朝、いつもよりずっと早く事務所に来た。
昨日のことが頭から離れなくて、眠れなかった。ベッドの中で目を閉じても、走り去っていったみくさんの顔が浮かんできて――何度も胸の奥を締めつけてくる。
事務所のドアを開けると、空気はいつも通りに穏やかだった。
けど、その空気のどこかにぽっかりと穴が開いているような……そんな気がした。
しばらくしてプロデューサーさんが来て、私の顔を見て優しく微笑んでくれた。
「おはよう、ほたる。……みく、今日は体調不良でお休みらしいよ。朝に連絡が入ってた」
そう言ってデスクに鞄を置くと、椅子に腰を下ろして小さく首を傾げた。
「昨日、ちょっと元気なかったよな。風邪でも引いたか?……心配だな」
その言葉に私は何も言えなくて、曖昧に答えるしかなかった。
――違う。
体調不良なんかじゃないって、私にはわかっていた。
昨日の彼女のあの顔。
あんな顔、初めて見た。
いつも明るくて、強くて、誰よりも前向きな彼女が――壊れそうなほどに、弱い目をしていた。
彼はやっぱり気づいていない。
昨日、杏さんが彼をにぶいと言っていたけど、私も今までみくさんの気持ちに気づかなかった。
だから――全部私のせいなんだ。
好きになって、想いを伝えて、受け入れてもらって――
その結果が、誰かを傷つけるなんて考えた事もなかった。
私は、彼女の大切な人を奪ってしまったんだ。
――どうして、こんなことになってしまったんだろう。
しばらくして、事務所のドアが開いた。
「おはようございます」と、茄子さんの優しい声が響く。
続けて、眠たげな杏さんもふらりと入ってきた。
「おはよー……ねむ……」
私と彼も挨拶を返して、朝の空気が少し和らいだ。
「さっきほたるには言ったけど、みくは今日はお休みだ。体調不良らしい」
その彼の言葉に、杏さんの目の色が静かに変わる。
もともと事情を知っていた私には、その反応が何を意味するのかすぐにわかった。
茄子さんは少しだけ目を伏せ、それから私と彼の方を見て、丁寧に頭を下げた。
「そうですか。それと……すみません、お二人とも。実は、事務所に来る前に杏ちゃんから全部、聞いちゃいました」
「……そっか、茄子も俺たちの関係を知ったのか。いずれは話すつもりだったんだけど……今まで黙ってて悪かったな」
彼は、困ったように笑っていた。
「まぁ、茄子もとっくに気づいてたよね? 二人が付き合ってるの」
杏さんが、そんなふうに続ける。
「ええ。最近のほたるちゃん、すごく幸せそうでしたから……そうなんじゃないかなって」
「……みんなにはやっぱり、隠し事ってできないんだな。あ、でもちゃんと健全な付き合いをしてるから、安心してよ」
彼が照れたように笑う。
その何気ない一言が、私には少しだけ苦しかった。
杏さんも茄子さんも、どこか複雑な顔をしている。
……そうだよね。だって、みくさんの気持ちを私たちは知っている。
彼が席を外したタイミングで、私は茄子さんに向き直った。
「……今まで、隠しててごめんなさい」
頭を下げると、彼女はすぐにやわらかく微笑んでくれた。
「いえいえ、私たちはアイドルですから。秘密にしなきゃいけないと思うのは……仕方ないですよね」
優しい言葉だった。怒るどころか、全部わかってるような顔で、ただ静かに受け止めてくれた。
「それに、恋をするのって、とっても素敵な事だと私は思います。プロデューサーと恋人になれて、良かったですね」
そう言われて、胸がちくんと痛んだ。
「……良かったんでしょうか」
それは、ほとんど息のような声だった。彼女にしか聞こえないような小さな声で、私はそう呟いていた。
それを聞いた彼女は、私の顔をまっすぐ見た。優しい目だったけど、どこか寂しげな色もあった。
私は顔を伏せた。目を合わせるのが、怖かった。
私が、みくさんを……尊敬していた先輩を傷つけた。
