ヒフミから相談を受けたのは、エデン条約や様々ないざこざが終わり、ようやく一息つけた時だった。
今のトリニティは大きな問題を複数抱えている。エデン条約のあれこれに、一連の聖園ミカの一件。アリウス自治区の後始末やら、古聖堂やらミサイルやらの処理……セイアは生きていたとはいえ、未だ療養中なのも重なり、トリニティの実質的な責任者となったナギサは、日々派閥を超えた調整や決定、仕事に忙殺されていた。
それ故に、ヒフミから持ち込まれた相談――浦和ハナコの異常行動や不登校――は正直なところ、ナギサにとっては優先度が低い話だった。体調を崩す生徒はごまんといるし、その為に救護騎士団という組織がいるのであるから、むしろナギサはそっちに行ってくれとさえ思ったほどだ。
だがヒフミの相談の後、同様の内容で救護騎士団、正義実現委員会からの注記付きの報告が入ってきたとなれば話が変わってくる。
――曰く、露出しながら虚ろに徘徊し、健康状態に著しい問題がある。
――曰く、心身ともに深刻な異常を抱えている可能性があり、何らかの処置が必要。
確かに一人の生徒に注げるリソースは限られているが、ここまでの事態を静観するわけにもいかない。ナギサはその頭の痛い問題に手をこまねいていた。
それ故に、庭園での事件はナギサにとって、ある意味寝耳に水のような衝撃だった。
未遂とはいえ、アリウス残党の危険も排除され切っていない中での分派首長に対する発砲未遂。セイアは即座に緘口令を出し、それ以上に噂が広がることは避けられたのだが、知られれば今度こそ学園崩壊の危機を引き起こしかねない。早速放置などできない問題は気づけば爆発寸前の時限爆弾のように目の前に現れた。
だからこそ、その問題に首を突っ込むことになったナギサは理解できない。浦和ハナコの病も、そして理由も。
***
ティーパーティーの広い庁舎の中に、百合園セイアが執務室としている図書室がある。桐藤ナギサは大ぶりのファイルを持ちながら、図書室へと速足で歩いていた。
ナギサはその執務室を前に立って息を落ち着かせ、ドアノッカーを数度叩いた。部屋の主から返事はないが、この時間は部屋にいることは確認済みだ。特に返事を聞くこと無く、ナギサは重く大きな防音扉を押し開ける。
開けた瞬間に溢れる古い本の香りに包まれながら、ナギサは部屋の奥、窓を背に大きな執務机で本を読んでいたセイアへと視線を向けた。
「セイアさん」
そう声をかければセイアはその耳をピクリと動かした。
「……おや、誰かと思えばナギサだったか」
「一体どういうことですか」ナギサは大股にその机に近づき、そこへ持っていたファイルを半ば叩きつけるように置いた。
「……はて、なんのことだろうか」
「
「先日のハナコさんについて聞きました。何でも撃たれかけたと」
「あぁ、その件か」ナギサの怒った声とは対照的に、セイアは何処までもフラットに答えた。
「ふむ、確かにあの庭園では多少の
「そういう話ではありません!」
余りにも飄々とした態度のセイアに、思わずナギサは声を荒げた。
「やけに今日は落ち着きがないね」
「誰のせいだとッ……はぁ、いえ、少し取り乱しました」
ナギサは机に広がったファイルを手に取り、数枚の紙――報告書や調査資料の一部――をセイアに差し出した。
「まぁ、君がこうして訪ねたのもハナコの事についてだろう」セイアはぽつりと呟いて、ナギサから受け取ったそれを無表情に読み始めた。
「ナギサがこうしてきたのも、そしてそこまで感情を荒立てるのも、なんとなく理解できるけども」
「
セイアが読み切らないうちに、ナギサはセイアにそう言って問い詰める。
そのセイアは何のことかわからないというように耳を数度動かした。セイアはあまり口で語らない代わりに、表情や感情がよく耳に出ることを知っていた。
「……それについては何の話か分からないが、いったん落ち着こうか」セイアは何処までも静かに言った。
「……えぇ」
ナギサが落ち着きを取り戻すには、しかし暫くの時間が必要だった。
