翌朝、私は早くから事務所に来ていた。けれど……心が落ち着かない。
ソファに座っては立ち上がり、立ち上がっては窓の外を見て、落ち着きなく時計の針を何度も確認してしまう。
みくさんは、今日……来てくれるだろうか。
心配だった。怖かった。
あの夜、泣きながら去っていった彼女が何を思い、どんな夜を過ごしたのか……考えるだけで胸が苦しくなる。
ちゃんと……話したい。ちゃんと謝りたい。
でも、それすらできないまま……もう会えなくなってしまったら――そう思うと、不安が喉元に絡みついて呼吸が浅くなる。
そんな私の様子を見かねたのか、茄子さんがそっと微笑んでくれた。
「大丈夫。きっと来ますよ」
優しい声。穏やかな口調。だけど、その目には私と同じような不安が、わずかに浮かんでいるように見えた。
私は、小さく頷くだけで何も言えなかった。
その少し奥では、プロデューサーさんがスマホの画面をじっと見つめていた。まるで、何かを考え込んでいるように、眉間には小さく皺が寄っている。
……みくさんのことだろうか。
彼女に何かあったのだろうか。聞いてみたい。でも……勇気が出なくて聞けなかった。
私はただ、じっと座って祈るような気持ちで玄関の方を見つめていた。
しばらくして、扉が開く音がした。
みくさんが、いつものように明るく事務所へ入ってきた。
「おはようにゃー!」
その声に、事務所の空気がぱっと明るくなった気がした。プロデューサーさんも、茄子さんも、安心したように笑顔を浮かべて「おはよう」と返す。
私は立ち上がる。ずっと、この瞬間を待っていた。
……良かった。ちゃんと来てくれたんだ。
けれど、嬉しさと同時に胸の奥がぎゅっと締めつけられる。何を言えばいいのか、どうやって向き合えばいいのか、わからなかった。
「お、おはようございます……みくさん……」
かろうじて声をかけると、彼女はこちらをちらりと見て、いつものように微笑んでくれた。でも――その目には、どこか少しだけ距離があるようにも見えた。
「Pチャン。……迷惑かけちゃって、ごめんにゃ」
「みく……もう大丈夫なのか?」
「ん、大丈夫。今日からまたちゃんとやるにゃ」
プロデューサーさんは、みくさんの言葉に何か思う所があるような表情を浮かべながらも、静かにうなずいた。
「……そっか。でも無理はするなよ」
「うん。ありがとにゃ♪」
その後、みくさんは少し間を置いてから言った。
「……で、さっき連絡した件なんだけど、Pチャン今ちょっとだけ話せる?二人きりで」
「……ああ。応接室が空いてるな。行こうか」
そうして、みくさんとプロデューサーさんは並んで部屋を出て、事務所の隣にある応接室へ入っていった。
私はその背中を、ただ見送ることしかできなかった。
そして、しばらく落ち着かない気持ちのまま、二人が戻ってくるのを待っていた。
何を話しているんだろう。
まさか……ここを辞めたいって話してるんじゃ。
昨日、杏さんが家まで行ってくれて、少し元気になったみたいだったけど――でも、それだけで全部うまくいくとは思えなかった。
だから、扉の開く音がして私は反射的に顔を上げた。
きっと、二人が戻ってきたんだと思った。
けれどそこに立っていたのは――眠そうな顔の杏さんだった。
「おはよー……寝坊した」
そう言いながら、ふらりと中に入ってきて、近くのソファにぐでーんと身を沈める。
「あ……おはようございます。それと、ありがとうございます。昨日、茄子さんに聞きました。……杏さん、みくさんの家に行ったって……」
声が少し震えてしまったけれど、ちゃんとお礼を言わなきゃって思った。
「うん、まあねー。様子見に行っただけだけど」
彼女はあくび混じりに言いながら、ポケットからキャンディを取り出して口に放り込んだ。
その様子はいつもの彼女で、だからこそ私は、なんだか不思議な安心感を覚えてしまった。
「杏ちゃん、みくちゃんは元気に来てますよ。どうやったんですか?」
茄子さんが優しく問いかけると、杏さんは肩をすくめて言った。
「んー、特に何もしてないよ。ちょっと話して、ちょっとぐだぐだして……それで、なんかスッキリしたみたい。ほら、杏は癒し系だから」
「ふふっ、それは心強いですね」
茄子さんがにこやかに笑った。
でも、私は……素直に笑えなかった。
杏さんがそうしてくれたおかげで、みくさんが少しでも楽になったのなら嬉しい。そう思うのに、心のどこかがずっと落ち着かなかった。
みくさんは、何をプロデューサーさんに伝えたんだろう。
もし、もうこのまま――
――いなくなる、なんてことがあったら。
そんなことを考えたくはないのに、頭の中では最悪の想像ばかりが渦巻いていた。
