探偵フブキ   作:サワベ

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お待たせして本当に申し訳ございません。
なるべく後編は早く上げられるよう努力します。




復讐と矜持 中編

 

 

「関係者以外は通れません。身分の分かるものを――」

「私の連れです。身元も確かです」

「ああ、そうだったんですか。どうぞ」

 

 目の前にいる見張りの警官は、芦屋さんの言葉に納得した後、黄色い規制線を上げてくれた。それを潜って、私は目的の現場に辿り着いた。

 現場は住宅地から少し離れた、倉庫のそばの小さな建物だった。道中、芦屋さんから聞いた話によれば、もう使われていない倉庫の管理事務所だった建物で、倉野の元同僚が住んでいるのだという。鑑識の格好をした人達が忙しなく動いている。

 

「…少し待っててください。真鍋先輩を呼んできます」

「…真鍋さんも来てるの」

「はい。今は現場の陣頭指揮を」

 

 そういいつつ、芦屋さんは建物に入っていった。しばらくして、建物の中から、公安局の制服にコートを羽織った真鍋さんが出てきた。

 

「…フブキさん。すみません、こんなことに巻き込んでしまって」

「…大丈夫、元はといえば私が言い出したことだし。現場はどんな感じなの?」

「被害者は病院に搬送され、鑑識の作業も一通り終わっています。中をご覧になりますか?」

「うん」

「では、御案内しますね。拍子抜けするかもですが」

「…どういうこと?」

「まあ、見たら分かりますよ」

 

 真鍋さんに案内され、手袋を着けながら芦屋さんと共に現場に入った。

 建物の広さは六畳ほど。シングルベッドが隅に置かれていて、小さな流し台の横に、小型の冷蔵庫が設置されている。他には小さな机とテレビのみで、箪笥などの収納はなかった。

 さらに辺りを見回してみると、奥に引き戸があった。今は解放されている。

 

「隣に、もうひと部屋あるの?」

「はい。部屋…といえるかは微妙ですが。倉野が発見されたのは、あそこです」

 

 真鍋さんの話を聞きつつ、部屋に足を踏み入れる。広さは三畳弱といったところで、屋根は低く、私でも軽く跳ねれば手が届きそうなほどだ。窓も収納もなく、まるで押し入れのような雰囲気だった。

 

「元々は事務所の物置だったんですよね」と、芦屋さんが真鍋さんに訊いた。

「そうです」

「物は全部、鑑識が持ってっちゃったの?」

「そうですね。元々大したものもありませんでしたし」

 

 そう言いながら、真鍋さんはスマホの画面を見せてくれた。

 そこに映っているのは、倒れている倉野の姿だった。敷布団の上に、仰向けになっている。

 

「原因は不明?」

「はい。今日の朝、夜勤から戻ってきた同居人が発見。もうすでにこの状態だったと」

「ふうん…推定時刻は?」

「絞れていませんが、おそらくパレード終盤からその夜までのはずです」

 

 本人から聞くのが一番ですが、と、真鍋さんは小声で言った。

 

「同居人については、もう話をされたんですか」

「ええ。…カンナが手を貸してくれていて、それで」

「名前は何と?」

木島といいます」

 

 芦屋さんと真鍋さんの会話を背景に、私はもう一度、小部屋の中を見回してみた。

 ――報いが下ったのだと思った。一昨日の一件から、倉野がろくでもない人間であること、食堂の主人と確執があることは分かっている。

 分からないのは、なぜわざわざ被害者の身内を刺激するような行動を取ったのだろうということだ。仕返しされないとでも思ったのだろうか。このキヴォトスで。

 

「外傷はなかったの」

「ありませんでした。揉み合った形跡も、銃創も見当たりませんでした」

 

 外傷なし。事件性は今のところ無いが、仮にそうだとすると、毒物か何かだろうか。写真を見る限り、飲み物とおぼしき容器の類いは見当らなかった。飲ませるのに使ったにせよ、犯人が持ち去ったのだろう。

 私は食堂の主人の顔を思い浮かべた。今のところ、最も有力な被疑者といっていい。動機は充分だ。

 しかし。私は、あの主人がここで倉野と対峙する光景が想像できなかった。正面切って侵入したなら、きっと争いになる。こんなに綺麗な現場にならないはずだ。

 

「…しばらくは、情報が出揃うまで待ちかな」

 

 ともかく、今は得られる情報が少ない。私は一度、事情聴取の結果を待つことにした。

 

 

 

 

―――

 

 

 

 

 自分の足を使うのは得意分野な方だと思っていた。だが、今はその足がとにかく重い。肉体的なものではなく、精神から来る疲れであると感じていた。

 私、尾刃カンナは今日、事件に関係すると思われる人物に、片っ端から事情を訊いて回っていた。

 

「…大した収穫はなかったな」

 

 シラトリから持ち込んだ、私専用のマグカップを傾けながら、調書を読む。

 まず同居人――木島に話を訊いた。本人の主張は、その日は夕方からずっと夜勤に出ていたという。

 結果は白に近い。職場の同僚に裏付けが取れた。同居人は確実に、事件現場には居なかった。

 それ以外にも、倉野は2年前――ちょうど私達が担当し、敗れた事件のあと、住むところに困って転がり込んできたのだという話も聞けた。

 次に、戸田以下食堂の常連に話を訊いた。結果としては、皆、白に近い。何故なら、その人々はパレードに参加するか、バックアップ、大会運営に関わっている人達だったからだ。裏付けは必要だが、犯行可能とは考えにくい。

 

「一番可能性があるのは…やはり、この人達か」

 

 最後の調書。そこには、食堂の主人と、その娘の取り調べ結果が記載されていた。主人はパレードを見るつもりだったが、昼のラストオーダー時刻に体調を崩した客を病院まで運んでいる。娘は他の客を、パレードが見やすい場所に案内していたが、主人の報せを受けて店に戻ったそうだ。

 

「…こんなこと、真鍋にはさせられん。…私がやるしかないな」

 

