草原を抜け、丘を越えた先に、その街はあった。
遠目には白く輝く城壁が、夏の陽を受けて淡くきらめいていた。
人の手によって築かれたものとしては、見事な均整を保った構造だった。
「なんだか……立派な街だな。帝国ってわけじゃなさそうだけど」
カラムが感心したように目を細める。
「自治都市だ。人間たちが協力し、秩序を保ち、自らの暮らしを守っている」
「お前、よくそんなこと知ってるな……」
「観察は繰り返されている。形は変われど、本質は同じだ」
セレヴィアンは風を読み、ゆっくりと街道を歩き出した。
その背中を追いながら、カラムは小さく肩をすくめた。
街の門は厚く、鋼で補強されていたが、通行は意外にも穏やかだった。
門番たちは旅人であるふたりに少しの視線を送ったが、名を問うこともなければ武器の所持すら咎めなかった。
「外から来る者を排除しない……珍しいな」
「この街は“知”を重んじる文化を持っているらしい。外からの学びを拒まぬ証左だろう」
街中では、子どもたちが本を手に走り回り、老人たちは広場の石畳に集まっては物語を語っていた。
香辛料と焼き菓子の匂い、楽器の音、そして賑わいが渦巻く。
セレヴィアンは目を細める。
生の輝きが、そこにあった。
「……ここでは、命が緩やかに流れている」
「悪くない空気だな」
ふたりはそのまま宿屋を見つけ、簡素な部屋を借りた。
窓からは遠く、街の外れに連なる岩山の稜線が見えた。
その夜、セレヴィアンは独りで街を離れ、岩山の方へ向かった。
空気の流れが変わっていた。何かが、風を裂いている。
山の中腹まで来たとき、彼の足が止まった。
――音が、ない。
虫の声も、鳥の羽音も、風のざわめきすらなかった。
ただ、眼前に佇んでいたのは、一体の――竜だった。
それは、かつてセレヴィアン自身が過ごした“龍人”の姿を彷彿とさせる。
だが、この竜は進化の階梯を登りきってはおらず、未だ“原始の存在”としての凄みを纏っていた。
漆黒の鱗に銀の縁取り。
眼光は暗く、しかし確かに「理性」の光を宿していた。
セレヴィアンは歩み寄り、問う。
「――何故、この地に」
竜は答えない。だが、その視線は明らかにセレヴィアンを捉えていた。
セレヴィアンは、足元に静かに魔力を走らせる。
大地と呼吸を合わせ、竜の思念を読む。
(……縄張りを侵された怒りでも、守るべき卵があるわけでもない)
代わりに――
(これは、“探している”)
次の瞬間、竜が一歩踏み出した。
土が沈み、大気が軋む。
そのまま咆哮とともに翼を広げた。
「……来るか」
セレヴィアンは両手を前に掲げる。だが、攻撃の意思は見せなかった。
竜が飛翔し、直上から襲いかかる。
咆哮とともに吐き出されたのは、火でも雷でもない――風。
「風顕の纏域(ふうけんのてんいき)」
空間の圧力を斥力に変える。
竜の吐息は分断され、セレヴィアンに届くことはなかった。
だが竜は止まらない。
大地を蹴り、さらに空へと舞い上がると――翼をたたみ、急降下してきた。
「……やはり、これは“確認”か」
セレヴィアンは静かに呟き、詠唱もせずに空へ手を伸ばした。
「星宿の帳(せいしゅくのとばり)」
瞬間、天幕のような魔力が広がり、竜の動きを包み込む。
暴風が静まり、重力が緩やかに制御され、竜の巨体は地面すれすれで静かに停止した。
そして――
竜の眼が、少し細くなった。
警戒が解けた。
セレヴィアンは、ほんのわずかにその頬を緩めた。
「お前もまた、“この時代に残された者”か」
竜は鼻を鳴らし、首を振った。まるで、否定するように。
(……違う。“望んで残った”)
思念が伝わる。セレヴィアンはわずかに驚いた。
「愚かな者だな。だが、理解できなくはない」
竜は、ただその場に伏せた。
その姿は威圧ではなく、尊厳を湛えた沈黙だった。
やがて、ゆっくりと立ち上がり、空へと舞い上がる。
翼の動きは軽く、空の風とともに流れるようだった。
そして――竜は何も告げずに、夜空の彼方へと消えていった。
翌朝。
「おい、どこ行ってたんだ? 朝メシ、ひとりで食べてやったぞ」
宿のテーブルでカラムが口を尖らせていた。
セレヴィアンは静かに席に着く。
「少し……風と語っていた」
「……また詩人みたいなことを」
セレヴィアンはそれ以上語らなかった。
だが、彼の眼には昨夜とは違う何かが宿っていた。
それは、遥か古より残された者との対話――
そして、自らの存在が世界の一部であることを、ほんの少しだけ受け入れた証だった。
風が吹いていた。
季節は、確かに移ろい始めている。