イベント当日まで、1ヶ月を切ったある日――
事務所は少しずつ熱を帯び始めていた。
朝から賑やかな音が聞こえる。
キーボードを叩く音、プリンターの稼働音、それに誰かの笑い声。
どこか慌ただしいけれど、それは決して悪い空気ではなくて、これからの未来に向けて動いている、そんな雰囲気だった。
プロデューサーさんは、ここ最近はリーダーの杏さんと頻繁に打ち合わせをしている。今日は事務所にいるようだったけれど、朝から別室にこもって何やら真剣に話していた。
「杏ちゃん、最近すっごくやる気ですよね」
そんなふうに笑って言ったのは茄子さんだった。
私も、思わず小さく頷いてしまう。
本当に杏さんは変わった……というより、もともと持っていたすごい力を、今回のイベントでようやく全開にしているような……そんな感じだった。
遅刻もほとんどしなくなったし、いつもは「めんどくさい~」ってソファに寝転んでいたのに、今は誰よりも先に資料を読んで、プロデューサーさんと真剣に打ち合わせをしている。
「ふふ、本気になった杏ちゃんは頼もしいですね」
茄子さんは嬉しそうに微笑んでいた。
みくさんも――
「ねぇほたるちゃん、これ見てにゃ」
私のそばに来て、一冊のファイルを広げて見せてくれる。イベントの詳細資料だった。
「ガイドのセリフ、こんな感じでいいかな? Pチャンにも見てもらったけど、やっぱりちゃんと伝えられるか不安で……」
「大丈夫だと思います。みくさん、すごく丁寧に準備されてますし……お客様もきっと、楽しんでくれると思います」
「にゃふ……ありがと。ほたるちゃんがそう言ってくれるとちょっと安心するにゃ~」
彼女は少し照れたように笑って、ファイルを閉じた。
真面目で努力家な彼女の姿を見ていると、時々、自分も負けていられないって思った。
茄子さんはというと――
「この前、パークの方と少しお話したんですけど、七夕の日はお天気が良くなるって占ってもらえたんです~」
「え……占い、ですか?」
「はい♪でも、ちょっとは当たるかもしれませんよ?あ、ほたるちゃん、見てくださいこれ」
彼女が手にしていたのは、小さな七夕飾りのデザイン案だった。
「こういうのをガイドエリアに飾るのはどうかなって。パークの雰囲気にも合いそうですし、来てくれた人たちも短冊を飾れたら、もっと楽しめるかと思って」
「すごいです……茄子さん。そんな素敵なアイデア、どうやって思いつくんですか?」
「ふふっ、なんとなくです。あとは、星に願いを……っていうテーマですしね」
優しく笑う彼女の声に、何だか心がぽっとあたたかくなった。
……そう。みんな頑張ってる。
それぞれのやり方で、このイベントに向き合っていた。
すると、茄子さんが私の手元のバッグに目をとめて、穏やかな声で言った。
「ほたるちゃん、今日も追加でレッスンですか?」
「はい。ボイスレッスンと……笑顔の練習を。まだまだ私の笑顔はぎこちないって言われてしまって……みなさんの足を引っ張らないようにって、思ってて……」
ここ最近、私はみんなよりもレッスン時間を増やしてもらっていた。
それは、自分の未熟さがみんなの足を引っ張るかもしれないという不安と――
それ以上に、みんなの頑張りを無駄にしたくない、という思いからだった。
すると、みくさんが優しい顔で私の隣に腰を下ろしながら言った。
「でもね、ほたるちゃん。頑張りすぎて体壊しちゃったら意味ないにゃ?ライブ前に倒れたりしたら、ほんとに困っちゃうよ〜」
「そうですよ」と、茄子さんもにっこり。
「私たち四人、全員そろって『Stellarium』なんですから。ほたるちゃんが欠けちゃったら、星座にならなくなっちゃいますよ?」
そう言いながら、彼女はバッグの中から一本の小さな瓶を取り出して、私に差し出してくれた。
「はい、どうぞ♪栄養ドリンクです。元気が出ますよ〜」
「えっ……ありがとうございます……!」
思いがけない気遣いに、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
私が不安な時、ちゃんと誰かが見ていてくれる。
そして笑って、そっと手を差し伸べてくれる――
私は、心からこの場所が好きだと思った。
すると――茄子さんが、ふいに小首を傾げて笑った。
「あ、それはレッスンの後に飲んでくださいね。スタミナが100回復しますよ〜」
「ひゃ……100……?どういう事なんですか……」
思わず聞き返すと、彼女は相変わらずのんびりとした口調で答えた。