 真鍋が地元の人々と仲が良いことは知っていた。だからこそ、真鍋がその人々に罪を疑うような行為をしてほしくなかった。そのために、私はこの仕事を買って出た。

 ――もしくは、私がただ単に真鍋に贖罪したかっただけなのかもしれない。

 私はあいつのために何もしてやれなかった。

 私は倉野を落とせなかった。

 何も解決できなかった。

 私は無力だ。

 そう考える度、私の心は磨耗していった。だから、せめて、と。真鍋のためという大義名分を掲げ、私の心を慰めたかったのかもしれない。

 ふいに、フブキの顔が浮かんだ。

 あいつなら、もしかして解決してしまうのだろうか。新たな物証を見つけ、倉野を檻へ叩き込めたのだろうか。

 

「…いいな――」

 

 そんな言葉が漏れる。

 めんどくさがりで、サボり屋で。

 公安に負けず劣らずの観察眼と考察力を持っていて。

 ――私がどれだけ渇望しても手に入らなかった、"お巡りさん"の能力も持ち合わせている。

 

「…ああ、いいなぁ……」

 

 もし私が、公安局に入らなければ。

 もし私が、警察官にならなければ。

 もし私が、お巡りさんだったら――

 

「…いかんな」

「何が?」

 

 唐突な声に振り返ると、フブキが戻ってきていた。

 

「…何でもない」

「何でもないことはないでしょ…調書、ある?」

「ここに一通り揃ってる。コピーさえしてくれたら、好きに持っていっていいぞ」

「流石、仕事が早いね」

「…これが本職だからな」

「…ん、そっか」

 

 そう言いつつ、フブキは調書を眺める。ぱらぱらと頁を捲っていく表情は真剣そのものだ。こんな顔、以前は滅多に見られなかったが、最近はよく見る。…負担を掛けているのだと、実感する。

 

「…この中で、裏が取れてない人は?」

 

 フブキがそう言った。もう読み終わったらしい。

 

「食堂の主人と娘…それと戸田たち常連だ」

「可能性が高いのは?」

「今のところは食堂の主人だ。戸田たちはパレードの参加、運営、バックアップと、推定時刻に動ける状態じゃなかったからな」

「…裏なら取りに行けるよ」

 

 唐突にそんなことを言い始めたので、私は面食らった。だが、フブキの表情を見るに、何かあてがあるのだと察することができた。

 

「あてがあるのか」

「うん。多分、だけどね」

「それは誰だ」

 

 その問いに対し、フブキが答えた人物は、私にとって思いもよらぬ人物だった。

 

「先生だよ。こっちに来てたんだ」

 

 


 

 

取調 担当:合歓垣フブキ

参考人:シャーレの先生

 

 


 

 

"…私がフブキと会ったのは、大体パレードが終わった午後5時ごろです"

 

 取り調べ用のお堅い口調で、先生は話す。

 

"私はフブキにおすすめのご飯屋を聞き、そこへ夕食を食べに向かいました"

「それが、例の食堂ということですか?」

"はい"

 

 既に知っていることだ、と思いつつ、調書にメモしていく。録音もしているのだ、メモなんか無くたっていい…と思ったが、一応書いておくことにした。

 

"お店に到着したとき、まだお店は開店していませんでした。諦めようかと思ったら、ちょうどご主人が帰ってきたんです"

「それで?」

"『今から準備するので、良かったら待っていて欲しい』と言われました。お昼すぎに体調を崩したお客さんがいたらしく、病院まで付き添っていたそうです"

 

 ビンゴだ。やはり先生はあの食堂へ向かい、主人に話を聞いていたのだ。

 だが、完全な裏付けとは言いにくい。犯行推定時刻が分からないし、何より先生自身が付き添ったわけじゃない。病院の防犯カメラも調べる必要がある。

 

「その後は?」

"その後はお店で食事を。しばらくして、娘さんが帰ってきました。友達と一緒にパレードを見に行っていたようで、その友達も食事をしていきました"

 

 これに関しては裏が取れている。先生への取り調べが始まる少し前に、カンナさんの調書を見た芦屋さんが、その友達に事情聴取を行なっていた。

 

「食堂には何時ごろまで?」

"開店が7時で…常連さんに乗せられちゃって、結局9時半位までいました。話が弾んじゃって"

「それで、宿に戻ったと」

"はい"

「…なるほど。他に何か、気がかりなことはありますか?」

"いえ、特には"

「…わかりました。以上になります、ありがとうございました」

 

 そう言って、レコーダーのスイッチを切った。

 

「…いやぁ、ありがとね、先生」

"お安い御用だよ。…大変だね"

 

 先生はそう言うと、お堅い表情から一変、いつも通りの柔らかい表情に変わった。変に生真面目な姿より、こっちの方が安心感があるのは私だけだろうか。

 

「…いきなり呼んじゃってごめんね。忙しいはずなのにさ」

"大丈夫だよ。生徒のためならどこへでも行くよ"

 

 困ってる人がいるなら、と、先生は胸を張った。どこか虚勢じみていて、自分に言い聞かせるような物言いだった。

 

「んじゃ、私は局に帰るね」

"私はこっちに残ってた方がいいかな?"

「うーん、まあ帰って大丈夫だと思うよ」

 

 また呼ぶかもだけど、と付け足しながら、帰り支度をする。まだやることは多い。

 病院への聞き込みを頼もう。そう思い、芦屋さんの電話番号を電話帳から探していると、先生が言った。

 

"…困ったことがあったら、何時でも頼ってね"

 

 その声は弱く、自信の無い声だった。

 

「…どうしたのさ、急に」

"……他意はないんだ…生徒に辛い思いをしてほしくないだけだよ"

 

 ――今、辛いのは先生の方じゃないのか。

 先生の様子を見ると、そうとしか思えなかった。私の知らないところで、この人は一体どのような経験をしたのだろうか。

 

「…じゃ、そのときが来たら、存分に頼っちゃうね」

"…任せて"

「…それじゃ、またね」

"……うん"

 

 先生を部屋に残し、ひとり、先生の部屋から退散する。その流れで、芦屋さんに電話をかけた。

 

『はい、芦屋です』

「先生からの聞き込みが終わったよ。大白医療センターの防犯カメラを確認してほしいかな」

『それなら、今ちょうど居ます。確認してきますね』

 