その事実が重くて、胸が苦しかった。
――
昼休みになって、私は事務所の隅――誰も来ない物置みたいな場所に身をひそめていた。
光の届かない薄暗い一角で、私は膝を抱えたまま、小さく震えていた。
誰にも見られたくなかった。こんな顔を、そして……こんな気持ちを。
……もし私が、みくさんの立場だったら、きっと同じように逃げ出したはず。
だから彼女は、私とプロデューサーさんに――会いたくなかったんだ。
……もしかしたら、もう……このプロダクションにも、戻ってこないかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥がぐしゃりと潰れた。
……全部、私のせいだ。
私が、幸せになろうとしたから。
ずっと、憧れていた彼に想いを告げてしまったから。
やっぱり……私がいると、みんなが不幸になる。
「……みくさん……みなさん……ごめんなさい、ごめんなさい……」
小さな声で何度も繰り返した。届かないとわかっていても、謝らずにはいられなかった。
心の中には、あの夜の、泣きながら走り去っていく彼女の背中が焼きついていた。
プロデューサーさんのことは、大好き。
本当に、心から大切で、あたたかくて、そばにいたくて……。
だけど。
……私なんかが、そばにいたら……いけなかったんだ。
そんなことばかり、ずっと、ぐるぐると考えていた。
いつの間にか出てきた涙は、どれだけ拭っても、すぐに流れてきて止められなかった。
――
どれくらい時間が過ぎたのか、わからない。
頬は濡れて、目元は熱くて、喉の奥がひりひりしていた。
誰にも見られたくないと、誰も来ないこの場所に隠れていたのに。
「……ここにいたんですね」
やわらかく、優しい声が、そっと扉の向こうから届いた。
驚いて顔を上げると、そこにいたのは――茄子さんだった。
「あ……」
声が出なかった。ただ、涙を拭う間もなく見上げてしまった。
どうしてここがわかったのか。そう思ったけど――すぐに理解できた。
……きっと、彼女の“幸運”の力なんだ。
いつも奇跡みたいなタイミングで現れて、誰よりも人の心に寄り添える人だから。
「ほたるちゃん……」
彼女がゆっくり近づいてきて、膝を抱えてうずくまる私の横にそっと座った。
そして、ためらいなく――私を抱きしめてくれた。
あたたかくて包み込むような腕。あの日、彼が差し伸べてくれた手と同じぬくもりだった。
「ほたるちゃんのせいじゃありません。……ほたるちゃんは……何も悪くないんですよ」
その言葉が胸にしみて……苦しくてたまらなくて。
私は小さく首を振った。
「……いえ。私のせいです」
ようやく絞り出すように出た声は、泣きすぎてかすれていた。
「私が……プロデューサーさんと恋人になったから……」
「だからみくさんは……あんなに、悲しい顔をして……」
「……やっぱり私は……周りを、不幸にするしか……できない……」
「……みくさんも……みなさんも……」
胸の奥に渦巻いていた想いが、ぽつりぽつりと言葉になってこぼれていく。
目の前が涙で滲んで、彼女の顔がぼやけて見えた。
「――そんなこと、ありませんよ」
彼女の声は静かで、でもはっきりとした強さがあった。
私の背中に回された腕から、温もりがじんわりと伝わってくる。
「誰も……ほたるちゃんのせいで不幸だなんて思ってないですよ」
その言葉は、私の胸の奥に届いた。だけど……すぐに、否定の気持ちが込み上げてくる。
「でも……」
言いかけた瞬間、彼女がふわりと私の頭を撫でながら、そっと言葉を重ねた。
「その証拠に……ほたるちゃんは、プロデューサーを幸せにしているじゃないですか」
その言葉に私は思わず顔を上げた。
「えっ……?」
涙に濡れた瞳で見上げた先で、彼女はやさしく微笑んでいた。
どういうこと?私が、プロデューサーさんを……幸せに……?
