春の風が少し強く吹いていたけど、陽射しは暖かくて、空も澄んでいて――イベント日和だった。
今日は、野外のイベントに杏さんと参加している。途中で行われたミニライブには、うちのプロダクションから二人が出演することになっていて……それが、私と杏さんだった。
ミニライブには、思っていたよりもたくさんの人が集まってくれた。
小さなステージだけど、見てくれる人がいる。それがすごく嬉しくて、緊張しながらも最後まで歌って、踊って……私なりに笑顔を頑張って、なんとかやりきった。
ライブ中の杏さんは……本当にすごかった。
普段はあんなに気だるそうにしているのに、ステージに立った瞬間、表情も声も変わる。
しっかりとした立ち姿で、堂々としたパフォーマンスで、ファンの人たちの歓声をさらっていた。
きっと彼女は、やる時はやるって、そういう人なんだと思う。
ステージの脇で私たちを見ていたプロデューサーさんも、彼女の姿に何かを感じたように、じっと見つめていた。
だから、私のことも見てくれていたのかな?ちゃんと、やれていたかな?……そんな事を心配していた。
だけど彼は、二人とも良いステージだったって笑ってくれた。
その言葉に胸が少しあたたかくなった。
そして、控室から出た私たちはイベント会場の外に出て帰りの道を歩いていた。
少しずつ陽が傾き始めていて、街は夕焼けに染まりかけている。さっきまでのステージの興奮が、まだ身体の奥で余韻のように残っていた。
「杏さん、やっぱり……すごかったです。いつもと全然違ってて、びっくりしちゃいました」
私がそう言うと、隣を歩く彼女は胸を張って、ちょっと得意そうに笑った。
「まー、本気出すとこんなもんだよ。あ、でもほたるもいい感じだったじゃん。レッスンの成果、出てたしね」
ドヤ顔で言われて、思わずくすっと笑ってしまう。
「ありがとうございます……」
彼女の言葉は、どこか気まぐれで、本気か冗談かわからない時もあるけれど――それでも、ちゃんと見てくれているんだなって、そう思えて嬉しかった。
「うーん、杏はやっぱりポテンシャルは高いよな」
彼がぽつりと呟いた。
「普段からもっと真剣にやったら、さらにのびると思うのに……」
「いやいやいや、それは無理だって」
彼女はすぐに手をひらひらと振って笑った。
「常に本気とか、体力もやる気ももたないってー。てか、今も体力ゼロだからさ、おーんーぶーしーてー」
ふざけながら、彼の腕をつついてみせる彼女に、私も思わず笑ってしまった。
なんだかほんの少しだけ空気が軽くなって――最近はいつも不安だったはずの帰り道が、ほんのりとあたたかく感じられた。
「その歳でおんぶとか言うなよな……」
呆れたように言う彼に、彼女は肩をすくめて笑った。
「この見た目だから大丈夫だって。あ、でもプロデューサーが職質されるかもしれないなー」
さらっとそんなことを言ってのける彼女に、私は思わず吹き出しそうになってしまった。
彼も苦笑しながら頭をかいている。
二人のやりとりを見ていると、なんだか羨ましいような、くすぐったいような気持ちになる。私にはあんな風に軽口を叩くことなんて、まだ難しいから……。
「あの……でも、最初に会った時、私……杏さんのこと、年下かと思ってました」
気づいたら私は、そんなことをぽつりと口にしていた。
彼女は目をぱちくりとさせて、それから小さく笑った。
「あーまぁ、身長全然変わんないんだよね。昔からずっとこのままって感じ。逆に、ほたるはさー、意外と身長あるし、落ち着いてるし、最初は同い年くらいかと思ったよ」
同い年――。
そんな風に見られてたんだ、って思うと、ちょっと不思議な気持ちになる。私はいつも、自分が子どもっぽく見えてないかと不安に思っていたのに。
すると、隣を歩いていた彼がふっと笑って言った。
「そうだな。俺も最初は、ほたるはもっとクールな感じだと思ってたよ。年齢の割には身長は高いし、落ち着いた佇まいだし……。でも、長いこと一緒にいるとさ、可愛らしい一面も見えてきて――」
