天井の梁から吊り下げられた無骨なランプが、木製の食卓を柔らかな琥珀色に照らし出している。夜も更けかけた大食堂の空気はどこか静まり返っており、離れた席で低く交わされる談笑の余韻だけが、微かな雑音となって天井近くに漂っていた。
整然と並ぶテーブルの一角。二人の影が静かに向かい合って腰を下ろす。
ヴィシア聖座に所属する人員が多く利用するこの食堂では、提供される料理の大部分が軽食メニューによって占められていた。これには、この組織が辿ってきた独自の成り立ちが深く関係している。ヴィシア聖座は、かつて隠密作戦や過酷な実戦を担っていた特殊部隊を母体としてジャン・バールやクレマンソーを中心に再編された経緯を持つ。
現在ではその多くが離脱する旧リシュリュー派の伝統的な将校たちが重んじる、文化的な優雅な宮廷的マナーや絢爛豪華な美食主義とは大きく異なり、彼らは過密な訓練や座学に多くの時間を費やしていたのだ。そのため食事においても形式や贅沢に拘ることを避け、いかに短時間で効果的に、かつ効率的に必要な栄養とエネルギーを胃に収められるかという実用性を最優先していた。
故に、食堂の品書きには手早く片手でつまめるサンドイッチや、表面を香ばしく焼き上げたクロックムッシュ、新鮮な野菜が添えられたガレットといった、手軽な軽食類が目立って並ぶこととなる。
だが――どれほど効率と実用性を重視しようとも、彼女たちの根底に流れるのはあの美食の国アイリスの血だ。過剰な装飾を削ぎ落とした軽食であっても、料理としての完成度や味そのものが損なわれているわけではない。
たとえば、ごくありふれたサンドイッチひとつを取ってみても生半可な代物ではなかった。外皮はパリッと香ばしく、中は豊かな弾力を持つバゲットに、濃厚な発酵バターが惜しみなく塗り込まれている。そこに挟まれた厚切りの自家製ハムからは噛み締めるたびに上質な肉汁が滲み出し、芳醇な特産チーズと絶妙な塩加減のハーブが、一口ごとに重厚な旨味の調和を作り出していた。
クロックムッシュもまた、目を見張る出来栄えだった。香ばしく焼き上げられた食パンの表面はサクッと軽い音を立て、挟み込まれたベシャメルソースのまろやかなコクと、表面で絶妙に焦げたチーズの芳醇な風味が舌の上でトロリと解けていく。手軽な軽食でありながら、ひとくち毎に確かな満足感を与える逸品だ。
さらに、深皿から立ち上る真紅のトマトスープも見逃せない。煮詰められたトマトの濃厚な酸味と甘みをベースに、ふんだんに盛り込まれたきのこから染み出す深い旨味。そこへ、乾燥させた魚から取った出汁の芳醇な滋味と、じっくりと飴色になるまで炒められた玉ねぎのコクが重なり合い、冷えた身の奥底から身体をじわじわと温めてくれる。
彼女たちが軽食で手早く食事を済ませることを徹底しているのは、決して味や質を雑に扱い、妥協するための言い訳ではない。
その裏にあるのは――殺戮機械であるセイレーンによって世界中の海路がズタズタに引き裂かれ、物資の流通が途絶えかねない惨状の中にあっても、決して兵を、そして守るべき民を飢えさせることがないようにという、切実な願いである。限られた食材と限られた時間の中で、いかに満足感を生み出すか。それらを重視し続けたヴィシアはある意味ではリシュリュー派より料理にこだわり続けていた陣営であると言えるだろう。
注文した品が届くと、ローンは手際よく深緑色の瓶の栓を抜き、用意されたガラスのジョッキへと鮮やかに琥珀色の液体を注ぎ込んだ。細やかな白い泡がふんわりと盛り上がり、冷えたガラスの表面には小さな水滴が滑り落ちていく。
「ん……ふぅ」