そして、少しして――扉が再び開いた。
今度こそ、みくさんとプロデューサーさんだった。
二人の姿を見て、私はどこか……胸の奥がざわつくのを感じた。
何かが、さっきまでと違う気がした。
プロデューサーさんは、表情を取り繕うようにして笑っているけれど、どこかぎこちなくて。
みくさんも……ほんの少しだけ、しおらしくなったような、そんな感じがした。
どちらも、別に変な様子ではない。けれど――やっぱり何かがあったとしか思えなかった。
「……あ、杏今来たのか。遅刻だぞー」
プロデューサーさんが、ちょっとわざとらしく言う。
その言葉には、どこか話題をそらすような意図があるようにも感じられた。
「ごめんごめん。昨日いろいろあって疲れたからさー」
杏さんはそう言って、ニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべる。
その顔を見て、私はますます混乱してしまった。
……やっぱり何かあったんだ。
でも、ここで無理に聞くのは何か違う。
そう思った私は、とりあえず静かに微笑んで、何でもないふりをした。
後で……タイミングを見て、プロデューサーさんに聞いてみよう。みくさんにも、ちゃんと謝らないと。
そんな風に思いながら、二人の様子をそっと見つめていた。
――だけど、二人となかなか話すタイミングが掴めないまま、昼休憩の時間になった。
私は次のライブで歌う曲の歌詞を覚えようと、資料を手に一人で部屋に残っていた。
声に出して練習しようとしたのに、ページを開いたまま、ずっと同じところを見つめているだけだった。
頭の中がぐちゃぐちゃで、歌詞なんてまったく入ってこなかった。
その時、静かに扉が開いた音がして、私は顔を上げた。
そこには、みくさんがお弁当を持って立っていた。
「ねぇ、ほたるちゃん。一緒にお昼ご飯、食べない?」
いつも通りの声。優しい笑顔。まるで、何もなかったみたいに。
だけど私は、あの夜のことが忘れられなかった。……泣きながら、あの暗い夜道を走り去っていった、みくさんの後ろ姿。
だから……胸が痛かった。
でも、その目を見たら……断れなかった。
彼女は、ちゃんと顔を上げてここに来てくれた。だったら、私も向き合わなきゃいけない。逃げちゃいけないって思った。
「……はい。ご一緒します」
私がそう言うと、彼女は小さく笑って隣の椅子に座った。
「……あの、みくさん……」
声が、うまく出なかった。胸の奥が締めつけられて、手のひらに、じっと汗がにじんでくる。
言わなきゃいけないって、わかってる。ここまで来てくれた彼女に、私もちゃんと伝えなきゃって……ずっと、思っていた。
だから勇気を出して、唇を震わせながら声にした。
「……その……私、みくさんの気持ちを知らなくて……それで、抜け駆けしたみたいにプロデューサーさんに……告白してしまって、ごめんなさい……」
彼女の、あの時の気持ちを想像したら……胸の奥が、ずっとひりひりしていた。
私だったらきっと――同じように泣いてしまっていたと思う。好きな人が、いつの間にか他の誰かに奪われたら……きっと、どうしていいかわからなくなる。
だから……謝るしかなかった。
どんな言葉を尽くしても足りないと思ったけど、それでも謝罪の気持ちを伝えたくて、私はそう口にした。
だけど、彼女すぐに首を横に振った。
「謝ることなんて、ないよ。……知らなかったんだし」
その言葉に、私は目を見開いた。
……そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってなかった。私はてっきり、恨まれてると思ってた。怒っているとか、悲しんでるとか、そういう気持ちが、きっとまだ残ってるはずだって。
だけど彼女は、穏やかな顔で私を見つめながら続けた。
「……ううん、たとえ知ってたとしても、ほたるちゃんは何も悪くない。好きになった人に気持ちを伝えるのって、悪いことじゃないから」
その言葉が、すとんと胸に落ちて、私は何も言えなくなった。
こんなに優しくて、強い人に……私はどこまで迷惑をかけてしまったんだろう。
「……そ、そんな……」
思わず俯いた私に、彼女は少しだけ、困ったような笑みを浮かべて言った。
「だから……謝らなきゃいけないのは、むしろみくの方だよ」
私は、顔を上げた。
「え……どういう、ことですか……?」
彼女の言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。
謝らなければならないのは、私じゃなくて……彼女の方?
