自殺志願者の少女と居合わせた男の話



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「恋人と心中しようとしたんです」

 

 

 

 

 屋上へ繋がる扉は、年季を感じさせる重厚さに反して軽快に動いた。

 空が高く、雲はまばらだ。男は大きく伸びをすると深く息を吸いこんだ。土と木々と水分の香りが入り混じって地球の吐息じみた田舎の臭気も、屋上までは届いていないようだ。ただただ澄んだ空気が風に任せて流れていて、自身が透明になるような錯覚を覚えた。

 昼下がりだった。春だ。日差しは優しかった。この建物は近隣で一番高く見晴らしは良い。遠く見える男の母校の、校舎の頂上付近に取り付けられた時計が煌めいていた。

 あそこに通っていたのはいつのことだろう。十年は過ぎたが二十年にはまだ遠い。その程度のはずだが、男にはもう半世紀は前のことに思えるのだった。思い出は飛行機雲のように、一瞬で通り過ぎてやがて消えていく。本当にあったことなのかも、今ではよくわからない。

 追憶から意識を取り戻して、男は初めて先客に気付いた。女だ。男にとっても馴染みのある制服に身を包んだ女学生で、規則を破っているであろうスカート丈も爪を彩るネイルも、この地域の学生には珍しくもない。手すりを越え、落下防止用の柵の向こう側にいることだけがその女学生にありきたりな不穏を持たせていた。

 

「飛び降りか」

 

 呟いてから、男の脳裏に常識的な思考が過った。若人の軽挙妄動を諌め、命の尊さを説かねばならない。そんな立派な大人の振る舞いをする権利が自分にあるかどうかは首を傾げざるを得なかったが、これは恐らく権利ではなく義務的なものだろう。

 しかし、いかに義務とはいえ、それをこなす能力が男にあるかは全く別問題である。少女を説き伏せる文言は思い浮かばず、だから男はかつてネットかなにかで見たのであろう軽薄な言葉を吐くしかなかった。

 

「もし、学生さん」

 

 少女が振り返った。ほう、と男は感嘆の息を吐いた。少女はまったく男好きのする見事なスタイルをしていた。紺のソックスに包まれた、スカートから長く伸びる脚。華奢とは無縁の健康的な肉付きに皺を刻まれたブラウス。意思の強そうな眉と、それを強調するアイラインの主張は意見を分かつかもしれなかったが、男にとっては好ましかった。何本かの束になった前髪が風に靡いて少女の表情を細分化している。目だけが、どこか遠くを眺めるように感情を希釈していた。

 少女が魅力に溢れていたことは、男にとって都合が良かった。

 

「死ぬのか?死ぬならば、その前に一度ヤラせてくれんか?」

 

 多分、大人に傷つけられたのだろう。男は少女の内心に対してそんな大雑把な推量をした。なぜならば複雑であったり、未熟な子供同士ゆえの突飛な事象を発端としての行動であった場合、もはや男の手には負えぬからである。男は自身の理解の範疇へと物事を矮小化させることに注力した。薄汚い大人と純真な少女という構図は物語的なセオリーに則っており、男の心を納得で安んじた。

 若人は大人を、その成熟を美化しすぎて時折不要な傷を負う。己の至らなさであったり、成熟したはずの大人による手酷い裏切りだったりするのだろうが、それはある種の憧憬と蒙昧が引き起こす発作的な傷であり、若人自身にいずれ訪れる大人への失望が特効薬として癒してくれる傷である。

 男は、失望を向けられるような浅ましい大人になろうとしていた。演技など微塵も学んだことのない男であったが、これは何も難しくなかった。真実、男は自分の中にある性欲が少女に向けて沸き立つのを感じていたのである。ただ自身の愚かさを露呈させるだけで良かったのだ。

 望洋とした少女の目が不意に焦点を結んだ。男のことを胡乱げに睨みつけている。

 

「誰?おっさん」

 

「飛ぶか飛ばないかという時なんだ。俺が誰だって構いやしないだろう」

 

「は?わけわかんない。ウザ」

 

「君は若く美しい。死ぬことなどないと思うが、まあ事情など人それぞれだろう。人は境遇でも能力でも社会的地位でも承認欲求の非充足でもなく、ただ意思のみで死ぬのだから。肉体がどうであれ環境がどうであれ、死ぬというならば仕方がない。ただ、その前に君の美しさで他人の欲求の一つでも満たしてみて損はあるまい」

 

