風が止んでいた。空は白く、雲は遠い。
大地は深い静けさに沈み、あらゆる命の気配が、どこか遠くで眠っているようだった。
世界の果て――それは誰も到達し得ぬ境界。
地の理はねじれ、空は重く、時間さえも沈黙している。
セレヴィアンは、静かにそこへ立っていた。
旅路の果てに辿り着いたのは、始まりと終わりが交錯する場所。
まだ名前のない谷。誰の記憶にも残らぬ黄昏の地。
「……ずいぶん歩いたな」
それは、誰に語るでもない、独り言。
けれどその声には、確かに、満ち足りた静けさが宿っていた。
風精たちと交わした戯れ、聖獣との問答、
魔の長との激闘、そして感情なき魔族の出現――
それらすべてが、脳裏をよぎる。
「世界は変わってゆく。善し悪しではなく、それが自然だ」
自分がこの地に生まれ、理を観て、理を試し、歩いたこと。
その足跡が、この世界に微かでも影響を与えてしまったこと。
それに気づいたとき、彼の中でひとつの答えが定まっていた。
「だからこそ、余はここで退こう。……今はまだ、世界が己の意思で歩くべき時だ」
その決意に、迷いはなかった。
足元の岩に、セレヴィアンはそっと腰を下ろす。
手をかざすと、空間に微細な粒子が舞い、光の繭が形を成し始める。
それは魔法ではない。龍神という存在そのものが紡ぎ出す“眠りの契約”。
大地と、空と、風と、火と――
この世を成すあらゆる元素が、彼の眠りを許し、受け入れてゆく。
「風よ、我を包みて吹け。
星よ、我が夢を見守れ。
命よ、争うな。理よ、眠れ」
声は穏やかで、深く、あまりにも静かだった。
ひとつ、またひとつ、精霊たちの気配が集まる。
光の粒子となり、繭を織る糸となり――
やがてその姿は、ひときわ大きな光の繭に包まれていった。
眠りに落ちる直前、セレヴィアンは最後に、空を見上げる。
そこに確かな星々はまだなかったが、彼の瞳には未来の光が映っていた。
「……いつか、この地を、誰かが歩くだろう。余が知らぬ理を、誰かが紡ぐだろう。
その日が来たら、目覚めよう。今度は、旅人として――」
微かな微笑みが、彼の唇に浮かんだ。
そして、完全なる沈黙。
大地が息をひそめ、空が明滅する。
時がひとつの円環を閉じるように、龍神は世界の理の中に沈み込んでいった。
こうして、神代の黎明を見届けたセレヴィアンは、
長き静寂の中へと身を委ねる。
それは、“終わり”ではなく、“間(あわい)”。
世界が次なる姿へと進化する、その片隅で。
――第1章「始まりは人知れず」 完