空は重く曇り、朝から降り続く雨が街を静かに包んでいた。
天気予報では今日は晴れのはずだった。何度も見直した、晴れマークしかない予報。だからこそ、傘を差して歩く自分の姿に、胸の奥が少しだけ沈んでいく。
――やっぱり……私のせい、なんじゃないかな。
ふとそんな考えがよぎる。今日という日、私にとってはとても大切な日だったのに。
いえ、きっとプロデューサーさんにとっても、同じくらい大切な日。
せっかくのデートが、最初から台無しになってしまったようで、申し訳ない気持ちがじわりと滲んだ。
それでも。
心の中には、どうしようもなく湧き上がる感情があった。
――嬉しい。会える。それだけで、ちゃんと、幸せ。
雨に濡れないようアーケード沿いを歩きながら、手元に視線を落とす。
白を基調にした、柔らかいワンピース。ほんの少しだけフリルが入っていて、普段の私からしたら思いきった服だった。
鏡の前で何度も着替えては悩んで、それでも誰にも相談できなくて……。だから、せめて清潔感のある色にしようと選んだ一着。
普段は黒や地味な色ばかりの私には、これでも冒険だった。
――似合うと、いいな。変に思われませんように。
そんなことを考えながら歩いて、駅前の広場にたどり着いたのは、待ち合わせの三十分も前。
きっと、早すぎたと思われるだろう。でも、落ち着かなくて。どうしても、じっとしていられなかった。
そして、広場の先に彼の姿を見つけた時、胸が大きく跳ねた。
傘を片手に、駅前の壁沿いで雨を避けるようにしながら、何かを考えるように視線を遠くに向けていた。
普段より少しラフなビジネスカジュアル。ジャケットにシャツ、落ち着いたグレーパンツ。
いつもはスーツ姿で仕事をしている彼の、少しだけオフな雰囲気。だけど、それが逆に大人っぽくて、どこか眩しく見えた。
――かっこいい……。
自然と、心臓の音が速くなる。
手に持った傘の柄をぎゅっと握りしめ、ほんの少し躊躇してから、意を決して声をかけた。
「……お、おはようございます、プロデューサーさん……」
雨音に消えないように、少しだけ大きな声を出す。
彼が顔を上げて、こちらに気づくと、ふっと優しい笑みを見せた。
「おはよう。もう来たのか、ほたる。ずいぶん早いな」
「す、すみません、あの、どうしても落ち着かなくて……その……」
「そっか。俺も似たようなもんだよ」
彼は笑いながら、少しだけ手を差し伸べてきた。
傘の高さを私に合わせてくれて、自然とふたりの距離が近づいた。
「今日の服、似合ってて――可愛らしいよ」
その一言が、ふいに雨音の隙間から私の耳に届いた。
「え……っ」
びっくりして顔を上げると、彼は少しだけ照れたように笑っていた。
胸が、ぎゅっとなった。
ずっと悩んで、ひとりで選んだ服。誰にも相談できなくて、不安ばかりだった。けど……そんな私の努力を、ちゃんと見てくれていたんだ。
「ありがとうございます……そんなふうに言ってもらえるなんて……うれしい、です」
声が少し震えてしまったけど、気持ちはちゃんと込めたつもりだった。
だけど――
「……でも、ほたる」
「……えっ」
急に真剣な声に変わって、胸がすっと冷たくなる。
もしかして、やっぱり何か間違ってたのかな。怒られるようなこと、してしまったのかも……。
不安が広がりかけた時、彼がポケットから何かを取り出した。
それは、小さく折りたたまれた帽子と、太めのフレームの伊達メガネだった。
「はい、これ。今のほたるは、もうファンもたくさんいるからな。バレたらちょっとマズいだろ?」
「――あっ」
その瞬間、心の中で何かがパチンと弾けた気がした。
しまった……。おしゃれに気を取られて、大切なことを忘れてた。
私、アイドルなのに。ちゃんと自分で自分を守らなきゃいけないのに……。
「ご、ごめんなさい……っ。私、気をつけなきゃいけなかったのに……」
帽子とメガネを受け取りながら、うつむいてしまう。
自分が情けなくて、顔を上げるのが怖かった。
