「支えたがりの天才 & 支えが必要な凡人」
野球推薦で入学した名門校。
「水を飲むな」「声が出ない奴はゴミ」――理不尽すぎる野球部から、俺は裸足で逃げた。
逃げ込んだ先で出会ったのは、麻雀用語で喋る監督と、ひとりだけの天才。
そして、心を撃ち抜いたあのサーブ。
「この天才を、世界に連れていく」
これは、凡人と天才がすれ違い、交わり、追いかけて、追い抜いて、それでも隣に立とうとする――
世界を目指す、青春スポーツストーリー。
本作はカクヨムとpixivに掲載中です。
現在は一旦完結していますが、続編はカクヨムに投稿する可能性があります。
放課後の校舎裏は、ほかの場所より少しだけ空気が重い。
フェンス越しに風が吹き、砂粒が足元でシャッと鳴った。
誰もいないのに、音だけが残っている。そんな場所。
賑やかな場所のほうが好きな俺には、ちょっと物足りない空間だった。
部活見学を一通り流して、教室に戻る途中だった。
ただ……前に逃げ出した野球部が、心残りなだけで。
(声出てない=ゴミ、水飲んだら非国民。部活って何だっけ、ってなったな。)
練習メニューを見た瞬間、俺の膝が「もういいって」と判断を下していた。
運動が嫌いなわけじゃない。寧ろ好きだ。けど、“根性で勝て”って雰囲気は――
うん、俺みたいなちょいイケメンには、やっぱり価値観が合わなかった。
そのあと見た他の部活は、どれも「ちゃんとしてた」。
雰囲気も、指導も、メニューも、ちゃんと部活然としてて。
……逆に、それが一番困った。
(好きな競技を選ぶべきなのか、それとも“すごい人”にでも引っ張られた方が強くなれるのか。部活って、どうやって選ぶもんなんだ?)
普段の自分なら、そんなふうに考えることすらなかった。
だけどこのときだけは、少しだけ足が止まった。
中学の頃、一緒に野球やってたやつがいる。
意外と責任感のあるやつで、「逃げようぜ」って言った俺を、ちょっとだけ笑って、あっちに残った。
今もまだ、あのままなんだろうか。そう思ったのが、ここを通ろうと思ったきっかけ……だったかもしれない。
「このクソ親父……チームメイト全員、結局辞めちまったし……」
声がした。怒鳴りじゃなくて、落ちていくような独り言だった。
視線を向けると、白ジャージの男子生徒がラケットバッグをつま先で蹴っていた。
膝には乾いた泥。色は抜けかけている。
ラケットの持ち方も、どこか不器用で、けど芯があるように見えた。
(全員辞めるって、実際あるんだな……)
(野球部も、あれくらい荒れてくれたらなぁ……いや、なんでもねぇけど。)
しょうもない思いつきだったけど、あまりにも現実味がなさ過ぎて……少し笑った。
その隣。ベンチにいたのは、缶コーヒーを手にしたオッサン。
無精髭にぼさぼさの髪、よれたTシャツに開きっぱなしのジャージ。
姿勢も表情もゆるくて、学校にいるべき人には見えなかった。
でも、腕だけはやけに太かった。
筋肉の質が、本人の空気感とまったく合っていなかった。
(元選手ってやつか……で、あの口ぶり、あの流れ。たぶんこの人がテニス部の――監督?)
ピースが勝手に揃っていく感覚があった。
見た目はともかく、空気だけは妙に“競技者側”だった。
「やる気のある奴……引き戻せねぇかな……あれ? 最初っからいねぇや。まあいいや。せめて一回くらいポンって言わせてくれよ、ダブルスでさ。」
意味はよく分からなかった。でも、“わざとズラしてしゃべってる”ってことだけは伝わった。
(なんか揉めてんな……面倒くさそうだし、別の通路から教室戻るか。)
俺は、自分のことをそこそこ器用だと思ってる。
空気も読めるし、人の中にいるのも好きだ。
でも、熱の強い人がいると、俺は勝手に「どうやってバランス取るか」を考えてしまう。
その計算が外れたときの重たさは、もう何度も見てきた。
だから深入りはしない。
情がないわけじゃない。
俺が困ってないなら、本当に困ってる側を助けるのが自然。それだけの話。
「よし……ん!? そこに、もしや――逸材が!」
風の中で、オッサンの声が跳ねた。
振り返ると、こっちをまっすぐ見ていた。
“お前に決めた”と、目が語っていた。
(あ……来ちまった。)
俺が足を止めたとき、白ジャージの彼がぼそっとつぶやいた。
「親父……無理だって、前も……」
声には、諦めと、ほんの少しの傷みが混ざっていた。
きっと、何度もこういう場面を見せられてきたんだろう。
(部員一人って、マジであるんだな……)
ジャージは泥まみれ、バッグの取っ手は裂けていた。
一つ一つの生活感が、考えなくても目に入ってくる。
オッサンが歩いてくる。
身長、制服、手に持ってた雑誌――視線が全部に触れてくるのがわかる。
(そこそこの身長、体格、雑誌持ってるから頭良さそう……って、考えてるの丸わかりですよ。)
「お前! テニス、やる気は!? ……このジャリが、当たりくじかもしれねぇって、俺の博打センサーが言ってる!!」
語彙は雑だったけど、声の勢いだけはまっすぐだった。
「えー、俺、野球部に入ろうって思ってたんで。スミマセン。」
――って、言った直後、自分で自分に違和感を持った。
(え、俺、前にアレ見たよな? なんで“野球部”って口から出た?)
