聖なる山脈を越えて、セレヴィアンが辿り着いたのは、深い霧と闇に包まれた広大な沼地であった。空は常に曇天に閉ざされ、陽光は届かず、瘴気に似た空気が辺りを漂う。
その地に、彼は“淀の主”と呼ばれる魔物が棲むという話を、風に宿る精霊より聞いていた。
「精霊たちは恐れていたが――」
彼は、地の底から響くような微細な呻きを感じ取っていた。それは、言葉にならぬ絶望、あるいは渇望にも似た何かだった。
足を踏み入れると、大地がぬかるみ、背の高い黒苔の木々が沈黙のうちに道を塞いでいた。鳥も獣もいない。ただ、風が啼くばかりである。
セレヴィアンは手を掲げ、静かに詠じた。
「《赫映(かくえい)の環よ、影を裂きたまえ》」
その言葉とともに、彼の掌より光輪が生まれ、彼を中心に広がって周囲の霧を払った。まるで夜に灯を灯すかのように、光は静かに、しかし確かに闇を押し返した。
その瞬間。
――ズゥゥ……
地の底から、何かが蠢く音が響いた。水面が盛り上がり、黒い触腕のようなものが泥の中から現れ、ゆっくりと彼の方へ向かってくる。
「来たか」
セレヴィアンはそのまま背筋を伸ばし、相手の姿を見極めようと目を細める。
やがて泥の海より現れたのは、異形の魔物だった。仮面のような白い骨面を持ち、翼も脚もなく、ただ無数の腕と触手のようなものをうごめかせながら這い出てくる。
それは、明らかに自然の理から逸脱した存在だった。知性を持たず、ただ本能のままに周囲の魔力を喰らい続ける、生きた災厄。
「貴様のような存在が、いずれこの世に溢れるようになれば、世界は均衡を失う」
そう呟くと同時に、セレヴィアンの背後に広がる空が波打ち、そこから輝く魔法陣が顕現する。紋様は古の神語で編まれ、読み解ける者はこの世界には存在しない。
「《龍響奏鳴(りゅうきょうそうめい)》」
瞬間、轟音が世界を貫いた。龍の咆哮にも似たその音は、周囲一帯を震わせ、霧を四散させ、空を裂いた。
魔物の体が震え、内側から崩れ始める。音に含まれた魔力が、ただ破壊するだけではなく、“形を持つ混沌”そのものを打ち砕いていたのだ。
「……終わったか」
黒き魔物が完全に消え去ると、セレヴィアンは静かに沼の中央に歩を進めた。そこには、朽ちた古き碑があった。
近づくと、その碑にはかすかに古代語でこう刻まれていた。
《嘗てこの地に栄えしもの、今は淀みに眠る》
セレヴィアンはしばし目を閉じ、その地に向けて手をかざした。
「忘れ去られしものよ。眠るがよい。再び汚れが芽吹かぬよう、我が加護をここに遺す」
そう言って掌を地に伏せると、大地が光に包まれ、瘴気が徐々に晴れていった。
――それは、誰に知られることもない、ささやかな浄化の儀であった。
けれども、それを見ていた者が一人。
森の影に潜んでいた小さな存在。森霊の子であろうか。彼の姿を見つめ、しばし震えていたが、やがてぺこりと頭を下げ、姿を消した。
セレヴィアンはそれを見て、わずかに微笑した。
「……さて、次はどの空を見に行こうか」
そして、彼は再び歩き出す。未だ形なき世界を、その眼と魔法で観測し、記録するために。
この時代に名など残らぬとしても、その歩みは確かに、世界の始まりを形づくっていた。