「体調不良です」って、Pチャンにメッセージを送ってから、私はベッドの中でずっと動けずにいた。
本当は、体調が悪いっていうのもあながち嘘じゃなかった。熱があるとか、喉が痛いとか、そういうんじゃない。ただ――心が、もうボロボロだった。
昨日、あの二人の姿を見てしまって。何も言えずに、ただ逃げるように走り去って……それからずっと、泣き続けた。
何時間泣いたかわからない。泣き疲れて、力尽きた後は、ぼんやりとスマホを眺めていた。
そこに映っているのは、少し前に撮ったPチャンの写真。仕事の合間に、ふざけてカメラを向けたら、ちょっと困ったように笑ってくれた顔。
大好きだった。その笑顔も、優しい声も、真面目で不器用なところも。
でも――その人の隣には、もうあの子がいた。
どうして私じゃなかったんだろう。
あの日の夜、買い物帰りの道端で、偶然彼を見かけた。
声をかけようかと思って、一歩踏み出した瞬間――隣にいたのが、ほたるちゃんだった。
帽子を目深にかぶって眼鏡もしてたけど、私にはすぐにわかった。
二人は静かに笑い合ってて、すごく自然な空気だった。…まるで、前からずっと一緒にいるみたいな、そんな雰囲気で。
前からなんとなく、あやしいって思ってた。でも確証なんてなかったし、思い過ごしだと思いたかった。
でも、あの夜の光景を見て、思ってしまった。もしかして本当に、二人は付き合ってるんじゃないかって。
信じたくなかった。そして、怖かった。
直接、彼に聞くなんてできなかった。もし、それで「そうだよ」なんて言われたら、もう立ち直れないと思ったから。
だから私は、尾行なんて、馬鹿なことをしはじめた。彼と彼女が一人で歩いている時や、二人が一緒に帰るタイミングを見計らって、こっそり後をつけた。
彼は、全然気づいてなかったと思う。でも、彼女は……気づいてた。
いつも途中で立ち止まって、後ろを振り返ったり、不安そうに辺りを見回したりしてた。私の気配に、気づいてたんだと思う。
そして、昨日の夜――杏ちゃんが見つけて、バレた。
その場にいた彼に、はっきりと言われた。ほたるちゃんと付き合ってるって。
――終わった、と思った。
本当に、二人は恋人同士だった。夢だと思いたかったのに。信じたくなかったのに。
どうしようもない現実が、私の目の前に突きつけられた。
いつから、こんなことになってたんだろう。
いつから、私は置いていかれてたんだろう。
私の方が……ずっと前から、彼を好きだったのに。
私はアイドルだからって、その気持ちをずっと隠してた。伝えたかった。伝えてしまいたかった。
けど、怖かった。
今の関係が壊れてしまうのが怖くて、ずっと我慢してた。
でも――ずるいよ。
おそらく告白したのは、ほたるちゃんからだと思う。けど、彼女もアイドルなのに。どうして、告白できたんだろう。
どうして私は……できなかったんだろう。
……もし、私がそんな事を気にしないで、思い切って想いを伝えていたら――。
今、彼の隣にいるのは、もしかしたら私だったのかもしれない。
そう思ったら、胸の奥が締めつけられて、息が詰まるようだった。
後悔しか……なかった。
彼の写真に、ぽたりと涙が落ちた。
もう、泣きつくしたはずだったのに――また、涙が溢れてきた。
私は顔を伏せて、ぎゅっと布団をかぶった。もう、何も見たくなかった。
もう……何もかもが、嫌になっていた。
私には、何もなかった。想いも伝えられなかった。彼の隣にもいられなかった。
きっと、何も変えられなかった。
……気づけば、いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
布団の中から顔を少し出すと、部屋の空気が夕方の色に変わっていた。
あれから、何も食べていない。そんな気力もなかった。
でも、身体は正直で、ぐう……と小さく情けない音を鳴らした。
空腹に耐えきれなくなって、何か口に入れようと、ふらふらと部屋を出ようとした、その時――。
……カタリ、と小さな音が聞こえた。
家の中で。
一人暮らしのはずの、この部屋で。
背筋に冷たいものが走って、思わず足が止まった。
……誰?何の音?
