彗星の軌跡   作:ニトロP

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第九話 涙の先に

 「体調不良です」って、Pチャンにメッセージを送ってから、私はベッドの中でずっと動けずにいた。

 

 本当は、体調が悪いっていうのもあながち嘘じゃなかった。熱があるとか、喉が痛いとか、そういうんじゃない。ただ――心が、もうボロボロだった。

 

 昨日、あの二人の姿を見てしまって。何も言えずに、ただ逃げるように走り去って……それからずっと、泣き続けた。

 

 何時間泣いたかわからない。泣き疲れて、力尽きた後は、ぼんやりとスマホを眺めていた。

 

 そこに映っているのは、少し前に撮ったPチャンの写真。仕事の合間に、ふざけてカメラを向けたら、ちょっと困ったように笑ってくれた顔。

 

 大好きだった。その笑顔も、優しい声も、真面目で不器用なところも。

 

 でも――その人の隣には、もうあの子がいた。

 

 どうして私じゃなかったんだろう。

 

 あの日の夜、買い物帰りの道端で、偶然彼を見かけた。

 

 声をかけようかと思って、一歩踏み出した瞬間――隣にいたのが、ほたるちゃんだった。

 

 帽子を目深にかぶって眼鏡もしてたけど、私にはすぐにわかった。

 

 二人は静かに笑い合ってて、すごく自然な空気だった。…まるで、前からずっと一緒にいるみたいな、そんな雰囲気で。

 

 前からなんとなく、あやしいって思ってた。でも確証なんてなかったし、思い過ごしだと思いたかった。

 

 でも、あの夜の光景を見て、思ってしまった。もしかして本当に、二人は付き合ってるんじゃないかって。

 

 信じたくなかった。そして、怖かった。

 

 直接、彼に聞くなんてできなかった。もし、それで「そうだよ」なんて言われたら、もう立ち直れないと思ったから。

 

 だから私は、尾行なんて、馬鹿なことをしはじめた。彼と彼女が一人で歩いている時や、二人が一緒に帰るタイミングを見計らって、こっそり後をつけた。

 

 彼は、全然気づいてなかったと思う。でも、彼女は……気づいてた。

 

 いつも途中で立ち止まって、後ろを振り返ったり、不安そうに辺りを見回したりしてた。私の気配に、気づいてたんだと思う。

 

 そして、昨日の夜――杏ちゃんが見つけて、バレた。

 

 その場にいた彼に、はっきりと言われた。ほたるちゃんと付き合ってるって。

 

 ――終わった、と思った。

 

 本当に、二人は恋人同士だった。夢だと思いたかったのに。信じたくなかったのに。

 

 どうしようもない現実が、私の目の前に突きつけられた。

 

 いつから、こんなことになってたんだろう。

 

 いつから、私は置いていかれてたんだろう。

 

 私の方が……ずっと前から、彼を好きだったのに。

 

 私はアイドルだからって、その気持ちをずっと隠してた。伝えたかった。伝えてしまいたかった。

 けど、怖かった。

 

 今の関係が壊れてしまうのが怖くて、ずっと我慢してた。

 

 でも――ずるいよ。

 

 おそらく告白したのは、ほたるちゃんからだと思う。けど、彼女もアイドルなのに。どうして、告白できたんだろう。

 

 どうして私は……できなかったんだろう。

 

 ……もし、私がそんな事を気にしないで、思い切って想いを伝えていたら――。

 

 今、彼の隣にいるのは、もしかしたら私だったのかもしれない。

 

 そう思ったら、胸の奥が締めつけられて、息が詰まるようだった。

 

 後悔しか……なかった。

 

 彼の写真に、ぽたりと涙が落ちた。

 

 もう、泣きつくしたはずだったのに――また、涙が溢れてきた。

 

 私は顔を伏せて、ぎゅっと布団をかぶった。もう、何も見たくなかった。

 

 もう……何もかもが、嫌になっていた。

 

 私には、何もなかった。想いも伝えられなかった。彼の隣にもいられなかった。

 

 きっと、何も変えられなかった。

 

 ……気づけば、いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。

 

 布団の中から顔を少し出すと、部屋の空気が夕方の色に変わっていた。

 

 あれから、何も食べていない。そんな気力もなかった。

 

 でも、身体は正直で、ぐう……と小さく情けない音を鳴らした。

 

 空腹に耐えきれなくなって、何か口に入れようと、ふらふらと部屋を出ようとした、その時――。

 

 ……カタリ、と小さな音が聞こえた。

 

 家の中で。

 

 一人暮らしのはずの、この部屋で。

 

 背筋に冷たいものが走って、思わず足が止まった。

 

 ……誰?何の音?