 用件を伝え、電話を切ろうとしたときだった。ああ、それと、と芦屋さんは付け加えた。

 

『倉野が意識不明になった原因が判明しました。窒息だそうです』

「窒息?」

 

 思わず聞き返す。

 

「え…っと、てことは、誰かに首を絞められたり、とか?」

『いえ、首を絞められたり跡などは確認できなかったそうです』

「じゃあ…鼻と口を塞がれた?」

『そこまでは…ああでも、睡眠薬の成分が検出されました』

「睡眠薬?」

 

 そこまで聞き、私は頭の中で犯行の動きを組み上げ始めた。

 

 ――睡眠薬を接種させ、鼻と口をふさいで窒息させる。

 

「…睡眠薬の量はどれくらいなの?」

『大した量じゃないです。何か危害を加えられるような動きをされれば――』

「…起きて、抵抗されるだろうね」

 

 しかし現場には抵抗した後が残っていなかった。それに調べでは、倉野が睡眠薬を接種していたという情報はない。睡眠薬を飲ませる地点から抵抗されるはずだ。

 ――直接窒息させるのは不可能。それが、私が出した結論だった。

 

 …こういうときは大体、何かしら見落としがある。私はもう一度、現場をよく見てみることにした。

 

 

 

 

―――

 

 

 

 

 規制線の前に立つ警官は、気だるげに欠伸をかみ殺していた。こんなところに警備なんかいらないだろう、というような表情を浮かべている。

 私が近づいていくと、その顔に変化が起きた。表情が引き締まって、目に力が籠っている。怪訝そうにしないのは、私が来ることを知っているからだ。

 

「身分証を」

「はいこれ。合歓垣フブキ」

「伺っております。お待ちしていました」

 

 そう言いながら、警官はきびきびとした動きで、現場の玄関の鍵を開けてくれた。

 ポケットから手袋を取り出して、はめる。ドアノブを捻って、中に入った。鑑識が何度か出入りしていたはずだが、中の様子は先日と変わっていなかった。

 例の小部屋を見る。やはりこちらもこの間と同じく、解放されたままになっている。

 

「…正面からじゃきっと交戦になる。…荒れてないとおかしいか」

 

 写真で見た部屋の様子と、なんとなく思い浮かべたシチュエーションを現地でトレースする。やはり無理がある、その考えを強固にするだけだった。

 

「……そういえば、扉のこと見てないや。見とこうかな」

 

 昨日の現場の様子を思い出す段階で、引き戸が開け放たれたままだったことを思い出した。部屋がどういう状態だったか、確認する価値はありそうだ。

 早速引き戸を閉めてみる。

 それは何の変哲もない片引き戸だった。全面木製で窓はなく、手を掛けるためのものとおぼしき窪みがあるだけだった。よく見ると、簡易的な鍵…というより、錠前をつけるための金具がついている。

 

「…んー、ん…」

 

 少しだけ、鍵に対して違和感を持った。その正体を確認するために、内側の方から戸を観察してみる。

 

「…ない」

 

 内側に鍵はついていなかった。内側から戸を開けられないようになっていた。

 この部屋は本来倉庫であるから、盗難防止用に外鍵をつけておくのは当たり前だ。だが私としては、この部屋で被害者が倒れていたこと、荒らされた形跡がないことから、調べておく必要があると思った。

 

「あのさ」

「はい」

 

 同行していた警察官に話しかける。

 

「ここの錠前ってどこにあるの? 鑑識が持ってっちゃった?」

「さあ…確認してみますが、そんなものがあったという話は全く…」

「ふうん…」

 

 聞きながら、扉についている取っ手を観察する。内側、外側を何度も。

 ――おそらく、犯人は直接侵入したわけではない。となれば、離れた場所…この部屋には無いが、窓口や隙間から、何らかの方法で手を下した可能性がある。その隙間を作る余地は、この戸しか無いと予想した。

 

「…ちょっと頼みごとがあるんだけど」

「何です」

「ドライバーセットとかある?」

「いえ…買ってきましょうか?」

「いいの? じゃ、お願い」

「わかりました。ここはお任せします」

 

 警官は快諾し、すぐに出掛けてくれた。

 私がドライバーを欲しがった理由はひとつ。この取っ手の金具が、戸の向こうへ繋がっているかを確かめるためだった。

 倉野は抵抗せず、窒息している状態で見つかった。首を絞められたわけでも、口を塞がれたわけでもない。だが、私はそれ以外で、窒息する方法を知っている。

 

「…酸欠」

 

 昔、ゲームだったかテレビだったかで見たことがあった。エレベーターに閉じ込められた人々が、酸欠に陥って争い始める、というもの。この部屋の狭さだ、そういうことを起こせるかもしれない、と考えた。

 

「となれば…この部屋を密閉できるか、だよね」

 

 独り、そういいながら、部屋のなかに入って戸を閉める。戸枠に沿って、視線を動かしてみる。戸と壁の隙間からは、外の光が漏れていた。

 駄目だ。戸と枠は隙間だらけで、ガムテープなどで目張りでもしない限り、この部屋を完全な密閉空間にすることは不可能だ。

 それに、密閉したとしても、部屋の酸素がなくなるまではかなりの時間を要する。睡眠薬を飲んでいたとはいえ、犯人はいつ起きるかもわからないギャンブルをすることになる。その上、倉野は息苦しくなれば起きるだろう。部屋から脱出しようともがくはずだ。

 

「状況と合わない。だから、この線はないはず…っと」

 

 ちょうど、警官が買い物から帰ってきた。ドライバーセットを受け取って、引き戸のそばに腰をおろす。ドライバー使い、引き手金具を止めているネジを緩め始める。こういう作業は慣れていないので、少し手間取った。

 暫く作業を進めると、戸の両側の金具が外れた。四角い穴が露出している。

 

「…やっぱり」

 

 四角い穴を覗くと、向こう側が見えていた。この穴を使えば、もしかしたら部屋に侵入せずに手を下せるかもしれない。

 

「…どうやって?」

 

 しかしそこからが問題だった。いくら穴が空いているとはいえ、とてつもなく小さな穴だ。入れられるものは限られてくる。

 この穴をどう使えば、中にいる人物に影響を与えられるか――私には、そのアイデアがなかった。

 