「損はないって、得もないでしょ。アホらし」

 

 恐らく頭は悪いであろうという見た目から得た男の偏見に反して、また自殺志願者は支離滅裂であろうというこれまた偏見を覆し、少女は男の言葉を咀嚼し真っ当な反論を寄越してきた。

 

「損得勘定をするならば、死は丸損ではないか」

 

 少女は気怠げにため息を吐いた。

 男が事態を矮小化して常識に落とし込もうとしたのと同様に、少女もまた男の在り方として何一つ変哲のない大人を予想し、通学のバスが時刻表に忠実にやってくるように、代わり映えのしない正論が少女へ向かってくるのを想像していたのである。

 

「ウザ。面倒くさい。おっさんとする理由はないってだけだし」

 

「損得ではなく?」

 

「損得ではなく。したくないだけ。最期の記憶がおっさんとシたこととか最悪じゃん」

 

 ふーむ、と男は腕を組んだ。

 したくないからやらないし死にたいから死ぬ。乱暴ではあるが、感情と意志に忠実という点で筋が通っている。

 ならば感情に訴えて説得しようと思ってみても、男に良い思い付きはなかった。

 『親御さんが泣くぞ』。いや、これは駄目だろう。少女の行動の原因が大人にあるとするならば、親というのはまさに元凶である可能性が高い。

 『これから楽しいことがいくらでもある』。これも駄目だ。将来に希望を抱くには、現在にこそ救済の種の発芽を見るべきなのである。救いの芽さえ見えない荒野にいったい誰が果実の成る姿を思い描けよう。

 思考が閉塞の中へと落ち込んでいくのを男は感じた。死へと向かう少女は愚かであったが、正常でもあった。この少女を駆り立てる何がしかこそが異常であり、男にはそれを取り除く術が存在しなかった。それをするだけの気力も資格もないのだ。あるのは空しい正論だけである。

 

「仕方ないな。恐らく心中ということになるが、構わんか?」

 

「は?どういうこと?」

 

「言葉のままだ。俺も今日、この屋上へ飛び降りにきた。年長として先手は譲るが、あまり時間をかけては人が集まって何もできなくなる。だからまあ、立て続けに飛び降りて折り重なるように屍を晒すことになるだろう。心中と取られても仕方あるまい」

 

「嘘だ。おっさん、私を止めるために適当言ってんでしょ」

 

「本当だ。ほら」

 

 男は懐から封筒を取り出し、見えやすいように掲げた。表に遺書とはっきり書いてある。少女が目を見開いた。まるで時代劇の印籠を見せつけるシーンのようだなと、自分でも場違いと思うような連想を男は抱いた。少女がひれ伏し、大団円でも迎えないかと空想しながら。

 少女は手すりまで駆け寄って、矯めつ眇めつ封筒を睨みつけ、それが自分を説得するための小道具である証左を見つけようとした。

 大き目の封筒がこんもりと膨れ上がっている。遺書といえば簡潔で薄っぺらいものだと少女は思っていたが、その厚さは行き場をなくした男の存念が層を成しているようにも見え、無遠慮に贋物だと放言するのは憚られた。

 男の想像に反して少女の動機は取り立てて鮮烈なものではなく、むしろ日常の延長線がある日突然途切れたようで、些細な蓄積もいつか分水嶺を超えるように、静かでありながら起こるべくして起こった突発的衝動なのである。そこには狂気もなければ、他人に対する理不尽な攻撃性もなかった。

 ただ自然な成り行きのままにこの世から消えてしまいたかった。しかし、心中ということになればすべてがおかしくなってしまう。

 

「あーあ、しょーもな」

 

 呟いた少女は一度大きく伸びをすると、制服のスカートの中に下から手を差し込んだ。

 

「ほう」

 

 男が驚きの声を漏らすと同時に、少女は手を降ろした。気負いのない仕草とともに紺色のショートパンツが足元へと落ちていく。何も気にしてはいないように、少女は足を抜くともう一度スカートの中へ手を入れた。

 僅かの逡巡があった。目を逸らすべきだろうと男は思ったが、身体は理性を意に介さぬまま少女の太もも付近へと視線を這わせていた。少女の動きは素早かった。腰から地面まで一息に手を降ろすと、淡い色の布から素早く足を抜き乱暴に丸めてポケットへと押し込んだ。

 一連の動作に欲情を覚えた自分の浅ましさを男は嗤い、それから努めて少女の顔に目を向けた。

 