言葉だけが前に出て、頭が一歩遅れてた。
体が先に判断してたみたいだった。
軽くかわすつもりだった。けど、足は止まっていた。
笑ってるのに、目は笑ってない。
声も軽いのに、喉の奥に熱がこもっていた。
(きっと、この人が本気で言ってるから、俺も……)
どうして俺は、このオッサンの熱に、こんなに引っかかってるんだろう。
処理しきれないノイズみたいな存在感だった。なのに、耳から離れなかった。
(……でも、一人だけの部活ってのは、さすがにちょっとなぁ……)
そう思ったはずなのに、なんで保留にしているのか、自分でもよく分からないまま。
たぶん、ちょっと熱に浮かされてる。
「まてまて、野球部なんざノーボーナスだ!こっちは万枚直行の神台なんだよ、お前が引けばな!」
意味は分からないけど、勢いだけは理解できた。
その背後で、大成って呼ばれた彼が、ラケットを握る手をかすかに震わせていた。
耳も赤くなっていて、身を縮めるようにしていた。
(反抗期ってより……もう疲れてるのかもな。)
それでも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、笑いそうになった。
肩をすくめて、俺は言った。
「いやぁ、そんなガチなの、俺はちょっと……」
オッサンの目が、ふいに変わった。
口元が引き締まり、風の音が一瞬だけ遠のいた気がした。
「じゃあ、こいつのプレー見ろ!今日の公式戦、シングルスで全国狙ってんだ。天才だぜ、うちの息子は!」
堂々とした声だった。
真っ直ぐに放たれたその一言。
意味は分からなかった。けど――今の言葉は気になった。
(この親子を、じゃない。たぶん俺は、夢の続きを見たくなったんだ。)
「……なんで俺、さっさと断らなかったんだろうな……今ので。」
足は、もうグラウンドの方向へは動いていなかった。
この“妙な親子”を、少しだけ見てみたくなった。
それだけのこと――のはずだった。
――まさか、本当に来ちまうとはな。
テニスコートの観客席。その隅に、俺は腰を下ろしていた。
何回戦とか、試合形式とか、正直よく知らない。
でも、応援はまばらで空席ばかり。この静けさは、たぶん“大会の最初”ってやつだった。
べつにテニスが見たかったわけじゃない。
体育でラケット触ったくらいで、ちゃんとやったことはない。
ルールも雰囲気も、はっきり言ってほぼ無知。
(ちょっとだけ見たら、帰ろ。)
最初は、その程度の気分だった。
校舎裏で見た“あの親子”の空気に、少しだけ浮かされてた。
よく知らない競技を観に来たのは、勢いのせい。
ついでだけど、貧乏くじばっか引いてそうなあの後輩も、なんか気になっていた。
野球部のグラウンドを通らないで済むルートだったのも、理由の一つ。
友達の顔を見たら、何か言われそうな気がして。たぶん、それが一番、今の俺にはめんどくさい。
……なのに、大成の姿を見た瞬間、視線が離れなくなった。
校舎裏で初めて見たときのことは、うっすらとしか覚えていない。
壊れかけのラケットを持ってて、真ん中の糸が切れてて、持ち方も変だったような気がする。
表情も空気も薄くて、よくいる“喋らない部員”かと思ってた。
けど、今は明らかに違う。
背筋が伸びていて、手先まで神経が行き届いてる感じ。
風が吹いても、軸がまったくブレてない。
