第2章 第15話「偽りの名と帝国の影」
白雪が降りしきる峠を越え、冷え切った風が肌を裂くように吹き抜けていた。
その中を、セレヴィアンとカラムは無言で歩いていた。
「……本当にこの先に街があるのか?」
カラムが問いかける。地図も看板もない荒野。頼れるのは旅人の勘と、土地の気配だけだ。
「ある。地形の抉れ、魔力の流れ……人工の痕跡がある」
セレヴィアンの返答は確信に満ちていた。
それを信じ、ふたりはさらに足を進めた。
やがて視界が開け、山裾に広がる都市が姿を現した。
高い城壁、雪を弾く魔力障壁、そして天を突く白い尖塔。
「……帝国だな」
カラムが息を呑んだ。
その都市の名は〈ヴィスタリア〉。
かつて魔族との戦争を主導した大国のひとつにして、未だ強大な魔法体系を維持する帝国だった。
帝都の門前には厳重な警備が敷かれていた。
魔力検知の結界が門の周囲を巡り、通行人一人ひとりに対して詳細な身元確認が行われている。
カラムが小声で問う。
「なあ……どうする? こんなとこで“正体”が割れたら、ただじゃ済まないぞ?」
セレヴィアンは少しの間、沈黙してから口を開いた。
「名を偽ろう。……ここでは、私は“ユリウス”という名の、地方学問所出身の研究者だ」
「即興にしては妙に具体的だな」
「知識の裏付けがなければ、嘘はすぐ剥がれる」
その声には、仮面を被ることへのためらいはなかった。
“観察する者”として、彼はあらゆる立場に立つ覚悟を持っていた。
「次――名を」
門兵が鋭い声を上げた。
「ユリウス・トレヴァン。北方の学府にて魔導文化史を修めた者です。
本日は帝都の記録所を訪ねたく、書簡の提出を申請します」
その受け答えは堂々としており、兵士の眉が僅かに動く。
「学府名と指導者の名は?」
「学府名は《トルメン高地知識院》。
指導者は故オルベリウス・ハイン。記録が残っていれば照合可能なはずです」
短いやりとりのあと、兵士はしぶしぶ通行を許可した。
表情には依然として疑念が残っていたが、それ以上問いただす根拠はなかった。
帝都の空気は凍りついていた。
表面は整然とした秩序に満ちているが、道行く人々の顔には影があり、どこか張り詰めている。
「魔族の襲撃か、それとも……」
セレヴィアンは内心で呟いた。
この街は、秩序と緊張が共存する“不安定な均衡”の上に立っていた。
「……なんだか、この街、妙な閉塞感があるな」
カラムの言葉に、セレヴィアンは肯定も否定もせずに首を振った。
宿を確保し、落ち着いたふたりは、夜の市場を散策していた。
そこで目にしたのは、ひとつの掲示板――貼り出された指名手配書だった。
『ディルファ=ラザル 目撃情報求ム』
その名を目にした瞬間、セレヴィアンの目がわずかに鋭くなる。
「……帝国の手にも負えないか」
かつて遭遇した〈真理を捻じ曲げる者〉――魔族ディルファ=ラザル。
彼の存在は、すでに帝国にも深く脅威として認識されていた。
「帝国に身を置く以上、いずれ接触することになるだろうな」
セレヴィアンは静かに呟く。
だが、ここで事を急ぐつもりはなかった。
今の彼は、あくまで“観察する者”。この帝国という社会に潜み、知り、学び、測るのだ。
そのためには、己を偽り、沈黙の中に溶け込む必要がある。
翌朝――。
セレヴィアンは帝国の魔導研究所を訪れた。
「外部研究者」としての名義を使い、地下に保管された古文書を閲覧するためである。
そこには、過去に封印された魔族の記録や、忘れ去られた魔術の断片が眠っていた。
セレヴィアンはその一枚一枚に指先を滑らせる。
まるで記録の中の亡霊と対話するかのように。
やがて、ある文書が彼の手を止めた。
《深黒の言葉により、真実は捩れ、記憶は書き換えられる。》
それは、ディルファ=ラザルの持つ“能力”の原型を示す文章だった。
(……真理を捻じ曲げるとは、記録そのものに干渉するということか)
彼は紙の裏面を見つめた。魔力がうっすらと染みていた。
それは明確な痕跡だった――“今も誰かが干渉している”という。
夜。
宿に戻ったセレヴィアンは、カラムに言った。
「この国は、静かに侵蝕されている。秩序の裏で、歪みが拡がっている」
「それでも、帝国は崩れてない」
「外から見れば、な」
窓の外には帝国の時計塔が、冷たい月光を浴びていた。
高く、整い、そして……どこか脆く見えた。
「ユリウスっての、気に入ったか?」
カラムが冗談めかして笑う。
「仮面には意味がある。……真実を語るためには、時に偽りが必要なのだ」
「面倒な性格だな」
「だが、必要なことだ」
セレヴィアンはそう言って目を閉じた。
この国の“奥底”――そこに何があるのか。その問いに向き合うために。
そして、やがて来るであろうディルファとの決戦に向けて。
静かなる探求の時が、今始まろうとしていた。