 

 鼓動が早まって、手のひらがじっとり汗ばむ。

 

 それでも、確かめなきゃいけないと思って、私は意を決して、扉にそっと手をかけた。

 

 そして――恐る恐る、その扉を開いた。

 

 「……え?」

 

 そこにいたのは、なぜか……杏ちゃんだった。

 

 リビングのソファーに寝転んで、まるで自分の家みたいにくつろいでいる。

 

 頭が追いつかなくて固まっていると、彼女がこちらをちらりと見て

 

 「……あー、起きた?鍵開いてたから入ってきちゃった。ちゃんと戸締まりしなよー」

 

 そんな呑気な口調で言った。

 

 「……え、あ……ご、ごめ……」

 

 混乱しながら謝った、その瞬間。

 

 ぐぅ~~……

 

 お腹の音が、静かな室内に響いた。

 

 気まずくて恥ずかしくて、思わず顔を伏せると

 

 「ん、ほい。お見舞いで適当に買ってきたから食べなよ」

 

 彼女が、買い物袋からゼリーやスープ、ヨーグルトみたいな軽めの食品を取り出して、私に手渡してくれた。

 

 「……ありがとう……」

 

 まだ頭がぐるぐるしてる。何がどうしてこうなったのか、状況がまるで理解できない。

 

 でも、優しくて温かいその手を見て、少しだけ、心がほぐれた気がした。

 

 そして……しばらく沈黙が流れた。

 

 私はもらったゼリーをスプーンでゆっくりすくいながら口に運ぶ。甘いはずなのに、味がしなかった。

 

 「ねぇ……杏ちゃんは、前から気づいてたの?私が、Pチャンを……その……す、好きだったって……」

 

 ようやく私は、ぽつりと声に出した。

 彼女は私の気持ちに気づいている。それは私もわかっていた。

 

 彼女はソファーで寝転んだまま、天井を見上げながら言った。

 

 「んー、まあ……気づくでしょ。長い付き合いだし。茄子も多分、気づいてたよ」

 

 やっぱり、そうだったんだ……。

 

 私はうつむいた。なんだか恥ずかしくて、気まずくて、息が詰まりそうだった。

 

 「でもさ、ほたるは気づいてなかったんだよ」

 

 彼女の声はいつになく優しかった。

 

 「だからさー、あの子に悪気があったわけじゃないんだよ。本当に……」

 

 それは、私だってわかってる。

 

 ほたるちゃんが、この気持ちに気づくはずなんてなかった。彼女が事務所に来たのは三年前。私がPチャンとずっと一緒にやってきた、その前の時間なんて、知る由もなかったんだ。

 

 ……でも、わかってるからこそ、余計に苦しかった。

 

 「でもさー、プロデューサーがほたると付き合ってるって知った時、ちょっとだけビックリしたよ」

 

 彼女は天井を見たまま、気だるげに言った。

 

 「プロデューサーと付き合うのは、みくだと思ってたからさ」

 

 「えっ……」

 

 私は思わず顔を上げた。そんなこと、誰にも言われたことがなかった。まさか彼女からそんな風に思われてたなんて――驚きと、少しだけくすぐったいような気持ち。

 

 彼女は私の反応に構わず続けた。

 

 「だから、それを聞いた時……あー、いずれこうなるんだろうなって、なんとなく思ってたよ」

 

 私は、心の中で小さく息を呑んだ。

 

 杏ちゃんって、いつもやる気なさそうに見えるけど、本当は……すごく周りを見てる。みんなのこと、ちゃんとわかってるんだ。

 

 私は、視線を落としながら口を開いた。

 

 「……みくはアイドルだから、告白しないようにって、気持ちを抑えてたの。ファンのみんなを……悲しませたくなかったから」

 

 それはずっと抱えてきた本音だった。

 

 彼女は、少しだけ口元をゆるめて言った。

 

 「みくは真面目だねー。でも、そうこうしてるうちに、ほたるに先を越されちゃって、モヤモヤしてるんだ?」

 

 ……図星だった。

 

 何も言い返せなくて、私はただ、ゼリーのカップを見つめていた。

 

 彼女は、ゴロンと仰向けになりながら、ちょっと真面目に話し出した。

 

 「世間一般的には、みくが正しいと思うよ。でも、ほたるってかなりの不幸体質でしょ?だからさ、プロデューサーのおかげで自分の運命が変わったって、心の底から思ってるんだと思う。……それで、好きになった気持ちを、止められなかったんじゃないかなーって」

 

 その言葉に、私は目を伏せた。

 

 ……なんとなく、そんな気はしていた。

 

 不幸続きだったほたるちゃんが、Pチャンに出会って、だんだん笑えるようになって。少しずつ前向きになっていく姿を見てきた。

 

 「……みくだって、Pチャンのおかげで猫アイドルとして成功したの」

 

 声に出すと、胸が少しだけ痛んだ。

 

 「それで、Pチャンを……みくの運命の人だって、思って」

 

 自然とそう思っていた。彼と出会わなかったら、私はきっと、ただの猫好きな普通の女の子のままだった。

 

 「……でもやっぱり、私が告白する勇気がなかっただけ……なんだよね」

 

 ゼリーのスプーンを止めて、私は落ち込むようにうつむいた。

 

 全部、自分の中で止めてた。

 誰のせいでもない。

 私は、怖かっただけなんだ――壊れるのが。壊れるくらいなら、最初から望まなければよかったって……そうやって、逃げていただけだったんだ。

 