呼吸を落ち着ける。息を深く吸う。一連の身体的な動作はナギサの思考をゆっくりと落ち着かせた。ナギサは努めて平静を取り戻しながら、机の資料を手に取った。
「それで?」書類を持ちながらセイアは静かに問いかけた。
「単刀直入に伺います。ハナコさんが
「先日のセイアさんとのお茶会の後、必要な荷物だけを持って寮から出て以降、まだ戻ってきていない」
資料を手に持ちながら語りだすナギサの言葉に、セイアは何も言わずに再び耳をピクリと動かした。
事の発端は、一月ほど前にヒフミから受けた相談だった。内容は浦和ハナコのこと――深夜の徘徊や不眠、異常な様子について支援を求めるものだった。
そもそも浦和ハナコは学園内でもかなりの有名人だ。一年生時点で三年生の試験で満点を叩き出したり、当時のシスターフッドから異例のスカウトを受けたりと、その優秀さを語るエピソードは枚挙にいとまがない。
だが、ある時期から様子がおかしくなりだしたというのも、また有名な話である。ハナコの最初の異常行動、礼拝に水着で参加しだしたり、事あるごとに行事を欠席しだしたり――成績が著しく低下したのもこの時だ。
そうしてエデン条約の直前まで、非常に不可解で意味不明な行動が続いていたのだが、それが再び元に戻ったのも記憶に新しい。
「ハナコさんは補習授業部とエデン条約を機に、今まで避けていたティーパーティーやシスターフッドの活動に積極的に関与するようになった。喜ばしいことです。今までの異常が収まったのですから――でも再び、理由はわかりませんが以前のような異常行動が出始めた。今度は強く、生活に支障をきたすほどに。
ハナコさんの様子を見れば、既に何らかの精神的な疾患や問題を抱えていることは想像に難くない。今すぐにでも入院、あるいは医療的措置を行うべきです。少なくとも、ハナコさん自身はかなり危険な状態に置かれているとみて間違いない」
傍から見ても、ハナコは正常ではない。不眠に深夜徘徊、不登校。そして銃の発砲未遂。普段と著しく異なるその様子は、既に何らかの問題を抱えているであろうと予想がつく。その内容はわからないものの、ナギサが今すぐにでも身柄を確保すべきと考えるのも無理はなかった。
「そしてもう一つ。こちらはハナコさんの問題に直接関係するわけではなのですが」そう言ってナギサはファイルから別の紙の束を取り出した。
「ハナコさんの今までの行動を洗い出す過程で、かなりの部分でセイアさんが手を回した記録がありました。先日の庭園での事件だけでなく、随分と以前から救護騎士団や正義実現委員会までも巻き込んで」
「……」
セイアはそれを聞いているのかいないのか、沈黙を保ったまま席を立った。室内を歩き始めた彼女を見て、ナギサはまた言葉を紡いだ。
「学園内の入退場履歴を辿ると、ハナコさんが最後に会ったのはあの庭園でセイアさんとでした……不可解な改ざんと発砲未遂直後の失踪。疑うわけではないのですが、セイアさん!」ナギサが声を上げて、セイアはその歩みを止める。
「一体、あの場所で何を話したのですか? ハナコさんは何を目的に、何処へ行ったのですか?」
「悪いが、それはわからないな」セイアは静かにそう答えた。
再び室内をゆっくりと歩きながら、セイアは窓辺の薄く閉じられていたカーテンを開けた。昼下がりの光が薄暗かった室内に差し込んだ。
「だが、君の話で一つわかったことはある」
「……なんでしょう」
「君たちは何も理解していないということだ」
ゆっくりと窓を開けると、風が吹き、カーテンを揺らした。室内を風と共に鳥のさえずりが駆け抜ける。だが二人の間はそれとは対照的に冷たい沈黙が横たわっていた。
「そうだな、一つ話をしよう。ナギサは、この空が落ちてくるという想像をしたことがあるかい?」
「……はい?」
「あるいはこの地面の底が唐突に抜ける、といってもいい」
「……いいえ。そもそも、空も地も落ちたり抜けたりするものではないでしょう」
「あぁ、その通りだ。普通に考えればそんなことは無い」