「別の日にしてよ、おっさん」

 

「代りにヤラせてくれるというわけか。思い切ったもんだ」

 

「別に、経験ないわけじゃないし」

 

「何人目だ?」

 

「さあ?忘れた。あとその質問キモい」

 

「最近の若い子はお盛んなんだな。それとも小遣い稼ぎか」

 

「最っ低」

 

 心底くだらないというように吐き捨て、少女は手すりに腕を乗せて背中を預けた。その蓮っ葉な仕草は、遠い空でたなびく雲をキャンパスに、乱れる髪を絵具として描かれる風の先々と調和して、底抜けに遠い何かを想わせた。目には見えず、決して停滞しない何か。

 

「告ってくる男子多かったし、フリーの時はとりあえずオッケーしてたから。お金貰ったことは一度もない」

 

「人恋しいんだな」

 

「マジでやめて。そういうの、本当にダルい」

 

「恥ずかしいことではないと思うが」

 

「的外れだって言ってんの。人恋しいのはおっさんでしょ」

 

「それはそうだ」

 

 男は口元だけで小さく笑うと、手すりを乗り越えて少女の横に立った。

 少女が男を見上げ、男が少女を見下ろす。確認しあうような視線を先に外したのは少女の方だった。どこか遠くを見つめながら、しかし男と距離を離そうとはしない。男が手を伸ばせば、少女の身体のどこにだって触れることができる。

 男は好色の本能に、少女は口約束の契約に縛られての沈黙が続いた。少女は身体を売ったことなどなかったし、男は女体を買ったことがなかった。そんな場所に辿り着く素養そのものがなく、今はただ死だけが共通の目的として、二人を一つの行為へと導いていた。

 死に異存を残さないための性交。その滑稽さに思い至った男は笑い、それからまた一つの点に気がついた。

 

「君、遺書は用意してあるのか?世界に人の死はありふれているが、存外大事(おおごと)でもあるぞ」

 

「なにもないよ。死ぬだけだし」

 

「それはよくない。君はきっと、軽犯罪がローカル紙の隅っこに短く載るような、静かに通り過ぎる珍事として自分の死が扱われることだけを考えているんだろうが、携わる人間の苦労はそんなに優しくない」

 

「ただの自殺じゃん」

 

「まずそこからだ。つまり、自殺か他殺かとね。自殺であることが確定的になってもその次には原因究明がまっていて、君の死について他人の悪意がどう作用したか、あるいは作用しなかったかの判断が必要になる。恐らくだが、作用したと判断されるだろう。悪意の元が学友か教諭か親かは定かではないが」

 

「待って。訳がわかんない」

 

「君の死が自然死のように扱われたりはしない、ということさ。刑事事件でないとしても、なにかしらの事件性、悲劇性を人々は君の死に見る。そして原因を追究する。まるで鬱憤を晴らすように」

 

「遺書があればそうはならないの?」

 

「内容に依るが、予防程度の意味はあるな」

 

 少女が考え込むように顎に手を当てた。少女が自身の死に抱いている数少ない希望として、静かで事件性もなくあるがままに消える、というものがあった。それが現実的でないことを少女はこの時まで知らなかったのである。若人の世界は夢想としての広大さと無知の狭苦しさが共存して、己の命の立ち位置さえ時に座標を失うのであった。諦観に似た少女の視点さえ自分の死を客観視するには至らなかった。男の指摘は図らずもその狭窄を突いたものであったのだ。

 

「おっさん、遺書見せて」

 

「さっき見せただろう」

 

「中身が見たいの。遺書ってどう書くわけ?」

 

「俺を手本にするつもりか?構わんが、参考にするには向かないぞ」

 

「それっぽくなればいいから。封、開けていい?」

 

 男が頷くと、少女は繊細な手つきで両面テープによって閉じられた封筒を開いた。

 

「小説?」

 

 少女が素っ頓狂な声をあげた。遺書の書き出しは『今でもあの頃を思い出す』という文言で、続く文章からも『私』を主人公にした私小説のように見えなくもなかった。

 男が苦笑した。

 

「日記のようにするつもりだった。経緯を簡潔に書き記した日記にね。しかし、いざ己の内心を辿ろうとすると子供の頃から書き出さねばならなくなり、回想に文章をつけている内におかしな具合になってしまったようだ」

 

「この真奈美って幼馴染が関係するの?何度か名前出てくるけど」

 

「妻だ。まだ」

 

