「聞きなお若いの、海の底はどこ?」
「沈んだ手間隙ボートのその行き先は?」
BOAT / SCUBA - P-MODEL
『「君はじっさいにそいつをくぐり抜けることになる。そのはげしい砂嵐を。形而上学的で象徴的な砂嵐を」──ハナコは、これをどういうことだと思うかな?』
『………えっと、砂嵐、ですか?』
トリニティの庭園にあるガゼボ―西洋式あずまや―にて、セイアはハナコへそう問いかけた。唐突に問い掛けられた話に、ハナコは思わずオウム返しに答えた。困惑するハナコをよそに、『とある本のセリフなんだがね』とセイアは言葉を続けた。
『その本は、主人公である15歳の少年が、父親の呪いから逃れるために家出をする――そのような内容の小説だ。それは次にこんなセリフが続く。
──「同時にそいつは千の剃刀のようにするどく生身を切り裂くんだ。何人もの人たちがそこで血を流し、君自身もまた血を流すだろう」
──「その嵐から出てきた君は、そこに足を踏みいれたときの君じゃないっていうことだ。そう、それが砂嵐というものの意味なんだ」』
『切り裂く、象徴的な砂嵐……その意味』
ハナコは『そうですね……』と呟きながら、持っていたティーカップをソーサーに置いて暫し考え込んだ。
砂嵐をイメージする。それは世界を切り裂く。砂礫が体にあたり、細かな傷口が血を滲ませる。風が吹き荒れ、目を開けることも出来ない。
砂嵐、砂漠だろうか、それとも荒野だろうか。どちらにせよ碌な場所ではなさそうだ。
荒野のイメージが何処までも寂しく暗い世界を想起させた。そこでハナコはたった一人だ。イメージの世界、だが言葉が象徴するそれはイメージではない。それは言語の世界であり、また暗喩でもある。
『……その本を読んだことがないので何とも言えませんが』ハナコは何となく掴んだような気がして口を開いた。
『……砂嵐は、何かの試練を象徴させるものに思えます。砂嵐と血が、何かを得るために何かを失うような……そんな何かを表しているようです。まるで神話的な何か……通過儀礼と呼ばれるそれのような』
古典の授業で教員が語ったそれが、ハナコの脳内から浮上する。
浦和ハナコは聡明だ。それ故に教科書的な回答がすらすらと口から紡がれる。だが何かが引っかかるような感覚と共に紡いだ言葉は、最後のピースが埋まらないように唐突に止まった。
『意味は、きっと潜り抜けないとわからない』それを見たセイアが、言葉に詰まったハナコの台詞を継いだ。
『私は、多分だけどそうすることで何かを得るというカタチを示したんだ、と思う。その意味は
『……なんだかすっきりしない回答です』
物語において、明確な結末を提示しない”オープン・エンディング”という手法があると聞いたことがある。ハナコはそうした物語が嫌いではなかったが、だが答えというものを求めるのが読者というものだろうとも思った。
『その主人公は、潜り抜けたのですか?』
『どうだろうね。少なくとも直接砂嵐を歩くことはなかったし、砂嵐も含め、解決されない伏線も多かった』
ハナコの問いに、セイアは簡単に答えた。
『だけど、砂嵐を歩くのも、何かを選択するのも個人の問題だ。そして物語は
かもしれない。そう考えられる。曖昧な世界に対してそれは答えを示さない。まるで何か意図的に抜け落ちているように。それはまるで中身のない箱のように伽藍堂だ。
『……寂しいのですね、その物語は』
『だけど、そういうものだろう』
一人で歩くこと。それは随分とありふれたものだ。だけど答えを探して、満たすことなんて簡単にはできはしないだろうに。
『だから、ハナコ。君の答えはどうなんだい?』
『私、ですか?』
だけどその答えは何処にでもあるものじゃない。それは私が解決しなければならないもので、私だけのモノ。
例え苦しみ、悶えようとも誰かに何とかしてほしくても。
『私は……』
答えられないその問いかけは、沈黙を返す。
『あぁ、すまない。少し意地悪な質問だったね。例に依らずどうでもいい問いかけだ。忘れてくれ』
『……いえ』
その砂嵐は答えのない暗闇だった。
終ぞ答えを得られず、そして再び庭園は何もなかったかのように時間が流れ続ける。
それでも私という存在からその答えは出てこないがゆえに。