セイアは窓から大きな本棚の前に移動し、そこから一冊本を手に取った。
「そのような確かなものを確かだと信じることができなかった時、私たちはたちまち不安に包まれる。地が落ちるという想像の中で生きる人は皆、等しく地面を恐れるだろう。空を恐れるならきっと地下から出ようとはしないはずだ。ではそんな
セイアはそう言いながら再び机に近づき、本を置いた。
ハードカバーのそれを開けば、風が薄いページをパラパラと捲る。セイアは無造作にそのページを手で抑え、文字を読み上げるようにそっと手で撫でた。
「『In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God』――最初に言葉があった、言葉は神と共にあった、と聖書に書かれている通り、私たちはずっと昔から大地や天空と同じくらいに言葉を確かなものとして生きていた。言葉があるから私たちは分かり合い、社会を作り生きていた。人間は
トリニティで皆が一度は耳にする、神々の言葉。それを引きながらセイアの言葉は止まることなくナギサに向けられる。
「言葉は神であると共に世界そのものだ。神話的な話だが、それが実際に社会契約を作り、我々を社会に適合する人間として作り上げた。それ故に神と言葉は同一視される。だがその言葉という幻想が崩れた時、信じることが出来なくなった時――それは耐えがたい外傷になる。世界の全てが崩れ去るようにね」
「それは、唯の
セイアは時折こうして衒学的で、掴み処のない話をする。
だが、それがセイアが本気で何かを伝えようとして話していることだと知っていなければ、ナギサはきっとまともに聞く耳を持たなかっただろう。
「あぁそうだな。ナギサの言う通り、これはただの言葉遊びで、想像に過ぎない」
だとしても、ナギサはセイアの言葉にますます困惑を深めるしかなかった。
「……どういう意味です? セイアさんが何を言いたいのか全く理解できないのですが」
「簡単なことだよ。ハナコにとってはこの世界の空は落ちるものだし、地は底が抜けるものだ。いくら私がそうじゃないと否定したところで伝わらないということだ」
地が抜けるように、空が落ちてくるように。言葉というものが信じられないということ。
しかし、終ぞナギサはそれを理解することは出来なかった。
「だが、彼女の場合問題はそこじゃない。その言葉が存在しないことが問題なんだ。既にハナコと私たちの間に語るべき
「いったい何の話なのですか? そろそろいい加減にしてください」
「
セイアは本を閉じて言った。しかしその目はナギサを非難するかのように鋭い。
「先日、ハナコを保護した際に留置場で薬を投与したようだね。普段も正義実現委員会に監視をさせているようだとも聞いた」
「留置場でのことは規則に基づいた正当な行為です。救護騎士団の当直委員と学校保健医の監視の元に行われている。それに、監視も必要なことだから行っているに過ぎません」
「あぁすまない。別にその行為を批判したり、正当性を論じたいわけじゃない」
「だったら何です?」
そう言ってナギサはため息を吐く。これ以上は恐らく事態を改善させることは無いだろう。もはや会話を続ける意思は、ここにはない。
「申し訳ありませんが、これ以上付き合うことは出来ません、この後も仕事が残っているのです」
痺れを切らしたナギサが怒気を込めて言葉をぶつけた。ファイルを纏めてその歩みをセイアの方向から出口へと向けた。
「ナギサ、これ以上は無意味だ。既に先生にも協力を仰いでいるんだ」
「いえ、もう結構です。ハナコさんはこちらで捜索します」
「ナギサ!」
ナギサはファイルを手に持って扉のノブへ手を掛けた。だがセイアはそれを呼び止める。お世辞にも大きいとは言えない声は図書室の本や壁に吸い込まれたが、ナギサの歩みを止めることには成功した。
「ハナコを見つけても、彼女を追ってはいけない。彼女を力で押さえつけてはいけない。言葉を――諦めてはいけない」