 その形容に覚えた不審をあえて軽く流し、少女は遺書の続きに目を走らせた。文量自体はそこまで多くない。簡潔に書き記そうとしたのは本当らしいと少女は思った。

 しかしいくら簡潔にしようとも滲み出る諦観が、それにそぐわない学生時代の青い記憶を描こうとする文章に絡みついて、過去の男と現在の男の精神を無理やり一つの器に押し込んだようなちぐはぐさが文章を奇形とし、少女の目を奪っていった。

 高校時代に真奈美と『私』が交際を始めた辺りまで読んだ頃には、少女はすっかり遺書の参考という目的も忘れ、この話の帰結は男の足を飛び降りの屋上へと向けるだけの悲惨なものであることも意識から除外し、先へ先へと文章を辿っていた。

 

「大学は違うんだ」

 

「彼女は専門学校へ行った。もっとも、俺の通っていた大学から電車で三駅ほどのところだ」

 

「じゃあよく会ってたんだ」

 

「週末はいつも二人で過ごしていた。楽しい日々だったよ」

 

「書いてないけどどっちから告ったの?」

 

「どうだったかな」

 

 男は曖昧に答えて、なんとはなしに周囲を見回した。

 青い空とところどころに漂う雲、遠くに見える山の稜線。

 三階以上の部分だけが僅かに見えるくたびれた建物たちと、その下を遮っているこの建物の屋上。

 錆びていたるところが欠けた手すりと、脱ぎ捨てたまま投げ出されている少女のショートパンツ。

 下着も付けないまま男の遺書を読み耽る少女と、やがて少女に覆いかぶさろうとするであろう自分自身。

 男にはなにもわからなかった。どれが綺麗でどれが醜いのか、何が清々しくて何が陰鬱なのか。

 

「最低だ、この女」

 

 少女がぽつりと零した。

 告白は彼女の方からしてきた。男はその時のことをよく覚えていた。緊張に震えながら男へと好意を告げてきた彼女の眼差しの美しさを、その時の感動を覚えていた。自分のような人間がその眼差しの対象であることが奇跡としか思えなかった。

 浮気をしたのも彼女だった。それが発覚した時、男の脳裏を過ったのは好意を伝える彼女の眼差しだった。その眼差しが自分以外へ向くことへの奇妙な納得と諦念だった。

 相手の男はとりたてて優れているとも思えなかった。男の会社よりランクの低い中小企業の営業マンで収入には差があったし、外見についても見栄えする方ではなかった。事情を知った友人たちは、男はもとより彼女と親しい者でさえなぜ彼女がこんな男と関係したのかと訝しんだ。

 刺激的だった。何度かの話し合いの最後、彼女がふと呟いたことが全てだろうと男は思っていた。外面的なステータスには表れないところで、相手の男が刺激的だったのだろうと。

 そして男は彼女に性欲を催さなくなった。嫌悪を抱いているわけではない。浮気に走った精神も別の男と関係した身体も、それでも男は愛していた。今でも共に暮らし、時に口付けを交わすのだ。性交渉だけが絶えている。なぜ勃たないのか、男自身にもわからなかった。わからないまま自身を追い詰め、屋上へとやってきた。

 

「おっさん、こいつ殴った?」

 

「そんな暴力的なことをするわけがないだろう」

 

「なんで。殴っていいじゃん、こんなの」

 

「君、泣いているのか?」

 

「ぶん殴ってきなよ」

 

 少女は、取り出した時と同じ繊細さで遺書を封筒の中に収め、そっと男の傍に置くと駆け出した。なにかやり切れないものを振り払うように駆け出した。この狭い狭い屋上の中から決してはみ出さないまま、はみ出すことができない自分を持て余したまま駆け続けた。涙を拭わぬまま駆け続けた。

 少女のスカートがめくれ上がり、男の目にしなやかな脚と臀部の白さが飛び込んできた。あどけない少女の美しさが、異性に晒されるべきではない部位の秘められた魅力とともに叩きつけられる。しかし男は、少女に欲情を抱かなかった。

 

「そうか。そうなんだな」

 

 男はひとしきり呟き、それから少女を見た。その目には、他人の不幸に憤り、それが誰かの悪意に依るものとわかればいてもたってもいられず走り出す、そんな真っ直ぐな少女への愛情があった。

 

「つまり、醜いのは俺なのか」

 

