英雄に憧れながらも、自分には似合わないと思っていた彼女の前に、ある日、一人の新米トレーナーが現れる。
彼は穏やかで、真っ直ぐで、そして彼女の「走り」を誰よりもよく見てくれた――。
少しずつ変わっていくフォーム。
少しずつ、前を見られるようになる心。
これは、まだ誰にも知られていない、ゼンノロブロイだけの英雄譚。
――まだ「始まり」にすぎない、物語の第一歩。
扉を開けた瞬間、空気が変わった気がした。
ひんやりとした静寂の中に、紙とインクの香りが溶け込んでいる。陽光の入り方まで、廊下とはまるで違う。
ここは、図書室。
初めて足を踏み入れた場所だった。
新任のトレーナーとして着任したその日。
緊張の面持ちで挨拶を終え、配属先の確認に向かう途中――道を一本、間違えたらしい。
だが、それは偶然のようでいて、どこか導かれたような感覚だった。
――そして、見つけた。
静かな空気の中で、たったひとり、ページをめくっていた少女。
三つ編みにまとめられた黒髪。長い耳が、物音を拾うようにピンと立っている。
白い指先は、本の角を丁寧になぞり、ページの裏へとそっと送り出していた。
彼女は、ゼンノロブロイ。
控えめで引っ込み思案、トレセン学園の図書委員を務めるウマ娘。
だが、その静けさの奥には――胸の内に熱を秘めた、英雄譚への強い憧れが眠っている。
……そんなことを、あとになって俺は知ることになる。
「えっ、と……あの」
思わず声をかけてしまったのは、緊張していたからだ。
いや、きっとそれだけじゃない。
その背中に、なぜか目が離せなかった。
少女は驚いたように体をこわばらせ、それからそっと振り向いた。
眼鏡の奥の瞳が、きょとんとこちらを見ている。
「あ、えっと……こんにちは。ごめん、邪魔するつもりじゃなくて」
俺の慌てた声に、彼女は小さく首を振った。
「いえ……こちらこそ。静かじゃなくなってしまって、ごめんなさい……」
謝るのは、こっちのほうなんだけどな……。
思わず笑ってしまいそうになるのをこらえながら、俺は名乗った。
「今日から学園に配属された、新任のトレーナーです。ちょっと、迷ってしまって」
すると彼女は、はっとしたように頷いた。
「そう……だったんですね。えっと……南棟の、二階……資料室は、そちらに……」
たどたどしくも丁寧な説明。だが、ひとつひとつの言葉が的確だった。
「ありがとう。助かったよ。詳しいんだね、ここの場所」
少し間をおいて、彼女は小さく微笑んだ。
「はい……図書委員を、していますので……。あと、本が……好きで」
控えめな声。けれど、その一言にだけは、ほんのりと熱が宿っていた。
その微かな変化を、俺は見逃さなかった。
「本、か。どんなジャンルが好きなんだい?」
自然と聞いていた。
すると彼女は、恥ずかしそうにうつむきながら、けれど――
「……英雄譚、が……す、好きで……」
それは、とても大切な言葉を差し出すような声音だった。
「英雄譚。いいね……夢がある」
俺の返答に、彼女は目を見開いた。
まるで、ほんの少しだけ世界が広がったような、そんな表情だった。
「……トレーナーさんも、読まれたり……しますか?」
「少しだけ。でも、君が勧めてくれるなら、きっともっと好きになるよ」
会話は、たったそれだけ。
だけど、言葉のやりとりよりも、確かなものがそこにあった。
彼女が手にしていた本には、しおりが挟まれていた。読みかけの、誰かの物語。
けれど、たぶん本当に読みたいのは――きっと、自分自身の物語なのだろう。
静かな図書室の片隅で。
彼女は、まだ誰にも語っていない夢を、ほんの少しだけ零したのだ。
「……いつか、私も……その、走ることで……英雄譚みたいな……物語を……」
声は震えていた。
でも、その奥には確かに――火が灯っていた。
その瞬間、ふいに感じた。