今も、砂嵐の中でその答えを探し続けている。
最初に、これは夢だとわかった。
最初は陸地だった。小さな島で、その広大なビーチにハナコは一人で立っていた。
目の前に広がる海は広大で、そして遠くに小さな島があるのが見えるばかりだった。島と島には橋もなく、船がなければ往来など不可能な孤島だ。
やがて小さな舟がこちらへと来るのが見えた。なんの動力もなく、波をかき分け辿りついたそれには、びっしりと色とりどりの花が詰め込まれていた。
マリーゴールド、オダマキ、クリスマスローズ、アジサイ、カルミア、ロベリア。
「貴方と仲良くしたいよ」という言葉と共に、その花たちは浜辺のハナコの元へとたどり着いた。
だけど、その花たちはおおよそ統一感などなく、詰め込まれた花の芳香は強すぎて不快な臭いを漂わせる。選んだ人間のセンスを疑うような自己主張が激しいそれは、贈り物というよりは呪いのようでもあった。
だからハナコは、その詰め込まれた意味をまた、正確に感じ取っていた。
「本当に、ひどいものですね」
マリーゴールドの花言葉は「嫉妬」、オダマキは「愚か」、クリスマスローズは「絶望」、アジサイは「冷酷」、カルミアは「裏切り」、ロベリアは「敵意」。
好意と見せかけた悪意がそこには詰め込まれていた。「仲良くしたいよ」という言葉と共に広大な海を渡り、私の元へ届いたということは明確な殺意に他ならないだろう。
傍から見れば贈り物でも、その舟はハナコにとっては毒である。それがおふざけで済まされるあたり、トリニティという場所の醜さを端的に表しているようだ。
ここはそういう場所だ。暗喩とイメージの世界は、同時に現実世界とパラレルにある。
この場所の本質は何処までも変わらない。血に濡れた派閥の抗争を乗り越え、学園が統一されてもなおこのような暴力は止まらない。お嬢様と呼ばれるその人たちの実態は人間の皮を被った悪魔とでもいえよう。
ふと海を見やれば、そこにはいくつもの
「……あぁ、そうですね。お返し、しなければなりませんね」
気づけば手にあった自身の銃を見た。手入れがなされ、いつでも弾丸という凶器を発射できるそれは、小舟とは異なり撃てば人を殺すことさえ可能だ。だからハナコは銃を向ける。
「答えは”否”。私にとってあなた方は必要ないのです」
その小舟たちに銃を向け、引き金を引いた。
慣れた衝撃と共に機械的に弾丸が発射される。それはまっすぐ照準通りに小舟へと向かっていき、数舜の後に弾は舟を軽々と貫通する。その瞬間それはまるで油か爆薬が仕込まれていたのかと思うくらいに燃え上がり始めた。
ハナコは無表情にそれを見つめていた。花弁が炎に舞い上がる様子は美しいとは程遠い光景だった。だけどそれを見ても特に何も思わなかった。
気づけばそれが見える限りすべての海を燃やしていた。燃え上がるその熱が、焦げ臭い何かが鼻腔の奥へ張り付く。
海の上に広がる景色は圧巻の一言であり、それ故に誰もこの島へと近づくことは出来ない。それは根源的な恐怖であり、本能的な忌避を意味していた。
それでも、出来事の引き金を引いたのはハナコの意思だ。この結果も、この光景もハナコの望んだ結末だ。気づけば空は闇を湛え、海の上で激しく燃え上がる炎が空を赤く照らしていた。
「えぇ、そうですよ。私は一人で孤独です」
その結末。言葉は誰かに伝わるという役割を放棄する。畢竟それは記号としても役目を放棄し、終ぞ言葉である意味がない。そういった意味でハナコは自らの意思で死を選ぶのだ。
そうだ、ここは
その行いは、今のハナコにとっては必要な行為だったから。
そうして残っていたのは、燃え上がる舟の残骸と、花の残り香だけだった。
***
「……」
夢を見た。
一番最初に目に入ったのは、自室の天井だった。
やけに浅い眠りに体のだるさを覚えながらも、次第に意識は覚醒し、体は状況を認識し始める。枕元のスマホの画面を見た。時刻は夜中の2時を指していた。
目の下の隈は取れる気配もなく、そして心臓は心配になるほどに鼓動を打つ。ドクドクドク、と、普段より早いリズムで脈打つそれは少しずつ落ち着きを取り戻してきた。意識がはっきりしてくる。ハナコは静かに体を起こした。