 男は手のひらを見た。手すりを乗り越えた際に付着した錆びで、酷く汚れて見えた。いや、その汚れはもっと深く、男の内側から溢れ出てくるものだった。

 なぜ俺は名も性格も知らぬ見目が良いだけの少女には興奮して浅ましい欲を向けることができるのに、その善性を知ってしまえば、その人格を愛してしまえば、怯えて散る鼠のように性欲を霧散させてしまうのか。

 なぜ妻を愛し口付けを交わすことができるのに、性交に及ぼうとすると己を戒めるように衝動を失ってしまうのか。

 俺自身の性が穢れているからだ。愛おしい相手だからこそ子を為す行為をすべきではないと、俺自身が深く理解しているからだ。あれは健全な男女同士に、あるいは不健全な男女同士にのみ許される行為なのだ。愛という純粋な精神に対して、俺の性は不純なのだ。

 しかしそれならば、愛する相手だからこそ子を為せないのならば、俺は何の為に生きているのか。

 少女が男の隣へ戻ってきた。その走りが全力だったことを示すように肩で息をしながら、春の陽気に汗を滲ませながら男の腕を掴んだ。

 

「シようよ、おっさん」

 

「ずいぶん直截だな」

 

「自分がめちゃくちゃ魅力的だなんて思わないけどさ、あの女よりはマシ」

 

「君は魅力的だ。彼女も魅力的だが」

 

「うっざ。あの女庇うの、なんかムカムカするからやめて」

 

「浮気にそこまで憤るのか。君がそんなに貞操観念が強いとは思わなかったな」

 

「そんな上品な話じゃないよ。マジで気に入らないだけ」

 

「彼女のことが?」

 

「そいつも、そいつを庇うおっさんも」

 

 少女は掴んでいた腕へ自分の腕を絡め、男を真っ直ぐに見上げた。何がこれほどまで気持ちを掻き乱すのか、少女にも判然としなかった。全てが間違っていると思った。男も、男の妻も、自分も全て。何もかもが間違っている中で、男と自分が交わり男の妻を見返すことが唯一正しく、世界に胸を張れる行為だと思った。

 それは思春期の危うさと自殺志願者の自暴自棄が合わさった、自己犠牲に彩られた陶酔だった。自らを捧げることに崇高さを見出す儚い善性の発露だった。献身とすら呼べないそれは、しかし確かに男の心を癒す最も安直な手段ではあったはずだ。

 男はただ笑った。この屋上で浮かべた中で一番穏やかで、微笑みと表現するのが相応しい笑みだった。

 男は静かに少女を抱きしめた。心の内に沸き上がる愛情を見せぬように、浅ましく少女を求める大人として。己の生が求めたのはこれだったのだと実感するように、強く少女の身体を密着させた。

 

「いいよ」

 

 囁かれた言葉に応えるように男は抱く力を強め、少女は目を閉じて身体を預けた。

 ふらふらと横にズレていく。二歩、三歩。風が下から吹き上げた。都会の高層建築と比べればなんてことはない建物。しかし飛び降りて助かることのない高さ。ならば二人で飛び降りればどうなるのか。

 下は死ぬが上は生きる。男はそう読んだ。目の前で飛び降り死体を見た少女は、きっとその後を追わず、カウンセリングでも受けて生を繋ぐだろうと希いながら。

 不審に少女が目を開くのが飛び降りと同時だった。男が下に、少女が上に。温い風と、人間にはどうしようもない力が自分を死に導いていくのを男は感じた。落ちていく。

 数瞬後に訪れるだろう未来は男の頭にはなかった。過去もなかった。死も生もなかった。ただ穏やかに消えていくことだけが、自身の消失が少女の助けになることだけが思考の中に漂っていた。

 少女が目を見開いている。己の献身が否定され、死すらも否定されている。

 少女が首を伸ばした。差し出された唇が、男への一瞬の愛として降り注ごうとした。

 性欲とも異性愛とも親愛ともつかぬ気持ちで男は少女の顔を見つめた。美しい相貌が、目を閉じて向かってくるのを認識した。そこにあるのが最期に受けられるだろう愛であることを知っていて、男は腕を伸ばした。

 少女が突き飛ばされる。落下の衝撃の直前に重力に逆らって男との間に距離が生まれる。唇が遠ざかる。

 

「 」

 

 少女が言葉を発した。それは男への愛の囁きかもしれず、自分勝手な死への恨み言かもしれなかった。しかし男がその言葉を認識することはなかった。

 やがて少女は、男の死を自分の物へするためのただ一つの言葉を吐き出した。

 

 

 

 


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