私は彼に、いつも助けてもらって……幸せをもらってばかりだと、そう思っていたのに。
戸惑う私の顔を見ながらも、彼女はまっすぐなまなざしを向けてくれていた。
「プロデューサーって、私と同い年だから……けっこう気軽にいろんな話をしてくれるんですよ」
彼女はそう言いながら、私の背中を優しく撫でてくれた。
「それでね……その中で、よくほたるちゃんの話が出てくるんです。お仕事のことも、普段の様子も。本当に楽しそうに話すんですよ、彼」
彼女は、少し肩をすくめるようにして、ふふっと笑った。
「もう、あれじゃあ付き合ってるって、すぐにわかっちゃいますよ」
そんなこと……初めて知った。
私の知らない所で……そんなふうに話してくれていたなんて。
知らず知らずのうちに流れていた涙が、いつの間にか止まっていた。
彼女は、私の顔を見つめながら、静かに、でもはっきりと言った。
「プロデューサーはとても幸せそうでした。あの表情を見ればわかります」
そして少し力を込めるように続ける。
「だから……ほたるちゃんは、みんなを不幸にするような存在じゃありません」
まっすぐな声だった。優しくて、でも迷いのない声。
「でも……」
私はうつむいたまま、かすれた声で言った。
「プロデューサーさんを幸せにできたとしても……みくさんは……不幸にしてしまいました。私が……プロデューサーさんを諦めれば、みくさんは――」
そこまで言いかけた時に、彼女が落ち着いた声で私の言葉を遮った。
「……そもそも、みくちゃんは不幸になるんでしょうか?」
思いがけない言葉だった。
「え……?」
私は、何を言われているのかわからず、顔を上げた。彼女はやわらかく微笑みながら、少し首をかしげていた。
「たとえば……ですけどね。みくちゃんがこれからプロデューサーよりもっと素敵な人と出会って、その人と恋人になれて、幸せな未来を歩めたとしたら……どうでしょう?今回の事も……不幸じゃないって、そう思いませんか?」
「……確かにそうですけど。でも、そんな未来が来るかなんて……」
不安げにそう答えた私の言葉を、彼女はすかさず引き取った。
「わかりませんよね。でも――」
彼女の目が、真っ直ぐ私を見つめていた。
「だからこそ、今を精一杯頑張るしかないと思うんです。どんな未来が来るか分からないからこそ……自分の選んだ今を、一生懸命に生きる。それが、最後の瞬間に“幸せな人生だった”って思える道につながるんじゃないでしょうか」
優しくて、でもしっかりと芯のある言葉だった。
その言葉の重みが、私の胸にじんわりと広がっていく。
「……最後に、幸せに……なれば……」
ぽつりと、私は小さく呟いた。
すると彼女は、うなずきながらやわらかい声で言った。
「はい。今回の件は、みくちゃんが“最後に幸せになる”ために乗り越えないといけない事……なんだと思います。だから――ほたるちゃんが身を引くことはないんですよ」
その言葉に、張り詰めていた胸の奥の糸が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
……私は、自分の幸せと引き換えに、みくさんを救えると思っていた。でも、それは違ったのかもしれない。
彼女は、私のそんな表情を見て、さらに続けた。
「それにね――もしプロデューサーと別れたりしたら、あの人……絶対に悲しみますよ?」
「えっ……」
私は思わず目を見開く。
「ほたるちゃんが思ってる以上に、ほたるちゃんの事が大好きですから。……あの人」
少し茶化すように、でも確信に満ちた笑みを浮かべてそう言った彼女の声に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
……私が、今しようとしていたことは。
……私を想ってくれる人の気持ちを踏みにじる、そんな行為だったんだ。
とんでもないことを、私は――しようとしていたんだ。
「わ、私も……大好き……です。プロデューサーさんが……」
涙の名残が残る声で、私は震える気持ちをそのまま言葉に乗せた。
すると彼女は、優しく微笑んで静かにうなずいた。
「はい。わかってますよ。だから――その想いを、大事にしてください……ね?」
そのひと言が、心にすっと染み込んでいく。背中をそっと押してもらったような、そんなあたたかさに包まれた。
私はようやく、息をつくように小さく笑って、彼女に向き直る。
「……ありがとうございます。茄子さんのおかげで……少し、落ち着きました」
みくさんのことは、まだ何も解決していない。傷つけてしまったことに変わりはないし、どうしたらいいのかもまだわからない。
でも――
自分を責め続けるのはやめよう……そう思った。それと、自分を犠牲にすることでしか誰かを救えない……そんなふうに思い込むのも。
それはきっと、違うから。
彼女を見ていると、そう思える。
強くて、優しくて、どんなときも人の幸せを願える人。私がずっと憧れている、とっても素敵なお姉さん。
……私も、いつか。
彼女みたいになれたら。
そんなふうに、心から思った。
「いえいえ、力になれてよかったです♪」
彼女は、いつもの穏やかな笑顔でそう言ってくれた。
そして私はそっと顔を上げた。
だけど、まだ気がかりな思いが胸に残っていた。
「でも……みくさんの事は……どうしたら……このまま辞めたり……しませんよね……?」
声が震えてしまう。彼女はそんな私の不安を静かに受け止めて、ゆっくりと首を振った。
「大丈夫です。ちゃんと戻ってきますよ。――あちらは任せましたから……杏ちゃんに」
彼女のその言葉は、何よりも強くてあたたかかった。
杏さんなら大丈夫。きっとみくさんを支えてくれる。私にはできなかったことも、杏さんなら――。
頼もしい二人の背中が、少しだけ世界を明るくしてくれる気がした。
まだ、すべてが元通りになったわけじゃない。
でも、きっと前に進める。
私はそう信じて、ゆっくりと目を閉じた。
涙ではなく、静かな決意とともに。