私の問いかけに、彼女はふっと目を伏せて、小さく息を吐いた。
「……今朝、みくもね。Pチャンに伝えたんだ。好きだって……」
その言葉を聞いた瞬間、心臓がどくんと音を立てた。
そうか……あの時の二人の様子が少しおかしかったのは、ここを辞めるとかじゃなくて、プロデューサーさんに想いを伝えたからだったんだ。
私の胸の奥で、何かがざわついていた。不安や怖さ……いろんな気持ちが混ざって、言葉が出てこなかった。
私が黙ったまま俯くと、彼女は続けて言った。
「……でも、やっぱりだめだったよ。Pチャンは……ほたるちゃんを裏切れないから、みくとは付き合えないって。断られちゃった」
彼女はそう言って笑った。だけどその笑顔は……とても辛そうで、痛々しくて、見ていられなかった。
私は、どうすればよかったんだろう。
いつも優しくて、まっすぐな人が……こんなにも傷ついてしまっているのに。
全部、私のせいなんじゃないかって……また、そんな考えが頭をよぎってしまった。
「……だけどね」
彼女が、私の目をまっすぐ見つめてきた。さっきまでの穏やかな雰囲気が、少しだけ変わったように感じた。
そして真剣な表情を私に向けた。
「みくは……まだ諦めてないんだ。Pチャンの事を。だって、一緒にいると……心があったかくなるの。苦しいことがあっても、笑えるの。だから……みくは、Pチャンの特別になりたいって思ってる。アイドルとしてじゃなくて……一人の女の子として」
その言葉を聞いて、胸がぎゅっと締めつけられた。
――わかる。私もそうだった。最初は憧れで……それが、どんどん膨らんで。いつの間にか、プロデューサーさんの隣にいたいって思うようになっていた。
担当のアイドルだから、じゃなくて。白菊ほたるという、一人の人間として、好きになったから。
「この気持ちを……抑えて、忘れるなんてできなかった。だから……ごめんね」
彼女の声は、少しだけ震えていた。
私には、そんな彼女を責める言葉なんて出てこなかった。自分の気持ちと同じくらい、強くて、切実で……本物だったから。
「私も……同じ気持ちでした」
胸の奥が苦しくて、でも、どうしても伝えなきゃいけないと思った。
「プロデューサーさんといると、不幸な私でも前を向いていけるんです。誰かのために頑張ろうって思えるし……初めて、幸せって思えるようになったんです」
彼女は、静かに私を見つめていた。やがて、ふっと優しく笑った。
「そっか。そうだよね」
その笑顔は、少しだけ切なくて、でもとてもあたたかかった。
「だったらさ、Pチャンをしっかり捕まえておくんだよ。……隙があったら、みくがPチャンを奪っちゃうから」
冗談みたいに言っていたけれど――その瞳は本気だった。
あの時見た涙のあとが、まだほんのり残ってるように見えた。
きっと私の目も、今の彼女と同じなんだろうなって思った。
そして、私は少しだけ迷ったけれど、それでもちゃんと伝えなきゃと思って口を開いた。
「はい。これからも……プロデューサーさんに私を好きでいてもらえるように、頑張ります」
自分で言っていて、少しだけ恥ずかしくなったけれど正直な気持ちだった。
彼女はそれを聞いて、にっこりと笑ってくれた。
「みくさん……自分が辛いはずなのに、私のことを責めずに……こんな私なんかに優しくしてくれて……本当に、ありがとうございます」
涙がこぼれそうになったけど、必死にこらえた。
「ううん。みくよりほたるちゃんの方が、勇気があったからこうなっただけだよ。だから責めるなんて、するわけないよ。……もしみくの方が先に告白していたら、立場は逆だったかもしれないし……」
そう言って、彼女はどこか遠くを見つめていた。ほんの少しだけ寂しそうに、でも穏やかに。彼女の強さと優しさが、私の胸にしみた。
そして彼女は、少し肩の力を抜いたように表情をゆるめて、口を開いた。
「でも……Pチャンとほたるちゃんに、みくの想いを話せて、ちょっとだけスッキリしたよ」
深呼吸を一つしてから、彼女は立ち上がった。そして、私の目をまっすぐ見つめる。
「ほたるちゃんが大事な仲間なのは変わらないけど……これからは恋のライバルとしても、よろしくね。絶対いつかPチャンをみくのものにするから。……みくは自分を曲げないよ!」
その瞳はとても強くて、でもどこまでも優し買った。
――そんな彼女の熱い気持ちを受けて、私も胸の奥が少し熱くなった。
「はい。私も……負けません。このまま、プロデューサーさんの気持ちを繋ぎ止めてみせます!」
気づけば自然と、そんなふうに返していた。
二人で見つめ合って、そしてふっと笑い合う。
言葉では言い表せない感情が、私たちの間に流れていた。
切なさも、強がりも、決意も、全部ひっくるめて――同じ人を好きになった者同士、どこか不思議な、でも今まで以上の新たな絆がそこに生まれた気がした。