「それは、セイアさんの予知ですか?」
「いいや」
セイアは静かに言った。
「私たちは信じることしか出来ないよ。確かなことってのは、それしかないんだから」
ナギサは何も言わずにドアノブに力を込めた。重い扉が開き、そしてセイアは部屋に一人残される。
「汝の人格と他の人格の中にある人間性をたんなる手段ではなく、つねに同時に目的として尊重せよ――トリニティは目的の国には成れず、尊厳を踏みにじった我々には、ハナコを救うことなどできない。私たちは本質的に、彼女の欠けた何かを満たすことは出来ないんだよ。それはハナコの……ただ一人の少女の問題だから」
その言葉は誰にも届くことなく、図書室の言葉の海に溶けていった。
セイアは知っている。ここにはただの欺瞞に過ぎない言葉が溢れ、海の底に転がっていることを。
理解など、とっくの昔に捨ててしまった末路を。
『まもなく、連邦生徒会事務局駅です。中央線、空港線、キヴォトス広域都市鉄道線、地下鉄線はお乗り換えです。お降りの時は足元にご注意ください。この度はキヴォトス高速鉄道をご利用いただきまして、誠にありがとうございました』
気づけば、高速鉄道がビルの間を駆け抜けていた。
平日とはいえ、高速鉄道は多くの乗客を運ぶ。その中をひときは暗い表情で、疲れ切った表情で座るハナコは異様な雰囲気を醸し出していた。
「…………」
珍しく眠りについたハナコは、ただ列車の揺れと長時間の移動でずっと座っていた為か、疲れが取れるばかりか、体の重さがさらに増したように感じた。
それでもハナコは頼まれたそれを果たすべく、節々が痛む体と重い頭を動かして支度を始めた。
結局、ハナコはその話を断ることが出来なかった。
ある意味必然だったのだろうか、或いはそれすらもセイアの計算の内だったのか。
あの後、ハナコは庭園から無事に退出することを許された。学園のトップである生徒会長に銃を向け、あまつさえ射撃を加えようとしていのにも関わらず、である。
不問にされたのも、セイアの指示だったのだろうが、今考えればよくこうして出歩けているものだとさえ思う。それだけ、手紙をハナコに届けさせたかったという意味なのだろうが。
手紙を預かる以上、届ける必要があるのは理解している。だがハナコにとって、それがとても重い負担に感じられた。体調はあの日以来、崩れたまま一向に持ち直す気配はなく、そういった意味で、手紙はまるで呪いでもあった。
手紙は、呪いのようでもあり、そして虚しいものだ。紙にいくら言葉を連ねたところで、それは簡単に
減速する列車内を、ハナコはふらふらと立ち上がった。停車した車両から、吐き出されるように人がホームへとなだれ込む。その中を流れに遅れぬように必死に歩いていた。
疲労が蓄積された脳は、いまだそれを自覚できるほど思考が回りきらない。でも引き受けた以上は、その手紙は
ハナコはカバンに入れた手紙を―――カバンを?
「……あ」
カバンが、ない。
だが気づいたときには既に遅く。
『14番線列車発車しまーす。安全、よし』
カバンは手元になく、そして目の前で扉が閉まる電車。
「やって、しまいました」
ひどい嫌悪感と、そしていまだに残る気持ちの悪いその感覚に、ハナコはただホームで立ち尽くすだけだった。
だけど。それを無くしたと言ってしまえば。或いは。
***
結局ハナコがシャーレに到着したのは夕方、もうすぐ日が沈もうとしている時間帯だった。
そもそも、シャーレのビルはD.U.の中心地から30kmほど離れているところに位置している。交通アクセスはそれなりに整っているとはいえ、乗り換えや待ち時間、さらにカバンを探す時間も追加されたため、既に帰宅は難しい時間になっていた。
「流石に……遠いですね」
最寄り駅に降り立ったハナコは、降り立ったホームからシャーレを眺めた。
その後ろ、遥か遠くにサンクトゥムタワーが聳え立つのを見ながら、手紙を入れたカバンを持って再び歩きだす。目的地はすぐそこだった。