「う〜ん……人それぞれスタミナの限界値が違いますから、一概には言えないですけど……大体、元気になります♪」
「な、なるほど……?」
いまいち理解は追いつかなかったけど、彼女の笑顔があまりにも自信に満ちていたので、それ以上ツッコむのはやめておいた。
「……茄子さんって、たまによくわからない事言うよね」
みくさんが、ぽつりと呟いた。
私は手の中の、謎の栄養ドリンクを見つめた。成分表示は普通だけど……きっと茄子さんの言う通り、元気になる……そんな気がした。
だから私は、深くは考えないことにして、そっとドリンクをバッグにしまった。
――
その後、レッスンを終えた私は、床に座り込んでしばらく動けずにいた。張りつめていた身体の緊張が一気にゆるんで、まるで足元から力が抜け落ちていくみたいだった。
最近はずっとこんな感じだ。体が重くて、思うように動かない日もある。
だけど――それでも頑張らなきゃって思えるのは、やっぱりあの人のためで……。
……プロデューサーさん。私をアイドルにしてくれた人。私に、大切な夢を見せてくれた人。……そして、その彼の大事なお姉さん。きっと、彼女も夜空の向こうでこのイベントを楽しみにしてくれている。
だから私は、誰よりも一生懸命にならなきゃって思った。
――でも。
目を閉じると、視界の裏側に浮かぶのは、みんなの顔。みくさん、茄子さん、杏さん。それぞれがこのイベントに向けて動き出していて、頼もしくて……だけど、どこか遠く感じる時もある。
私は、ちゃんとその中にいられてるのかな……。
――不安。
そんな言葉が胸に浮かんだけど、今は自分が出来る事を精一杯やるしかない。そう思い直した。
そして私はふと思い出して、横に置いていたバッグを開けた。そして中から小さな瓶を取り出す。そう、茄子さんがくれた例の……栄養ドリンク。
ぱっと見は、どこにでもあるような栄養ドリンクだけど……茄子さんが言っていた「スタミナが100回復しますよ」って言葉が、どうにも頭に残ってしまって。
「……100って、どういう意味なんだろう……?」
あの時もそう思って聞いたけど、よくわからなかった。
それでも……なんだか不思議と信じられる気がした。茄子さんがくれた物だし、悪いものじゃないってことくらい、わかってる。
でも……やっぱりちょっと、怖いな。
……こういう時、私はいつも躊躇ってしまう。
何かを信じて一歩踏み出すことが、まだちょっと苦手で。失敗したらどうしようとか、期待して裏切られたらどうしようとか……そんな事ばかり考えて、怖くなってしまう。
だけど今日もレッスンで、私は精一杯頑張った。みんなに追いつきたくて、追い越したくて――。
このままじゃ、ダメだ。
私は、ぐっと瓶を握りしめた。まだ開けてもいないのに、どこかあたたかい気がしたのは、茄子さんの気持ちがこもっているからだろうか。
「……飲もう。信じてみよう……」
小さく呟いた。
私は少しだけ勇気を出して、瓶の蓋に手をかけた――。
その時だった。
急に、レッスン室の扉が開いて――。
「ほたる。やっぱりここにいたか。お疲れ様」
聞き慣れた優しい声に、私は思わずビクッと体を震わせてしまった。手にしていた瓶が滑りかけて、慌てて両手で包み込むように支える。
――落とさなくてよかった……。
ホッと胸を撫で下ろしながら顔を上げると、そこにはプロデューサーさんの姿があった。驚きと同時に、心の奥にふわりとあたたかいものが広がっていくのを感じた。
「あ、プロデューサーさん……お疲れ様です」
そう返す私の声も、少しだけ弾んでいたかもしれない。
すると彼の視線が私の手元にある瓶に注がれた。
「ん?それって……もしかして茄子から貰った?」
私は小さく頷いた。
「はい。ちょっと前に、事務所でいただいて……」
彼は軽く笑って、「やっぱりな」と言った。
「俺も、前に貰った事がある」
その言葉に、私は思わず身を乗り出してしまった。
「そ、そうなんですか?……で、それで……どうでしたか!?」
我ながら、少し食い気味だった。けれどそれだけ、このドリンクの正体が気になっていたのだ。
だって、茄子さんの言葉の“効きそう”な感じと、よくわからない“不思議さ”が、心の中にずっと引っかかっていて――
私は今、どうしても知りたかったのだ。
これは普通の栄養ドリンクなのか。それとも……茄子さんだけの、何か特別なものなのか。
……だけど、彼は言葉を止めて黙り込んでしまった。
その沈黙が、すごく――いやに長く感じられた。
え……?
