綺麗になれない私だから   作:にられば

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(4)そこは暗き夜の彼岸

 ヒフミたちがそこから出てから少しして、ハナコはそのシャーレのビルを出たが、既にトリニティへ戻る手段はなくなっていた。

 トリニティへ帰る電車は、シャーレ付近からは既に出ていない。タクシーでも捕まえるべきなのだろうが、あいにくそんなことをする気にもなれなかった。

 

 ふらふらと覚束ない足で外に出たのはいいものの、ハナコにはいく当てもない。

 

 暗い道に一人、ハナコは立つ。

 

『ハナコは、夜を歩いているんだ』

 

 ハナコの中には、ヒフミたちの声がリフレインしていた。

 夜を歩いていた。避けようもない夜を。どうしてもそうすることしか出来なかったからハナコはこうしている。

 

 「……」

 

 帳の降りたように黒い夜に、サンクトゥムタワーの光輪が良く見えた。

 トリニティで見るのとは異なるそれに、ハナコはここが地続きであると図らずとも思ってしまった。まるで遠い異国のように見える街が、昼になれば明るく生徒の行き交うのだということが信じられない。

 言葉が交わされるその場所に、まるで異物のような違和感を感じた。

 いや、異物なのは自分のほうなのだろうか。いくら世界を敵視し、そして恨んだところでこの気持ちは消えたりはしない。

 

『ハナコちゃん』

 

 夜の路地に、ヒフミがいるのを幻視した。いるはずのないその姿に、思わず声を掛けそうになる。良くできた幻想だ。まるで本物のようだ。

 

『ハナコ!』

 

 次はコハルだ。

 あぁ、そういえば、彼女には悪いことをした。エロティックなものに興味があるからとからかいすぎた。でも……それは楽しいものだった。

 

『ハナコ』

「アズサちゃん」

 

 たった一人、アリウスという地獄からやってきた少女。その目は強い意思を内包している。

 

「貴方は、いつもそうでしたね」

 

 彼女は強い。何処までもまっすぐで、進み続ける。

 

『すべてが虚しくても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない』

「えぇ……良く知っていますよ」

 

 アズサが口癖のようにつぶやいていたそれは、エデン条約で成就した。

 だけどハナコにとっては抵抗するだけの価値を見出せない。

 

「だから……ごめんなさい」

 

 銃を向ける。

 

「私は、貴方のようにはなれない」

 

 放った弾丸は虚空を切る。人のいない路地に銃声が反響した。その虚空に硝煙だけが残っていた。

 

『そうやって逃げるのかい』

「ッ!?」

 

 幻覚はまだ続いていた。

 

「なんで……!」

()()するのかい?』

 

 止まらないそのイメージは、未だにハナコを苦しめる、

 虫のように湧き上がるそれはあざ笑うかのようにひらりひらりと弾丸を交わす。

 辞めてくれ、そんな声と共に引き金を引いた。火花があたりを散らす。その光景に、ハナコは怒りと共に涙が溢れたことを感覚した。

 

「いやッ」

 

 銃弾をばらまく。空になった弾倉が地面に落ちた音を聞いて、反射的にリロードする。何千回と繰り返したその動作は淀みなく行われ、次弾が装填される。

 弾丸は意思となり放たれる。ただの道具に過ぎない銃を向けることの意味を、ハナコは正確に理解していた。道具を持ち、それを人へ向け濫用するのはいつだって人間だ。

 

()()()()()()()()()()()()()()

「いや!!」

 

 弾倉が空になる。引き金を引き続けたそれは空の音を立てて動作を停止した。

 まるでパラノイアのようなその幻想がハナコを縛り付ける。あの頃のそれは二度と戻らないことを知っているが、だがそれでもハナコは求めてしまう。

 撃たなければならない。そんな強迫観念がハナコを突き動かした。()()()()()()()()という衝動はどうしてもこびりついて剥がれ落ちない。だがそれをすることが、最善のように思われたのだ。

 

――死にたくない

 心臓が嫌なリズムで鼓動を刻む。収縮した全身の血管が拡張し、血が全身を巡る感覚を感じ取った。肉体的な死から遠く離れた世界で、なにに怯えている?