彼女はジョッキを傾け、冷たく冷やされたビールを一口喉へと流し込んだ。喉を鳴らして吐き出された吐息には、豊かな麦芽の香りが混じっている。そのまま手元に並べられた小皿から、噛み応えのある厚切りの干し肉と、オイルに漬け込まれた深い緑色のオリーブを指先でつまみ、口へと運んだ。
「ふふ、美味しいですね。やはり、馴染みの味は落ち着きます」
頬をほんのり朱に染め、瞳を細めて心底嬉しそうに微笑むローン。その姿はどこからどう見ても、異郷の地で故郷の味に巡り会えた一人の女性そのものだった。
向かいに座る指揮官は、その様子を無愛想な視線で淡々と眺めていた。テーブルの上に置かれた己のジョッキには一切手を触れようともせず、ただ小皿に盛られたナッツを指でつまみ、ポリポリと静かな音を立てて咀嚼している。
「あら……お飲みにならないのですか? 目の前で、私がしっかり毒味もいたしましたのに」
ジョッキを抱えたまま、ローンは悪戯っぽく片目を細めて首を傾げた。その問いかけに対し、指揮官は手元に残ったナッツを口に放り込み、どこか遠くを見るような冷めた瞳のままポツリと呟いた。
「……酒は、久々に飲む」
「あら……意外ですね? 鉄血ですと、お酒を日常的に嗜まれる方も多いのですけれど」
ローンは不思議そうに首を傾げ、手に持ったジョッキをわずかに揺らした。戦場で冷酷無比な采配を揮う指揮官の口から出た意外な言葉に、興味を惹かれた様子だ。
「最後に飲んだのは……3年前、16の頃だ」
静かに落とされたその言葉に、流石のローンも意表を突かれたように、琥珀色の瞳を丸くした。
「16、ですか……? では失礼ですが、指揮官は今、お幾つになられるのです?」
「19だ」
淡々と短く答える指揮官の顔には、何の感慨も浮かんではいなかった。
余談ではあるが、1940年代の欧州においては未成年であっても親や保護者が同伴・許可していれば、14歳程度からの飲酒はごく自然に行われており、法や倫理の面でも何ら問題とされるものではなかった。とはいえ、16歳という年齢から酒を嗜み始めていたというのは、いくらこの時代の風習や家庭環境を鑑みたとしても、明らかに早すぎる話だ,
何より、戦場で優れた戦術眼を光らせていた、指揮官が若いということは理解していたものの、まさかまだ十代後半の渦中にいるなどとは、流石のローンにとっても完全に予想外の事実であった。
「……てっきり、二十代前半くらいだと思っておりましたけれど」
心底意外そうに口元へ指先を添え、ローンはあらためて指揮官の顔立ちを見つめ直した。その鋭く研ぎ澄まされた青い瞳と、幾多の死線を潜り抜けてきた者だけが纏う冷淡な佇まいが、彼の実際の年齢を覆い隠していたのだ。
「鉄血本国に報告するか?」
指揮官は指先で摘まんだナッツをポリポリと噛み砕きながら、他人事のように淡々と言い放った。己の年齢という情報が同盟国へ伝わろうが伝わるまいが、まるで興味がないかのような素振りである。
「ふふ、『今は』やめておきましょうか」
ローンは小さく首を振ると、ジョッキを傾けて一口喉を鳴らし、悪戯っぽく微笑む。
「別に貴方の年齢を報告したところで、ビスマルクさんから特大の誕生日ケーキと、それに見合った19本の蝋燭が送られてくるだけですから」
穏やかな笑顔を崩さず口にされたその言葉。それが本気で言っていることなのか、それとも彼女なりのブラックユーモアを交えた冗談なのか――指揮官にも、その真意までは推し量ることができない。
しばしの間、会話は途切れ、静寂の中に音だけが残された。指揮官が指先でナッツを摘み、ポリポリと噛み砕く乾いた音。ローンがジョッキを傾け、喉を鳴らして冷えたビールを静かに飲み干す微かな音。
そして、硝子の底が木製の卓と触れ合い、重厚な音を立てる。静謐な大食堂の空気の中で、その二つの規則的な動きだけが幾度となく繰り返された。