まさか、本当に変なものなの……?そんなはずないってわかってるのに、急に不安が押し寄せてくる。
私は戸惑いを隠せずに、思わず声を上げた。
「え……な、何で黙るんですか?怪しい物じゃ……ないですよね、これ……?」
情けないくらいの声で聞いてしまった。心配しすぎかもしれないけど、でも――
彼はそこでようやく口を開き、肩をすくめるようにして、いたずらっぽく笑った。
「怪しいかどうかって聞かれると……うーん、怪しいな!」
「っ……!」
ふざけてるのか本気なのかわからず、胸がきゅっとなったけど――その顔は、冗談交じりの穏やかな笑顔だった。
「でもまあ、元気にはなるよ。変な副作用とかはなかったし……まあ、あれだ。飲んだらわかるってやつかな」
……え、それ、全然安心できないんですけど……。
私の中で迷いがぐるぐる渦巻いたけど、でも。
――茄子さんがくれた物で、プロデューサーさんもちゃんと飲んで、無事だった。
なら、きっと大丈夫。
私はゆっくりとドリンクのふたを開けて、小さく一度だけ深呼吸をする。
「……わかりました。飲みます」
そして意を決して、一口――そして残さず全部飲み干した。
――すると。
あれ……?普通だ。
飲んだ瞬間、私はそう思った。
味も、よくある栄養ドリンクと大差ない。特に変な風味があるわけでもなくて、どこかで飲んだ事があるような……そんな感覚だった。
だからちょっと肩透かしを食らった気持ちになって、小さく首を傾げる。
やっぱり、ただの栄養ドリンクなんじゃ……そう思いかけたその時だった。
「どう?体の調子」
彼が、少し様子を窺うように言った。
「え?別に、普通――」
そう言いかけた瞬間だった。
ふと、違和感――いや、違和感とは逆の異常な“快調さ”に気づいた。
さっきまで鉛みたいに重かった身体が、嘘みたいに軽い。
足も肩も、さっきまでバキバキに張っていたはずなのに……何もない。
「……あれ?うそ……?か、体が……軽い!?」
我ながら驚くほど大きな声が出てしまって、思わず口元を手で覆う。
でも、それくらい信じられなかった。本当に、疲れが全部どこかに飛んでいってしまったみたいで。
すると彼は、ああ……という感じで、やっぱりなと言わんばかりに笑った。
「不思議だろ?何故か効くんだ……怖いくらいにな」
そう言って少し苦笑しながら私を見るその顔は、どこか半分呆れているようで、半分は誇らしげでもあって。
私はその表情を見て、少しだけ笑ってしまった。
「すごいですけど……何なんですか、これ?」
信じられないほど元気になった体を感じながら、私は手に持った空の小瓶を見つめて、彼に尋ねた。
彼は肩をすくめて、少し苦笑するように言った。
「いや、俺もよくわからない。茄子に聞いた事もあるけどさ、天然なのかはぐらかしてるのか……笑顔でふわっとかわされるんだよな。結局、謎のまま」
「そうですか……」
そう、彼女の“すごさ”は、いつも私たちには理解できないことばかりだった。
「それに、私とは真逆の……あのものすごい幸運も謎ですし……」
つい本音がこぼれてしまって、口に出した後に少しだけ恥ずかしくなる。
でも彼は、それを否定するでもなく、少し遠くを見るような目で続けた。
「なんかさ、茄子って……時々、人智を超えてるっていうか……そんな感じがするんだよな」
「……わかる気がします」
「うん。だから、なんとなくだけど、茄子の事はあんまり深く考えすぎないようにしてる。いろいろ考えても答えが出ないし。でも……少なくとも、みんなの幸せを思って動いてくれてるのは、間違いないと思ってる」
その言葉には、茄子さんへの信頼が込められていて――私も自然と少し微笑んでいた。
確かに茄子さんは不思議な人だけど、私も彼と同じ気持ちだった。
「ところで……あの、プロデューサーさん。何か私に用事があったのでは……?」
ふと思い出して尋ねると、彼は「あっ、そうだった」と軽く額を叩いてから、真面目な顔で言った。
「今みんな集まってるんだ。ほたるも来てくれるか?」
「はい、もちろんです!」
そうして私たちは並んで廊下を歩き始めると、彼は話題を切り出した。
「ミニライブと、最終日の七夕ライブなんだけど……どっちも、星とか七夕をテーマにした曲じゃないとダメなんだ。まあ、テーマパークとのコラボだから当然なんだけどさ」
「……まぁ、そうですよね。でも……」
言いかけた私の言葉を、彼は先回りして受け取る。
「うん。だけど、今のみんなの持ち歌には、そういうのを題材にした曲は無いんだ」