鼓動が早まって、手のひらがじっとり汗ばむ。
それでも、確かめなきゃいけないと思って、私は意を決して、扉にそっと手をかけた。
そして――恐る恐る、その扉を開いた。
「……え?」
そこにいたのは、なぜか……杏ちゃんだった。
リビングのソファーに寝転んで、まるで自分の家みたいにくつろいでいる。
頭が追いつかなくて固まっていると、彼女がこちらをちらりと見て
「……あー、起きた?鍵開いてたから入ってきちゃった。ちゃんと戸締まりしなよー」
そんな呑気な口調で言った。
「……え、あ……ご、ごめ……」
混乱しながら謝った、その瞬間。
ぐぅ~~……
お腹の音が、静かな室内に響いた。
気まずくて恥ずかしくて、思わず顔を伏せると
「ん、ほい。お見舞いで適当に買ってきたから食べなよ」
彼女が、買い物袋からゼリーやスープ、ヨーグルトみたいな軽めの食品を取り出して、私に手渡してくれた。
「……ありがとう……」
まだ頭がぐるぐるしてる。何がどうしてこうなったのか、状況がまるで理解できない。
でも、優しくて温かいその手を見て、少しだけ、心がほぐれた気がした。
そして……しばらく沈黙が流れた。
私はもらったゼリーをスプーンでゆっくりすくいながら口に運ぶ。甘いはずなのに、味がしなかった。
「ねぇ……杏ちゃんは、前から気づいてたの?私が、Pチャンを……その……す、好きだったって……」
ようやく私は、ぽつりと声に出した。
彼女は私の気持ちに気づいている。それは私もわかっていた。
彼女はソファーで寝転んだまま、天井を見上げながら言った。
「んー、まあ……気づくでしょ。長い付き合いだし。茄子も多分、気づいてたよ」
やっぱり、そうだったんだ……。
私はうつむいた。なんだか恥ずかしくて、気まずくて、息が詰まりそうだった。
「でもさ、ほたるは気づいてなかったんだよ」
彼女の声はいつになく優しかった。
「だからさー、あの子に悪気があったわけじゃないんだよ。本当に……」
それは、私だってわかってる。
ほたるちゃんが、この気持ちに気づくはずなんてなかった。彼女が事務所に来たのは三年前。私がPチャンとずっと一緒にやってきた、その前の時間なんて、知る由もなかったんだ。
……でも、わかってるからこそ、余計に苦しかった。
「でもさー、プロデューサーがほたると付き合ってるって知った時、ちょっとだけビックリしたよ」
彼女は天井を見たまま、気だるげに言った。
「プロデューサーと付き合うのは、みくだと思ってたからさ」
「えっ……」
私は思わず顔を上げた。そんなこと、誰にも言われたことがなかった。まさか彼女からそんな風に思われてたなんて――驚きと、少しだけくすぐったいような気持ち。
彼女は私の反応に構わず続けた。
「だから、それを聞いた時……あー、いずれこうなるんだろうなって、なんとなく思ってたよ」
私は、心の中で小さく息を呑んだ。
杏ちゃんって、いつもやる気なさそうに見えるけど、本当は……すごく周りを見てる。みんなのこと、ちゃんとわかってるんだ。
私は、視線を落としながら口を開いた。
「……みくはアイドルだから、告白しないようにって、気持ちを抑えてたの。ファンのみんなを……悲しませたくなかったから」
それはずっと抱えてきた本音だった。
彼女は、少しだけ口元をゆるめて言った。
「みくは真面目だねー。でも、そうこうしてるうちに、ほたるに先を越されちゃって、モヤモヤしてるんだ?」
……図星だった。
何も言い返せなくて、私はただ、ゼリーのカップを見つめていた。
彼女は、ゴロンと仰向けになりながら、ちょっと真面目に話し出した。
「世間一般的には、みくが正しいと思うよ。でも、ほたるってかなりの不幸体質でしょ?だからさ、プロデューサーのおかげで自分の運命が変わったって、心の底から思ってるんだと思う。……それで、好きになった気持ちを、止められなかったんじゃないかなーって」
その言葉に、私は目を伏せた。
……なんとなく、そんな気はしていた。
不幸続きだったほたるちゃんが、Pチャンに出会って、だんだん笑えるようになって。少しずつ前向きになっていく姿を見てきた。
「……みくだって、Pチャンのおかげで猫アイドルとして成功したの」
声に出すと、胸が少しだけ痛んだ。
「それで、Pチャンを……みくの運命の人だって、思って」
自然とそう思っていた。彼と出会わなかったら、私はきっと、ただの猫好きな普通の女の子のままだった。
「……でもやっぱり、私が告白する勇気がなかっただけ……なんだよね」
ゼリーのスプーンを止めて、私は落ち込むようにうつむいた。
全部、自分の中で止めてた。
誰のせいでもない。