既に人はまばらになりつつある中で、唯一シャーレのビルだけは煌々と光が灯っていた。
ハナコはカバンに入れた、預かった手紙を確認してビルに足を踏み入れた。エレベーターホールについて、上の階に行くボタンを押した。
背伸びをしながらホールでエレベーターを待った。利用者がほぼいないからか、すぐにエレベーターは到着した。
音もなく、静かに加速度だけを感じながら表示板を見つめる。
人工音声が目指していた階へ到着したことを告げた。開いた扉の先には、人が一人もいない静かな空間があった。そして、賑やかさのない静寂がとても大きなものに感じられた。
エレベーターホールから少し歩くと、シャーレのオフィスは直ぐだった。ハナコはその扉を開けた。
「先生、こんばんは」
ドアを開け、明るい室内を見渡すが、そこには先生の姿はなかった。
「先生……?」
ハナコはそのままデスクに近づくが、そこには先生の姿はなく、もぬけの殻になった椅子と机があった。いつも持ち歩いているタブレットは机にそのままだし、PCモニターはスリープ画面のまま、ジャケットも椅子にかかっている。他校の生徒も誰も来ていないようで、規模のわりに異様に静かな不思議な空間が広がっていた。
「お手洗いでしょうか」
荷物はそのままに、先生の姿だけはない。おおかたお手洗いか、或いはコンビニへ夜食などを買いに行っているのか。ハナコは少しだけ先生の帰りを待つことにした。
別に急ぎでもないが、それでも手紙は届ける必要がある。
周りを見渡して、少しだけ休めるようなスペースがないか探した。窓際の方にはミーティングスペース、と呼べばいいのか、机と椅子が置いてあるようだ。ハナコはその方向へ歩みを進めた。
その小さな机からは、街をはっきりと見ることが出来た。薄暮の空の下、街は太陽に照らされ金色に輝いている。これから太陽が落ちていっても、この街は完全には暗くならない。
いつものハナコなら、ここで誰かと綺麗だと言いあったり、或いはコハルをからかったりするものだろうが、今日はそんな相手もいない。
―――そして、そんな私は存在しない。
一人だった。去年までなら、きっといつものことだと思っただろうし、この景色を見ても何も思わなかっただろう。だけど今は、この景色を誰かと「綺麗だね」と言いあいたいぐらいには、一人でいることが既に非日常になっている。
「よくない、ですね」
意味は分からなくてもいい。セイアはそう言っていた。
でも意味は知るべきだ、自覚するべきだとハナコは思っていた。情緒や感傷は人を簡単に狂わせる。感情の起伏は、驚くほどに人間を変えていく。ハナコは立ち上がった。たった数分の沈黙も、その静寂も、ハナコを襲う大きな波のように感じられて息苦しかった。
そこは高いビルの上なのに、まるで海の底のように苦しかった。
「セイアちゃん、なぜ手紙を送るのです?」
カバンに入れた手紙は、今も人に渡されることを望んでいる。だけどハナコはそれを渡せる気がしなかった。
『手紙は必ず届くものだ』
セイアはそういった。でもハナコはそうは思えない。
「言葉なんて、結局空虚で無意味ですよ、セイアちゃん」
喉から出た言葉はそう言って沈んでいった。
まるで夢の中の
落日、気づけば空は深い青色を湛え、街は重い夜闇に包まれようとしている。
***
立ち上がって直ぐにその扉を見つけたのは、この沈黙から逃げたかったからなのかもしれない。無意識に壁際に目をやれば、そこにはオフィスに入ったときには見えなかったが、外に通じる扉がほんの少しだけ開いているのをハナコは見つけた。
「……あら?」
暗くて見えないその先。なんとなく、ハナコはその扉を押し開けた。
そこにはちょっとした屋外庭園のような場所があった。緑の芝生に、色とりどりの花たち。
まるでトリニティの庭園のようなその場所。図らずも、その場所に親近感を感じたからか、ハナコはゆっくりと、その場所へ足を踏み入れた。