「ちょ、ちょっと……恥ずかしいですって、プロデューサーさん……」
思わず彼の言葉を遮ってしまう。
優しい声で私を褒めてくれるのが、あまりにも真っ直ぐすぎて……胸の奥が熱くなって、どうしていいかわからなくなった。
なのに、彼は悪びれもせずに照れる私の横顔を見て微笑んでいる。
「……プロデューサーって、ほたるガチ勢じゃん……」
彼女が呆れたように、それでいてどこか楽しそうに、ニヤニヤしながら言った。
「杏さん……」
そう言ってうつむいた私の頬は、きっと真っ赤だったと思う。
嬉しい――けれど、それ以上に恥ずかしくて、どうしようもなくなる。
……だけど、彼にそんなふうに見てもらえているという事実は、私の胸の中で静かに、でもしっかりと光を灯してくれた。
私は、今――確かに、大切にされているんだなって。
そして彼は、少し困ったように笑って私に向かって言った。
「いやーごめんごめん。ちょっと調子にのりすぎた。でも……さっきのステージで何度か見せたあの表情は……クールな感じを演出したわけじゃない。そうだろ?」
その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられるような気がした。
……見抜かれていた。
あのステージで、私は――笑おうとしても、どうしてもできない瞬間があった。
彼は、私の目をじっと見ながら、静かに続ける。
「……例のストーカーのこと、心配だったんだろ?わかるよ」
「あー、プロデューサーも気づいてたんだ」
その声に振り返ると、彼女が少しだけ真面目な顔でこっちを見ていた。
「ほたるの表情、固くなった瞬間が何回かあったから。ああ、あの視線の事、まだ気になってるんだろうなーって思ってた」
「……はい」
私は小さくうなずいた。
「……その通りです。頑張って笑顔を作って、気にしないようにしたつもりだったんです。でも……」
言葉が喉に詰まりそうになる。
「……お二人とも……気づいていたんですね」
でも、なんだか……嬉しかった。
ちゃんと見てくれていたんだ。私の、ライブでの姿を。
「ああ、だから俺は今日ライブに来た観客を、よく見渡してたんだ。けど……怪しい人はいなかったよ」
彼のその言葉に、私は少しだけ安心してうなずく。
「はい……私も気をつけて見てましたけど……前に出禁になった人も、多分いなかったと思います」
「そうだな。そこまでの人混みじゃなかったし、全体をよく見渡せたから間違いない……今日は、大丈夫みたいだな」
彼のその声は、少しだけ肩の力が抜けたような、安心を滲ませていて。
私も……少しだけ、ほっとした気持ちになりかけていた、その時――
「……いや」
その声音に込められた張り詰めた気配に、思わず私は反応してしまった。
「……誰かに見られてる」
杏さんが小声でそう呟いた。
その瞬間、空気が変わった気がした。
春の夕暮れのはずなのに、ほんの少しだけ、風が冷たく感じた。
さっきまでの穏やかな帰り道が、何か得体の知れないものに侵されていくような、そんな不気味な違和感が背筋を撫でていく――
「……本当か?全然気づかなかったぞ」
彼の声が低く響いた。
小さな声なのに、その響きが胸の奥に残る。
信じられない、というより――気づけなかった自分への悔しさを滲ませる声。
「プロデューサーはにぶいからね。……いろいろとさ」
杏さんがわずかに肩をすくめて、口を尖らせた。その言い方は軽いけれど、どこか真剣さが混ざっていて――少しだけ空気が張りつめる。
「でも……残念ながら本当だよ。ね、ほたる?」
私は杏さんの言葉を受けて、改めて――周囲に意識を向けてみる。
ゆっくりと深呼吸して、心を落ち着けると……じわじわと、背中の辺りがざわついていく。
――あ……。
確かに、誰かに見られている。
「は、はい。私も、感じます。おそらく……あの後ろの……電柱のあたりに……」
言葉にした途端、鳥肌が立つような感覚がした。
気づいた事を言葉にしてしまった事で、現実が押し寄せてくる。
「……捕まえる」
彼の瞳が鋭くなり、一言だけ残して走り出した。