その言葉を聞いて、私は少し先の展開が見えた気がした。
「……なるほど。つまり何を歌うか――カバー曲を選ばないといけないって事ですね」
「その通り。今みんなで候補を出し合ってる最中だ。だから、ほたるにも意見を聞きたくて」
「わかりました。……私も、何か合いそうな曲がないか考えてみます」
星に願いを――このテーマパークにふさわしい、心に届く一曲を。
そう思いながら、私は一歩、足取りを速めた。
――
みんなのいる部屋に戻ると、3人ともソファーや椅子に腰かけて、それぞれスマホとイヤホンで何かを聴いていた。
その様子から、真剣に曲を探しているのが伝わってくる。
すると茄子さんが私に気づいて、優しく微笑みながら話しかけてきた。
「あ、ほたるちゃん。お疲れ様です♪ドリンク飲んで元気になりましたか〜?」
「は、はい。あの……ありがとうございました」
あの異様に効きすぎるドリンクのことは、まだ体がふわっと軽く感じるくらいだったけれど……。
何故か、深く追及してはいけないような、そんな気がして、私はそれ以上触れない事にした。
その時、プロデューサーさんが全体を見渡しながら声をかける。
「で、どうだ?何か良い曲はあったか?」
杏さんがソファーにもたれたまま、スマホを軽く持ち上げて見せた。
「ん〜、まあ定番だけど……コレかな」
そう言って画面を指差した彼女の表情は、少し気だるげだけど、どこか自信も感じられるものだった。
選んだその曲が、私たち“Stellarium”のステージにどんな光をもたらすのか――。
私と彼は興味と期待が入り混じった気持ちで、杏さんのスマホを覗き込んだ。
「なるほど……“君の知らない物語”か。夏の夜にピッタリだな」
彼が感心したように呟いた。
「でしょ?アニソンだけど、一般にも知名度あるし……ただ、ちょっと悲しい曲なんだよねー」
杏さんがそう言って肩をすくめる。確かにあの曲は、綺麗で切なくて、心に残る旋律と詞を持っている。
「いや、でもいいんじゃないか?」
彼が頷きながら口を開いた。
「確かに失恋をテーマにした曲だけど……お客さんに感動してもらうためには、こういう曲でも――」
そこで、ふと表情が止まった。言葉の続きを呑み込むように目を伏せる。
私も、すぐにその意味がわかった。
――みくさんのことだ。
失恋したばかりの彼女に、こんな切ない曲を歌わせるなんて……それは、もしかしたら彼女の心の傷を抉ることになるかもしれない。
だけど、意外にもみくさんは――笑っていた。
「うん。良いと思うにゃ。しっとりと歌い上げれば、みんな感動するかも」
そう言って優しく笑った彼女の笑顔は、少しだけ寂しそうで、それでも凛としていて。
私は、そんな彼女の強さに胸が締めつけられた。
「そ、そっか。じゃあ……この曲は七夕ライブで歌うって事で、いいか?」
彼の問いかけに、私たちは順に頷いた。
「……あー、みくさぁ。本当に大丈夫?」
杏さんが、少し心配そうに眉をひそめて、みくさんを見る。
だけど――
「大丈夫だよ杏ちゃん」
彼女は微笑んでいた。
「みくは、この歌詞の子と違って……ちゃんと伝えられたから」
その言葉には、どこか達観したような穏やかさと、わずかな強がりのような響きがあった。
そしてすぐに、いつもの調子で彼の方に顔を向けて――
「しっかり心を込めて歌うから、ちゃんと聴いてよね?それでみくのこと、考え直してもいいんだよ〜?」
からかうような口ぶりで、にゃっと笑ってみせた。
彼は、気まずそうに視線を逸らして「ハハ……どうかな……」と曖昧に笑った。
――なんだか立場が逆転してしまったみたい。
以前は彼の方が、よくみくさんをからかっていたのに。
今はみくさんが、彼を茶化すような場面の方が増えた気がする。
けれど、そんな明るさの奥にある彼女の気持ちを思うと――
胸が少し痛くなった。
それからも、私たちはスマホを手に、それぞれの想いを胸に曲を探し続けた。
もっとお客さんに喜んでもらえるように。もっとこのイベントを特別なものにできるように。
意見を出し合いながら、笑い合いながら、時には真剣に悩みながら――
その中で、私は改めてみくさんの強さを思い知った。
心の奥を打ち明けて、傷ついたはずなのに。
それでも前を向いて、笑顔で曲を選び、みんなのために動いている。
その姿はとても眩しくて……私も、彼女みたいに強くなりたいと思った。
最高のイベントにするために。
私も、逃げずに前を向いて……彼の隣に、胸を張って立てるように。
その夜は、事務所の一室で遅くまで音楽と私たちの声が響いていた。