「何か分かりました?」

「いや、全然…あのさ、この穴を使って酸欠を引き起こす方法、何かある?」

 

 そう聞くと、警官は暫く考えたあと、言った。

 

「…酸素を吸いだしてみる、とか」

「…」

「…あり得ませんよね」

「いや…無くはないけど…限りなく無い、かな」

「ですよねぇ…」

 

 沈黙が流れる。それはつまり、この場にいる人間は、アイデアを持っていないということだ。

 

「…頼るか」

 

 こういう時は、専門家、または私より知識のある人物に頼るのが定石だ。そして、私はそのツテを持っている。

 モモトークの電話機能を使い、その人物に電話をかけた。ツーコールのあと、電話が繋がった。

 

「もしもし」

『珍しいね。君から電話が掛かってくるなんて』

「まあ、うん」

 

 電話の向こうの人物――白石ウタハは、少し嬉しそうにそう言った。

 

『それで、何の用かな?』

「あー…実はさ、ちょっとめんどくさい事件に巻き込まれちゃってさ。ウタハさん達ならアイデアくれるかなって」

『なるほど。そういうことなら、喜んで協力するよ。なにせ"探偵"のお願いだからね』

「…やめてよ、その呼び方」

『はは、ごめんね。少し待っていてくれ、ヒマリを呼んでくる。少し疲れてるだろうが、協力してくれるはずだ』

「疲れてる? 何でさ」

『つい最近まで氷海に行っていたらしい。ニュースでも報道されていたよ』

 

 そういえば、クロノスの報道で、極地での異常現象が確認されたという類の報道がされていたのを思い出した。極地探査まで行うとは、流石は天下のミレニアムといったところか。

 

『呼んできたよ』

『お久しぶりですね。貴方が求めた迷路の奥に存在する一粒の宝石にして極地探査のプロフェッショナル、明星ヒマリです』

「元気そうでよかったよ…フブキです、よろしく」

 

 電話からヒマリさんの声が聞こえてきた。スピーカーモードらしく、ウタハさんの声も聞こえる。何か肩書きが増えた気がするが、まあいいだろう。

 

『…それで、私たちに連絡してきたということは、何か一筋縄ではいかない案件があった、ということですね?』

「まあ、そういうこと。頼める?」

『勿論ですとも。何せ"名探偵"のお願いですから、ね?』

『そうだね』

「…ほんとにどこ情報なのさ」

 

 しきりに探偵という部分を強調したがる2人に呆れつつ、本題に入る。

 

『それで、どのようなことなのですか?』

「端的にいうと、部屋から酸素をなくす方法…部屋の中の人を、直接触れずに酸欠にするを知りたいんだけど…」

『酸素をなくす方法、ですか』

『…ひとまず、部屋の大きさ、状況を教えてくれるかい』

「発見当時の写真があるから、それ送るね」

 

 真鍋さんから送ってもらった現場の写真を、そのままヒマリさん達に送信する。

 

「あー、補足すると、出入り口はひとつだけ。引き戸があって、外から鍵を掛けられるようになってる。取っ手の金具を取ったら、部屋の中が覗けるようになってるよ」

『なるほど。それなら、部屋の中の空気に手が出せる』

『まるで"ユダの窓"ですね』

『そっちで出た案としては、何がある?』

「小窓を使って、酸素を抜く…ぐらいかな」

 

 そう伝えると、電話の向こうでヒマリさんは唸る。

 

『…それだと、あまりにも時間がかかってしまいます』

「やっぱり、駄目そう?」

『…現実的ではありませんね。完全な真空を作り出すのは難しいですし、その程度の空気の薄さで窒息するなら、登山なども困難になります』

 

 その声を聞いて、隣にいる警官は肩を落とした。

『ですが』ヒマリさんは続ける。

 

『発想を転換して…"部屋を狭く"するのはどうでしょうか。科学的にいえば"室内の容積を小さくする"ということです』

 

 確かに、部屋自体を狭くしてしまえば、中にある酸素の量は減らすことができる。

 

「ああ…でも、どうやって?」

『穴が空いているのなら、そこから何か物体を入れてしまえばいいんです。物体の分だけ容積は小さくなりますから、いずれ酸欠を引き起こしやすくなるでしょう』

「…穴って言ってもさ――」

 

 引き戸についている四角い穴を見ながら、ヒマリさんに問いかける。

 

「かなり小さい穴だよ。せいぜいビー玉ぐらいしか入らないし…何十万個も必要になっちゃうよ」

『変形しないものならそうですね。でも、変形するものなら?』

「変形するもの?」

『…風船とか、だね』

 

 ウタハさんの一言で、なんとなく言いたいことがわかった。

 つまり、萎んだ風船を穴から突っ込んで、部屋の中で膨らませる。これなら、かなり効率よく容積を小さくできる。

 …が、しかし。この部屋からは風船の跡も見つかっていないし、何よりリアリティがない。それに、もし苦しめている正体が風船だと気付けば、割れば解決する話だ。三畳ほどの部屋が一杯になる風船の数…私は、それを想像できなかった。

 

「…ありだと思ったけど…リアリティがないね」

『だろうね』

『でしょうね』

「でしょうね!?」

『ふふ、安心してください。私はあくまで"物"を投入した場合の話をしただけですよ』

「…というと?」

 

 聞き返すと、ヒマリさんは咳払いをひとつして、私に言った。

 

『たとえば…"空気以外の気体"を投入するのはどうでしょうか』

「…あっ、気体を…!」

 

 盲点だった、と私は思った。今まで、部屋から空気を抜くことばかり考えていたからだ。

 空気以外の気体を入れる。酸素以外、それと今までの会話の内容を加味すると――

 

「――風船を膨らませるのに使う…ヘリウムとか?」

『お見事。正解です』

 

 ぱちぱちぱち、と、ヒマリさんは口で拍手のオノマトペを発音した。愛嬌のある可愛らしい発音だと感じた。

 

『外側から鍵をかけた状態で、穴からヘリウムを流し入れる…そうすると、空気より軽いヘリウムは部屋の上部に集まります。そうすると、空気はいずれ室外に押し出され、最終的に酸素濃度が低下して――』

