彗星の軌跡   作:ニトロP

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第八話 涙の理由

 朝、いつもよりずっと早く事務所に来た。

 昨日のことが頭から離れなくて、眠れなかった。ベッドの中で目を閉じても、走り去っていったみくさんの顔が浮かんできて――何度も胸の奥を締めつけてくる。

 

 事務所のドアを開けると、空気はいつも通りに穏やかだった。

 けど、その空気のどこかにぽっかりと穴が開いているような……そんな気がした。

 

 しばらくしてプロデューサーさんが来て、私の顔を見て優しく微笑んでくれた。

 

 「おはよう、ほたる。……みく、今日は体調不良でお休みらしいよ。朝に連絡が入ってた」

 

 そう言ってデスクに鞄を置くと、椅子に腰を下ろして小さく首を傾げた。

 

 「昨日、ちょっと元気なかったよな。風邪でも引いたか?……心配だな」

 

 その言葉に私は何も言えなくて、曖昧に答えるしかなかった。

 

 ――違う。

 体調不良なんかじゃないって、私にはわかっていた。

 

 昨日の彼女のあの顔。

 あんな顔、初めて見た。

 いつも明るくて、強くて、誰よりも前向きな彼女が――壊れそうなほどに、弱い目をしていた。

 

 彼はやっぱり気づいていない。

 

 昨日、杏さんが彼をにぶいと言っていたけど、私も今までみくさんの気持ちに気づかなかった。

 

 だから――全部私のせいなんだ。

 

 好きになって、想いを伝えて、受け入れてもらって――

 その結果が、誰かを傷つけるなんて考えた事もなかった。

 

 私は、彼女の大切な人を奪ってしまったんだ。

 

 ――どうして、こんなことになってしまったんだろう。

 

 しばらくして、事務所のドアが開いた。

 

 「おはようございます」と、茄子さんの優しい声が響く。

 続けて、眠たげな杏さんもふらりと入ってきた。

 

 「おはよー……ねむ……」

 

 私と彼も挨拶を返して、朝の空気が少し和らいだ。

 

 「さっきほたるには言ったけど、みくは今日はお休みだ。体調不良らしい」

 

 その彼の言葉に、杏さんの目の色が静かに変わる。

 もともと事情を知っていた私には、その反応が何を意味するのかすぐにわかった。

 

 茄子さんは少しだけ目を伏せ、それから私と彼の方を見て、丁寧に頭を下げた。

 

 「そうですか。それと……すみません、お二人とも。実は、事務所に来る前に杏ちゃんから全部、聞いちゃいました」

 

 「……そっか、茄子も俺たちの関係を知ったのか。いずれは話すつもりだったんだけど……今まで黙ってて悪かったな」

 

 彼は、困ったように笑っていた。

 

 「まぁ、茄子もとっくに気づいてたよね? 二人が付き合ってるの」

 

 杏さんが、そんなふうに続ける。

 

 「ええ。最近のほたるちゃん、すごく幸せそうでしたから……そうなんじゃないかなって」

 

 「……みんなにはやっぱり、隠し事ってできないんだな。あ、でもちゃんと健全な付き合いをしてるから、安心してよ」

 

 彼が照れたように笑う。

 その何気ない一言が、私には少しだけ苦しかった。

 

 杏さんも茄子さんも、どこか複雑な顔をしている。

 ……そうだよね。だって、みくさんの気持ちを私たちは知っている。

 

 彼が席を外したタイミングで、私は茄子さんに向き直った。

 

 「……今まで、隠しててごめんなさい」

 

 頭を下げると、彼女はすぐにやわらかく微笑んでくれた。

 

 「いえいえ、私たちはアイドルですから。秘密にしなきゃいけないと思うのは……仕方ないですよね」

 

 優しい言葉だった。怒るどころか、全部わかってるような顔で、ただ静かに受け止めてくれた。

 

 「それに、恋をするのって、とっても素敵な事だと私は思います。プロデューサーと恋人になれて、良かったですね」

 

 そう言われて、胸がちくんと痛んだ。

 

 「……良かったんでしょうか」

 

 それは、ほとんど息のような声だった。彼女にしか聞こえないような小さな声で、私はそう呟いていた。

 

 それを聞いた彼女は、私の顔をまっすぐ見た。優しい目だったけど、どこか寂しげな色もあった。

 

 私は顔を伏せた。目を合わせるのが、怖かった。

 

 私が、みくさんを……尊敬していた先輩を傷つけた。

 その事実が重くて、胸が苦しかった。

 

 ――

 

 昼休みになって、私は事務所の隅――誰も来ない物置みたいな場所に身をひそめていた。

 

 光の届かない薄暗い一角で、私は膝を抱えたまま、小さく震えていた。

 

 誰にも見られたくなかった。こんな顔を、そして……こんな気持ちを。

 

 ……もし私が、みくさんの立場だったら、きっと同じように逃げ出したはず。

 

 だから彼女は、私とプロデューサーさんに――会いたくなかったんだ。

 

 ……もしかしたら、もう……このプロダクションにも、戻ってこないかもしれない。

 

