朝霧の残る森の中を、ふたりの旅人が歩いていた。
セレヴィアンは静かに前を見据え、カラムはその横で口笛を吹いていた。
「なんだか、少しずつだけど、季節が変わってきてる気がするな」
「……そうだな。湿気の質が違う。陽光の差し込み方も浅くなっている」
「さすがに観察眼がすごいよな。俺なんか、暑いか寒いかしかわからない」
カラムが笑いながら言うと、セレヴィアンもほんのわずかに口元を緩めた。
彼がこうして感情を表に出すのは、まだ珍しいことだった。
数日をともに旅するうちに、言葉少なだったセレヴィアンにも、少しずつ「隣に誰かがいる旅」に慣れ始めていた。
昼過ぎ、開けた丘に出たふたりは、道の先に人の集団を見つけた。
旅の民――放浪を生業とする一団だった。
幌を被せた荷車と馬、囲炉裏の煙、子どもたちの笑い声。簡素な生活の匂いが、そこにはあった。
「なんだか、賑やかだな」
「人が集まれば、空気は変わるものだ」
その言葉を皮切りに、ふたりは一団へと近づいていった。
「あんたらも旅かい?」
声をかけてきたのは、黒髪の女だった。年の頃はカラムと同じくらいだろうか。腰には短剣が下げられ、日焼けした肌がたくましかった。
「見ての通りです。食料と水を少し分けてもらえるなら、何か手伝いを」
カラムが丁寧に言うと、女は笑った。
「そんな固くならないでいいよ。あたしたちは放浪の民だ。助け合ってなんぼだよ」
彼女の名はラッタ。
旅の民の一団で、護衛と雑事を一手に引き受けているらしい。
「休んでいきな。焚き火はすぐ起こす」
セレヴィアンは火の前に腰を下ろし、手元に落ちていた小枝を拾った。
その表面の繊維、樹皮の走り方、乾燥度合いを指先でなぞる。
「こういうのって、分析するもんなのか?」
カラムが笑う。
「分析ではない。これは……記録だ。変化の蓄積こそ、観察の意味を成す」
セレヴィアンはそう答えながら、小枝を火にくべた。
焚き火の周囲には子どもたちが集まってきた。
ラッタが食事の支度をしている間に、カラムは子供たちと簡単なゲームをして盛り上がっている。
セレヴィアンの周囲にも、ひとりの少年が近寄ってきた。
「お兄さん、旅人?」
「そうだ」
「どうして旅してるの? 魔族に会ったことある?」
セレヴィアンは少し考えたあと、答えた。
「……目に映るものを、見て回っている。それだけだ」
「ふーん。僕、いつか“光の大陸”に行ってみたいんだ。お母さんが昔、歌ってくれた場所」
セレヴィアンは小さく頷いた。
「それは、きっと良い旅になる」
その言葉に、少年は嬉しそうに笑った。
その夜、ふいに風が変わった。
焚き火の煙が一方向に流れ、空気が重くなる。
「来るな……」
セレヴィアンが立ち上がった直後、森の中から淡い影が現れた。
「こんなところで火を焚くとは、無防備なものだ」
男の声だった。
だが、その声音には何の起伏もない。機械のように、ただ言葉を発しているだけのようだった。
姿を現したのは、長身の魔族。
人間に擬態しているが、明らかに“感情”の欠落を感じさせる異質さがあった。
「皆さん、隠れて!」
ラッタが叫び、子どもたちを導く。
魔族はその視線をセレヴィアンに移した。
「君、少し変わっているね。なぜ逃げない?」
「逃げる理由が、見当たらない」
ふたりの間に、ゆっくりと静寂が流れる。
だが次の瞬間、魔族の足元から暗い霧が溢れた。
「《暗霧の縛鎖》――霧を鎖のように変え、動きを封じる魔法!」
鋭い霧が鎖のようにセレヴィアンへと伸びる。
「水穿(すいせん)の環陣」
セレヴィアンが手を振ると、周囲の湿気が圧縮されて弧を描き、鎖を弾いた。
魔族は片眉を上げた。
セレヴィアンの魔法が、自分たちとは根本から違うことを感じ取ったのだ。
「……なるほど。面白いな」
「それは評価の言葉か?」
「興味だよ。ただの」
魔族が手を掲げ、再び詠唱する。
「《落雷の双牙》――雷の槍を二本、同時に落とす魔法!」
空が裂ける音とともに、雷光がセレヴィアンを貫かんとする。
「雷界・鳴鏡(らいかい・めいきょう)」
セレヴィアンの魔法が雷を鏡面に吸収し、相殺する。
続けてカラムが飛び出した。
「《奔水刃》――水の刃を奔流として放つ魔法!」
水の奔流が魔族の足元を裂き、体勢を崩させた。
セレヴィアンが一歩踏み出し、静かに呟いた。
「去れ。これ以上は看過できない」
魔族は数秒の沈黙の後、笑った。
「……ふっ。お前人間ではないな。……まぁいい、1度引くとしよう」
そう言い残し、霧に紛れて姿を消した。
夜明け――。
旅の民たちは無言で焚き火を囲み、誰もが安堵と疲労を噛み締めていた。
ラッタが礼を言いに来た。
「……助けてもらった。命の恩人ってのは、こういうことを言うんだね」
「感謝は不要だ、私も興味があって関わっただけだ」
セレヴィアンの声は淡々としていたが、その目は人々を確かに見ていた。
「また、どこかで会うかもね」
ラッタがそう言って笑う。
カラムは肩をすくめながら、彼女に手を振った。
「それじゃ、俺たちは先に行く。道中、気をつけて」
旅の民たちに見送られながら、セレヴィアンとカラムは再び歩き出した。
霧は晴れ、空は高く澄んでいた。
その旅路が、どこへ向かおうとも――
彼の歩みは、理を求めて止まることはない。