「……正直、期待外れ。……いえ、私の予想とは違っていましたわ」
グラスの縁を細い指先で優しくなでながら、ローンはぽつりと小さく呟いた。その声はあまりに優しく、どこか甘やかでさえある。
「最初に貴方とお会いした時……その瞳を見て、私とよく似ていらっしゃると思ったのです」
ローンは琥珀色の瞳を細め、指揮官の冷徹な青い眼光を正面から覗き込んできた。その眼差しには、隠しきれない怪しく濃厚な熱が宿っている。
「戦場で壊し、殺し、蹂躙することが楽しい――。破壊とは、いつだって至上の快楽と紙一重でしょう? 鉄と炎の渦の中で、無惨に敵を捻り潰し、叩き潰し、その命を容赦なく奪い去る……あの瞬間が楽しくて、愛おしくて堪らない。貴方もまた、私と同じような狂気と渇きを内に秘めているのだと……一目見た時は、そう確信していたのですけれど」
そう語るローンの端正な顔立ちには、隠しきれない凶暴な愉悦と悦楽の色が凄惨に滲み出ていた。
完璧な美貌を歪ませるその笑みは、ただ破壊と殺戮そのものを愛し、貪る狂人のそれだ。鉄血所属kansenのなかでも随一な凶暴性と共に、凄絶な威圧感とともに、血と硝煙に飢えた残虐な本性を、彼女は取り繕うことすら放棄して露わにしていた。
――だが、それもほんの一瞬のこと。
「……けれど、どうやら私の勘違いだったようですね?」
ローンはふっと小さく吐息を漏らすと、まるで何事もなかったかのように、瞬時にいつもの優美で穏やかな表情へと戻ってみせた。
通常であれば、目の前で繰り広げられたあまりに劇的な豹変と底知れぬ狂気に直面すれば、常人は恐怖で背筋を凍らせるか、引きつった笑みを浮かべて後ずさりする以外にないだろう。
しかし、向き合う指揮官の顔には、微かな動揺すら浮かんではいなかった。
彼は眉ひとつ動かさず、平然とした態度のまま再び指先でナッツを拾い上げ、ポリポリと乾いた音を立てて噛み砕くだけだった。その冷淡な青い瞳は、目の前の狂気を恐怖としてではなく、つまらないものを見ているという平坦な感情のそれしかない。
「貴方は何というか……戦うことが嫌いという訳ではありませんけど、本来は戦いの中に身を置くべき人ではなかった……そんな印象を受けますね」
ローンはあごに細い指先を添え、試すような視線を向けながら静かに言葉を繋いだ。
戦いが好きで好きで堪らないという、己のようなプリミティブな欲求や感情に従って刃を振るっているわけではない。寧ろ戦いを目標を達成するための手段としか見ていない根本的に自身とは違う精神構造なのだと。
「少なくとも、あのマルスちゃんでさえ、戦場においては少なからず高揚感を覚えていますよ?なのに、貴方は最初から最後まで、本当につまらなさそうな顔になってますから」
指揮官にとって、目の前に立ち塞がる敵は命を持った存在ではなく、ただ処理し、排除すべき目標でしかないのだ。勝利に歓喜することもなく、死線を潜り抜ける恐怖や興奮に胸を躍らせることもない。
それが、ローンには不思議で堪らなかった。
かつて初めてその瞳を見た時、自分と同類の臭いを感じ取ったはずだった。すべてを等しく打ち砕きたいという純粋な破壊衝動に身を委ね、鉄と炎の渦中で殺戮を貪る同志――己と同じ狂気の器なのだと。
だが、現実は違っていた。目の前にいる青年の中に渦巻いているのは、歓喜を伴う破壊衝動などではない。どこまでも冷たく、どこまでも平坦な、乾ききった虚無でしかないのだ。
「きっと、セイレーンと戦えば……貴方の中から凄まじい憎悪が湧き上がるはず。殺意と怨み、そして復讐に身を委ねて、相手を無残にズタズタへと引き裂くのでしょうね」
ローンは琥珀色の瞳に妖しい光を宿らせ、甘い吐息を漏らすように囁く。