「あっ……!」
私の声は、追いつけなかった。
その時、確かに――電柱の影から人影が飛び出して、私たちから逃げていった。
私は動けずに、その場で立ち尽くす。
……本当にいたんだ。
ずっと私を見ていた誰かが。
「ちょっとー!私たちを置いてく気!?」
彼女の声が、夜の静けさを破るように響いた。
彼は、ハッとして振り返る。
その顔には「しまった」という表情がにじんでいた。
「ご、ごめん!」
急いで立ち止まった彼に、私たちが追いつく。
「まったくもう……さっき言ったじゃん。杏、もう体力残ってないんだからさー」
彼女はぶつぶつ言いながら、立ち止まった彼の前に回り込み――
手をぱっと広げて、両腕を差し出す。
「はい、抱っこ」
「えっ……?」
彼が目を丸くする。
「ほら、いいから早く。逃げられたくないんでしょ?だったら私がナビしてあげるから、今だけ特別サービスってことで」
「……お前なぁ……」
呆れたように言いながらも、彼はやれやれと肩をすくめて、彼女を抱き上げる。
軽々と持ち上げられた彼女は、満足げに腕を彼の肩に回した。
「よし、出発ー。あっちだよー」
「……仕方ないな。ほたる、ついてきて!」
「はい!」
私たちは再び駆け出す。
彼女が彼の腕の中から、器用に体をひねって逃げた人物の進路を指し示していく。
そして――
「そこ、曲がって!」
彼女の指示に従って細い路地を折れると、突然開けた空間に出た。
古びた資材置き場のような場所。三方を高いコンクリートの塀で囲まれた、抜け道のない空間。
「……袋小路だな」
彼が足を止めて呟く。
だけど、そこには――誰の姿もなかった。
「……いない……?」
私は不安を押し込めながら、辺りを見回しながら言った。
確かに、さっきまで逃げていたはずの人影があったのに……どこにも見当たらない。
「どこかに、隠れてるんでしょうか……?」
資材の影、塀の裏。物音一つしない静寂が、かえって恐ろしい。
喉の奥がひりつくような緊張の中、私はそっと彼の背中を見た。
「……二人とも、危ないから下がってて」
彼が真剣な声で言った。
私はその言葉に思わず小さく息を呑んだ。
……確かに、そうだと思った。
もしこの中に本当に危険な人物がいるのだとしたら、素人の私たちが踏み込むのは――
けれど、その隣で。
「あー……いや、杏の予想が正しかったら……」
彼女が、ぽつりとそう呟いてスマホを取り出した。
薄暗い空間の中で、液晶の明かりがぼんやりと浮かぶ。
「え……何を……?」
そう尋ねようとしたその時。
突然、どこかから着信音が響いた。
驚いて、私は周囲を見回す。
同じように、彼もわずかに身構えた。
すると――
「電話しただけだよ……犯人にね」
スマホを見たまま、彼女が淡々と言った。
「やっぱり、予想通りだった」
そう言って彼女は電話を切った。
私たちが、驚きと混乱の表情で彼女を見ていると――
「もう、隠れてないで出てきなよ……みく」
その一言に、私は息が止まった。
そして、資材の陰から姿を現したのは――
「……みく、さん……?」
あまりにも信じられない光景に、私はその名を呟くしかできなかった。
現れたのは、確かに――みくさんだった。
「……な、何で……わかったの?」
みくさんが、ぎこちない動きでこちらに向き直りながら、震えるような声でそう呟いた。
その顔は、明らかに動揺していて……そしてどこか、怯えているようにも見えた。
杏さんは、そんなみくさんを真正面から見据えて言った。
「なんかさ、ちょっとおかしいなって思ってたんだよ。だってさ……あのデートの日、ほたるは変装してたらしいじゃん。帽子にメガネ、それに普段とは違う明るい色の服。だからファンでも気づけないくらい、雰囲気は変わってたはずだよ」
私は思わず隣でうなずいた。あの時の私は、なるべく正体がバレないようにって、彼のおかげで変装していたのだ。
杏さんは言葉を続ける。
「そんな状態なのに“ほたるだ”ってわかるなんて……普通は無理でしょ?でも、犯人はそれがわかってた。だからこれは、ほたるの事をよく知ってる人物のしわざなんじゃないかって」