「酸欠に至る、ってことだよね」

『その通りです。そして、ヘリウムを調達できる環境も整っている。でしょう?』

「調達できる環境って…あっ、お祭りのバルーン!」

 

 事件当日は、オオジロ・パレード・フェスティバルの真っ最中。パレードの出し物の中で、大規模なバルーンを使った発表もあった。調達はできなくはない。

 

「じゃあ、そのヘリウムボンベを調べれば…」

『しかし』

 

 不意に、ヒマリさんは固い声で言った。

 

『…それができる気体は数多くあります。今までのは私の推理…故に、土台が間違っていて迷宮入り、ということもあり得ます』

「…じゃあ、どうするのさ」

『ひとつ、質問をしますね。その町には、工場はありますか?』

 

 ヒマリさんからの質問に、少し頭を捻る。

 ――そういえば、この町には工場があったはずだ。駅から大白町局までの道のりの間に見たのを覚えている。その工場は何か…ボンベのようなものを使って作業をしていたはずだ。

 

「あるよ。気体かどうかはわからないけど…ボンベを使ってたかな」

『そうですか、では…この写真、布団が写っていますよね?』

「そうだね」

 

『この布団の事件当日の状態を調べて下さい。それが済み次第、もう一度ご連絡を』

 

 

 

 

―――

 

 

 

 

 カンナからヘリウムボンベ発見の第一報を受け取ったのは、どっぷり更けた深夜のことだった。日中勤務の者が掃け、事件に関わる捜査員だけが局に残っていた。

 

『現物は鑑識に回した。聞き取りは早朝から再開する。調査の経過を見たいならそっちで確かめてほしい』

「わかりました。ありがとうね、カンナ」

 

 受話器をもとの位置に戻す。件のボンベを確認するため、押収品を管理、調査している部屋へ向かおうとした。

 廊下へ出ると、公安局の喧騒は遠ざかり、ひんやりとした空気が肌を撫でる。それに呼応するように、頭の中も冷たくなっていくように感じる。

 

 倉野が意識不明で発見された。私にとってその報せは、どう反応すれば良いのかわからないものだった。

 私の怨敵。妹の仇。それが痛い目を見るということは、痛快な出来事のはずだった。

 ――だが、手放しで喜ぶほど、私は能天気ではない。

 裁けなかった。確たる証拠を挙げ、奴を矯正局へ送り込みたかった。だが私に力がなかったせいで、妹の仇を討てなかった。

 

『私のお姉ちゃん、かっこいいんだよ。私もお姉ちゃんみたいな警察官になりたい』

『私の憧れはお姉ちゃん。きっといつか、私はお姉ちゃんの誇りになってやる』

 

 2年前の妹の様子を、まるで昨日のように思い出せる。なのに、少しずつ、その声を思い出せなくなっている。

 人は人を忘れるとき、その声から忘れていくという。その説が正しいことを、今、私の頭が証明してしまっている。妹が、私の記憶から消えていってしまう。

 

「…いけない。今は、この事件の解決に尽力を……」

 

 自分を律しながら、押収品保管場所のドアを開ける。そこには、いつの間にか帰ってきていたフブキさんがいた。鑑識の人間から貰ったらしい書類のコピーを手に、現場から押収した布団を見つめている。

 

「…あ」

「フブキさん。お疲れ様です、こんな真夜中まで」

「ん…真鍋さんこそ。何か探し物?」

「ええ、まあ。河原でヘリウムボンベが見つかったそうで、それを確認しに」

 

 そう言うと、フブキさんは予想外といったような表情を見せた。

 

「へえ…見つかったのはいくつ?」

「1個です。ヘリウムガスは残っておらず、指紋がいくつかついていたそうです」

「1個…? 一応聞くけどさ、間違いじゃないよね?」

「ええ」

「…足りなくない?」

「足らない、とはどういうことですか」

「現時点の私の考えじゃ、どうやっても酸欠状態を作れないんだ」

「…お聞かせ願えますか?」

「…ただの想像だけどね――」

 

 そう前置きし、フブキさんは自分の考えを話してくれた。突飛だとは思ったが、無くはない話だと感じた。

 

「…なるほど。確かにそれなら、酸欠状態を作れますね」

「うん。でも…」

 

 一通り話し終わったフブキさんはそう言うと、ううん、と唸り声を上げた。その後、資料に暫く目を通したあと、言った。

 

「…ひとまずはいいや。他に何かあった?」

「ええ。45リットル用のごみ袋が見つかりました。ボンベはその中に」

「ごみ袋…」

「その中には、髪の毛が2本付着していました。鑑定の結果、倉野のもので間違いないと」

 

 フブキさんは険しい顔つきで何かを呟くと、やがて合点がいったように頷いた。

 

「寝てる倉野にごみ袋を被せて、縛る。隙間からヘリウムを注入して――って感じ?」

「はい。フブキさんの考えも面白いですけど…私はこっちが有力だと思うんです」

「…確かに、これなら大掛かりな準備も要らないし、現実的…かな」

 

 そう言うと、フブキさんは視線を資料に、そして布団にと、交互に送った。

 

「でも、私には2つ、考えたいことがあるんだ」

「何ですか?」

「動機と、押収品」

 

 そう言ったフブキさんは、言葉を続けようとして、言い淀んだ。きっと動機のことで、私に気を遣っているのだろう。

 

「…構いませんよ。私のことなんか」

「…ごめんね」

「捜査に関わることです。遠慮はなしにしましょう、ね」

「…うん。で、動機のことなんだけど……多分さ、倉野に恨みを持ってる人のやったことだと思うんだ」

 

 そうだろうな、と、私も感じていた。奴は多方面に恨みを買っている。私以外にも、この町には奴を目の敵にしている人は多い。だからこそ、捕まえたかった。

 

「そう仮定すると、私の考えたやり方は意味を持つんだよね」

「…どういうことですか」

「刑罰の執行」

「…っ」

「これが仮に復讐だとするなら、そういう考えがあってもおかしくないはずなんだ。今まで私たちが捕まえきれなかった人間なら、尚更」

 