「けれど……貴方はそれで憂さ晴らしをすることも、胸がすくような楽しさを感じることも絶対にない。どれほど敵の血を流そうとも、その心が満たされることなど永遠に訪れない。なぜなら、きっと貴方は――」
「――黙れ」
氷の刃で空間を切り裂くような、冷たく重厚な威圧感を孕んだ声が静寂を破った。
それまで静かにナッツを噛み砕いていた指揮官の動きが、ぴたりと止まる。アッシュブロンドの前髪の隙間から覗く鋭い青い瞳が、凄絶な殺気を帯びてローンを正面から射抜いていた。
「俺が嫌いなものはセイレーンだ。その次に嫌いなのは、裏切り者やロイヤルの屑どもだ」
指先を卓上に静かに下ろし、指揮官は低く、地を這うような声で言葉を繋ぐ。
「……だがな。それに匹敵するほど俺が嫌悪しているのは――他人の過去を土足で詮索した挙げ句、その傷口に無遠慮に踏み込んでくる連中だ」
大声を張り上げたわけでもなければ、乱暴にテーブルを叩き割ったわけでもない。声のトーン自体は、先ほどまでと変わらない冷淡で平坦なそれだった。
だが、その静寂の中に混じる狂おしいほどの温度のなさが、かえって致命的なまでの激怒を物語っていた。誰にとっても侵されてはならない心の内核。そこに土足で踏み込み、傷口をこじ開けて解剖していたローンの好奇心や言動に対する嫌悪感。
ほんの数十秒前まで卓上に漂っていた、酒と料理の匂いに包まれた和やかな空気は一瞬にして雲散霧消した。残されたのは、呼吸すら憚られるほどに鋭く研ぎ澄まされた、凍りつくような殺意の余韻だけだ。
重苦しい沈黙が、ふたりの間を重く支配する。
食堂の周囲の喧騒すら遠くへ押し追いやられたかのような濃密な沈黙の中、先に口を開いたのはローンだった。
「……すいません」
いつもの余裕に満ちた笑みを綺麗に消し去り、彼女は琥珀色の瞳をわずかに伏せ、素直にその一言を落とした。
「二度とするな」
短く、吐き捨てるように告げられた指揮官からの言葉。
その瞬間、――一瞬だけ、ローンはその背筋に激しい悪寒を走らせた。
戦場で破壊と殺戮を貪り、死など恐れもしないはずの彼女の心が、生まれて初めて「純粋な恐怖」という感情に直撃された瞬間だった。狂気や憎悪といった感情の熱すら存在しない、殺意。それがどれほど凄惨で、どれほど絶対に踏み込んではいけない領分であったのかを。
久々の酒に少し酔いが回っていたせいもあったかもしれない。あるいは、このどこまでも冷淡な青年と、ほんの少しでも深いところで親交を深めたいという思いがあったのも事実だった。
だが――あまりにもやり過ぎてしまった。触れてはならぬ禁忌の領域を土足で踏みにじってしまったのだと、ローンは強い後悔に苛まれていたのだ。
なぜなら、彼女が本当に言いたかった言葉は、決して彼を傷つけたり弄んだりするようなものではなかったからだ。
――貴方は、きっと誰かのために戦っている。
戦場に立っても楽しくはない。敵を打ち砕いても心は決して満たされない。かといって、燃え盛る復讐心だけに身を焦がしているわけでもなく、ただ従順な国家への忠誠とも違う。己の欲望や破壊衝動といったプリミティブな感情に従うのでもなく――ただひたすらに、己のすべてを殺して『他者』のために戦い続けているように見えてならなかった。
戦いの中にしか生の快楽を見出せない自分から見れば、その姿があまりにも痛々しく、そして果てしなく不思議で堪らなかった。ただそれだけを、彼に確かめたかったのだ。
だが、そんな内心の弁明をいまさら口にしたところで、何の意味もなさないことをローンは痛いほど理解していた。
「……ふふ、少し……言い過ぎてしまいましたね」
