重みを安心しきった様子で椅子に委ねていらっしゃいます。

 

 私は椅子の中で、彼を抱きしめる真似をすることも出来ます。

 革のうしろから、その首筋に口づけすることも出来ます。

 その他、どんなことをしようと、自由自在なのでございます。

 

 ある日のこと、トレーナーさんがぽつりとつぶやきました。

 

「それにしても良い椅子だな。それに、なんというか、マックイーンに包まれているような。……何言ってるんだ、俺」

 

 まさか椅子の中にウマ娘が隠れていようなどとは、そんなバカげたことを誰が想像できましょうか。

 トレーナーさんは肘掛けの先端、つまり私の手が置かれているところを撫で回しました。

 その瞬間、私は一心同体のなんたるかを知り、昇天しそうになりました。

 

 私は考えました。

 この椅子の中の世界こそ、私に与えられた、本当のすみかではないかと。

 私は外の世界では、トレーナーさんに触れることなどとてもできません。

 それが、こうして椅子の中で窮屈を我慢すれば、トレーナーさんに接近して、その肌に触れ、匂いを嗅ぐことも出来るのです。

 

 椅子の中の恋。

 それがまあ、どんなに不可思議で陶酔的な魅力を持っているのか、実際に椅子の中へ入ってみた人でなくては分かるものではありません。

 それは、暗闇の世界の恋でございます。

 決してこの世のものではありません。

 これこそ悪魔の国の愛欲ではないかと私は思ったほどです。

 

 椅子への潜入はウマ娘の能力を最大限に活用して、わずかな物音も立てず、また人目に触れない様にしていました。

 そのため、大した危険はありませんでしたが、それにしても、数ヶ月もの間、誰にも気づかれずに椅子の中でトレーナーさんと触れ合っていたというのは、我ながら驚嘆に値する事でございました。

 

 ウマ娘という種族ゆえ、トレーナーさん程度の体重が身体に掛かった位ではなんともありませんが、何時間も窮屈な椅子の奥底で身を折り曲げていたため、腕や膝が痺れ、直立することさえままならなくなりました。

 しまいには、寮との往復を這って行かねばならぬ程でした。

 

 私はとうに正気を失っていたのでしょう。

 

 というのも、秘密の愛撫を堪能するだけでは飽き足らず、いつしか、どうにかして私の存在を知らせたいという望みさえ芽生えてしまったのですから。

 

 私は、出来るならば、トレーナさんの方でも、椅子の中の私を意識して欲しくなったのでございます。

 そして、虫のいい話ですが、私を愛していただきたく思ったのです。

 

 でも、それをどのように合図いたしましょう。

 もし、そこにウマ娘が隠れているということをあからさまに知らせたのなら、トレーナーさんは驚きのあまり、きっと学園にその事を告げるに違いありません。

 それではすべてが台無しとになってしまうばかりか、私が退学処分を受ける恐れさえございます。

 

 そこで私は、せめてトレーナーさんにこの椅子を心地よく感じていただき、愛着を覚えていただだこうと努めました。

 優れたトレーナーである彼には、きっと常人以上の繊細な感覚が備わっているはずです。

 もしも彼がこの椅子にわずかながらでも生命を感じ、一つの生きものとして愛してくださるなら、それだけで私は十分満たされることでしょう。

 

 そのため、トレーナーさんが私の上に身を預けられたときには、出来るだけふわりと優しく受け止めることを心がけました。

 お疲れの様子であれば、気づかれぬ程度に膝をそっと動かして、彼の体勢を整えました。

 また、うとうとと眠りそうなときには、かすかに膝を揺すり、ゆりかごの役目を担ったこともございます。

 

 その努力が報われたのか、最近ではトレーナーさんが何となくこの椅子を愛しているように思われます。

 彼はまるで赤子が母に抱かれるように、あるいは恋人の抱擁に応えるかのように、甘い優しさをもってこの椅子に身を沈めるのです。

 さらに、私の膝の上で身体を動かす仕草さえも、どこか親しげに思えるのです。

 