 ちくり、と胸が痛んだ。

 私が何もできなかったが故に、犯人はわざわざその手で罪を犯したということになる。

 ならば――これは実質、私が起こしてしまったことなのではないか。

 

「…部屋に閉じ込めて――司法の代わりに、奴を裁きたかったと?」

「想像だけどね。恐怖を与えたかった、謝罪させたかった、罰だった、虐げたかった…何かあるはずなんだよ」

「……」

「それに、犯人に明確なメリットがある」

「…ああ、直接触れなくていいんですね、その方法だと。交戦の跡が無かったから…もし倉野が起きていたとしても、現場の状況と一致する」

「そういうこと…まあ、証拠が上がってる以上、あくまで想像でしかないんだけど」

 

 言いたいことは解るし、何より筋が通りそうだ、とも思った。

 だが、フブキさんも言った通り、証拠が挙がっているのだ。証拠不十分で倉野を逃がし続けていた私にとって、完全に信じられるものではなかった。

 

「それで、押収品の方はどういう…」

「そっちは…この布団かな」

 

 そう言われ、布団に視線を落とす。なんの変哲もない敷布団だ。なぜ、フブキさんはこれに目を付けたのか。

 

「…現場の報告書を読むと、この布団はかなり湿ってたらしいんだよね。重量も100グラムぐらい増えてるし…それってさ、変じゃない?」

「それは聞きましたけど…寝汗などの可能性もあるんじゃないですか?」

「いや、それらしい濡れ方じゃなかったらしいんだ。もっとこう…水を被った、みたいな」

 

 水を被ったような。フブキさんはたしかにそう言った。

 

「…じゃあ、部屋を水浸しにしたとでも言うんですか」

「ううん。原因は窒息、溺れた訳じゃない。それに、水だったら床も分かりやすく濡れるはず。でも、そんな様子は見受けられなかった」

「…なら、原因は何なんですか」

 

 そう聞くと、フブキさんは「ミレニアムに知り合いがいてさ、可能性のあるものを挙げてもらったの」と言った。

 室内の酸素を減少させ、かつ量が比較的少なく済み、布団を濡らすもの。そう前置きし、フブキさんはかく語る。

 

「すなわち…液体窒素

 

 その時、私の携帯がポケットの中で震えた。液晶を確認すると、カンナからの着信だった。

 

「…ごめんなさい、ちょっと……」

「…いいよ、全然」

 

 断りを入れ、電話に出る。電話口のカンナは少し声が上ずっていた。

 

「もしもし」

『真夜中にすまん。今鑑識から連絡が飛んできてな。指紋の照合が終わったらしい』

「どうでした?」

『例の食堂の常連の一人で、名前を森元という人物のものだった。こんな時間だが、今から連行して事情聴取を試みる』

「…わかりました。そちらに任せても?」

『ああ。それからもうひとつ――』

 

 そう言った直後、カンナから衝撃的な事実が伝えられた。それは吉報だったが、あまりにも手遅れだった。

 

『攫われていた食堂の長女が保護された』

 

 

 

 

―――

 

 

 

 

『ボンベは、お祭りの最中に無料で配ってた風船を膨らませるのに使ってました。町内会の仕事ですよ』

『その人は? …倉野? さあ…』

 

 森元に事情聴取を行った結果、倉野や食堂、その常連達とは接点がなかった。本格的な捜査はこれからだが、森元はこの事件に関係していないような気がしている。

 

「発見現場付近の防犯カメラには期待できませんね」

「やっぱり?」

「ええ、近くのコインパーキングにも、怪しい車などは映ってませんし」

 

 芦屋さんが眉尻を下げながら言った。

 

「じゃあ森元の線はもうなさそうかな…例の常連さん達はどうなの?」

「一部出来ましたね」

 

 芦屋さんはそう言って、ノートパソコンの画面をこちらに見せてきた。

 表示されていたのは、大勢の人々が行き交う画像だった。路上の防犯カメラが、パレード当日に撮影したものらしい。

 

「カメラが設置されているのは、パレードのゴール地点辺りですね。ここにいるのが…大白町のパレード参加組です」

「他には?」

「少し離れた通りですけど、食堂の娘さんがここに。お友達と一緒みたいですね」

 

 そっか、と答えて私は改めて目を凝らす。

 映っている人々は大きなバッグなどを持ち合わせておらず、目立たずボンベを持ち歩くのは困難だと思った。

 

「あ、そうだ。食堂の店主の方はどうだったの?」

「同時刻に医療センターで確認できました。この時間には、ここには居ませんでしたね」

「戸田さんは?」

「少し離れた場所…パレードのゴール地点で確認されています。大きな鞄等は所持しておらず…」

「じゃあパレードのドサクサでボンベを運ぶのは無理かぁ…」

 

 そういいながら、私は背もたれに体重を預けた。横では芦屋さんが同じような姿勢で、目元に手を当てている。

 完全にどん詰まり。今ある証拠のみでは、この事件の真相は掴めそうになかった。

 

「…他に何かないかな」

「…パレード当日は交通規制が敷かれていて、通行できる道路がかなり限られてました。不審な車両が通ってないか、交通局にピックアップを依頼してあります」

「じゃあそれも精査するとして…うーん……」

 

 空調機の音。時計の作動音。重い沈黙がのしかかってくる。人気がなく、電気スタンド以外の明かりが落ちたオフィスの空気が、それを増幅させている。

 

「…しかし、よくできてますよね」

 

 沈黙を破ったのは、芦屋さんのほうだった。

 

「…何が」

「アリバイですよ。ヘリウムのボンベを追えば追うほど鉄壁のアリバイが出てくるんです。それを迂回しようとしても、またそこに別のアリバイがあって……」

「…そうだよね。気味が悪いくらいだよ、ほんと」

 

 そう。ヘリウムボンベ周りは粗方調べつくした。しかし、捜査を行えば行うほど、怪しい人物すべてにアリバイが出現する。まるで分厚い鉄の壁に阻まれ、もがいているような感覚を覚えていた。

 

「…大体そういうときってさ、何かを間違えてるんだよね」

「と、いいますと…?」

「……根本が間違ってるかもしれないんだ」

 

