黒い霧が、地を這っていた。
足元の泥はぬかるみ、風のひとすじも吹かぬその地は、まるで世界が呼吸をやめたかのようだった。
セレヴィアンは、霧の奥にゆっくりと歩を進めた。
空は閉ざされ、太陽は射さず、命の気配もない。
「……淀みの地か」
かつてこの一帯は、精霊たちが遊ぶ緑なす大地だった。
しかし今や、残骸と化し、沈黙すら呑まれていく。
そこにいたのは、“名を持たぬ魔”だった。
泥の中からのそのそと這い出るそれは、既に言葉も意思も持たぬ。
かつて戦った魔族たちと違う。
怒りも、畏れも、欲もない。
「……感情を、持たぬか」
セレヴィアンは静かに立ち止まった。
その眼差しには、敵意も、怒りもない。ただ冷静な観察者のまなざしだけがある。
魔は咆哮すらせず、ただセレヴィアンの存在に反応し、這い寄ってきた。
「黒き魔の長……あれは異端だったのか。あるいは、過渡期の徒か……」
言葉に反応はなかった。
ただ、形だけが存在し、理なき力を振るうだけの存在。
理知を捨て、進化の果てに残った“最も効率的な殺戮の器”。
それを見て、セレヴィアンは、ほんのわずかに目を伏せた。
「この世界は変わってゆく。理が変質し、存在が変容し、やがてそれを“当然”とする時代が訪れるのだろう」
まだ確信ではない。
だが、そうなるであろう片鱗を、彼は確かに感じ取った。
そしてそれは――
「……余がこの世界に関与しすぎれば、その流れさえも歪めかねぬ」
歩いてきた道を思い返す。
風精の声、聖獣の問い、魔族の感情。
それらすべては、“始まり”として美しかった。
しかし、彼は神である。
神の眼は、世界の在り方に影響を与える。
無垢なる理が揺らぎ、存在の選択肢を奪う。
「ならば、見届けるのはここまでだ」
そう口にした時、空気が少し揺れた。
彼の周囲に風が戻り、草の種子がひとつ、霧の中を舞った。
「……余は眠る。だが、終わるのではない。これは“間”だ」
彼は確かに言葉を刻む。
世界が新たな形を築くまで、余は沈黙する。
それを壊さぬために、ただ眠る。
理を観るためではなく、理を守るために。
「……眠りの刻は、近い」
その声に応じるように、風の中からひとつ、小さな精霊が顔を出す。
かつて旅路の途中で名乗った、風精の末裔である。
「――おやすみ、セレヴィアン」
その声はかすれていたが、確かに微笑んでいた。
セレヴィアンはわずかに頷き、背を向けて歩き出した。
眠りの地を目指して。沈黙の場所へと。
この日、龍神はまだ眠っていない。
だが、彼の心は既に静寂の淵にあった。