試合開始の前なのに、もう彼だけが“競技”の中にいた。
審判のコールが響く。
大成が、サーブの構えに入る。
ボールをバウンドさせて、深くひと呼吸。
ただそれだけで、空気がピリついたのが分かった。
バシィッ。
空気が裂けて、目より耳が先に反応する。脳の処理が0.5秒くらい遅れていた。
音が、視界より先に耳に突き刺さった。
耳じゃなく、骨に届くような音。
鼓膜よりも神経のほうが先に反応した気がした。
次の瞬間、視界の端で、ボールが地面を撃った。
相手は一歩も動けず、ボールは地面に突き刺さっていた。
ざわ、と観客席がわずかに揺れる。
「今の、見えた?」「やば……」
そんな声が、ちょっと遅れて届いた。
2球目、3球目。
同じ音が、まったく同じテンポで重なった。
フォーム、打球、軌道。再現性がバグってるレベルで同じ。
偶然じゃない。“設計された一撃”だった。
速さだけじゃない。
狙ってる。抑えてる。
構造そのものが、勝つために組まれてる。
プレー全体が、無駄なく“意味”で満たされていた。
気づけば、試合は終わっていた。
サーブだけで、終わった。
(なにこれ、すげぇ……)
呟いたわけじゃない。でも、思考の奥にその言葉だけが浮かんでいた。
一瞬だけ、身体の奥が反応した。
どこがどう、ってわけじゃない。
でも、心拍と呼吸のテンポがズレたのは、分かった。
脳の予測と感情の速度が、噛み合っていなかった。
それは花火みたいに華やかでも、爆発みたいに派手でもない。
もっと重くて、黒くて、静かで――“思考を押しのける熱量”だった。
(これ……心が動いてんのか、俺。)
処理できてないのに、何かがもう進み始めてた。
大成が静かにコートを出てくる。
胸を張るでもなく、勝ち誇るでもなく。
ただ、「やるべきことを終えた」っていう空気を、全身にまとってた。
(……声、かけていいのか?)
一瞬だけ迷った。でも、俺はそういうとき、あんまり迷わない。
気づけば、身体が前に出てた。
「なあ、大成!」
彼が振り向く。
さっきまでの鋭い顔が、ふっとゆるむ。
目を丸くして、頬がちょっと赤くなって。
……表情が素直すぎて、なんか笑いそうになった。
「お前……めっちゃ、カッケーな!!」
言った瞬間、大成の目が揺れた。
でも、嫌がるような感じじゃない。
彼は、少しだけ首を傾けた。
まるで“自分のこと”なのに、自分で信じ切れてないみたいに。
俺は、そのまま続けた。
「緊張すんなって。これから同じ部活で頑張るんだし。」
その一言で、大成の目がぱちんと見開いた。
何かが反応した、って感じの動きだった。
(……あ、今、届いたな。)
なんとなくだけど、そう思った。
「俺、初心者でわりーけど……よろしくな。」
彼の表情が、ふっとやわらいだ。
安心とはちょっと違う。でも、初めて“少し開いた”って感じだった。
「……っ、うん!」
その声は小さくて、ちょっと詰まってて。
でも、まっすぐだった。
その瞬間、何かが始まった気がした。
今までの俺にはなかった感情。
それが何なのか、まだ言葉にはできなかったけど――
(……これ、マジで続けるんだな、俺。)
自分でそう思った。
そしてその直後に、少しだけ笑いながら思った。
(強豪野球部じゃなくて、二人しかいねーテニス部で優勝を目指すとは……人生わっかんねぇ……っ!)