ベットから降りて、そして窓際に向かう。その窓の先は深く暗い夜だった。
カーテンを開けても、その先はひたすらに黒い闇を湛え、世界は静寂が支配していた。銃声も、声も、そして人の気配でさえ感じられない。
「……そういえば、今夜は新月ですね」
色彩が抜け落ち、モノトーンの陰影のみが強調される夜は、光と影を転倒させ、降りてきた夜の帳が闇の中に全てを覆い隠す。新月の夜はそれが余計に強調されていた。
だからこそ、都合がよかった。
ハナコは机にあらかじめ用意しておいたカバンを手に取った。
カバンの中には制服と、そして自身の銃を入れている。それ以外には何も入れていない。服はどうせ
「……」
ハナコはサンダルを履き、一瞬扉の前に佇んだ。
トリニティでは校則違反者への罰則は比較的厳しい。噂に聞くレッドウィンターのように生徒を極限の環境に追い込んだりはしないが、ポイント制による管理のおかげで退学もあり得る程度にはこの学園は秩序を重視する。
「……どうせ」
しかしその秩序を引き受けることを放棄したハナコには関係のない話だ。
静かにドアノブに力を入れて、部屋の扉を開けた。
世界は相も変わらずに暗く在り続ける。
***
救護騎士団が言うには、それは「不眠症」というものらしかった。
ここ数ヶ月をハナコは一日の内数時間も寝れれば良い方、或いは全く眠れずに過ごしていた。睡眠導入剤やカウンセリングを受けることもあったが、状況は一切改善しなかった。
だが問題はそれだけではない。ハナコは不眠になったのは、寝てもそこに在るのは地獄のような悪夢が原因だった。悪夢による浅い眠りと、生理的に限界を迎えて気絶するかのような数時間の眠り。疲れは蓄積され、軽い動機や息苦しさもある状態は、傍から見れば何処か死ぬ寸前の死体のようにも見えるらしい。
シスターフッドやティーパーティーに出入りするようになったころから、ハナコは補習授業部のみんなと会う頻度は減っていたが、ここ数週間は完全に接触を断っていた。
最初のころにひっきりなしに届いていた通知も、最近はもう来なくなった。
先生も同様だ。
エデン条約、そしてあの赤い空の日以降、ハナコは意図的に先生との接触を避けていた。あれだけ送っていたモモトークも今はすっかり連絡が途絶えている。
スマホはただの光る物置になって久しいし、部屋には常にカーテンが引かれ続けている。だけど暗い世界はその暗闇故に平等に体を包み込んでくれる。
きっかけは、多分あの赤い空の日だった。
エデン条約が終わったとき。そして赤い空がキヴォトスを覆った日。
ハナコの能力、そして活躍はどうも有用なものだと思われたらしい。
周りから見ればハナコは天才であり、そして有能な人物であった。
だから、補習授業部の浦和ハナコ。あるいはトリニティ総合学園の浦和ハナコという存在に、皆が飛びついた。
その時は別に何とも思わなかった。なぜならそれは、ハナコにとって
ただ、補習授業部という居場所。私が私でいることのできる場所を守りたかった。
ヒフミ、アズサ、コハルたちと共に居たかった。望みはそれだけだったのだ。
『ありがとう、ハナコさん。貴方のおかげで随分と助けられました。良ければこれからも一緒に仕事をしたいわ』
―ああ、そうですか。それは良かったです。
『ハナコ。悪いことは言わない。その能力を生かしてここで働かないか? 最高の待遇とポストを用意しよう』
―いえ、私はそのような”出来る”人物ではありませんので……
『ハナコさんがもしティーパーティーに所属してくれれば……失礼。それは禁句でしたね』
―いえ、別に。私はあなたたちのその態度が嫌いなんですが……聞いてはいませんね。
『貴方の優秀さがうらやましいわ。でもあなたはここで働く気はないのでしょうね』
―……別に欲しくてこうなったわけではありませんから。
『ノブレス・オブリージュ。力持つ貴方なら世界を変えられる。それは偉大なる神が与えた役割よ。だから私たちと共に来なさい。浦和ハナコ』
―……過分な評価です。
『ではなぜ貴方は自分の責任を果たさない? それだけの能力を遊ばせる余裕は、昨今のトリニティにはありません。状況をご存じないのかしら』
―……脅して何かを得ようとするその態度が衰退の原因では?
