彗星の軌跡   作:ニトロP

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第三話 光の傍で

 午後の光が差し込む、少しだけ静かな事務所のエントランス。

 

 制服姿の私は、そっと扉を開けた。

 今日は学校を早退して、午後からのレッスンに間に合うように事務所へ。

 

 足音を立てないように中へ入ると、賑やかな声が耳に届いた。

 

 「みくちゃん、それじゃあリボンが逆になってしまいますよ」

 

 「うにゃっ!?先に言ってほしかったにゃーっ!」

 

 「ほらほら、ふたりとも……杏の分のアイスも残しておいてよね。杏、動かないけど食べるから」

 

 視線を向けると、すでに三人の先輩アイドルがいた。

 茄子さんは椅子に座ったまま、みくさんの髪のセットを手伝っていて、どうやら新しい衣装の合わせか何かでツインリボンを試していたらしい。

 その横で杏さんはソファーに寝転びながら、テーブルに置かれたアイスに手を伸ばしていた。

 

 なんだか、すごく……楽しそうだった。

 

 「お疲れ様です……」

 

 そっと声をかけると、三人が一斉にこちらを振り返る。

 

 「おっ、ほたるちゃん!」

 

 みくさんがいち早く立ち上がり、手を振ってくれる。

 

 「おつかれさまにゃ!今日は学校、午前で終わりだったんでしょ?ちゃんと来られてえらいにゃ~」

 

 「あっ……はい。先生が少し早く出してくれて……無理はしてませんので……」

 

 「それはよかったです。でも、あまり無理しすぎないでくださいね?」

 

 茄子さんが、やさしい声で微笑みながら近づいてきて、私の肩にそっと手を置いてくれた。

 

 「アイスいる? 今なら……まあ、ギリいける」

 

 杏さんが寝転がったまま、スプーンでアイスをひとすくい。表情は変わらないけれど、声にはどこかあたたかさがあった。

 

 そんな三人のやり取りに、胸の奥がふっとあたたかくなる。

 

 きっと、この事務所の空気がやわらかく感じるのは――この人たちがいるからだ。

 

 ――

 

 それからしばらくした後、事務所の一角にあるトレーニングルームにて。

 

 鏡張りの壁が明るい照明を反射して、私たちふたりの姿をくっきりと映している。

 みくさんと並んで、ストレッチから簡単なリズムトレーニングへ。

 息を合わせるように、ステップを刻む。

 

 「……1、2、3、4……うん、いいリズム。次はターン!」

 

 みくさんの掛け声に合わせて身体をひねる。

 その動きはしなやかで、でも芯がまっすぐに通っていて――

 ふわふわした猫キャラの姿からは、ちょっと想像がつかないほど、真剣だった。

 

 (すごい……)

 

 みくさんは、踊るときも表情ひとつ崩さない。

 集中しているときの瞳はまっすぐで、鋭さすら感じさせる。

 テレビで見ていた“アイドル・前川みく”とは、またちがう顔。

 そこには、たしかな努力と、信念のようなものがあった。

 

 私は、つい見入ってしまって――動きを忘れて、立ち止まってしまった。

 

 「……ほたるちゃん?」

 

 みくさんが、すぐに気づいて振り向いた。

 汗をぬぐいながら、小首をかしげるその仕草は、やっぱりどこか猫みたいで。

 

 「あっ……す、すみません……。ちょっと、見惚れてました」

 

 「見惚れてた……にゃ?」

 

 「はい……。あの、みくさん、トレーニング中の顔って……すごく真剣なんですね。テレビで見る姿とか、イベントの時の猫キャラな感じとは、ぜんぜんちがって……」

 

 みくさんは、ちょっとだけ照れたように口元をゆるめて、それから笑った。

 

 「そりゃそうにゃ~。みくも一応、プロアイドルだしレッスンのときくらいは、ちゃんと猫じゃなくて人間になるんだよ」

 

 「ふふっ……前にみくさんが、猫耳もつけてなくて、眼鏡もかけて事務所に来たとき……私、一瞬、新しいアイドル候補生の方かなって思いました」

 

 「あー……あれにゃ。あのときは急いでて、うっかり素で来ちゃったんだよね。Pチャンにも『誰!?』って言われたにゃ」

 

 そう言って、みくさんはケラケラと笑う。

 その声には、いつもの“猫アイドル”の明るさが戻っていた。

 

 だけど――

 私は、やっぱりさっきの、真剣な横顔のほうが印象に残っていた。

 