彼女のそばにいたい、と思った。
その夢の続きを、見届けてみたいと。
(……ゼンノロブロイ)
心の中で、名前を反芻する。
英雄譚は、遠くの世界の話じゃない。
彼女が、それを信じている限り。
きっとこの学園の片隅からでも、ひとつの物語は始まる。
――これは、その第一章の、始まりだった。
しばらくの沈黙が流れた。
図書室の中は、まるで息をひそめるように静まりかえっている。
ページをめくる音すら、いまの空間には大きすぎる気がして、指先の動きまで慎重になった。
ゼンノロブロイは、手元の本に視線を落としていた。
けれど、その眼差しは、もう文字だけを追っていない。
紙の上をなぞる視線の先には――別のことが、浮かんでいるようだった。
「……その本、面白い?」
そっと、声をかける。
彼女はびくりと肩を揺らし、それから小さく首をすくめた。
視線はまだページに向いたままだったけれど、表情が少しだけ和らいだように見えた。
「ええ……あの、スコットランドの叙事詩です。ロブ・ロイの……」
そう呟いたときの声音には、ほんのわずかに熱がこもっていた。
自分の世界に触れたとき、彼女は自然と饒舌になる――そんな気配があった。
「英雄譚の、原点のひとつです。
正義と、誇りと、……名誉のために戦ったひとです。
失うものがあっても、自分の“在り方”を、決して曲げなかった……」
彼女はぽつぽつと語りはじめた。
声は小さく、消えてしまいそうなほど儚いのに、その一言一言が胸に残った。
語られているのは、古い物語の登場人物。
けれど、どこか彼女自身と重なるような響きがある。
ページの中の英雄に、自分を重ねているのか――
それとも、そうありたいと願っているのか。
「……本当に、好きなんだね」
つぶやくと、彼女のまつ毛がぴくりと震えた。
「……はい」
その一言に、迷いはなかった。
ふと、彼女の手が止まる。本の角をそっとつまんだまま、めくれぬままのページを見つめていた。
「……トレーナーさんは」
突然、問われた。
言葉を選ぶように、彼女は間を置いて続ける。
「……なにか、“憧れた”ことって……ありますか?」
少しだけ、不安げな瞳だった。
だがその奥に――自分と重ねようとする、微かな希いがあった。
俺は思わず、ほんの少し笑ってしまった。
「あるよ。たくさん。……叶わなかったものも、いくつか」
そう答えると、彼女は目をぱちりと瞬かせた。
「でも……まだ途中。たとえば、今日、こうして話せたのも――
なにか、始まりになる気がする」
ゼンノロブロイは、少し戸惑ったように視線を揺らした。
それから、そっと本を閉じる。
控えめに、それでいて丁寧に、栞をはさみながら。
その仕草には、決意とまでは言えないまでも……
“少しだけ前を向いた気持ち”が、にじんでいた。
「……この本、貸し出し可能です」
そう言って、彼女は本を差し出した。
まるで自分の大切な一部を手渡すように、ゆっくりと。
「……よかったら、読んでみてください。英雄譚の、入口としては……やさしいので」
ページの中の英雄の話。
けれど、それを語る彼女の姿そのものが、すでに物語の冒頭だった。
俺は、その本を受け取る。
少し古びた装丁が、手の中でぬくもりをもっていた。
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
少女の名は、ゼンノロブロイ。
物静かな文学少女――だけれど、内にひそやかな“火”を宿した、夢を見続けるひと。
その小さな炎に、今日、ほんの少しだけ風を送ることができたなら。
この出会いの続きを、俺は――
もっと、見てみたかった。
次に彼女と会ったのは、放課後の中庭だった。
図書室ではなかった。
けれど、本を返しに行こうと思っていた矢先に、偶然その姿を見つけて――