 昨日、ヒマリさんとのやりとりで聞いた話を思い出していていた。土台に間違いがあり、迷宮入り──仮説という土台を立て、検証する科学者である彼女であるからこそ言えた言葉だろう。私たちは今、その瀬戸際にいるのかもしれない。

 

「…じゃあ、切り換えてやってみますか? 液体窒素に」

「それはそれでリスクが高いんだけど…ヘリウムでダメな以上、やってみるのも手かな」

「…ですね。やれることはやっておきたいです」

「うん。…じゃ、やっちゃおうかな」

「の、前にですよ」

 

 そういいながら、芦屋さんは私に向き合って、顔を覗き込むようにして言った。真鍋さんのような、優しい微笑みが浮かんでいた。

 

「その制服は一体いつから着てるんですか?」

「ん? それなら──」

 

 ──思い出せなかった。私は一体いつからこの制服を着ているのだろう。

 

「…今日のところは、一旦休んだらどうですか?」

「……あ──」

「正常な判断、思考をするには、やっぱりある程度の休息は必要です。ちゃんと休まないと、気づけることにも気づけませんよ。…って、真鍋先輩から言われたことがあります」

 

 受け売りですね、と、芦屋さんは笑う。からっとした笑い方は、不思議と心を温めてくれる。

 

「さ、そうと決まればしっかり休んでください、フブキさん!」

「…ありがと。お言葉に甘えるね」

 

 そう促され、一度宿舎へ帰る用意を進めていると、あろうことか芦屋さんはまたデスクに向かい始めた。

 

「…あれ、帰んないの?」

「ああ、私はもう少し…真鍋先輩もフブキさんも頑張ってるんで、私だけ遅れるわけには──」

 

 芦屋さんは、そんな生真面目なセリフを吐いた。その姿に、私は同僚の影を見た気がした。

 

「ダメ」

 

 そう言い放つと、芦屋さんは目を丸くしてこちらを見た。

 

「……えっ、なんでですか」

「だってさ、芦屋さんだって休んでないじゃん。それで私だけ休むっていうのも、それは不公平でしょ」

「それは、私はフブキさんに協力してもらってる立場ですし、それに──」

「じゃあ、尚更だよ」

 

 私は芦屋さんに近づくと、先ほど彼女がしたのと同じように、彼女の顔を覗き込んだ。

 

「依頼主ががんばってるのに私が何にもしてないのはさ、世間様によく見られないでしょ」

 

 冗談めかして言った後、だから芦屋さんも休んでよ、と伝える。

 芦屋さんが休んでくれたら、私も休む口実ができる──という考えはわずかにあった。しかし、普段ならば大部分を占めるであろうその感情があまり湧かなかったのは、私が本気でこの事件に向き合っているということの証左になっていた。

 ──これが、警察官として真面目に働くということなのだと、カンナ局長やキリノが毎日やっていることなのだと、身をもって実感した。

 

「……わかりました。じゃあ、私も全力で休んじゃいます」

「そうしよー。で、明日またやろうよ」

「ええ。あ、じゃあ最後に、交通局の方に液体窒素の可能性を共有しておきますね。それ終わったら、帰りましょ」

「…ありがと」

「礼は要りませんよ。仕事ですから」

 

 では、と、芦屋さんは未解決対策チームの仕切りの外へ出て行った。元来の性格か、それともカラ元気かはわからないが、その明るさはきっと真鍋さんにも届いているはずだ。

 さて、帰ろう──そう思ったとき、ポケットの中にしまっていたスマートフォンが振動した。画面を確認すると、それはモモトークの通知だった。

 

『液体窒素での実験結果だ。参考になればいいけど』

 

 差出人はウタハさんだった。メッセージの直後に動画も添付されている。

 実は、私は布団を調べたあと、ヒマリさんとウタハさんに実験を依頼していた。液体窒素を用いた、密閉空間での実験。酸欠に陥る酸素量になるまでどれほどの液体窒素が必要か、その時の部屋の状態はどうなるか。その確認をお願いしていた。この結果が出るまで、液体窒素を軸とした捜査は控えておきたかった。

 動画を再生する。スピーカーからは、よく電話越しに聞く声が発されていた。

 

『…回っているかな。あ、あー…フブキ、見てるかい』

 

 見てるよ、と心の中で返しつつ、続きを視聴する。ウタハさんの背後ではエンジニア部と思しき生徒たちが忙しなく動いていて、その様子をヒマリさんが見つめていた。

 

『私たちはこれから、事件現場と同じ条件の部屋に液体窒素を注入する。布団などの室内の条件、それから重量も同様だ』

『発見された布団は買い替えられたばかりだとお聞きしましたので、新品のものをご用意させていただきました』

『準備完了です』

『よし、始めてくれ。…ここからはあまり変わり映えしない映像だ。室内の酸素濃度メーターを映しておくが、結果のみが知りたいのなら飛ばしてくれてもかまわないよ』

『私は経過も見るべきだと思いますが…経過があってこそ、結果を知る驚き、学びも増えるというものですから』

 

 ウタハさんは、さまざまな数値が移っているパソコンをカメラの前に配置した。これが先ほど言っていたメーターなのだろう。今、カメラには再現された部屋と、パソコンの画面のみが写っていた。

 ウタハさんが合図を送る。部屋の近くにいた生徒が液体窒素を入れたタンクを操作して、液体窒素を流し込み始めた。すると、映し出された数値に変化が起こり始めた。

 

「…下がり始めた」

『下がってきましたね』

『ああ。部屋上部はまだだけど、布団周りはもう18%…今切ったね』

『一般的に、酸素濃度は16%を切ってくると、頭痛や吐き気などの症状が出始めます』

『12%からは眩暈が、10%からは意識障害が起こる…そこに至るまで、そう長くはかからないはずだ』

 

 部屋の隙間からは、白い気体が漏れ出ていた。しかし、それはすぐに消えていく。液体窒素の沸点は-196度である。そのため、床にこぼしても濡れることなく、蒸発する。

 10分後、さらに部屋の酸素濃度は低下して、布団周りは6%にまで落ち込んでいた。

 