私は、怖かっただけなんだ――壊れるのが。壊れるくらいなら、最初から望まなければよかったって……そうやって、逃げていただけだったんだ。
すると彼女は、ぽつりと声を上げた。
「でもさー、まだ諦めるのは早くない?」
思わず私は彼女の顔を見た。何を言い出すんだろう、って目で見つめてしまう。
「だってさ、ほたるはまだ高校生でしょ?プロデューサーもさ、プラトニックな関係だって言ってたし。……多分、チューすらまだしてないよ」
そう言って、彼女はニヤニヤとからかうような顔を見せた。
「……そ、そうかな?」
私は思わず赤面して、ゼリーの容器から目を逸らす。
キスしてない、なんて話――本当かどうかは知らないけど、そんなこと考えたくもないのに、胸の奥がざわざわする。
彼女は、なおも軽い調子で続ける。
「まー、ほたるがもっとグイグイ行けばわかんないけどね。でもさ、今からでもプロデューサーにアプローチしてみたら?案外まだ何とかなるかもよ?」
それは、私が今いちばん聞いてはいけない言葉だった。
そんなこと、考えたくないのに――
その「もしも」に、心が揺れてしまう。
諦めるべきなのに。終わったはずなのに。
私の中の何かが、わずかに動き始めるのを感じてしまった。
「でもそれは……ほたるちゃんに悪いし……」
私はそう小さな声でつぶやいた。
心のどこかで、まだ自分の気持ちに踏ん切りがついていなかった。
けれど彼女は、私の迷いごと見透かしたように言葉を重ねた。
「ねぇ、みく。このまま自分の気持ちを抑えつけたまま、あの二人と一緒にいられるの?」
その言葉に、私は言葉を詰まらせた。
――いられるのか。私の好きな人と、その彼女が目の前で仲良くしている姿を、これからもずっと見続けられるのか。
少し考えて、でもすぐに答えは出た。
「……それは、無理かも」
やっとの思いでそう答えると、彼女は静かに頷いた。
「そっか。じゃあさ、みくがそのまま気まずくなって事務所を辞めたら……ほたるとプロデューサーはさ、絶対に悲しむよ」
――その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。
想像してしまった。自分がいなくなった後の二人の顔。
私のせいで悲しんでる表情が、はっきりと浮かんできた。
このままじゃ駄目だ。
そう思った。心の奥底で、ずっとわかっていた未来が、現実味を帯びて押し寄せてくる。
逃げている場合じゃない。
私は――変わらなきゃいけない。
「だからさ、もう自分の気持ちを抑えつけるのはやめたらいいじゃん。杏みたいにさ、疲れたーとか、働きたくなーいとか……何でもすぐに口に出していこうよ」
彼女が、どこか得意げな顔で言った。
その姿を見て、思わずふっと笑ってしまう。なんだろう、少しだけ気が楽になった気がした。
そうか……私は、自分の中でいろんなことをぐるぐる考えすぎて、いっぱいいっぱいになってたんだ。
ほたるちゃんには迷惑かもしれない。でも、それでも――私も彼の事が好きなんだ。
それを伝えずに終わらせるなんて、きっともっと後悔する。
「……でも、いいの?杏ちゃんって、ほたるちゃんの味方じゃなかったの?」
おそるおそる尋ねると、彼女は少し照れくさそうに笑った。
「いや、杏はみんなの味方だよ。みんなが好きだからさ、アイドル頑張ってやれてるんだよ」
それを聞いて、私は胸がじんと熱くなった。
「だからこのプロダクションじゃなきゃ、まともに働いてないよ」
確かに――そうだと思った。
彼女は根っからのニート気質で、どれだけ寝転がっていたいかを日々語っているけど、それでも現場にはちゃんと来るし、なんだかんだで大事な時には誰よりも頼れる。
そんな彼女が、いやいやながらでも働いているのは、きっとこうして、みんなの事を大切に思っているからなんだ。
私は、もう一度ゼリーのスプーンを口に運びながら、少しだけ前を向けた気がした。
「杏ちゃん。今日は……本当にありがとう」
私の声は少しだけ震えていたけど、さっきよりずっと素直だった。
「杏ちゃんがいなかったら、私はどうなってたか……。みくも、杏ちゃんが大好きだよ」
そう言って、私は勢いよく彼女に抱きついた。
「ちょっ……もう……」
彼女は困ったように言いながらも、すぐに私を引き離したりはしなかった。
いつもの調子に戻った私に呆れてるふうを装っていたけど、その横顔はどこか嬉しそうだった。
やっぱり――この事務所が、みんなが、私の居場所なんだ。
泣いて、落ち込んで、それでもまた笑える。
そんな仲間がここにはいる。
私はそっと目を閉じて、彼女のぬくもりを胸に、静かに息を吐いた。
もう少しだけ、このままでいよう。
涙の先にある、ほんの少しのぬくもりを、今はただ感じていたかった。