なぜだか、そっと歩み寄ってしまった。
中庭の風は柔らかく、背の高い木々が日差しを切り分けていた。
ゼンノロブロイは、石畳の縁に立っていた。
その肩に、小さな影がゆらりと揺れる。手には、あのとき貸してもらった本と、もう一冊の薄いノート。
「……こんにちは、トレーナーさん」
見つけられたことに、驚いた様子はなかった。
けれど――彼女の耳が、ぴくりと反応する。
まるで、声をかけた瞬間。反射的に、緊張と喜びが交差したみたいに。
それが、ウマ娘としての“耳の動き”だと知ってから、俺はずいぶん感情を読み取れるようになった気がする。
「うん。こんにちは。……返しに来たところだったんだ」
彼女は静かにうなずくと、ノートを胸元に押し当てた。
「……もう少し、お話……しても、いいですか?」
問いかけというより、願いに近い声音だった。
俺は即座に頷く。
「もちろん。何か、気になることでも?」
彼女はすこし迷ってから、ゆっくりと歩きだした。
歩幅は小さく、けれど一定のリズムを保っている。隣に並んで歩くと、その呼吸が伝わってきそうな距離だった。
「……私、走るの……得意じゃないんです」
ぽつりと零れた言葉に、思わず息をのんだ。
「でも、ウマ娘って、走ることで“語る”んだと思うんです。
レースって、きっと物語なんですよね。速さとか、勝敗だけじゃなくて……その子の、物語」
木漏れ日の下、彼女の尻尾は緊張気味に動かないままだった。
けれど、耳だけは、少しずつ前に傾いていた。
彼女の中で、何かが前に進もうとしている。
「私……スタートが苦手で、いつも出遅れてしまって。
それで、自分が英雄になれるわけないって、思い込んでたんです。ずっと、ずっと……」
ノートを握る手が、小さく震えていた。
「でも、この前……トレーナーさんが“始まりになる気がする”って、言ってくれた時……
あの言葉が、ずっと、残ってて」
視線は伏せられていたけれど、彼女の声には――
“走り出すための第一歩”が、確かに宿っていた。
「英雄譚って……最初から強いひとばかりじゃなくて。
小さな失敗や、誰にも気づかれなかった努力の積み重ねが……やがて、伝説になるんですよね」
言葉を、かみしめるように。
「……だから、私、もっと練習してみようと思って」
そう言った瞬間。
彼女の尻尾が、ぴくりと揺れた。
まだぎこちない。けれど――それは確かに、前を向いた証だった。
「トラックの外周、……今から、少しだけ走ってこようと思ってます」
その言葉に、俺は何も言わずに、背中を押すような気持ちで頷いた。
「見ていてくれますか……? まだ、速くないけど」
「うん。ちゃんと見るよ。……君の、物語の始まりを」
彼女は――ゼンノロブロイは、小さく笑った。
その笑みは、少しだけ恥ずかしそうで。けれど確かに、“何か”を乗り越えた顔をしていた。
そして、ほんの数秒後。
中庭を横切って、彼女は小さな助走を始める。
制服の裾が、風に揺れた。
長い耳が、空気を切って、しなやかに反った。
――トレセンの午後。
静かな図書室から生まれた小さな英雄譚が、
いま、わずかに地を蹴って、走りはじめたところだった。
砂の上に刻まれた足跡は、二つ。
一つはトレーナーシューズの平たい跡。
もう一つは、蹄鉄の刻印を残す、ウマ娘のもの。
午後の陽射しはすでに傾きかけていて、トラックの外周は、影と光が入り混じっていた。
整備されたコースの向こうに、ゼンノロブロイが立っている。
彼女の姿勢は、少しだけ猫背。
けれど両腕は、確かに前を向いていた。
「……だいじょうぶ……きっと、だいじょうぶ……」
小さく、呼吸を整える声が届く。
耳は、ぴんと立っている。緊張しているのが、こちらまで伝わってくる。
けれど、逃げる様子はない。
制服の裾を整えて、眼鏡を指先で押し直すと――