「氷室は大会にゃ出れねー。もう受付期間は、とっくに閉店ガラガラだからよ。」
そう言って、大河さんはぬるくなった缶コーヒーを喉に流し込んだ。
気の抜けた口調のくせに、語尾だけ妙に熱がある。
この人、雑談も指導も、全部“勝負の一つ”として喋ってる気がする。
「お前は俺と、残って特訓だ。せめて九月までに“捨て牌”くらいの役割にはなってくれや。」
また博打用語。
意味は相変わらずよく分かっていない。それでも、もう慣れた。
この人にとっては、テニスも麻雀も、等しく“読み合い”なんだと思う。
正直……野球部よりはずっとマシ。これは本音。
あいつらも、こっちに来ればよかったのに。
俺に結果が出せるかはともかく、今のところは案外悪くない。
「頑張りまーす。」
軽く返すと、大成が少し前のめりに顔を覗かせてきた。
「が……頑張って!」
まっすぐな目。
声が、俺より本気だ。
だから俺は、ちょっと悪ノリするみたいに笑って――
「俺!頑張るな!!」
にこっと笑った俺に、大河さんの眉がわずかに動いた。
(あー、監督を軽く扱いやがって、って顔。)
でもわざとやった。
この人に真面目に向き合うには、まだちょっと覚悟が足りない。
俺の問題もあるけど、それ以上にこのオッサンがおかしいのが悪いと思う。
「おいジャリ、俺と息子で態度違いすぎるだろ!」
「ははは。それより監督、大成の試合、決勝くらいまでは見に行っていいですよね?」
大河さんは無言で、何故か大成を指差した。
「ソイツが決勝まで行けたらな。」
「行けますよ。絶対。こいつは天才ですから。な、大成。」
当然のように言った。でも、内心では強く思ってた。
こいつが天才だって、誰が見ても分かる。
だからこそ、大河さんの次に俺が信じたい。
大成は、ラケットのガット――ネットで調べた網の部分――を静かにつまんでいた。
素材やテンションの種類があるらしい。一本切れただけで打球感もズレるとか。
知らなかった世界が、ほんの少しずつ俺の奥底に定着していく。
大成は無言でガットを弾き、ほんの少しだけ眉をひそめた。
何かを考えている。でも言わない。そういうやつ。
そんな空気を、大河さんがパンと手を叩いて切った。
「じゃあまずは基礎練ー……と行きてぇとこだが、そんなもんじゃモチベ上がんねぇだろ。」
(え、いきなり試合?!)
「取りあえず、俺と試合だ。試し打ちってことで、ボッコボコにしてやる。」
「お手柔らかに〜」
(いや、100%無理だろ)
試合が始まった。
最初のサーブ音で、すべてを理解した。
バキィッ。
空気が圧縮されて、瞬間的に弾けたような音。
目より先に、音が背骨を突いた。
それだけで、思考のタイムラグが発生する。
返したつもりの球は浮いて、即カウンター。
ラリーが続いても、足を削られて、空いたコースに刺される。
気づいたときには、ポイントを取られてる。常に後手だった。
でも、一度だけ――
構えが少し乱れた。
踏み出しの足が、わずかに流れた。
読み通りの場所に、球を打ち込んだ。
一本だけ、点が入った。
(……いけるかも。)
そう思った。確かに、そのときは。
けど、次のサーブで、その可能性は粉砕された。
音も、風圧も、目も。全部、持っていかれた。
スコアは、6-1。
(……まあ、当然か。)
ベンチに戻ると、大河さんが静かに近づいてきた。
笑ってるような、怒ってるような、どっちでもない顔だった。
「おい。なんで一点取ったとき、あえて俺のフォア側に打った?」
一瞬、背中に冷たいものが走った。
「……左足の筋、痛めてますよね。卑怯かもとは思いましたけど、俺じゃ狙わなきゃ一本も取れねーと思って。」
間が空いたあと、大河さんは喉の奥で笑った。
低くて、擦れた声。けど、少しだけ喜んでるのが分かった。
「それは正解だ。間違ってねぇ。むしろ、最初からそれやれってんだ。」
サーブが決まったとき、踏み込みの足が、わずかに乱れた。
それを拾えたのは、たぶん野球で染みついた感覚のせいだと思う。
「怪我の種類まで読んでたとはな……どこで仕込んだ?」
「観察?あと、たぶん勘っすね。」
野球部時代、軽い怪我を見抜くのは、わりと俺の役目だった。
“ちょっと違う動き”には、なぜか反応してしまう。
「初心者でそれ言えるなら、上等だ……リーチ牌まで読めるやつってのは――」
「え、リーチ……?」
聞き返すと、大河さんは大げさに肩をすくめた。
「麻雀用語な。“あと一手で上がれる”って意味だ。つまり――“勝負が見える位置”に来たってことだ。」
いまいちピンとはこなかった。
けど、たぶん――褒められたんだと思う。
それが、ちょっとだけ、くすぐったかった。
(勝ち負けじゃなくて……俺は、天才の見ている景色を、見てみたい。)
その気持ちが、胸の奥で静かに灯っていた。
たぶん、いずれ俺は、大成に置いていかれる。
一緒に走れるのは、ほんの一瞬かもしれない。
でも、それでもいいと思った。
彼の見ている景色を、一歩後ろからでもで見られるのなら。
それだけで、きっと、後悔はしない。
大成が負けた――という事実を、俺は最初うまく飲み込めなかった。
試合会場のモニターに映ったスコア。
都大会、準決勝。ベスト4止まり。
それが現実だった。
観客席はざわついていた。「惜しかった」「あれは仕方ない」といった声が飛び交っていた。
でも俺は、何も言えなかった。
だって、負ける姿なんて想像してなかった。
(まさか、大成が……)
驚きというよりは、静かな混乱だった。
信じていた。それなのに、足りなかった。
いや、大成が足りなかったわけじゃない。
大成の才能は、本物だ。それは間違いない。
じゃあ、なにが。
何が、足りなかったんだ?