その庭は、小さいながらも手入れが行き届いているように見えた。薄暗い庭園にはところどころ足元を照らす明かりが置かれ、小さな菜園や色とりどりの花々が咲く花壇があった。先生の趣味なのだろうか、或いは世話をする誰かがいるのか、トリニティの各所にあるそれと比べても遜色のないほど手入れが行き届いている。その様子が無機質なビルとはミスマッチで、何処か不思議な光景に見えた。
薄暗い空の下にある菜園は風に揺られて花の匂いが漂っていた。
小さい庭園だから、風が吹いてくる方向へと歩みを進めるとすぐに端の方へとたどり着く。そこには小さなアルミ製の扉があった。有孔ボードのように穴が開いたそれは、菜園の緑とは対照的に、銀色に鈍く光を反射していた。
自然にあふれた菜園に急に現れたその扉は、まるで急に現実を突きつけるかのようにハナコは感じた。
分け隔てるその扉を、ハナコはそれを開けることに
ハナコは把手に手を掛けようとして。
「……あ」
その場所には虫がいた。
それは海底を蠢く虫たちのようで、そしてグロテスクな生々しさは手紙を食む害虫でもあり、そしてフラッシュバックする気持ち悪さ。
生理的な嫌悪。悪寒、吐き気。
「やめて」
カサカサと蠢く虫が手を這いずり回る。手を、足を、そしてドアを。
「やめてッ……!」
へたり込んだその芝生の感触でさえ背筋を凍らせる。
ハナコはその扉を開けることが出来ない。
鈍くそびえるその扉が、まるでお前には無理だと現実を突きつけているようで。
***
『先生ー、居ますかー?』
「ッ!」
閉じたはずの扉が開き、先生を呼ぶ声、聞き覚えのある声が聞こえた。
ハナコは反射的に物陰に隠れた。なぜだかわからないままに、ただそうすべきだと感じた。
『あれ、先生?』
『ヒフミ、建物の中には居ないみたいだ』
『うぅ、何処に行っちゃったんでしょう?』
阿慈谷ヒフミと、白洲アズサ。
もう何か月も会っていない二人がそこに居た。もしかしたら、今日が当番だったのかもしれない。
『せっかくケーキ買ってきたのに』
『まぁ、しょうがない。冷蔵庫に入れておこう』
『うん、そうだね』
そうだね、と呟くヒフミの声は前より少し元気がないような気がした。
『みんなと食べたかったな……』
「……」
その声と、騒々しさは懐かしいものだった。かつて補習授業部として、エデン条約の騒動を一緒に駆け抜けたあの日々。素晴らしき思い出たち。
だけどそれが今、私を傷つける。
私たちは仲間で、そして危機を乗り越えてきた。あのミサイルの降った日。すべてが壊れ、でも青春の物語を紡ごうと小さいけど足掻いたあの日々。
だけどもう私はその隣にはいることは出来ない。理由はわからないけど、でも今の私はヒフミたちに何も渡せず、そして苦しませるだけになるから。
『……もう一月近くになるね。来なくなって』
ハナコは息を潜める。
ただ、一人になりたかっただけなんだ。だけど一人で生きていけるほど世界は優しくはなかった。そのエゴを貫き通した結果は眠れぬ病と異常行動だけ。
本当の私、醜い今の姿を見せることは、屈辱ですらあった。
『ハナコは、眠れない病らしい』
『……えぇ、ナギサ様から、聞きました』
アズサが語ったそれはハナコの病の名前だった。物陰で、その言葉にハナコは肩を震わせる。
『……ハナコは、きっと少し、壊れただけなんだ』
『壊れた?』
『昔、似たような子を見たことがあるんだ』
『……それは、アリウスですか』
『あぁ……その子たちは、眠れなくなって夜を歩くようになる。言葉数は少なくなり、そして常に何かが体の中に侵入するようだと言うんだ。そしてある日、夜に出ていったっきり、帰ってこなくなる。アリウスに居た頃、そんな子を何人も見てきた』
『……』
『そんな子に限って、優しい子ばかりだった。少ない食料を仲間に分けたり、危険な任務を積極的にこなし、あるいは庇ったりすることが出来る。強くて、優しくて。でもそんな子たちほど、夜に消えていった』
それはアズサがまだここに来る前の話だ。
アズサはアリウス分校の出身だが、しかしその過去を話すことは滅多になかった。それこそ、話をするときはまずアリウススクワッド―――同じ部隊の仲間の話だったから。