微かな自嘲を交え、ローンは静かにジョッキを傾けた。残っていた冷えたビールを喉へと流し込むが、先ほどまで感じていた芳醇な旨味はすっかり失われ、ただ重く苦い後味が口内いっぱいに広がっていく。
いつもの優美で余裕に満ちた佇まいは影を潜め、彼女は小さく肩を落とすと、しゅんとした様子で手元のグラスをじっと見つめるのだった。
重苦しい殺気がようやく収まり、沈黙が二人の間に澱のように滞っていたその時、パタパタと小走りの足音が静かな食堂の床を鳴らして近づいてきた。
「あっ、指揮官! それに……ローンさん? お疲れ様です!」
不意に聞こえたハキハキとした声に、二人の視線が同時に向けられる。そこに立っていたのは、動きやすいシンプルなジャージ姿に着替えたマルスである。日課の激しい訓練を終えたばかりなのだろう。額には微かに汗が滲み、呼吸にも少しばかりの疲労の色が伺えたが、その表情にはそれを微塵も感じさせないいつもの太陽のような明るさと快活さが満ち溢れていた。
張りつめていた刺々しい空気を、彼女の登場が一瞬にして吹き飛ばしていく。
「……どうした」
「あ、これなんですけど!」
マルスは抱えていたタッパーを嬉しそうに提示してみせた。フタを開けると、ふわりと甘酸っぱく爽やかな香りが広がり、重苦しかった卓上の空気を一瞬で塗り替えていく。
そこに収められていたのは、見事に均一な厚さにスライスされた鮮やかな黄色のレモンと、それをたっぷりと満たす琥珀色の清涼な蜂蜜だった。
濃厚でトロリとした蜂蜜の海の中で、レモンの皮と果肉がツヤツヤと光を反射して輝いている。果汁がじっくりと時間をかけて染み出した蜂蜜はほどよく緩み、輪切りの果肉の隙間まで黄金色の滴をしっかりと纏わせていた。
甘やかな黄金の蜜と、果肉から立ち上るフレッシュな柑橘の酸味――ひと目見ただけで舌の裏側がキュッと絞られるような、そして激しい訓練後の疲れた体にどこまでも優しく浸透していくであろう物がそこにはある。
「昨日レモンの蜂蜜漬けを作ったんです! でも、ちょっと力を入れすぎて作り過ぎちゃいまして……よろしければ、お二人とも召し上がりませんか?」
「あらあら……ありがとうございます、マルスちゃん」
「タッパーはまた今度返してもらえれば大丈夫ですので! それじゃあ、私はもう少しだけ走ってきますね!」
ローンは重く沈んでいた表情をそっと改めると、柔らかい笑みを浮かべて差し出されたタッパーを両手で優しく受け取る。、そしてマルスはそう言うやいなや、風のように爽やかな笑顔を残し、再びパタパタと足音を響かせて嵐のように走り去っていった。
彼女の去ったあとの空間には、甘酸っぱいレモンと清涼な蜂蜜の香りだけが静かに取り残される。
再び訪れた静寂。
ローンは添えられていた小さなフォークで、ツヤツヤと輝く輪切りのレモンをひとつ摘み上げ、ゆっくりと口へと運んでみせる。
「……あっ、美味しい」
ジュワリと口いっぱいに広がる鮮烈な甘酸っぱさと、まろやかな蜂蜜のコク。それが先ほどまで口内に残っていた重く苦いビールと後悔の味を、軽やかに押し流していく。思わず零れ落ちた声には、一切の飾りのない素直な感嘆が籠もっていた。
ローンは小さく息を吐くと、手元のタッパーを少し傾け、向かいに座る指揮官の方へとそっと差し出す。
指揮官は差し出されたタッパーを見つめたまま、一瞬だけ動きを止め、やがて、小さな呼気をひとつ吐き出すと、卓上に置かれていたフォークへと静かに手を伸ばす。
黄金色の蜜をたっぷりと纏った輪切りのレモンをひとつ、果肉の中央へフォークを突き刺す。滴り落ちる蜜の雫を揺らしながら口へと含むと、ゆっくりと噛み締めた。
ハッと目が覚めるような爽快な酸味が舌を刺し、直後にそれを包み込む蜂蜜の芳醇でトロリとした甘みが口いっぱいに広がっていく。噛み砕くたびに果汁と蜜が溢れ出し、冷めて乾いていた口内を心地よく潤していった。