 すると彼女は、ぽつりと声を上げた。

 

 「でもさー、まだ諦めるのは早くない?」

 

 思わず私は彼女の顔を見た。何を言い出すんだろう、って目で見つめてしまう。

 

 「だってさ、ほたるはまだ高校生でしょ?プロデューサーもさ、プラトニックな関係だって言ってたし。……多分、チューすらまだしてないよ」

 

 そう言って、彼女はニヤニヤとからかうような顔を見せた。

 

 「……そ、そうかな?」

 

 私は思わず赤面して、ゼリーの容器から目を逸らす。

 キスしてない、なんて話――本当かどうかは知らないけど、そんなこと考えたくもないのに、胸の奥がざわざわする。

 

 彼女は、なおも軽い調子で続ける。

 

 「まー、ほたるがもっとグイグイ行けばわかんないけどね。でもさ、今からでもプロデューサーにアプローチしてみたら?案外まだ何とかなるかもよ?」

 

 それは、私が今いちばん聞いてはいけない言葉だった。

 

 そんなこと、考えたくないのに――

 その「もしも」に、心が揺れてしまう。

 諦めるべきなのに。終わったはずなのに。

 私の中の何かが、わずかに動き始めるのを感じてしまった。

 

 「でもそれは……ほたるちゃんに悪いし……」

 

 私はそう小さな声でつぶやいた。

 心のどこかで、まだ自分の気持ちに踏ん切りがついていなかった。

 

 けれど彼女は、私の迷いごと見透かしたように言葉を重ねた。

 

 「ねぇ、みく。このまま自分の気持ちを抑えつけたまま、あの二人と一緒にいられるの?」

 

 その言葉に、私は言葉を詰まらせた。

 ――いられるのか。私の好きな人と、その彼女が目の前で仲良くしている姿を、これからもずっと見続けられるのか。

 

 少し考えて、でもすぐに答えは出た。

 

 「……それは、無理かも」

 

 やっとの思いでそう答えると、彼女は静かに頷いた。

 

 「そっか。じゃあさ、みくがそのまま気まずくなって事務所を辞めたら……ほたるとプロデューサーはさ、絶対に悲しむよ」

 

 ――その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。

 想像してしまった。自分がいなくなった後の二人の顔。

 私のせいで悲しんでる表情が、はっきりと浮かんできた。

 

 このままじゃ駄目だ。

 そう思った。心の奥底で、ずっとわかっていた未来が、現実味を帯びて押し寄せてくる。

 

 逃げている場合じゃない。

 私は――変わらなきゃいけない。

 

 「だからさ、もう自分の気持ちを抑えつけるのはやめたらいいじゃん。杏みたいにさ、疲れたーとか、働きたくなーいとか……何でもすぐに口に出していこうよ」

 

 彼女が、どこか得意げな顔で言った。

 その姿を見て、思わずふっと笑ってしまう。なんだろう、少しだけ気が楽になった気がした。

 

 そうか……私は、自分の中でいろんなことをぐるぐる考えすぎて、いっぱいいっぱいになってたんだ。

 ほたるちゃんには迷惑かもしれない。でも、それでも――私も彼の事が好きなんだ。

 それを伝えずに終わらせるなんて、きっともっと後悔する。

 

 「……でも、いいの?杏ちゃんって、ほたるちゃんの味方じゃなかったの?」

 

 おそるおそる尋ねると、彼女は少し照れくさそうに笑った。

 

 「いや、杏はみんなの味方だよ。みんなが好きだからさ、アイドル頑張ってやれてるんだよ」

 

 それを聞いて、私は胸がじんと熱くなった。

 

 「だからこのプロダクションじゃなきゃ、まともに働いてないよ」

 

 確かに――そうだと思った。

 彼女は根っからのニート気質で、どれだけ寝転がっていたいかを日々語っているけど、それでも現場にはちゃんと来るし、なんだかんだで大事な時には誰よりも頼れる。

 そんな彼女が、いやいやながらでも働いているのは、きっとこうして、みんなの事を大切に思っているからなんだ。

 

 私は、もう一度ゼリーのスプーンを口に運びながら、少しだけ前を向けた気がした。

 

 「杏ちゃん。今日は……本当にありがとう」

 

 私の声は少しだけ震えていたけど、さっきよりずっと素直だった。

 

 「杏ちゃんがいなかったら、私はどうなってたか……。みくも、杏ちゃんが大好きだよ」

 

 そう言って、私は勢いよく彼女に抱きついた。

 

 「ちょっ……もう……」

 

 彼女は困ったように言いながらも、すぐに私を引き離したりはしなかった。

 いつもの調子に戻った私に呆れてるふうを装っていたけど、その横顔はどこか嬉しそうだった。

 

 やっぱり――この事務所が、みんなが、私の居場所なんだ。

 泣いて、落ち込んで、それでもまた笑える。

 そんな仲間がここにはいる。

 

 私はそっと目を閉じて、彼女のぬくもりを胸に、静かに息を吐いた。

 もう少しだけ、このままでいよう。

 涙の先にある、ほんの少しのぬくもりを、今はただ感じていたかった。

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