 (……私も、あんなふうに、なれるかな)

 

 胸の奥に、ぽつりと、小さな火がともるような気がした。

 

 そして、ひと通りのトレーニングを終えた私たちは、スタジオの隅に敷かれたマットの上に腰を下ろして、スポーツドリンクを手にひと息ついていた。

 

 「ふぅ……やっぱ汗かいた後の一杯は格別にゃ~」

 

 みくさんは大きく伸びをしながら、満足そうに笑っている。

 その顔はすっかり、いつもの“猫アイドル”に戻っていて、トレーニング中の凛とした横顔とのギャップに、私はまた胸がきゅっとした。

 

 「みくさんって……切り替えがすごいですよね」

 

 私の言葉に、みくさんはきょとんとした表情を見せた。

 

 「さっきまで、すごく真剣だったのに……今はもう、いつものみくさんに戻ってて。ちゃんと、メリハリをつけてるんだなって思いました」

 

 「あー、なるほどにゃ。そうだね、みくは昔からそういうタイプかも」

 

 ペットボトルを軽く振りながら、みくさんは笑った。

 

 「みくね、アイドルしてる時とそうじゃない時は、ちゃんと分けるようにしてるの。オンとオフ、どっちも大事にしたいんだにゃ。ずーっとアイドルのままだと、疲れちゃうし、逆に楽しくなくなっちゃう気がして」

 

 「……楽しくなくなる、ですか?」

 

 「うん。アイドルでいる時間は、誰かを元気にしたり、笑顔にするための時間。だからこそ、みく自身が楽しめてないと、見てる人たちにもそれが伝わっちゃうにゃ」

 

 その言葉には、軽やかさの中にしっかりとした芯があって――

 私は、思わず見とれてしまった。

 

 「すごいです……みくさん」

 

 「えっ、な、なにが?」

 

 「ちゃんと、そうやって自分のことも大事にして、周りのことも考えて……。私だったら、きっと余裕なくなって、いっぱいいっぱいになっちゃいます」

 

 「ふふっ、そういうとこ、ほたるちゃんらしいにゃ~」

 

 みくさんは、肩をすくめて茶化すように言いながらも、どこか優しい目で私を見つめてくれる。

 

 「でもね、ほたるちゃん。みくから見たら、ほたるちゃんの方がずっとすごいって思う時、あるんだよ?」

 

 「えっ……?」

 

 「そうやって、自分より他の人のことを真っ先に考えるでしょ?みく、そういう優しさって、すごく尊敬してるにゃ」

 

 私はうまく返事ができなくて、ただ、ぽかんと口を開けたままになってしまった。

 

 (……私が、尊敬されるなんて)

 

 でも――

 それでも、みくさんは、目をそらさずに笑ってくれていた。

 

 私にとってみくさんは、明るくて、真面目で、そしてみんなを元気にしてくれる人。

 いつでも前を向いて、ブレずに立ち続ける、頼れる先輩。

 

 そんな人に、少しでも近づけるように――私も、頑張らなきゃと思った。

 

 ――

 

 レッスン場を出て、ひとりで廊下を歩いていると、足元に違和感を覚えた。

 立ち止まって見下ろすと、靴紐がほどけていた。

 (……また、こんなところで)

 

 結び直そうと身体をかがめた、そのときだった。足がもつれて、バランスを崩して――。

 

 「きゃっ……!」

 

 転ぶ、と思った瞬間。ふわりと誰かの手が私の腕を支えてくれた。

 

 「だ、だいじょうぶですか?間に合ってよかったです」

 

 やさしい声に顔を上げると、そこには茄子さんが立っていた。

 驚いたけど、それ以上に、心からほっとした。

 

 「茄子さん……!」

 

 慌てて頭を下げる。

 

 「す、すみません……また、ご迷惑を……」

 

 「ううん、転ばずに済んでラッキーでしたね♪」

 

 そう言って、茄子さんはにこっと笑ってくれた。

 ――この笑顔、何度目なんだろう。

 私は、きっとまた助けられてしまった。

 

 あのときも、あのときも。棚が倒れてきたときも、衣装が破れかけたときも、機材の不調で収録が中断しそうになったときも。

 いつも、茄子さんがそばにいて、何気なく私を守ってくれた。

 

 (……私がこの事務所にいて、まだ倒産してないのも……茄子さんがいるからなんじゃ……)

 

 そう思ってしまうくらい、茄子さんの存在は、私にとって特別だった。

 