ゼンノロブロイは、小さく地を蹴った。
その一歩は、まるで物語のページをめくるみたいだった。
砂を鳴らす音が、はじまる。
最初は慎重なペースだった。
左右の足でバランスをとるように、かかとから丁寧に着地していく。
けれど――数歩目には、すでに彼女の走りに“ウマ娘らしさ”が宿っていた。
尻尾が、風をとらえて持ち上がる。
耳が風を切り、反射的に後方へと流れていく。
わずかにカーブへと向かう身体が、地面にしなるような弧を描いていた。
「……ッ」
口元が少しだけ歪む。
それが痛みなのか、苦しさなのか、それとも――
――悔しさか、希望か。
踏みしめるたびに、蹄の音がトラックに響く。
まだ速くはない。
フォームも安定しない。身体は上下に揺れている。
それでも、彼女は走っていた。
まるで――何かを証明するように。
「……英雄は、最後に勝つんです。だから、今は……まだ負けてても……」
誰にも聞こえないような、ひとりごと。
けれどその声には、炎の芯のような意志があった。
風が、スカートをはためかせる。
視界の端に、スタート地点が遠ざかる。
誰の声もない。誰の拍手もない。
けれど、耳が、目が、心が――彼女自身をまっすぐ捉えていた。
トラックをひと回りし終えるころには、呼吸は大きく、肩で息をしていた。
けれど、その足は止まっていない。
彼女は、もう一歩、前に出る。
砂が跳ね、汗が額ににじむ。
それでも、走る。
誰かに見せるためじゃない。
ただ、自分の中の“英雄譚”を、はじめて自分の足で綴るために。
その背中を、俺はただ黙って見守っていた。
声もかけず、手も出さず。ただ、ひとつの走りを、胸に刻むように。
トラックの外周を、ちょうど一周したあたりだった。
足元の砂が、ゆるく音を立てる。
「……っ、は……」
ゼンノロブロイは、ゆっくりと速度を落とした。
歩幅を小さく、小さく刻みながら、ようやく足を止める。
風が抜けていった。
今まであんなに耳元を叩いていた音が、ふいに静かになる。
(……走ったんだ、わたし……)
思考がまとまらない。
それでも、肺は必死に空気を求めている。
ゼンノロブロイの胸元が、小刻みに上下していた。
肩で呼吸するたびに、制服の襟が揺れる。
脚が、少しだけ重たい。
太ももの裏側からふくらはぎにかけて、じんわりと熱がある。
蹄の奥が、脈を打っていた。
「ふぅ……っ、……あ、あつ……」
額に手をあてて、立ち止まったまま、体温を逃がすように風に背を向ける。
尻尾が、少しだけ揺れた。
走る前は固くこわばって動かなかったそれが、
今は、風を受けて左右にふわりと、振れている。
無意識のうちに緊張がほぐれてきているのかもしれない。
(……なんだか、不思議な感じ……)
怖かった。
走る前も、走ってる最中も、何かに追われるように心臓がばくばくしていた。
でもいまは、それとは違う速さで、胸の奥が熱くなっていた。
(……わたし、ちゃんと……トラックを……)
すぐ後ろから、小さな足音が近づいてきた。
トレーナーだった。何も言わず、ただそばに立っていた。
視線を交わすと、彼は少しだけ――本当に少しだけ、目を細めて頷いた。
それだけだった。
それだけで、喉の奥がつまった。
「……なんか……変ですね。わたし、何もすごくないのに……」
言葉がすべって、口から落ちる。
「たった一周だけです。速くもなかったし、……かっこよくも、なくて……」
でも。
「でも、なんだか……泣きそうです」
耳が、じんわりと熱くなっていた。
気のせいか、風の音も遠くなった気がする。
トレーナーがそっと差し出した水筒が、ぼんやりと視界に入る。
(英雄って、こんなふうに……始まるのかな)
飲み口に口をつけると、冷たい水が喉をすべっていった。
身体の奥で、ようやく「ひと区切り」が訪れたような気がした。
