彗星の軌跡   作:ニトロP

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第十話 揺るがぬ絆

 翌朝、私は早くから事務所に来ていた。けれど……心が落ち着かない。

 

 ソファに座っては立ち上がり、立ち上がっては窓の外を見て、落ち着きなく時計の針を何度も確認してしまう。

 

 みくさんは、今日……来てくれるだろうか。

 

 心配だった。怖かった。

 あの夜、泣きながら去っていった彼女が何を思い、どんな夜を過ごしたのか……考えるだけで胸が苦しくなる。

 

 ちゃんと……話したい。ちゃんと謝りたい。

 

 でも、それすらできないまま……もう会えなくなってしまったら――そう思うと、不安が喉元に絡みついて呼吸が浅くなる。

 

 そんな私の様子を見かねたのか、茄子さんがそっと微笑んでくれた。

 

 「大丈夫。きっと来ますよ」

 

 優しい声。穏やかな口調。だけど、その目には私と同じような不安が、わずかに浮かんでいるように見えた。

 

 私は、小さく頷くだけで何も言えなかった。

 

 その少し奥では、プロデューサーさんがスマホの画面をじっと見つめていた。まるで、何かを考え込んでいるように、眉間には小さく皺が寄っている。

 

 ……みくさんのことだろうか。

 

 彼女に何かあったのだろうか。聞いてみたい。でも……勇気が出なくて聞けなかった。

 私はただ、じっと座って祈るような気持ちで玄関の方を見つめていた。

 

 しばらくして、扉が開く音がした。

 

 みくさんが、いつものように明るく事務所へ入ってきた。

 

 「おはようにゃー!」

 

 その声に、事務所の空気がぱっと明るくなった気がした。プロデューサーさんも、茄子さんも、安心したように笑顔を浮かべて「おはよう」と返す。

 

 私は立ち上がる。ずっと、この瞬間を待っていた。

 

 ……良かった。ちゃんと来てくれたんだ。

 

 けれど、嬉しさと同時に胸の奥がぎゅっと締めつけられる。何を言えばいいのか、どうやって向き合えばいいのか、わからなかった。

 

 「お、おはようございます……みくさん……」

 

 かろうじて声をかけると、彼女はこちらをちらりと見て、いつものように微笑んでくれた。でも――その目には、どこか少しだけ距離があるようにも見えた。

 

 「Pチャン。……迷惑かけちゃって、ごめんにゃ」

 

 「みく……もう大丈夫なのか?」

 

 「ん、大丈夫。今日からまたちゃんとやるにゃ」

 

 プロデューサーさんは、みくさんの言葉に何か思う所があるような表情を浮かべながらも、静かにうなずいた。

 

 「……そっか。でも無理はするなよ」

 

 「うん。ありがとにゃ♪」

 

 その後、みくさんは少し間を置いてから言った。

 

 「……で、さっき連絡した件なんだけど、Pチャン今ちょっとだけ話せる?二人きりで」

 

 「……ああ。応接室が空いてるな。行こうか」

 

 そうして、みくさんとプロデューサーさんは並んで部屋を出て、事務所の隣にある応接室へ入っていった。

 

 私はその背中を、ただ見送ることしかできなかった。

 

 そして、しばらく落ち着かない気持ちのまま、二人が戻ってくるのを待っていた。

 

 何を話しているんだろう。

 まさか……ここを辞めたいって話してるんじゃ。

 昨日、杏さんが家まで行ってくれて、少し元気になったみたいだったけど――でも、それだけで全部うまくいくとは思えなかった。

 

 だから、扉の開く音がして私は反射的に顔を上げた。

 きっと、二人が戻ってきたんだと思った。

 

 けれどそこに立っていたのは――眠そうな顔の杏さんだった。

 

 「おはよー……寝坊した」

 

 そう言いながら、ふらりと中に入ってきて、近くのソファにぐでーんと身を沈める。

 

 「あ……おはようございます。それと、ありがとうございます。昨日、茄子さんに聞きました。……杏さん、みくさんの家に行ったって……」

 

 声が少し震えてしまったけれど、ちゃんとお礼を言わなきゃって思った。

 

 「うん、まあねー。様子見に行っただけだけど」

 

 彼女はあくび混じりに言いながら、ポケットからキャンディを取り出して口に放り込んだ。

 

 その様子はいつもの彼女で、だからこそ私は、なんだか不思議な安心感を覚えてしまった。

 

 「杏ちゃん、みくちゃんは元気に来てますよ。どうやったんですか?」

 

 茄子さんが優しく問いかけると、杏さんは肩をすくめて言った。

 

 「んー、特に何もしてないよ。ちょっと話して、ちょっとぐだぐだして……それで、なんかスッキリしたみたい。ほら、杏は癒し系だから」

 

 「ふふっ、それは心強いですね」

 

 茄子さんがにこやかに笑った。

 

 でも、私は……素直に笑えなかった。

 

 杏さんがそうしてくれたおかげで、みくさんが少しでも楽になったのなら嬉しい。そう思うのに、心のどこかがずっと落ち着かなかった。

 