 「……ありがとうございます。茄子さんがいてくれて……本当によかったです」

 

 私の言葉に、茄子さんはやわらかく微笑んだ。

 

 「そんなふうに言ってもらえると、嬉しいです」

 

 そう言いながら、持っていた書類を軽く掲げる。

 

 「今日は、“ミス・フォーチュン”の次のお仕事のことで、少しお話がしたくて」

 

 「……はい。お願いします」

 

 『ミス・フォーチュン』。

 私と茄子さんで組んでいるユニット。

 不幸と幸運。真逆の運命を持った二人だからこそ、生まれる意味があるって、プロデューサーさんが名付けてくれた。

 

 最初は、不安しかなかった。

 こんな私が茄子さんと並んでもいいのか、って。

 でも、活動を重ねるうちに、少しずつ変わっていった。

 

 舞台袖で手を握ってくれたこと。

 取材で私のことを「頼れる相方」って言ってくれたこと。

 歌い終わった後、一緒に空を見上げたこと。

 ひとつひとつが、私にとって大切な宝物。

 

 私は、茄子さんが憧れだった。

 ただ、ステージでまぶしく輝く姿だけじゃない。

 誰に対してもやさしくて、どんなトラブルにも動じない強さがあって、でもそれを押しつけることは決してなくて。

 

 それに……茄子さんが隣にいてくれると、不思議と私の不幸がやわらぐ気がする。

 実際、そういう場面を何度も見てきた。

 “偶然”で済ませるには、あまりにもできすぎてるくらい。

 

 「今から、少しだけお時間いいですか?」

 

 「はい……もちろん。茄子さんとなら……」

 

 自然と、笑みがこぼれた。

 隣に立ってくれるだけで、前を向ける気がする。

 私の運命がほんの少しでも、やさしいものになれるなら、それはきっと――この人のおかげなんだと思った。

 

 ――そして、茄子さんとふたり、事務所の応接スペースで並んで座って、次の予定について話し合う事になった。

 

 「今度のミニライブ、楽しみですね。私たち、地方のショッピングモールでの出演、何度目ですっけ?」

 

 「たぶん……四回目くらい……です、よね?」

 

 私が言うと、茄子さんは嬉しそうに頷いた。

 

 「ええ、そうですね。だんだん常連のファンの方も増えてきましたし、こうして少しずつでも“ミス・フォーチュン”を覚えていただけるのは嬉しいことですよね、ほたるちゃん」

 

 ミニライブは私にとって、舞台の上に立つ緊張と、それ以上に幸せをもらえる時間だった。

 その後に続く握手会では、ひとりひとりの顔を見て言葉を交わせるからこそ、直接気持ちを伝えることができる。

 ……でも。

 

 「……あの、茄子さん」

 

 ぽつりと、心の中に引っかかっていた不安を口にしていた。

 

 「私……ちゃんと、ファンの人たちを幸せにできてるんでしょうか……?」

 

 茄子は、少しだけ目を見開いて、それからやさしいまなざしで私を見つめた。

 

 「もちろん。ほたるちゃんの歌にも、言葉にも、皆さんきっと……たくさん救われていると思いますよ」

 

 そう言ってくれる茄子さんに、うれしさよりも申し訳なさがこみ上げてくる。

 

 「でも……私は、茄子さんみたいな“幸運なアイドル”じゃなくて……“不幸なアイドル”なので……」

 

 自然と、視線が落ちた。

 

 「せっかく茄子さんと一緒にユニットを組んでるのに……茄子さんの幸運を、私がかき消してしまってるんじゃないかって……」

 

 本当は、ずっと思ってた。

 ミス・フォーチュンというユニットが、誰かの希望になれるのなら、それはきっと茄子さんのおかげだって。

 

 「私なんか……茄子さんの足を引っ張ってばかりで……」

 

 茄子さんは少しだけ目を伏せて、それからふわっと笑った。

 

 「そんなこと、まったく思っていませんよ。むしろ私は……ほたるちゃんに感謝してるんです」

 

 「えっ……?」

 

 顔を上げると、茄子さんは、まっすぐに私の目を見ていた。

 

 「……よく言われるんです。『あの人は運がいいだけだ』って。どれだけ準備していても、練習を重ねても、それすら“運が良かったから”って片づけられてしまうこと、あるんです」

 

 その言葉に、はっと息を飲んだ。

 

 「もちろん、私はこの運にも感謝しています。でも……それだけじゃない、って、証明したい気持ちも、ずっとどこかにあって」

 