「……ありがとう、ございます……」
振り絞るように出した声に、トレーナーはやはり何も言わない。
ただ、その場に立ってくれていた。
耳の奥で、さっきまで響いていた蹄のリズムが、ゆっくりと遠ざかっていく。
風が、緩やかに流れていく。
トラックの砂が、熱を持ったまま、少しずつ冷めていく午後。
ゼンノロブロイは、腰に手をあてて、肩で息をしていた。
蹄の裏が、じんじんと脈を打つ。耳がぴくりと揺れて、うまく風をとらえられない。
制服の背中には、じんわりと汗がにじんでいる。
普段の彼女なら、きっとこんなふうに額を濡らすだけでも恥ずかしがっていたはずだった。
でも、いまは。
それすらも、“走った証”として、どこか誇らしく思えていた。
「……つ、疲れました……」
その一言は、どこか照れたようでいて、
でも、決して後ろ向きじゃなかった。
横で立っていたトレーナーが、黙って自分のハンカチを差し出した。
彼の手は、ほんの少しだけ、砂で汚れている。
(……わたしが、走るって決めたから)
おずおずと、それを受け取る。
そして、指先でそっと額の汗をぬぐった。
「……えっと。あの、ハンカチ……、すぐ、お洗いしますので」
また、耳がぴくりと揺れる。
汗がつたうせいか、声の高さがちょっとだけ上ずっていた。
「――ううん」
小さな、けれどはっきりとした首ふり。
トレーナーは何も言わず、ただ静かに笑った。
その笑みが、どこか安心させてくれる。
言葉がないのに、まるで「大丈夫だよ」と伝えてくれているようだった。
(……あ。わたし……)
なんだか、胸の奥にちくりと、小さな熱が灯った気がした。
息を整えたあとは、何もない風景が見えるはずなのに――
いま、自分の中で何かが、まだ走っている気がした。
――もう一回だけ、走ってみたいかも。
そんな言葉が、のどの奥でくるくると転がる。
けれど、口に出すにはまだちょっと、勇気が足りなかった。
「……帰り、読書室、寄ってもいいですか?」
とっさに出てきたのは、いつもの自分を取り戻そうとする“逃げ”だった。
けれど、トレーナーは首を縦に振ってくれる。
そのとき、風がまたひとすじ、背中を押した。
尻尾がふわりと浮かび、耳がまた、ぴんと立つ。
――まだ、自分は走ってる。
そんな気がした。
ゆっくりと歩き出す。トレーナーと並んで、夕方のトラックをあとにして。
蹄が地面を軽く叩く音は、今までよりも、ほんの少しだけ、リズミカルだった。
今日のわたしの物語は、ここで終わり。
たった一周の、たった一人の、練習だった。
風の通り抜ける午後のトラック。
模擬レース形式のスパーリングが始まる直前、ゼンノロブロイは軽く頬を押さえていた。
(どうしてだろう……鼓動が、まだ整わない)
ただの練習、それはわかっている。
相手は同じ中等部のウマ娘、タイキシャトルほどのスピードスターでもなければ、ゴールドシップのような変幻自在さもない。
けれど――
「位置について」
トレーナーの声がかかると、耳がぴんと立つ。
まるで、物語のクライマックスに差し掛かった時のように、無意識に集中力が高まっていた。
(わたしは、いま――“走る”んだ)
小さく一歩、前蹄を出す。
後ろ脚にぐっと力を込め、軽く砂を噛ませるようにして姿勢を整える。
尻尾が、ぴたりと止まった。
人ごみに出たときと同じように、緊張している証拠。
でも今のロブロイには、それが不思議と「落ち着き」にもつながっていた。
「――よし。スタート!」
トレーナーの掛け声と同時に、砂が跳ねる。
初速。
蹄が地面をしっかり捉える感覚。耳の奥で「ドン」と音が鳴る。
隣のウマ娘の気配が左肩から迫ってくる。
風が流れる。
毛先が後ろへ撫でられ、カチューシャ編みの髪が一瞬だけばらけかける。
(大丈夫……まだ、並んでる)