 みくさんは、何をプロデューサーさんに伝えたんだろう。

 もし、もうこのまま――

 

 ――いなくなる、なんてことがあったら。

 

 そんなことを考えたくはないのに、頭の中では最悪の想像ばかりが渦巻いていた。

 

 そして、少しして――扉が再び開いた。

 今度こそ、みくさんとプロデューサーさんだった。

 

 二人の姿を見て、私はどこか……胸の奥がざわつくのを感じた。

 

 何かが、さっきまでと違う気がした。

 プロデューサーさんは、表情を取り繕うようにして笑っているけれど、どこかぎこちなくて。

 みくさんも……ほんの少しだけ、しおらしくなったような、そんな感じがした。

 

 どちらも、別に変な様子ではない。けれど――やっぱり何かがあったとしか思えなかった。

 

 「……あ、杏今来たのか。遅刻だぞー」

 

 プロデューサーさんが、ちょっとわざとらしく言う。

 その言葉には、どこか話題をそらすような意図があるようにも感じられた。

 

 「ごめんごめん。昨日いろいろあって疲れたからさー」

 

 杏さんはそう言って、ニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべる。

 その顔を見て、私はますます混乱してしまった。

 

 ……やっぱり何かあったんだ。

 でも、ここで無理に聞くのは何か違う。

 そう思った私は、とりあえず静かに微笑んで、何でもないふりをした。

 

 後で……タイミングを見て、プロデューサーさんに聞いてみよう。みくさんにも、ちゃんと謝らないと。

 そんな風に思いながら、二人の様子をそっと見つめていた。

 

 ――だけど、二人となかなか話すタイミングが掴めないまま、昼休憩の時間になった。

 

 私は次のライブで歌う曲の歌詞を覚えようと、資料を手に一人で部屋に残っていた。

 声に出して練習しようとしたのに、ページを開いたまま、ずっと同じところを見つめているだけだった。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、歌詞なんてまったく入ってこなかった。

 

 その時、静かに扉が開いた音がして、私は顔を上げた。

 

 そこには、みくさんがお弁当を持って立っていた。

 

 「ねぇ、ほたるちゃん。一緒にお昼ご飯、食べない?」

 

 いつも通りの声。優しい笑顔。まるで、何もなかったみたいに。

 

 だけど私は、あの夜のことが忘れられなかった。……泣きながら、あの暗い夜道を走り去っていった、みくさんの後ろ姿。

 

 だから……胸が痛かった。

 

 でも、その目を見たら……断れなかった。

 彼女は、ちゃんと顔を上げてここに来てくれた。だったら、私も向き合わなきゃいけない。逃げちゃいけないって思った。

 

 「……はい。ご一緒します」

 

 私がそう言うと、彼女は小さく笑って隣の椅子に座った。

 

 「……あの、みくさん……」

 

 声が、うまく出なかった。胸の奥が締めつけられて、手のひらに、じっと汗がにじんでくる。

 

 言わなきゃいけないって、わかってる。ここまで来てくれた彼女に、私もちゃんと伝えなきゃって……ずっと、思っていた。

 

 だから勇気を出して、唇を震わせながら声にした。

 

 「……その……私、みくさんの気持ちを知らなくて……それで、抜け駆けしたみたいにプロデューサーさんに……告白してしまって、ごめんなさい……」

 

 彼女の、あの時の気持ちを想像したら……胸の奥が、ずっとひりひりしていた。

 

 私だったらきっと――同じように泣いてしまっていたと思う。好きな人が、いつの間にか他の誰かに奪われたら……きっと、どうしていいかわからなくなる。

 

 だから……謝るしかなかった。

 どんな言葉を尽くしても足りないと思ったけど、それでも謝罪の気持ちを伝えたくて、私はそう口にした。

 

 だけど、彼女すぐに首を横に振った。

 

 「謝ることなんて、ないよ。……知らなかったんだし」

 

 その言葉に、私は目を見開いた。

 

 ……そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってなかった。私はてっきり、恨まれてると思ってた。怒っているとか、悲しんでるとか、そういう気持ちが、きっとまだ残ってるはずだって。

 

 だけど彼女は、穏やかな顔で私を見つめながら続けた。

 

 「……ううん、たとえ知ってたとしても、ほたるちゃんは何も悪くない。好きになった人に気持ちを伝えるのって、悪いことじゃないから」

 

 その言葉が、すとんと胸に落ちて、私は何も言えなくなった。

 こんなに優しくて、強い人に……私はどこまで迷惑をかけてしまったんだろう。

 

 「……そ、そんな……」

 

 思わず俯いた私に、彼女は少しだけ、困ったような笑みを浮かべて言った。

 

 「だから……謝らなきゃいけないのは、むしろみくの方だよ」

 

 私は、顔を上げた。

 

 「え……どういう、ことですか……?」

 

 彼女の言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。

 

 謝らなければならないのは、私じゃなくて……彼女の方?