フィジカルでは勝っていた。
技術でも、確実に上回っていた。
それでも、大成は負けた。
(……戦い方、か。)
ラリーの流し方。呼吸をずらす間合い。
プレーの合間に見え隠れする、小さな仕掛け。
相手は、勝つための“順序”を知っていた。
大成は、ただ“強く打つ”ことだけを信じていた。
どこまでも真っ直ぐで、綺麗で、洗練されていて。
だけど――“人と戦ったことがない”ような打ち方だった。
それが、限界だったのかもしれない。
「……ごめんね。」
試合後、控えスペースで顔を合わせたとき、大成はぽつりとそう言った。
言い訳も、説明もなかった。ただの、ひとこと。
謝られる理由なんて、俺にはひとつもなかった。
でもあいつは、何かを壊したような気配だけを察知していた。
そして、それをうまく言葉にできないまま、黙っていた。
その不器用さが、あいつらしかった。
俺は静かに、首を横に振った。
責めるつもりなんて一ミリもない。
違う。責めてない。そうじゃないんだ。
(俺が思ってるのは、それじゃない。)
頭に浮かんだのは、初めて見たときのサーブだった。
音が遅れて届いて、視界の中で風が裂けた。
観客のざわめきが一瞬だけ止まって、全員が“凄み”に飲まれていた。
あれは、たしかに“世界”に通用するサーブだった。
俺の中の神話として、今でも思考の中心に焼きついている。
(あれを――あのプレーを、世界の舞台に連れていかないと。)
それが、今の俺の中で、唯一はっきりしている感情だった。
「……やっぱ、練習相手が足りなかったな。」
低く、少し疲れたような声がした。
横を見ると、大河さんが目を細めながら立っていた。
「氷室が育ってくれりゃ、だいぶ解決すんだけどよ。」
視線が、俺に向けられる。
軽口に見えて、その目には確かに“期待”があった。
ただ、押しつけがましさは一切なかった。
むしろ、「お前なら、やるだろう?」とでも言いたげな――あの人なりの信頼だった。
(俺なんかに、天才の隣を走る資格があるのか?)
ほんの一瞬、躊躇いが喉に詰まった。
でも、すぐに答えは出た。
「……分かりました。やりますよ。」
自分でも驚くほど、冷静にそう言っていた。
「大成が世界に羽ばたく手伝いなんて……面白そうじゃないですか。」
大成は、少しだけ驚いた顔をしたあと、ゆっくりと瞬きをした。
たぶん半分もわかっていない。
でも、今はそれで十分だった。
(この先、俺にできることがあるなら。)
それを、俺を、全部使えばいい。
天才の隣を――
一瞬でも走れるなら。
いや、走れるかもしれないのなら。
その可能性が、ゼロじゃないのなら。
それだけで、俺は十分だと思えた。
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──そのやりとりを少し離れた位置で見ていた大河は、氷室の言葉を聞いて、ゆるく目を細めていた。
(……たいしてついてねぇ筋肉で、あれだけのパワー。)
野球仕込みの打ち方で、テニスの球をまともに潰す。
フォームも理屈も知らねぇのに、タイミングだけはやたら正確だった。
(畑違いのスポーツでも生きる観察眼。)
あの試合。踏み込みのズレを一瞬で見抜いて、ピンポイントで刺してきた。
(そして、迷いを振り切り、宣言する。情熱を兼ね備えた判断力――)
スカした口ぶりで、本音を隠してるように見えて、あの時の言葉にはもう覚悟が乗ってた。
「……こいつ、思ったより、いい拾い物かもしんねぇな。」
缶コーヒーの残りを飲み干して、ふっと呟く。
それは、まだ“信頼”じゃない。
でも、“興味”はもう、手放す気がなくなっていた。
「金の卵じゃねーか、氷室。マジで……!」
思ってたより面白ぇぞ、こいつ。
そして、そんな監督の気配を背中で感じながら――
氷室は、ほんの少しだけ口元をゆるめた。