でも――
「いいんだよ。気にするな。おしゃれしたいって思ってくれたことの方が、俺は嬉しいよ」
……え。
顔を上げると、彼はいつもの優しい目で、私を見ていた。
そして少し間をおいて――
「それに……プロデューサーとして。彼氏として。ほたるのために動くのは当然だから」
「……っ」
心の奥に、じんわりとあたたかいものが広がっていった。
言葉が、胸に染みていく。
大丈夫だよって、あなたがそう言ってくれるから――私はまた、前を向ける。
「……ありがとうございます……本当に……」
帽子とメガネを装着しながら、そっと笑ってみせた。
小さな笑顔だったかもしれないけれど、それは今の私にできる、一番の「ありがとう」だった。
「雨も降ってるし……そろそろお昼だし。どこかで昼食でもどうかな?」
駅前の軒下、雨を避けながら並んで立つ。
差し出された傘の中、彼の声は、いつも通り穏やかだった。
「……あのっ。近くに、ひとつ気になってたカフェがあるんです。席が離れてて、あんまり周りの人と目が合わないつくりで……それなら、私に気づく人もいないと思います」
言いながら、少しだけ不安になる。デートなのに、私が提案してもいいのかなって。
でも、彼は迷わず頷いてくれた。
「いい案だ。行ってみようか」
――それだけで、胸の奥がふわりと温かくなる。
おしゃれな外観の小さなカフェ。中は静かで、テーブルとテーブルの間も広くとられていた。
窓の外に降り続ける雨を見ながら、二人で向かい合って座る。
料理が運ばれてきた後、彼は少し困ったような顔で言った。
「本当は、外で歩くようなデートプランをいくつか考えてたんだけど……まさか雨になるとは。予報では晴れって言ってたんだけどな。だから、これからの予定は考え直さないと。悪いな、ほたる」
「……っ、そんな……」
私の方こそ、何も考えられなくて。全部任せきりで……。
そして、きっと――この雨も、私のせいなんだ。
「……ごめんなさい。きっと、私の不幸のせいで、雨になっちゃって……」
うつむきかけた私に、彼の声が重なる。
「違うよ。ほたるのせいじゃない。それに……俺は雨は嫌いじゃない」
顔を上げると、彼は少しだけ窓の向こうを見て、柔らかく笑った。
「だって雨の後の夜空は、星が綺麗だからな」
――えっ?
思わず、聞き返しそうになる。
星。夜空。
彼の口から、そんな言葉が出てくるなんて思ってなかった。
少し意外で、でも……なんだか、素敵な言葉だった。
「……プロデューサーさんって、意外とロマンチストなんですね」
思わずクスッと笑ってしまうと、彼はちょっとだけ照れたように視線をそらした。
「……まあ、そうかもな」
彼は、どこか照れたように目をそらした。
雨の後の夜空は、星が綺麗――
その言葉に、なんとなくロマンチックな人なんだなって思ったけれど……。
(……あれ?)
そういえば、どこか曖昧な反応だった気がする。
ちょっとだけ不思議に思いながら、私はテーブルに置かれたカップをそっと持ち上げた。
そのとき、ふと頭に浮かんだのは――雑誌で見かけた、新しくできたばかりのプラネタリウムのことだった。
駅からそう遠くないし、何より……今日は雨。外には出られないから、ちょうどいいかもしれない。
「……あの、プロデューサーさん。近くにプラネタリウムがあるんです。最近できたばかりで……もしよかったら、行ってみませんか?」
思い切ってそう言ってみると、彼は少し驚いたように私を見てから、視線を落として静かに考え込む。
ほんの、数秒の沈黙。
「……わかった。室内だし、ほたるが行きたいならいいよ」
その一言が、心にふわりと灯る。
私の提案を受け入れてくれたことが、嬉しかった。
――だけど。
(……星が綺麗って、さっき自分から言ってたのに……)
もっと嬉しそうにするのかなって、ちょっとだけ期待してしまっていた。
だけど、そこまで星が好きというわけじゃなかったのかもしれない。