『そんなにもあの友達ごっこが楽しいの?』
―……。
賞賛、激励、勧誘。ハナコにとって、その裏にある言葉を察することは容易かった。だから放たれた言葉が体をまるで砂嵐の中を歩いてきた後のようにずたずたに引き裂くように感じたのだ。
気持ちいい言葉の裏にある欲望。そして自分たちにとっての価値を測る目。反吐が出るその感情を知ったとき、ハナコは自分と彼女たちの間にあった溝は埋まることのないほどに深まっていた。
まるでトラックが通った後の大きな轍だ。
陸地にあったはずの溝は、気づけば水が溜まり、溝は深まりそれは一つの島となる。何とも繋がることのない島はそこにただ孤独と空虚を抱え込む。
空虚な言葉が埋め尽くされた心には、既に誰も入る隙が無い。そうしてガラクタを詰め込んで、抱え込んだ重い体は海の底へ沈み浮かぶことは無い。
夕方のトリニティを一人で歩くハナコが、ヒフミとアズサ、コハルの姿を見たのは偶然だった。
笑っていた。楽しそうな光景だった。三人は何処までも明るくて、眩しくて、そして手を伸ばし声を掛けようとしたとき。
陽が落ちて闇があたりを包み込む。建物の影に居た私は笑っていたかったのに、頬を何かが伝っていった。その時初めて泣いていたことを自覚した。
何故ならその日に当たる場所に私はいなかったのだから。あの輪に私は入ることが出来なかったのだから。
その時決定的に何かが外れた音がしたのを自覚した。轟音のように音を立てて何かが崩れ、そして目の前の世界はまるでいつもと同じなのにハナコを攻撃する何かがそこに在った。現実が全てを壊すということが、まるで言葉に出来ない何かが急に感覚されるように。
その日から、ハナコにとって世界の全てが
だから浦和ハナコは夜を歩く。
世界に抵抗するための唯一の武器にして、そして味方であるはずの自分。係留された舟、或いは炎に包まれた孤島はそれでも世界に存在し続けるのだから。
だから私はそれに入り込む誰かの声を、全て壊すと決めた。
ハナコは校舎の裏に立っていた。
周囲を確認し、持ち込んだバックを地面に置いた。
そうしてハナコは静かに着ていた服を躊躇なく脱ぎ捨てる。その体を空気に触れるように露わに、原初の姿へと。
「うん〜〜〜っ!」
凝り固まった筋肉を解すように体を伸ばして、ハナコは脱ぎ捨てられた服を跨いで一歩を踏み出す。ハナコは校舎の裏から表の通りへと足を踏み出した。
学生証も、制服も、銃でさえおいてきた今のハナコは、唯一人、何も背負うもののないありのままの存在としてこの場所に立っていた。
ペチ、ペチと生々しい足音が静かな街に響く。
風が谷間の奥まで乾かしてしまう。汗が風に吹かれ少女の甘い香りと共に体温を奪っていく。空気が普段触れない部分まで触れる感覚が何処かくすぐったい。
それが何処までも気持ちよくて、清々しい。
眠りに頼らなくても、ハナコはこの場所に居ることが出来ている。
ハナコにとっては、息苦しいこの学校はまるで海の底のようだった。光も届かぬ海の底。息苦しく、闇が体を押しつぶそうとする、まるであの悪夢の海のようだ。
でも今のハナコは
イメージの上では、出来るはずなのだ。
それが現実になればどれほど甘美なのだろう。
制服を着ていないという事実が、世界には受け入れられないものだとしても、今この瞬間だけはどこか心が解放されたような気がしていた。それがただの欺瞞で、自己満足に過ぎないとしても。
だけど実際はここは現実なのだ。
光に照らされて、その欺瞞は白日の下に晒される。この世界では、すべては
そして視界に光が入り込む。
全ては理解できると言わんばかりに。まるで傲慢な知が全てを知っていると言わんばかりに光がハナコを照らしだした。
「何、してるんすか?」
ハナコは自分に向けられた光のその眩しさに目を細めた。そこには闇に紛れるような黒制服に、深い闇色の艶がある髪がふわりと揺れていた。
「あら……今日は早かったですね、イチカさん」