 このようにして、私の情熱は日に日に烈しさを増していきました。

 そしてついには、ああ、トレーナーさん、私は身の程もわきまえぬ大それた願いを抱くに至ったのです。

 それはつまり、私が椅子の中に潜んでいるという事実を、トレーナーさんに直接伝えて差し上げたいのです。

 

 トレーナーさん、おそらくはすでにお察しのことと存じます。

 私の担当トレーナーであられるのは、他でもない、あなたご自身です。

 そして、この手紙を綴っておりますのも、私、メジロマックイーンにほかなりません。

 

 トレーナーさん、一生のお願いでございます。

 たった一度でかまいません。

 どうぞ、私を優しく抱きしめてくださいませ。

 そして、一言で結構ですから、「愛している」とおっしゃってください。

 

 そして、今、あなたがこの手紙をお読みになっている間、私は椅子の中で、恐れと期待に震えていることでしょう。

 もし、この無謀ともいえる願いを叶えてくださるなら、どうか肘掛け椅子の側面をコンコンと叩いてください。

 それを合図に、私は椅子の中から出ていくことができるでしょう。

 

 そして、この不思議な手紙は、熱烈な愛の言葉をもって結ばれていた。

 

 トレーナーは手紙を中ほどまで読み進めるうちに、背筋が凍るような予感に襲われ、顔色を青ざめさせた。

 無意識のうちに立ち上がると、椅子から離れ、震える足で壁にもたれかかる。

 後半部分を読み続けるべきか、いっそ見なかったことにしてしまいたい──そんな思いが頭をかすめたものの、気がかりで目を離せず、結局最後まで目を通してしまった。

 

 彼の予感はやはり当たっていた。

 これはまあ、何という恐ろしい事実であろう。

 彼が毎日腰かけていた、あの肘掛け椅子の中には、メジロマックイーンが入っていたという。

 

「そんなまさか」

 

 彼は背中から冷水をあびせられた様な、悪寒を覚えた。

 そして、いつまでたっても、身震いが止まなかった。

 

 彼は、あまりのことにボンヤリとしてしまって、これにどう対処すべきか、思考がまったく回らなかった。

 椅子を調べてみる?

 本当にそんなことをしても大丈夫なのだろうか。

 想像するだけで身体が固まり、思案の手が止まる。

 

 そんなとき、不意に扉越しに声がかかった。

 

「マックイーンのトレーナーいるー?」

 

 はっとして扉を開けると、トウカイテイオーが長方形の封筒を手に立っていた。

 トレーナーは震える手でそれを受け取り、開封しようとする。

 だが封を切る前に目に入った差出人を見て、彼はあまりの驚きにその手紙を思わず落としそうになった。

 

「それ、さっきマックイーンから渡されたんだ! 読んでほしいんだって! ラブレターかな~? にししっ!」

 

 そう言って、トウカイテイオーはトレーニングに向かってしまった。

 

 トレーナーはしばらくの間、それを開封しようか、しまいかと迷っていた。

 が、とうとう、最後にはそれを破って、ビクビクしながら中身を読んでいった。

 手紙はごく短いものであったけれど、そこには彼をもう一度はっとさせる様な奇妙な文言が記されていた。

 

 ──どうかお許しくださいまし。

 これは私がゴールドシップさんに負けて行ったドッキリの一環でございます。

 別封用意いたしましたのも、すべて私が考えた作り話でございます。

 原稿は先にお届けしましたから、すでにご覧になったものと存じます。

 いかがでしたでしょうか。

 もし、いくらかでもトレーナーさんを楽しませたのであれば、こんな嬉しいことはないのですが。

 原稿には、わざとと省いておきましたが、表題は「メジロ椅子」としたい考えでございます。

 では、また後ほど伺いに参ります。匆々。

 

 その文面どおり、メジロマックイーンは廊下の方から歩いてきた。

 そして、トレーナー室に入った彼女が最初にしたことは、窓の戸締まりであった。




元ネタ・江戸川乱歩「人間椅子」
最後まで読んでくれてありがとうございます。
結局、マックちゃんは椅子の中に入っていたんですかねぇ?
感想、評価、お気に入りしてくれると嬉しいです。

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