なんとなく、肩すかしを食らったような気がした。
彼と一緒なら、どこへ行ってもきっと楽しい。
そんな確信だけは、胸の奥にちゃんとあった。
――
プラネタリウムの建物は、思っていたよりもずっと近代的で、どこか静けさを湛えていた。
施設の中に入ると、天井には星の軌道を描いたラインが浮かび、展示された機材やスクリーンが未来的な光を放っている。
「……すごいですね。こんなに本格的だなんて……」
思わずそんな声が漏れた。
初めて来たプラネタリウム。その空気に、自然と胸が高鳴ってしまう。
ふと横を見ると、彼はきょろきょろと辺りを見回していた。
どうやら彼も来たことはなかったみたいで、その表情にはどこか少年のような好奇心が浮かんでいた。
「ここ、シートに寝転びながら観られるみたいですよ。ほら、リクライニングが……」
案内板を見ながらそう言うと、彼がにやりと笑った。
「……じゃあ、杏みたいに寝転んで観るか。寝ないようにしないとな」
その軽口に、つい吹き出してしまう。
真面目な顔でふざけるから、ずるい人だなって思う。
「ふふっ……そうですね。寝ちゃったらもったいないですから……」
笑いながら答えたものの、ふと胸の奥に小さな疑問が浮かんだ。
(……あれ? これって……)
寝転ぶ。隣に、プロデューサーさんが……。
一緒に、並んで……。
「…………」
考えた瞬間、顔が熱くなった。
映画館とはまた違う距離感。ゆったりと身体を預けるスペースで、ふたり並んで星空を見上げるなんて――。
(ど、どうしよう……っ)
とまどっているうちに、彼はチケット売り場で何か話し、嬉しそうに戻ってきた。
その手には、しっかりと二枚のチケット。
「ほら、取ってきた。ちょうどいい時間に入れるってさ」
「……あっ、はい……ありがとうございます……っ」
もう引き返せない。
恥ずかしいけど、嫌じゃなかった。むしろ、どこかくすぐったい気持ちで。
(……やっぱり、星が好きなんだ)
彼の目は、チケットを見つめるその瞬間だけ、ほんの少しきらめいて見えた気がした。
それなのに……。
(でも……さっきのカフェでは、あんなに素っ気なかったのに)
胸の奥に、小さな問いだけが残ったまま。
それでも今は、静かに始まりを待つ館内の空気が、妙に心地よく思えた。
上映開始の数分前。場内アナウンスが流れ、照明がゆっくりと落ちていく。
薄闇の中、天井のドームが星空へと姿を変える準備を始めていた。
彼は、すでに横になって天井を見上げている。
私は、その隣に――思い切って、そっと身体を預けた。
(……近い……っ)
背もたれが深く倒れるリクライニングシート。
横一列に並んで寝転ぶかたちになって、彼の肩がすぐそこにあった。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
でも、逃げたくはなかった。
(……私、今……デートしてるんだ)
そんな実感が、静かに胸の奥を満たしていく。
やがて音楽が流れ、ナレーションとともに映像が始まった。
宇宙の誕生から、銀河の広がり、天体の運行、そして季節ごとの星座たち。
静かな語りと美しい光が、天井いっぱいに広がっていく。
館内は、誰もが言葉を失っていた。
私も、ただただ見惚れていた。
でも――時々、横目で彼の横顔を盗み見てしまう。
彼は、まるで子どものような瞳で空を見上げていた。
(……こんな顔、初めて見た……)
優しくて、大人で、いつも誰かのために動いている人。
だけど今は、その視線の先に広がる光の中で、何かに心を奪われているようで――。
(……私が恋人になったから、こういう姿も知ることができたんだ……)
胸が、ふわっとあたたかくなる。
隣にいるこの人を、もっともっと知りたいと思った。
けれど、しばらくすると――彼の表情が、少しだけ曇っているのに気づいた。
口元は笑っているけど、目はどこか、遠くを見つめている。
何かを懐かしむような、寂しそうな、そんな瞳だった。
(……どうして……?)