『呼吸停止に至る数値ですね。──タンクの容量はどのくらいですか?』

『20リットルだ。ほぼ満タンで始めた。あとで確認しよう』

「…10分で呼吸停止、かあ」

『液体窒素は、気化すれば体積は700倍になります…20リットルの700倍は14,000リットルです。オーバーフローしたものが外部に漏れ出たとしても、もとにあった空気と瞬時に混ざることはないので、室内の酸素濃度には差が出ます』

『今回の実験では下部が先に薄くなるようだから…睡眠薬で眠らされていたのなら、酸欠に至る可能性も高くなる』

『そうでなくても、わずか10分でこれですから』

 

 止めてくれ、という一言で、液体窒素の注入が止められた。部員の一人が引き戸を開いたが、すぐには中に入らなかった。

 

『しばらくは部屋から離れていてくれ。頼んだよ!』

 

 事故を防ぐためだろう。ウタハさんがそう叫んでいた。

 

『では、最後の仕上げといきましょうか』

 

 しばらく待ち、そう言ったヒマリさんの横で、部員が「酸素濃度が戻った」と報告していた。部屋に入れるようになったようだ。

 

『今からやることは、もうすでにお分かりですよね?』

「…布団の水分量、重量を調べるんだね」

『ええ、そのとおりです。流石ですね、ふふ』

 

 どうやらヒマリさんは、私がどう答えるのかを予測してこの動画を撮っていたらしい。まんまと術中にはまってしまったような気がして、少しむっとした。

 与太話はさておいて、以前の電話で布団を調べておくように言われた私は、この作業があることも予想できた。ここでの布団の重量が、現場で回収された布団と同じような増加をしていたら、この仮説、実験は一気に犯行手口としての信ぴょう性を帯びることになる。

 

『さて…これだ』

 

 ウタハさんが布団一式を持ってきた。その脇にいるエンジニア部員は、デジタル表示の吊りばかりの準備をしている。ウタハさんが一式を紐で縛る。

 

『実験前の重さは、すべて合わせて6.3キロ。さて、どうかな。上げてくれ』

 

 了解です、という声が聞こえたあと、吊りばかりが布団を持ち上げた。

 

『…6.4キロ。実験前よりも100グラム増えていますね。水にして計量カップ半分ほど。これはあなたの調べと一致しますね』

『液体窒素の減量もボンベ一本分ほどだ』

『仮説の立証に、一歩近づいたようですね。探偵さん?』

 

「…ここまでくると、液体窒素の線しか考えられなくなるよねぇ…」

 

 一連の動画を見終わった後、最初に出てきた感想がそれだった。

 布団の重量。戸の穴。掘っても出てこないヘリウムボンベの決定的証拠。私の捜査方針がヘリウムから液体窒素に切り替わるには、充分な材料だと感じていた。

 しかし、捜査は振り出しだ。いくら手口がなんとなくわかったとしても、それが人──容疑者と結びつくとは限らない。

 

「…やってみよう。頼まれたことだし。今更断れないし」

 

 だが、気持ち的には前向きだった。外的な動機ではあるが、今は自分でも信じられないくらいモチベーションが高い。無償で手を貸してくれるウタハさんたちのおかげか、芦屋さんのおかげか、はたまた真鍋さんのおかげか。

 

「……」

 

 ──カンナさんのためか。

 

「ちょっといいですか…!」

 

 不意に、芦屋さんが仕切りの中に駆け込んできた。緊急というわけではなさそうだが、少し焦った様子だった。

 

「…どうしたのさ。というか、帰ったんじゃなかったの?」

「そうしようと思ったんですけど、ちょっと言っておきたいことができて…!」

「言っておきたいこと…って、何?」

「とりあえず、来てください!」

 

 そう言う芦屋さんに従い、その背を追う。向かう先は交通局のオフィスだった。

 件のオフィスに入ると、遅くまで映像を確認していたであろう交通局員2名がいた。2人の目の前にあるノートパソコンには、防犯カメラの映像が映し出されている。

 

「さっき、捜索を液体窒素までやってほしいと頼んだら、一台引っかかる車があったみたいで…!」

 

 そう言われ、ノートパソコンの画面をのぞき込む。

 そこには一台のライトバンが映っていた。後部座席のスライドドアに「戸田食品」と刻まれている。

 

「食品会社なら、食品用の冷凍機に液体窒素を扱う場合もある。そして、その工場が近隣にあるとしたら…」

 

 芦屋さんの言葉で、私は思い出す。

 ここに来たばかりの時だ。地元民に愛されるあの食堂に入る前、その工場を見ていたはずだった。そして、ライトバンに刻まれた社名の主を、私は知っていた。

 

「…そっか。あれだ。あの人だったんだ」

 

 私はあの食堂で会っていた。それは作業着を着た、優しい常連客の一人だった。

 

「…今夜は寝れませんね。令状発行の準備を始めておきます」

「……うん。お願い」

 

 車を保有している会社、その工場の社長。戸田さんだった。

 

 

 

 

―――

 

 

 

 

 パレードの喧騒どこへやら。この町の夜は不気味なほど静かだった。

 

「……ご主人のとこ、姉ちゃんのほう、見つかったらしいな」

「…ええ」

 

 行方不明者の発見。私が捜査していた事件の一つ、その終着点。

 喜ぶべき出来事のはずだった。でも、私は喜ぶことができなかった。

 被害者──食堂の主人の娘は、私の担当外の地区で発見された。私が担当した事件は、私の預かり知らないところで、ひとまずの決着を迎えた。

 私は負けた。倉野に負けたのだ。

 

「こんなことは言いたくないけど──」

「……」

 

 私だって思いたくない。だが、どうしても考えてしまう。

 

「……なんで、今なんだろうな」

 

 どうして妹じゃないのだろう。

 

「……もう全部、手遅れだってのに」

「……」

「そうだろ…真鍋ちゃん」

「……」

「なんで、こんなことになっちゃったかなぁ…」

 

 目の前の作業着の人はそう言った。

 

 

 

 なぜ、こんな目に遭わなければならないのか。

 それは、私に力がないから。

 

 そして、復讐を果たすほどの気概も無かったからだ。

 

 






次回『復讐と矜持 後編」
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