……重苦しい静寂が、一瞬だけ優しくほどける。
果汁を呑み込んだ後、ずっと己の手元に置かれたまま、一度も触れられることのなかった一本の深緑色の瓶――鉄血から届けられたビールへと彼の瞳が落ちる。
無言のまま、彼はゆっくりと腕を伸ばし、冷えた硝子瓶の首を掴み上げれば、手持ちの重厚なジョッキを少しだけ傾けると、静かな所作で琥珀色の液体を注ぎ始めた。
トクトクと重みのある澄んだ音覚が静かな卓上に響き渡る。傾けられたグラスの底から鮮やかな琥珀色が満ちていき、表面にはきめ細やかで真っ白な泡の層がゆっくりと盛り上がっていく。冷気によって硝子の表面には細かな水滴が生まれ、木肌の上へと一滴滑り落ちる。そして、注ぎ終えると、指揮官は躊躇なくジョッキを持ち上げ、そのまま口元へと運んだ。
喉を鳴らし、冷たい液体を流し込む。
重厚な麦芽の香りとズシリと重い苦味が、先ほどまで舌に残っていたレモンの力強い甘酸っぱさと鮮やかに交錯した。果実の酸味とビールの苦みが互いを引き立て合い、爽快な余韻とともに喉の奥へと滑り落ちていく。
コトン、と静かな音を立てて、ジョッキが卓上へと戻された。
「……どちらも、悪くない」
「……よかったです」
ぽつりと漏れ出たローンの声には、飾りのない安堵の色が静かに滲んでいた。先ほどまでの後悔と緊張が和らぎ、手元の硝子杯に視線を落としながら、彼女はどこか意を決したように静かに言葉を重ねる。
「……また、一緒にお酒を飲みませんか?」
問いかけの後、静まり返った大食堂に短く、重みのある沈黙が横たわった。
冷たく拒絶されてもおかしくはない。あるいは「考えておく」といった曖昧な返答や、煩わしそうな溜め息で流されても不思議ではない。それ程までにローンは己の失敗を理解していたし、拒否されても文句が言えるはずはない。
しかし――。
「……分かった」
落とされたのは、短く、誤魔化しない承諾だ。その一言に、ローンは小さく息を呑み、胸の奥からじわりと広がる温かな感情とともに、そっと表情をほころばせた。
(……マルスちゃんには、後でまたしっかりと感謝しなければいけませんね)
心の中で密かにそう呟きながら、彼女は手元の蜂蜜レモンをもう一口、大切そうに味わうのだった。
重厚な麦芽の苦味と、清涼な蜂蜜の甘酸っぱい香り。
張りつめた殺意が去ったあとの小さな卓上には、深夜の静寂とともに、ほんのわずかな温もりが静かに満ち溢れていたのであった。
・ローン
シンパシーを感じて指揮官と仲良くなろうとするも、距離感をミスってしまったローンちゃん。悪意はなく、まず最初に第一印象と違っていたと語りつつ自身を曝け出し。その上で『分析』したうえで指揮官の本質をと語ろうとするも、その『分析』が指揮官にとっては忌々しい過去に土足で踏み込まれたのと同義。決裂寸前とまでなりましたが、マルスによってどうにか修復されましたとさ。
本作のローンちゃんは基本的に世間一般のパブリックイメージである怖いローンちゃんではなく、ゲーム。アズールレーンCWで描かれた描写を中心に肉付けされて描いているので、怖いローンちゃんはしばらくは描写されることは無いでしょう。そう、しばらくは、ですが。
ちなみに今回の様子を挿絵をするとこんな感じでしょうか?
【挿絵表示】
【挿絵表示】
【挿絵表示】
試しに挿絵を作りましたが、今回は後書きに。もし評判が良ければその内本編でも最近学び始めたAI挿絵が使用されるかもしれません。
コメント、感想、評価をお待ちしています。
指揮官のAIイラストの感想はどうでしょうか?
-
イメージ通り
-
なんかイメージと違う
-
その他(こっちの方がいいよ!と提供など)