「こう何度も繰り返せばわかるもんですって。悪いっすけど今回は見過ごせないので、一緒について来てもらいますからね」
「まぁ♡それは……!」
「行くのは留置場っすよ?」
「毎回呼び出される私の身にもなって欲しいっす」と言って、イチカは抱えていた大きめのバッグから毛布を取り出した。
ハナコがこうして校内を練り歩くのは初めてではない。夜中とはいえ、ごく一部の生徒は夜にも起きていたりするものだ。最近は全裸のハナコが目撃されるたびに正義実現委員会が探しに来る。
最近では警戒されているのか、ハナコは良くこうして捕まっている。
「はぁ……こうも何度も繰り返されると……業務に支障が出るんでそろそろ勘弁してほしいんですけど」
「申し訳ありません。でも制服はどうしても息苦しくて」
「いや、だとしてもまだいろいろやり様はあるでしょう、いや出歩けなんて言いませんけど!」
制服を纏わないハナコと、きっちりと制服を着こなしたイチカの対比は余りにもアンバランスだ。
「でも、苦しくないのですか?」ハナコはイチカに向かってそう呟いた。
「何がです」イチカは雑に返事をしながらスマホに文字を打ち込んでいた。「服を着ないって大分、いや、かなりありえないですからね。知らなかったかもしれないですけど」
少し苛立ちを含めながらハナコを睨んだ。イチカは服を着ないことなどありえないというけれども、ハナコにとっては正義実現委員会の制服を着ている方がよほど窮屈で苦しそうだ。
「でも、一緒に脱げば事件は解決ですね♡。イチカさんも仕事が減ってWin-Winな関係になります」
「それ、何も解決してませんからね。それと私は脱がないっすから」ハナコがいつもの如く一緒に脱ごうと問いかけても、イチカの返事は素っ気無い。「はいはい。いいからさっさとこれに包まって」
ハナコがどうでもいい話をしているうちに、気づけば裸体に毛布を被せられていた。質が悪いのか、或いはわざとなのか、ザラザラした肌触りが不快だ。
「それで、服は何処へ?」
「残念、今日は持ってきていないのですよ」ハナコはそういって微笑む。
「へー、なら今日
「あらあら、そうでしたっけ」
わざとらしく微笑むハナコに、イチカは冷たく答えた。
「貴方はいつもそう言って用意する。始めるころには全てが終わっている、何かがダメになっても他のプランを用意している。何もしていないふりをして何もかも終わらせている。そういう人だってのはわかっていますよ」
「……」
「だからこそ、分からない」
イチカの表情が液晶のバックライトによりはっきりと照らし出される。そして普段は薄く開かれている瞳と目が合った。
猜疑心と得体のしれないものを見るような瞳が、ハナコを突き刺した。
「突発的ではなく、計画的に無意味な
「………そうですか?」
だが、ハナコはそれに対する答えを持ち合わせていない。
「案外、簡単な理由かもしれませんよ?」
「じゃあなんすか、ただ脱ぎたかっただけなんですか」
「私はずっとそう言っています」
露出は趣味で、解放される気持ちも本物だ。それに理解できるような理由を求められてもハナコはその答えを持ち合わせていない。いつも受ける取り調べにも、ハナコは変わらずそのように答えていた。正義実現委員会は何か理由があるのか飽きもせず尋ねてくるが、ハナコにとってはそれ以上の理由を自覚したことがない。
だから、ハナコはいつだってそう答える。周りの人間にとってはそれは真実には思えないモノだとしても。
イチカはそんな様子のハナコをみて、グイっと顔を近づける。
「ハナコさん」薄く液晶を向けられる。明かりがハナコの表情を照らし出した。
「まだ眠れないんですね」
「……」
「酷い隈ですよ」
ハナコはそれに答えることは無かった。そんな様子のハナコに、イチカは静かに溜息を吐く。
「私たちでは力になれないですけど、でも何か悩みがあれば、私たちは味方になります。
―――本当のこと、話してくれないですか?」
