街を出てから三日が過ぎた。
セレヴィアンとカラムは、南方の山岳地帯へと向かう街道を歩いていた。
途中、いくつかの集落を通ったが、いずれも魔族の脅威に怯え、外来者を極端に避ける傾向が強まっていた。
「雰囲気が……ちょっと変わってきたな」
「この辺りは、近頃“東の森”から魔族が現れたと噂されている」
「直接見たわけでもないのに?」
「恐怖とは、影を見ただけでも動き出すものだ」
セレヴィアンの言葉に、カラムは小さくうなずいた。
街の外れでは、荒れた耕作地と焼けた家屋が残されていた。村があった痕跡。
そこに人の姿はなく、風の音だけが木々を揺らしていた。
その日の午後、二人は街道脇の丘で休憩をとった。
遠く、焚き火の煙が立ち上っているのが見えた。
「何かいるな。行ってみるか?」
「……ああ」
セレヴィアンは立ち上がり、風の流れを読むように首を傾けた。
そこにいたのは、十数人の男女と数人の子供たち。
粗末な荷物と手作りの天幕。
焚き火を囲み、皆が疲弊した表情を浮かべていた。
「あんたら、旅の者かい?」
最初に声をかけてきたのは、白髪交じりの初老の男だった。
日焼けした顔に皺を刻みながら、なおもまっすぐな目をしていた。
「旅の途中で、焚き火の煙が見えた」
「……そうか。ここは追われた者たちの集まりだ。身を守る術も、帰る家もない」
男の名はオルグ。かつては北の村で鍛冶屋をしていたという。
だが魔族の襲撃を受け、村は壊滅。生き残った者同士が集まり、ここまで逃れてきたのだという。
「行くあては?」
「南の都市に希望をかけている。だが、あそこも門が閉じられたらしい。余所者はもう入れないってな」
「ならば、なぜ街道を離れずにいる?」
「……俺たちはもう、道を“歩く”しかできないんだ。誰かの許しを得ることも、望まれることもない。ただ、歩き続けてる」
その言葉を聞きながら、セレヴィアンは静かに周囲の人々を見回した。
老人、子ども、怪我人。
魔族の被害に遭ったと語る者たちの中には、言葉を失った者もいた。
子供たちは、焚き火の炎に怯えるように背を丸めていた。
「魔族って、本当に人の言葉を喋るの?」
誰かが小声で呟いた。
その声に、焚き火の周囲がしんと静まり返る。
「ああ。喋る。優しげにな。まるで昔の先生みたいだった」
「でも……すぐに、顔が壊れたんだ。笑ってた顔が、急に……動かなくなって。お母さんを……」
そこまで語った少年の声は、細く、震えていた。
カラムは黙って隣に腰を下ろし、背中を軽く叩いた。
セレヴィアンは焚き火を見つめたまま、ふと静かに呟いた。
「言葉は“意味”ではなく、“意志”を写す鏡だ。意味をなぞる声に惑わされるな」
日が傾き、空が朱に染まる頃。
一人の少女が、丘の下で何かを指差していた。
「……竜? だ、誰か空を……!」
空に現れたのは、巨大な影――
それは“飛竜”だった。
人の街では伝説と化して久しいが、山岳地帯や未開の地では稀に姿を現す存在。
「防げるような相手じゃねえ……!」
誰かが叫ぶ。
飛竜は、焚き火の匂いに引き寄せられたのか、低く咆哮を放ちながら降下してくる。
「子供を下がらせろ!」
カラムが立ち上がり、剣を抜いた。
セレヴィアンは無言で前に出る。
眼差しに、揺らぎはなかった。
「群れる個体ではない……ならば、示せばよい」
風を断ち、飛竜が突進してくる。
「陽環の昇華(ようかんのしょうか)」
セレヴィアンの周囲に魔力の輪が浮かび、熱の波紋を描く。
それは視界を歪ませ、飛竜の目を撹乱した。
「光の壁? いや、違う!」
カラムが目を細める。
飛竜は空中で方向を誤り、丘の斜面をかすめるようにして旋回した。
「……まだ来る!」
カラムが叫ぶ。
セレヴィアンは、今度は静かに両手を広げた。
「鎮極の円廻(ちんごくのえんね)」
周囲の空気が凍り、霧が輪を描いて広がる。
その中心に、飛竜の脚が絡まる。
それは傷つけるための術ではなく、速度と衝撃を殺すための拘束。
空を滑るようにして飛竜が地に降り立ち、咆哮と共に翼を大きく広げた。
だが――戦意は、ない。
飛竜は、ただ警戒するように数歩退き、視線をセレヴィアンに向けた。
沈黙の時間が流れる。
やがて、飛竜は小さく鼻を鳴らし、空へと飛び上がった。
そして、そのまま北の空へと姿を消していった。
丘の上に、静けさが戻る。
子どもたちがそっと顔を上げる。
「……帰ったの?」
「ああ」
セレヴィアンは短く答えた。
「なんで、殺さなかったの?」
「殺すべきではなかったからだ」
それは簡潔な言葉だったが、その場にいたすべての人間が、どこか救われたような表情を見せた。
その夜、焚き火を囲む輪が、自然とひとつ広がっていた。
誰もが一言も語らず、ただ火の灯りを見つめていた。
セレヴィアンは立ち上がる。
「行くぞ、カラム」
「ああ」
背中を向け、歩き出すふたり。
その姿を、オルグが遠くから見送った。
「名を……聞いておきたい。あんたの名を、子どもたちが訊ねると思う」
セレヴィアンは一度だけ振り返った。
「セレヴィアン。……それで、足りる」
彼の足取りは、迷いがなかった。
夜の草原に星が瞬く。
その下を、旅のふたりが静かに歩いていく。
この世界に、まだ語られていない真理がある限り――
彼の旅は、続く。