視界の端で、トレーナーが手を組んで見守っているのが見える。
どこか、不思議な安心感があった。
――直線。
脚が伸びて、縮んで、また伸びる。
砂の跳ね返りが前脚に当たって少しひやっとする。
(リズムが、……つかめる)
膝のバネが自然に働いて、重心が地面から浮かびかけたその瞬間。
耳の奥で、何かがカチリと切り替わった。
(まだ、いける)
自分でも、こんな感情が湧くとは思っていなかった。
ふと――
前方の風が、光を孕んでいた。
陽の傾きと走行角度で、視界がちらつく。
それでも、ゼンノロブロイの脚は止まらなかった。
背後でトレーナーが、小さく声を漏らすのが聞こえた気がした。
それが「良いぞ」だったのか、「あと少し」だったのかは、わからない。
ただ、その一声が、次の一歩を導いてくれる気がした。
(……ああ、こんなふうに)
「走る」だけで――
誰かと気持ちが繋がるんだ。
レースというものが、ただ速さを競うだけじゃないということが、
ほんの少しだけ、肌でわかった気がした。
――そして、ゴールが近づく。
でも、そこには触れない。
大事なのは、その直前までの「道のり」だけ。
鼓動が速い。汗が滲む。耳が、尻尾が、風と地面のざらつきに震える。
砂の舞い上がる直線を抜け、走り終えた足が、ようやく速度を落とす。
ゼンノロブロイは、呼吸を整えようとするも、うまくいかなかった。
肺が、酸素を求めて急きたてる。喉が焼けるように乾いていた。
「ロブロイ!」
トレーナーの声が、彼女を現実に引き戻す。
帽子を後ろ手で抑えながら、小走りに駆け寄ってくる。
「お疲れ、すごく……よかった!」
その声が、耳を打つ。
ぴくりと立ち上がった馬耳が、じっとトレーナーを捉えた。
言葉を返そうとして、口が開く。けれど――うまく出てこなかった。
胸の奥で、何かがまだ「走り続けて」いるような気がした。
「……あ、あの、私……その、最後、ちょっと……」
「いや、最後だけじゃないよ」
遮るように、けれど優しく言われる。
トレーナーは、彼女の正面に立って、目を細めて笑っていた。
「中盤から、フォームがすごく良くなってた。身体が前に出てたし、リズムもずれてなかった」
指先で空気をなぞるようにして、軽くジェスチャーを交えながら話す。
それは技術的な説明というより、ただ“気づいたこと”を率直に伝えようとするものだった。
「特に……最後の50メートル。脚が、“止まってなかった”」
その一言に、ロブロイの心臓がどくりと跳ねた。
(……止まってなかった、って)
自分の中でも、あの感触は、うまく言葉にできないものだった。
ただ、あの時――走ることが怖くなかった。
「君、前よりも……“進んでる”と思う」
いつになく、まっすぐな言葉だった。
照れや飾りもない、少年のような素直さが滲んでいた。
「……っ」
ゼンノロブロイは、小さく口元を引き結んだ。
言葉が浮かばないまま、ただ、帽子のつばを見つめていた。
(この人は、わたしの“走り”を、ちゃんと見てる)
心の奥に、静かに湧いてくるものがあった。
安心、とも、誇り、ともつかない。けれど――心地よい、熱だった。
「……わ、私……もう少し、走りたいです」
ぽつりと、零れるように言葉が出た。
自分でも、まさか言うとは思わなかったその言葉を、耳が、尻尾が、背中全体が驚いていた。
でも。
トレーナーは、すぐにうなずいた。
「もちろん。君がそう思ってくれるなら、何度でも」
その返事が、少し遅れて心に届いた瞬間――
ロブロイの胸の奥で、何かがほどけた気がした。
風がまた、静かに吹く。
それに耳を揺らしながら、ゼンノロブロイはトレーナーの横に並び、ゆっくり歩き出した。
蹄の音が、さっきより少しだけ軽やかに響く。
まだ終わっていない。まだ走っていたい――そんな気持ちを、誰よりも自分が信じていた。