 そう考えた瞬間、胸の奥がぐしゃりと潰れた。

 

 ……全部、私のせいだ。

 

 私が、幸せになろうとしたから。

 

 ずっと、憧れていた彼に想いを告げてしまったから。

 

 やっぱり……私がいると、みんなが不幸になる。

 

 「……みくさん……みなさん……ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 小さな声で何度も繰り返した。届かないとわかっていても、謝らずにはいられなかった。

 

 心の中には、あの夜の、泣きながら走り去っていく彼女の背中が焼きついていた。

 

 プロデューサーさんのことは、大好き。

 

 本当に、心から大切で、あたたかくて、そばにいたくて……。

 

 だけど。

 

 ……私なんかが、そばにいたら……いけなかったんだ。

 

 そんなことばかり、ずっと、ぐるぐると考えていた。

 

 いつの間にか出てきた涙は、どれだけ拭っても、すぐに流れてきて止められなかった。

 

 ――

 

 どれくらい時間が過ぎたのか、わからない。

 

 頬は濡れて、目元は熱くて、喉の奥がひりひりしていた。

 

 誰にも見られたくないと、誰も来ないこの場所に隠れていたのに。

 

 「……ここにいたんですね」

 

 やわらかく、優しい声が、そっと扉の向こうから届いた。

 

 驚いて顔を上げると、そこにいたのは――茄子さんだった。

 

 「あ……」

 

 声が出なかった。ただ、涙を拭う間もなく見上げてしまった。

 

 どうしてここがわかったのか。そう思ったけど――すぐに理解できた。

 

 ……きっと、彼女の“幸運”の力なんだ。

 

 いつも奇跡みたいなタイミングで現れて、誰よりも人の心に寄り添える人だから。

 

 「ほたるちゃん……」

 

 彼女がゆっくり近づいてきて、膝を抱えてうずくまる私の横にそっと座った。

 

 そして、ためらいなく――私を抱きしめてくれた。

 

 あたたかくて包み込むような腕。あの日、彼が差し伸べてくれた手と同じぬくもりだった。

 

 「ほたるちゃんのせいじゃありません。……ほたるちゃんは……何も悪くないんですよ」

 

 その言葉が胸にしみて……苦しくてたまらなくて。

 

 私は小さく首を振った。

 

 「……いえ。私のせいです」

 

 ようやく絞り出すように出た声は、泣きすぎてかすれていた。

 

 「私が……プロデューサーさんと恋人になったから……」

 

 「だからみくさんは……あんなに、悲しい顔をして……」

 

 「……やっぱり私は……周りを、不幸にするしか……できない……」

 

 「……みくさんも……みなさんも……」

 

 胸の奥に渦巻いていた想いが、ぽつりぽつりと言葉になってこぼれていく。

 

 目の前が涙で滲んで、彼女の顔がぼやけて見えた。

 

 「――そんなこと、ありませんよ」

 

 彼女の声は静かで、でもはっきりとした強さがあった。

 

 私の背中に回された腕から、温もりがじんわりと伝わってくる。

 

 「誰も……ほたるちゃんのせいで不幸だなんて思ってないですよ」

 

 その言葉は、私の胸の奥に届いた。だけど……すぐに、否定の気持ちが込み上げてくる。

 

 「でも……」

 

 言いかけた瞬間、彼女がふわりと私の頭を撫でながら、そっと言葉を重ねた。

 

 「その証拠に……ほたるちゃんは、プロデューサーを幸せにしているじゃないですか」

 

 その言葉に私は思わず顔を上げた。

 

 「えっ……?」

 

 涙に濡れた瞳で見上げた先で、彼女はやさしく微笑んでいた。

 

 どういうこと?私が、プロデューサーさんを……幸せに……?

 

 私は彼に、いつも助けてもらって……幸せをもらってばかりだと、そう思っていたのに。

 

 戸惑う私の顔を見ながらも、彼女はまっすぐなまなざしを向けてくれていた。

 

 「プロデューサーって、私と同い年だから……けっこう気軽にいろんな話をしてくれるんですよ」

 

 彼女はそう言いながら、私の背中を優しく撫でてくれた。

 

 「それでね……その中で、よくほたるちゃんの話が出てくるんです。お仕事のことも、普段の様子も。本当に楽しそうに話すんですよ、彼」

 

 彼女は、少し肩をすくめるようにして、ふふっと笑った。

 

 「もう、あれじゃあ付き合ってるって、すぐにわかっちゃいますよ」

 

 そんなこと……初めて知った。

 

 私の知らない所で……そんなふうに話してくれていたなんて。

 

 知らず知らずのうちに流れていた涙が、いつの間にか止まっていた。

 

 彼女は、私の顔を見つめながら、静かに、でもはっきりと言った。

 

 「プロデューサーはとても幸せそうでした。あの表情を見ればわかります」

 

 そして少し力を込めるように続ける。

 

 「だから……ほたるちゃんは、みんなを不幸にするような存在じゃありません」

 

 まっすぐな声だった。優しくて、でも迷いのない声。

 