 そう続ける茄子さんの声は、いつもより少しだけ熱を帯びていた。

 

 「ほたるちゃんと一緒にいると、不思議と運が平らになるんです。いつもみたいに、棚ぼたみたいなラッキーが起きるわけじゃない。ちゃんと、努力した分だけ結果が返ってくる。――だから、私、自分の力でみんなを笑顔にしてるんだって、ちゃんと感じられるんですよ」

 

 茄子は少し照れたように笑って、言葉を締めくくった。

 

 「だから、むしろ……ありがとう、なんです。ほたるちゃんのおかげで、私は本当の自信を持つことができました」

 

 言葉が、胸に染みこんでくるようだった。

 うれしくて、ほっとして、それでも少しだけ、泣きたくなるような気持ち。

 

 ――こんなふうに言ってくれる茄子さんに、私はどれだけ救われてきたんだろう。

 

 憧れで、尊敬してて、雲の上の人みたいだと思ってた。

 でもいまは、こうして隣にいてくれて、私の手をとってくれる。

 

 ……私も、そんなアイドルになりたいと思った。

 誰かの空に、小さくても確かな光を届けられるような――そんな存在に。

 

 ――

 

 トレーニングと、その後の打ち合わせが終わったばかりで、私はちょっとだけ息を整えたくなっていた。

 

 できれば、プロデューサーさんがもう戻ってきていたら嬉しいな……そんな淡い期待を抱きながら、事務所の奥――あの人のデスクがある場所へと向かう。

 

 「……あれ?」

 

 静かな空間の中、聞こえてきた電子音。ソファには誰かが寝転んでいて、小さなゲーム機の画面に夢中になっている姿が見えた。

 

 「杏さん……?」

 

 「おっ、ほたるー。おかえりー」

 

 杏さんはゲームをしながら、片手だけひらひら振ってくれた。

 

 「お疲れさまです。……プロデューサーさんは、まだ戻ってきてないんですね」

 

 「うん、まだみたいだねー。外で誰かの打ち合わせじゃない?」

 

 私は軽くうなずきながら、そっとソファの向かいにある椅子に腰かける。ふと、気になって杏さんの方を見た。

 

 「その……杏さん、今日はお仕事ないんですか?」

 

 「あるにはあったけど、もう終わらせたからねー」

 

 そう言って、杏さんはあごで隣の机を指す。

 

 そこにはサイン入りの色紙の束が綺麗に並べられ、ファンレターへの返事のメッセージカードが丁寧な字で書き込まれていた。隣には、次の撮影用に候補の衣装素材をチェックして、コメントが貼られたファイルもある。

 

 「えっ、これ……全部、杏さんが?」

 

 「うん。さっきちょっとだけ本気出したから。サイン50枚とファンレター10通返して、衣装チェックもやったし……もう今日はいいでしょー」

 

 まるで「おやつ食べたから満足」くらいのテンションで、杏さんは言う。

 

 私は目の前の成果を見て、思わず息をのんだ。

 

 一つひとつが時間も気も使う仕事ばかりなのに、それを完璧にこなしてるなんて。

 

 「……すごいです、杏さん」

 

 「んー、杏はやれば出来る子だからね。めんどくさいから働きたくないけど」

 

 ぽつりと、気だるげに言った杏さんの横顔は、どこか誇らしげに見えた。

 

 杏さんの横顔を見つめながら、私は胸の奥で、そっと言葉を結ぶ。

 

 ――やっぱり、天才肌なんだな。

 

 普段はダラけてるように見えても、やるべき時には誰よりも早く、正確に仕事を終わらせてしまう。

 本番にも強くて、いざという時には、私たちを引っ張ってくれる。

 この前の生放送でトラブルが起きた時だって、杏さんは誰よりも冷静で、まるで何事もなかったみたいに場を盛り上げてくれた。

 

 それは、私にはまだできないことだった。

 

 ――みくさんも、茄子さんも、杏さんも……みんな、それぞれに素敵で、強くて、ちゃんとアイドルで。

 

 私は、そんな三人といっしょに活動できていることが、本当に信じられないくらい嬉しかった。

 

 でも、だからこそ、ちゃんと追いつかなきゃいけないって思う。

 

 尊敬しているだけじゃ、きっと届かないから。

 

 そんなふうに心の中で思っていたときだった。

 

 「――はい、それで大丈夫です。ええ、資料は夕方までに送りますので」

 