その言葉に、みくさんの表情がふっと曇った。
――特に、「デート」という単語を口にした時、一瞬だけど明らかに彼女の目から光が消えたのがわかった。
おそらく杏さんも、その瞬間のみくさんの反応に気づいたと思う。
「……なるほどな。言われてみれば確かに……変装しててもわかるのは、身近な人間じゃないと無理だ」
彼が、少し驚いたような声でそう言った。
その言葉が静かに響いたあと、周囲にふたたび静けさが戻ってくる。
みくさんは何も言わず、ただ、俯いて唇をかみしめていた。
「みく、やっぱり……最近の、俺とほたるの様子に違和感があって、それで尾行して調べてたんだろ?」
彼の声は、静かだけれど、どこか優しさを含んでいた。問い詰めるというより、事情を察して尋ねるような――そんな声音。
彼女は、一瞬びくっと肩を震わせたあと、かすかにうなずいた。
「……う、うん。そうなの。迷惑をかけてごめんなさい……。あの……や、やっぱり……二人は……」
その問いかけは、声にならないほど弱々しく、どこか恐る恐るで――
だけど、彼はそれをはっきりと肯定した。
「ああ。黙ってて悪かった。……俺とほたるは、付き合ってるんだ」
その瞬間――彼女の表情から、血の気が引いていくのが見えた。
さっきまでの緊張や戸惑いとも違う。……それはまるで、心のどこかを深く切り裂かれたような、絶望の色だった。
だけど、彼はその変化に気づいていない様子だった。
変わらず穏やかな――そして何より私を守ろうとするように、少し真面目な表情で彼女を見つめながら続けた。
「だから……もう尾行とか、やめてくれよな。ストーカーかと思って、ほたるが怖がるからさ」
優しい笑みだった。
でもその優しさが、彼女にとっては何よりも残酷だったのかもしれない。
私は言葉を失って、そのやり取りを黙って見つめていた。
彼の言葉に、彼女がどれほど傷ついたか。
それは、あの一瞬の沈黙と表情の色だけで、十分すぎるほど伝わってきた。
――私は、今日初めて気づいた。
……みくさんも、プロデューサーさんの事が……好きだったんだ。
その想いが、どれほど長く続いていたのか。
どれほど胸にしまってきたのか。
それは私にはわからなかった。
ふと、隣にいた杏さんの方を見ると――彼女も、同じようにみくさんを見つめていた。
でもその目は……驚いているようには見えなかった。
……ううん、きっと――杏さんは、もっと前から……知っていたんだ。
その視線に、何も言わずに応えるように、みくさんがぽつりと呟いた。
「……そう、なんだ。……おめでとう」
声はいつものような明るさも、張りもなかった。
猫のような愛らしい調子もなくて――ただ、静かで、沈んでいた。
私は、何も言えなかった。
何を言えばいいのかわからなくて――
ただ、彼女のうつむいた横顔を見つめることしかできなかった。
「そ、それじゃあ……もう帰るね。バイバイっ」
彼女はそう言って、私たちに笑ってみせた。いつものような、元気で明るい感じ――の、ふりをしたのだとわかった。
目が笑っていなかった。
頬が引きつっていた。
声が、少しだけ震えていた。
私たちに背を向けると、彼女は走り出した。
逃げるように。追いつけないほどの速さで。
その背中が、やけに小さく見えた。
「全く、人騒がせなやつだなー。でも……ストーカーじゃなくて良かったな」
彼が、ほっとしたように微笑んで私に言った。
その言葉に私は――何も言えなかった。
――やっぱり、気づいていない。
そして私は……見てしまった。
街灯の下、彼女の瞳から静かにこぼれた涙を。
作り物の笑顔のまま、唇を噛みしめて、振り返らずに走っていった、その姿を。
あの涙の意味を、私は知ってしまった。
彼女の気持ちが……痛いほど、わかってしまった。
私は……彼女を不幸にしてしまったんだ。
どうすればいいのか、わからない。
ただ……胸の奥が、ひどく苦しかった。
春の風は、まだやさしいはずなのに。
私の心はいつになく冷たく、強く、揺れていた。