 「でも……」

 

 私はうつむいたまま、かすれた声で言った。

 

 「プロデューサーさんを幸せにできたとしても……みくさんは……不幸にしてしまいました。私が……プロデューサーさんを諦めれば、みくさんは――」

 

 そこまで言いかけた時に、彼女が落ち着いた声で私の言葉を遮った。

 

 「……そもそも、みくちゃんは不幸になるんでしょうか?」

 

 思いがけない言葉だった。

 

 「え……?」

 

 私は、何を言われているのかわからず、顔を上げた。彼女はやわらかく微笑みながら、少し首をかしげていた。

 

 「たとえば……ですけどね。みくちゃんがこれからプロデューサーよりもっと素敵な人と出会って、その人と恋人になれて、幸せな未来を歩めたとしたら……どうでしょう?今回の事も……不幸じゃないって、そう思いませんか?」

 

 「……確かにそうですけど。でも、そんな未来が来るかなんて……」

 

 不安げにそう答えた私の言葉を、彼女はすかさず引き取った。

 

 「わかりませんよね。でも――」

 

 彼女の目が、真っ直ぐ私を見つめていた。

 

 「だからこそ、今を精一杯頑張るしかないと思うんです。どんな未来が来るか分からないからこそ……自分の選んだ今を、一生懸命に生きる。それが、最後の瞬間に“幸せな人生だった”って思える道につながるんじゃないでしょうか」

 

 優しくて、でもしっかりと芯のある言葉だった。

 

 その言葉の重みが、私の胸にじんわりと広がっていく。

 

 「……最後に、幸せに……なれば……」

 

 ぽつりと、私は小さく呟いた。

 

 すると彼女は、うなずきながらやわらかい声で言った。

 

 「はい。今回の件は、みくちゃんが“最後に幸せになる”ために乗り越えないといけない事……なんだと思います。だから――ほたるちゃんが身を引くことはないんですよ」

 

 その言葉に、張り詰めていた胸の奥の糸が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

 

 ……私は、自分の幸せと引き換えに、みくさんを救えると思っていた。でも、それは違ったのかもしれない。

 

 彼女は、私のそんな表情を見て、さらに続けた。

 

 「それにね――もしプロデューサーと別れたりしたら、あの人……絶対に悲しみますよ?」

 

 「えっ……」

 

 私は思わず目を見開く。

 

 「ほたるちゃんが思ってる以上に、ほたるちゃんの事が大好きですから。……あの人」

 

 少し茶化すように、でも確信に満ちた笑みを浮かべてそう言った彼女の声に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

 

 ……私が、今しようとしていたことは。

 

 ……私を想ってくれる人の気持ちを踏みにじる、そんな行為だったんだ。

 

 とんでもないことを、私は――しようとしていたんだ。

 

 「わ、私も……大好き……です。プロデューサーさんが……」

 

 涙の名残が残る声で、私は震える気持ちをそのまま言葉に乗せた。

 

 すると彼女は、優しく微笑んで静かにうなずいた。

 

 「はい。わかってますよ。だから――その想いを、大事にしてください……ね?」

 

 そのひと言が、心にすっと染み込んでいく。背中をそっと押してもらったような、そんなあたたかさに包まれた。

 

 私はようやく、息をつくように小さく笑って、彼女に向き直る。

 

 「……ありがとうございます。茄子さんのおかげで……少し、落ち着きました」

 

 みくさんのことは、まだ何も解決していない。傷つけてしまったことに変わりはないし、どうしたらいいのかもまだわからない。

 

 でも――

 

 自分を責め続けるのはやめよう……そう思った。それと、自分を犠牲にすることでしか誰かを救えない……そんなふうに思い込むのも。

 

 それはきっと、違うから。

 

 彼女を見ていると、そう思える。

 

 強くて、優しくて、どんなときも人の幸せを願える人。私がずっと憧れている、とっても素敵なお姉さん。

 

 ……私も、いつか。

 

 彼女みたいになれたら。

 

 そんなふうに、心から思った。

 

 「いえいえ、力になれてよかったです♪」

 

 彼女は、いつもの穏やかな笑顔でそう言ってくれた。

 

 そして私はそっと顔を上げた。

 

 だけど、まだ気がかりな思いが胸に残っていた。

 

 「でも……みくさんの事は……どうしたら……このまま辞めたり……しませんよね……?」

 

 声が震えてしまう。彼女はそんな私の不安を静かに受け止めて、ゆっくりと首を振った。

 

 「大丈夫です。ちゃんと戻ってきますよ。――あちらは任せましたから……杏ちゃんに」

 

 彼女のその言葉は、何よりも強くてあたたかかった。

 

 杏さんなら大丈夫。きっとみくさんを支えてくれる。私にはできなかったことも、杏さんなら――。

 

 頼もしい二人の背中が、少しだけ世界を明るくしてくれる気がした。

 

 まだ、すべてが元通りになったわけじゃない。

 

 でも、きっと前に進める。

 

 私はそう信じて、ゆっくりと目を閉じた。

 

 涙ではなく、静かな決意とともに。

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