 

 私の問いかけに、彼女はふっと目を伏せて、小さく息を吐いた。

 

 「……今朝、みくもね。Pチャンに伝えたんだ。好きだって……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、心臓がどくんと音を立てた。

 

 そうか……あの時の二人の様子が少しおかしかったのは、ここを辞めるとかじゃなくて、プロデューサーさんに想いを伝えたからだったんだ。

 

 私の胸の奥で、何かがざわついていた。不安や怖さ……いろんな気持ちが混ざって、言葉が出てこなかった。

 

 私が黙ったまま俯くと、彼女は続けて言った。

 

 「……でも、やっぱりだめだったよ。Pチャンは……ほたるちゃんを裏切れないから、みくとは付き合えないって。断られちゃった」

 

 彼女はそう言って笑った。だけどその笑顔は……とても辛そうで、痛々しくて、見ていられなかった。

 

 私は、どうすればよかったんだろう。

 

 いつも優しくて、まっすぐな人が……こんなにも傷ついてしまっているのに。

 

 全部、私のせいなんじゃないかって……また、そんな考えが頭をよぎってしまった。

 

 「……だけどね」

 

 彼女が、私の目をまっすぐ見つめてきた。さっきまでの穏やかな雰囲気が、少しだけ変わったように感じた。

 そして真剣な表情を私に向けた。

 

 「みくは……まだ諦めてないんだ。Pチャンの事を。だって、一緒にいると……心があったかくなるの。苦しいことがあっても、笑えるの。だから……みくは、Pチャンの特別になりたいって思ってる。アイドルとしてじゃなくて……一人の女の子として」

 

 その言葉を聞いて、胸がぎゅっと締めつけられた。

 

 ――わかる。私もそうだった。最初は憧れで……それが、どんどん膨らんで。いつの間にか、プロデューサーさんの隣にいたいって思うようになっていた。

 

 担当のアイドルだから、じゃなくて。白菊ほたるという、一人の人間として、好きになったから。

 

 「この気持ちを……抑えて、忘れるなんてできなかった。だから……ごめんね」

 

 彼女の声は、少しだけ震えていた。

 

 私には、そんな彼女を責める言葉なんて出てこなかった。自分の気持ちと同じくらい、強くて、切実で……本物だったから。

 

 「私も……同じ気持ちでした」

 

 胸の奥が苦しくて、でも、どうしても伝えなきゃいけないと思った。

 

 「プロデューサーさんといると、不幸な私でも前を向いていけるんです。誰かのために頑張ろうって思えるし……初めて、幸せって思えるようになったんです」

 

 彼女は、静かに私を見つめていた。やがて、ふっと優しく笑った。

 

 「そっか。そうだよね」

 

 その笑顔は、少しだけ切なくて、でもとてもあたたかかった。

 

 「だったらさ、Pチャンをしっかり捕まえておくんだよ。……隙があったら、みくがPチャンを奪っちゃうから」

 

 冗談みたいに言っていたけれど――その瞳は本気だった。

 

 あの時見た涙のあとが、まだほんのり残ってるように見えた。

 

 きっと私の目も、今の彼女と同じなんだろうなって思った。

 

 そして、私は少しだけ迷ったけれど、それでもちゃんと伝えなきゃと思って口を開いた。

 

 「はい。これからも……プロデューサーさんに私を好きでいてもらえるように、頑張ります」

 

 自分で言っていて、少しだけ恥ずかしくなったけれど正直な気持ちだった。

 

 彼女はそれを聞いて、にっこりと笑ってくれた。

 

 「みくさん……自分が辛いはずなのに、私のことを責めずに……こんな私なんかに優しくしてくれて……本当に、ありがとうございます」

 

 涙がこぼれそうになったけど、必死にこらえた。

 

 「ううん。みくよりほたるちゃんの方が、勇気があったからこうなっただけだよ。だから責めるなんて、するわけないよ。……もしみくの方が先に告白していたら、立場は逆だったかもしれないし……」

 

 そう言って、彼女はどこか遠くを見つめていた。ほんの少しだけ寂しそうに、でも穏やかに。彼女の強さと優しさが、私の胸にしみた。

 

 そして彼女は、少し肩の力を抜いたように表情をゆるめて、口を開いた。

 

 「でも……Pチャンとほたるちゃんに、みくの想いを話せて、ちょっとだけスッキリしたよ」

 

 深呼吸を一つしてから、彼女は立ち上がった。そして、私の目をまっすぐ見つめる。

 

 「ほたるちゃんが大事な仲間なのは変わらないけど……これからは恋のライバルとしても、よろしくね。絶対いつかPチャンをみくのものにするから。……みくは自分を曲げないよ!」

 

 その瞳はとても強くて、でもどこまでも優し買った。

 ――そんな彼女の熱い気持ちを受けて、私も胸の奥が少し熱くなった。

 

 「はい。私も……負けません。このまま、プロデューサーさんの気持ちを繋ぎ止めてみせます!」

 

 気づけば自然と、そんなふうに返していた。

 

 二人で見つめ合って、そしてふっと笑い合う。

 

 言葉では言い表せない感情が、私たちの間に流れていた。

 切なさも、強がりも、決意も、全部ひっくるめて――同じ人を好きになった者同士、どこか不思議な、でも今まで以上の新たな絆がそこに生まれた気がした。

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