『アリウスはあの日、エデン条約の日に先生やみんなが来てくれて、そしてベアトリーチェが消えて、あの地獄のような場所から解放された』
だけど。アズサの声は暗い。
『私たちは救われた。スクワッドの皆も、他の仲間たちも。だけど時々、こんな夜になると思い出すんだ。夜に出ていったみんなはそれを見ることなく、きっとまだ夜を歩いてる。暗い夜を、明けない朝を待ちながら彷徨っている』
「……」
ハナコは膝を抱えながらそれを聞いていた。
だってそれは。
「ハナコも、きっと同じなんだ」
私も同じだったから。
「同じですよ」とハナコは二人に聞こえぬようそう呟いた。誰にも聞こえぬその声は闇の中に消えていく。
光は見えず、朝は闇に包まれる。夢は何処までも悪夢で、それでも私はずっと私であることを求めていた。でもそれは幻想で、夢にも現実でも私は私ではいられない。
『ここはアリウスとは何もかも違う。でも、そうして眠れぬ夜は、夜の暗さと寂しさは同じだ。だからハナコはきっとそんな夜を歩いている。そんな気がするんだ。だからもしかしたら……ハナコは戻ってこれないのかもしれないなんて』
浦和ハナコは眠れない。眠れば悪夢でたたき起こされ、その悪夢はまるで私の中の何かを象徴させているようだ。
だけどそれはまるで意味が分からないものだった。真っ暗な闇を歩くように、何も見えないそれはハナコをさらに追い詰めていく。
終わらない現実と、悪夢の狭間。ハナコはその淵に立っている。きっと一歩でも間違えれば闇の中に消えてしまう。
『夜は怖い。眠りにつく間は無防備だ。そんな無防備な自分自身は一瞬で闇に飲まれてしまう……あの時の仲間たちのように』
アズサがそう言って、そして私もそう思ってしまったから。
『今でも、ずっと夜は、孤独は怖いんだ』
『そんなことありません!』
その声がやけにはっきりと聞こえた。
『アズサちゃん、私は、私はそんなの、絶対にないって信じてます』
ヒフミは、でも力強くそう声を張り上げる。
まるでここに居るハナコに言い聞かせるように。ハナコに声がきっと届くと信じているかのように。
『私、ずっと信じてます。ハナコちゃんが、自分で朝を迎えることが出来るって。夜を歩くことも、それでもきっと夜を抜けることが出来るって! だって、そうじゃなきゃ、ハナコちゃんは……寂しいじゃないですか』
寂しい。苦しい。その言葉が、ハナコの感情の奔流をかき乱す。
目を背けたくて、そして夢の中にあったそれが今、ハナコの目の前に降り立ったように感じた。
『それに、こんなに暗い夜でも、私たちが居ます! 私たちじゃない、正義実現員会の皆さんとか、先生とか、ペロロ様とか!』
ヒフミの声がはっきりと聞こえてくる。
『私、思ったんです。全然ハナコちゃんの事知らないなって。補習授業部の時も、あの赤い空の日も。私はハナコちゃんに頼ってばっかりで……だから、もっと知りたいんです! もっとお話しして、いっぱいお茶会して、好きなこと、苦手なこと、いっぱい知りたいんです!』
だけど同時に、ヒフミの言葉がとても柔らかくて、暖かいものだと思えた。
『だから今は……待つしかないんです。ハナコちゃんが、きっと戻ってきてくれるって思うしかないんです』
『……そうだな。その通りだ』
待つこと、信じること。それを出来るヒフミたちはきっと光の中に生きている。
だからこそ、夜を歩く自分自身が許せない。
『信じて待つのは……辛いな』
『……それでも、帰りましょう。学校へ。きっとハナコちゃんは帰ってくるから』
声が遠くなった。扉が閉まる音がした。
そこに再び、闇と静寂が落ちた。
冷たい海の底。それは分断された島と島の話だ。
その底は冷たく何処までも悲しい場所だった。ガラクタが転がり、誰にも知られないそれは何千年もそこに在った。
凍った海はそれを隠す。だからハナコはそれを思いながら、膝に自分の顔をうずめるだけだった。
朝はいまだ遠いものだとしても。