 事務所の扉が開いて、聞き慣れた声が入ってきた。

 

 スーツの袖をまくり、スマホ片手に忙しなく話すその姿。

 プロデューサーさんは、いつものように少し汗ばんだ額をタオルで拭きながら、片手で扉を閉める。

 

 「あ……」

 

 私の声に気づいたのか、プロデューサーさんが目を向けて、にこっと微笑んでくれた。

 

 ――きっと、今日も私たちのために動いて、駆け回って、たくさんの言葉を交わしてきたんだろう。

 

 この事務所に入ってから、何度も見てきた姿だった。

 

 私たちのために、いつも忙しくしていて、でも絶対に顔に出さなくて。

 みんなが前を向けるように、誰よりも先に動いてくれる。

 

 だから私にとって、プロデューサーさんも――やっぱり、特別で、大切で、尊敬している人だった。

 

 ――

 

 ――夕方の事務所は、だんだんと落ち着いた空気に変わっていった。

 みくさんが元気に手を振りながら出ていって、茄子さんが微笑みながらそれに続き、杏さんは「今日はもうがんばったから、あとは任せたー」と言って、ソファで伸びをしてからのそのそと立ち上がった。

 

 「また明日ね、ほたるちゃん」

 

 「はい……お疲れ様です」

 

 事務所のドアが閉まって、空間にふっと静けさが降りた。

 

 私は、まだデスクに向かっているプロデューサーさんの背中を、少し離れた場所から見つめていた。

 

 資料に目を通しながら、時々メモを取り、スマホを手にしては何かを確認している。

 たぶん今日も、私たちのスケジュールを組んだり、次のお仕事の話を通してくれていたんだと思う。

 

 いつだって、私たちのために動いてくれている――それがすごく嬉しくて、すごく申し訳なくて。

 

 (……でも、恋人なのに、私……)

 

 ふと、胸の奥が苦しくなる。

 

 告白して、受け入れてもらって、あれからまだ日も浅いけれど――

 手をつないだことも、どこかに出かけたことも、まだ何ひとつ“恋人”らしいことをしていない。

 

 私がそういうのに慣れてないからって、自分に言い聞かせてきたけど。

 

 本当は……少しだけでいいから、ふたりきりで過ごしてみたい。

 学校の帰り道でも、どこか静かな場所でも、きっとそれだけで充分幸せだから。

 

 (……でも、プロデューサーさん、忙しいし……)

 

 口にするのが怖かった。

 

 わがままだって思われたらどうしよう。

 迷惑だって思われたら、私は――

 

 「…………」

 

 静かに立ち上がって、そっとバッグを手に取る。

 自分の気持ちに蓋をして、心を空っぽにして、事務所の出口に向かって歩き始めた。

 

 ――仕方ないよね。だって、今は……

 

 「……ほたる」

 

 その声に、足が止まった。

 

 振り返ると、プロデューサーさんが椅子から立ち上がって、私を見つめていた。

 

 やわらかい笑顔だった。

 いつもと変わらない、でもどこか少しだけ優しさが深くて――私は息を飲んだ。

 

 「ちょっと、いいか?今だから話せるんだけど」

 

 プロデューサーさんは、少し視線をそらしながら照れくさそうに言った。

 

 「あのさ、今度の休み……どこかに、デートでも行かないか?」

 

 ……え?

 

 胸の奥で、何かが跳ねた気がした。

 

 思ってもいなかった言葉に、私は一瞬きょとんとしてしまう。

 

 「……で、デート……ですか?」

 

 「うん。……せっかく付き合ってるんだし。ちゃんと、そういう時間も……な?」

 

 ぎこちなく頭をかくその姿が、なんだか妙に可愛くて、笑ってしまいそうになる。

 でもそれ以上に、胸の奥があたたかくて、熱くて。

 

 ああ――ちゃんと、見ていてくれたんだ。

 私が、言えなかった気持ちまで。

 

 「……はい。もちろん、行きます」

 

 素直な言葉が、自然と口からこぼれた。

 プロデューサーさんが、少しだけほっとしたように笑う。

 

 その笑顔を見て、私もまた、心からの笑顔を返した。

 

 少しずつでいい。

 こうして、すこしずつ、ふたりの歩幅で。

 

 ――春が始まって、ほんの少しずつあたたかくなっていくように。

 私たちの関係も、ゆっくりと色づいていくのだと思った。




今後は毎週土曜日の夜に投稿予定です。よろしくお願いします。
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