「本当のこと?」
チクリと、その言葉がハナコの心に刺さった。
何気なく、でも奥深くを突き刺したその棘が、返しもついていないはずなのになぜか痛い。
「コハルから聞いてますよ。最近授業にも出てないらしいじゃないですか。救護騎士団のセリカも、薬を受け取りに来ないって言ってましたし。なにか悩みがあるなら―――」
「別にありませんよ、そんなの」
「……そっすか」
誰かが想像した「本物」に私はそぐわなかっただけで、それは気づけば私を飲み込む嘘に成り代わる。
天才、ティーパーティー入りは確実。そんな言葉たちは私の何をとらえていただろうか。
水着で聖堂の授業に向かえば、最初は誰もが私のことを心配して、何度か続けば次第に私の周りから皆が離れて誰も居なくなった。あぁ、そうだ。
だから。
「本当の私も、本当の理由なんてのも存在しないのかもしれませんね」
そこに私は居ない。『私』の居場所なんてない。この学校は監獄であり、突き刺す棘が飛び交う場所であり、そして私はそれを防ぐ手段など持たなかった。苦しい海の底で、何もない世界でただ一人だった。
「何をいってるんで、ちょっと」
「例えば、貴方のこの黒制服だってそうです。これを纏う貴方は"正義実現委員会の仲正イチカ"です」
ハナコはそう言って、イチカに体を密着させ、スカーフを取った。
イチカはその手からスマホと懐中電灯を落として再び闇が二人を包み込んだ。
「でも、貴方は本当にその"仲正イチカ"なのですか?」
「ちょ、やめ」
「本当の貴方はどういう人間でしょうか。正義を志し、ただ正義に殉じることができる仲正イチカは、ただあなたの一面にすぎない」
ハナコはその黒制服から指を這わせる。体から毛布が落ちていき再び肌があらわになる。その胸にイチカの手が当たった。冷たい手が触れて、少しだけ体が震えた。
ハナコは手を胸当てのホックに掛けプチプチとそれを取った。イチカの胸がはだけ、その美しい谷間と落ち着いた色味の下着が空気に触れた。
「あなたも、私も。ただ誰かに形作られた私がそこに有るだけだとしたら。それは本当の私足りうるのですか?」
「こら!」
叫んで体を強く押し返される。たたらを踏んでハナコは地面の毛布の上に座り込んだ。イチカは息を荒くしながらもその鋭い眼だけはハナコを見つめたまま離さない。
だが、結局イチカの体はそれ以上露になることは無く、それ以上の事態になることは無かった。
「なにするんすか!撃ちますよ?!」
「ふふふ、冗談です」
「全く冗談に見えなかったんすけど!」
イチカは「はぁ……勘弁してくださいよ…」と呟きながら、地面に落ちたスマホを手に取った。画面を見てから、僅かにハナコを警戒しながら耳に当てた。
「はい、仲正です……はい、はい……わかりました。伝えておきます、はい………はい」
先ほどよりも距離を取って、まるで犯罪者のようにハナコを見つめていた。事務的なやり取りを聞きながらも、イチカの銃が警戒する心を反映するかの如くにハナコに向いていた。
「服の入ったバッグ、見つかったらしいですよ」
「そうですか。見つけるのも早いですねぇ」
「……本当に」
イチカはため息を吐く。その目線は絶対零度の冷たいものだ。だけどそれ以上何かを言うことはなかった。
「……もうすぐ車が来るんで、毛布着てくださいね。風邪引かないでくださいよ!」
遠くから赤い光が見えてくる。遠くからサイレンが聞こえてきた。
夜は長く、でも自由になんてなれはしない。
ここはずっと海の底だ。昔も今も、そしてきっと未来も。
「それでもこの体は、生きている」
だけど冷たい空気を感じるその体はただ確かなものとしてそこに在った。誰かに触れられ、そして空気に触れたその感覚だけが世界と繋がる唯一の対象だ。
ハナコは空を眺めた。未だ空は闇のままで、朝はまだ遠かった。
砂嵐を前にして、ハナコは静かに息を吐いた。
引用
村上春樹(2005)『海辺のカフカ(上)』新潮文庫