さっきまで、あんなに楽しそうだったのに――。
その変化に気づいた自分の心が、静かに揺れるのを感じていた。
(……私に、できることって……)
隣で、星空に浮かぶ光を見上げながら――彼はどこか、遠くにいるようだった。
懐かしさと寂しさが入り混じったようなその表情に、胸が締めつけられる。
(この気持ち、何だろう……手を……つなぎたい……)
けれど、それだけじゃなかった。
彼の表情から少しでも、あの寂しさを消してあげたい。
今、隣にいるのは私なんだと、少しでも感じてもらいたい。
それはとても小さな、でも大きな勇気だった。
私は、そっと――彼の手に自分の手を重ねた。
柔らかくて、でもどこか頼りがいのある、そのぬくもりを。
彼は少しだけ驚いたようにこちらを見たけれど、すぐに静かに微笑んで私の手を握り返してくれた。
言葉なんていらなかった。
それだけで、十分だった。
(……あたたかい……)
彼の手が、心まで包んでくれるような気がして、思わず目を伏せる。
でもそれ以上に、私の手も、彼に何かを届けられていたら――そう願った。
気づけば、彼の横顔から寂しげな影は消えていた。
ただ、優しいまなざしで星を見上げていた。
ドームいっぱいに広がる宇宙。
その下で、私たちのささやかな幸せな時間が流れていった。
上映が終わり、場内の明かりがゆっくりと戻ってくる。
ふと隣を見ると、彼はまだ余韻の中にいるようで、目元に優しい光が宿っていた。
「……すごかったな。あんなふうに宇宙が見えるなんて」
そう言いながら立ち上がり、まるで少年のように目を輝かせていた。
そのまま展示エリアへ移動すると、星や宇宙に関するパネルや模型がずらりと並んでいて、私たちは自然と並んで歩く。
「この恒星の分類、実は温度と色によって決まっててさ。青白い星はすごく高温で……ほら、オリオン座のベテルギウスは赤色超巨星っていって――」
彼の声が、わくわくとした調子で耳に届く。
さっきの上映でもう充分満足したと思っていたけど……本当に、星のことが好きなんだなって、そう思った。
ふと気づくと、私の頬がゆるんでいた。
(……こんなに楽しそうな顔、してたんだ……)
彼がこんなにも無邪気に話すなんて、少し意外で――でも、すごく嬉しい。
私は小さくうなずきながら、その隣を歩く。
そんな時だった。少し離れた場所から、二人組の来館者らしい少年が近づいてきて、ちらりと彼を見た後、おずおずと話しかけてきた。
「すみません……さっきからすごく詳しそうだったんで……あの星について教えてもらえませんか?」
彼は一瞬きょとんとしたものの、すぐににこやかに応じる。
「……ああ、あれは夏の大三角って呼ばれてるやつだよ。今の時期はまだ低い空だけど、これからの季節にどんどん高くなって、夏には真上に見えるようになるんだ」
まるで係の人みたいに、迷いのない口調でぺらぺらと答える彼を見て、私は思わず吹き出しそうになってしまった。
「ふふっ……」
小さく笑って口元を押さえる。
(ほんとに……係の人に間違えられてる……)
でも、星を見ている時の優しい横顔も、こうして楽しそうに話す姿も――どちらも、私だけが知っている特別な一面のような気がして、嬉しくなった。
――
外に出ると、まだ小雨が降っていた。
傘を差しながら歩き出した私たちの周りには、濡れたアスファルトの匂いが静かに漂っている。
「……なんか、俺ばっかり楽しんじゃってごめんな」
ふと、彼がそんなふうに言った。
振り返った彼の顔は、少しだけ申し訳なさそうで、けれどどこか照れたようでもあった。
「そんなこと……ないです。プロデューサーさんが楽しそうにしてて、私も嬉しかったんです」
それは本当だった。
星に夢中になって語る彼の姿は、きらきらしていて――まるで夜空の星みたいだった。
「それに……私、今日で星のこと、ちょっと好きになったかもしれません」
そう言うと、彼は目を丸くして、すぐに優しく笑ってくれた。
でも、その笑顔を見ていたら、どうしても気になってしまった。
(……やっぱり、さっきのあの表情……)
最初にカフェで話をしたときも、プラネタリウムの上映中も。
彼は、星を見るのが好きなはずなのに――なぜか、どこか寂しそうだった。
「……あの、プロデューサーさん」
意を決して、私は声をかける。
「最初、プラネタリウムに行くって言ったとき……あまり乗り気じゃなかったように見えたんです。上映の途中でも、少しだけ……寂しそうな顔、してました」
足元の水たまりを見つめながら、私はそっと問いかけた。
冷たい雨音が、少しだけ強くなったような気がした。
「だから……その、何か……理由があるんですか……?」
少しの沈黙の後、彼は立ち止まり、ぽつりと呟く。
「……そっか、ほたるには、そう見えてたんだな」
それから、ゆっくりと私の方を向いて――小さく笑った。
「……うん。ほたるになら、話してもいいかもな」
傘越しに交わした視線は、どこまでも静かで、どこか遠い場所を見ているようだった。
星のことを語るその瞳の奥に、何があるのか――私はまだ知らない。
でも、知りたいと思った。
この人の好きなもの、この人の大切なこと。
少しでもその隣で、一緒に見ていたいと思った。
雨はまだ止まない。
けれどその音すら、少しだけ優しく感じられる気がしていた。