 どんな恐怖が我々を蝕んでいる?

――見てはいけない

 何に対しての抵抗か、或いは見てはいけないものなのか。通奏低音のように鳴り響くそれはまるで何かを見せまいとするようだった。

――()()()()()

 そして出たのは疑問だった。不条理なそのルールに従うことが、まるで自分自身の制御を超えた慈しみのようでもあった。自問自答の果ては体を引き裂くような砂嵐のように、目を開けることさえ出来ない嵐のようだ。

 

 なぜか見えない。それでも()()が出てくることがある。

 

『だってそうでしょう?』

 

 そこにはアズサがいた。だけど重なり合っている。

 

『私はここにいるのだから』

 

 そこには貴方(わたし)がいたのだから。

 

 


 

 

 

 

「あの、お客様?」

 

 肩をゆすられる感覚で目が覚めた。

 

「すみません、もう駅閉めますよー」

「……あ、はい。直ぐに、どきますね」

 

 最終列車が通り過ぎた駅は、ただ伽藍として人が居なかった。

 

「出口はあちらですよー……大丈夫ですか?」

 

 心配をにじませた声が退出を促した。今の自分はどう見えるのだろう、と頭の片隅で少しだけ考えた。

 やけに明るい照明に照らされ、路線の色がペイントされた回廊で、体を引きずるようにハナコは歩いた。

 

 既に行く当てもなくなったというのに、だが駅の外は暗い闇であった。当たり前の話だが、時間は過ぎて行くものであり、当然ながらここまで来ることが出来なかった。

 

 駅の明かりが体を照らし出し、そして影が地面に落ちていた。それが、当たり前を前にして際立っている弱さのようでもあった。だがその光から離れるにつれて、その影は闇の中に溶けていく。

 

 夜を歩くハナコはその感覚が好きだった。それでも夜は長すぎる。

 

「手紙」

 

 カバンの中に入った手紙。

 終電を逃したハナコにとって、夜は長すぎる。寝ることも出来ず、かといってここで何をすればいいのだろうかという答えも持ち合わせてはいない。

 ここはトリニティではないし、ハナコはいずれ()()()()()()()()()()

 

「……届けなきゃ」 

 

 その闇を前にハナコが出来たことは簡単な話だった。闇は全てを覆い隠す。それ故に境界となったその空間が、夢と現のその狭間が何かを()()()()()

 ハナコは再びシャーレに足を向けた。手紙を届ける(回帰する)ことの意味を知らないままに。

 

 明かりが煌々とつくそのビルが闇の中にあった。キヴォトスの中でも一際大きなそのビルは高く空に聳え立つ。

 風が吹きビルの音を立てる。ヒューとなる音が不快に思えた。

 

 再び入口から入場した。電子ゲートはハナコを拒むことなく受け入れた。

 エレベーターホールは出たときと同じようにそこにかごが存在した。動きがないそれを、ボタンを押して起動させた。

 

 階を跨ぎ、空に近づく。人工音声が目的地に到着したことを告げた。

 扉をくぐる。扉を開ける。何度も繰り返したその動作ひとつひとつに意味などなく、だからこそ、ハナコは伽藍としたそのオフィスを前にして溜息を吐く。

 

 深夜にも拘わらず明かりがともるその場所は、しかし庭園の扉が開いている以外は変わらぬ光景だった。

 扉はハナコが最後に閉めたはずだが、開いているということは先生か、或いはほかの誰かがいることになる。シャーレの先生は、生徒を夜遅くまで残すことを良しとしないからだ。

 

 手紙を届けるために、ハナコはその庭園へ続く扉を開け、足を踏み出した。

 

 

***

 

 

 数時間前とは異なり、庭園は暗く闇に包まれている。星の明かりも見えない都会の夜に、唯小さく足元を照らすランプだけがぼんやりと世界を照らしていた。

 

 少し前の記憶とほとんど変わらない景色は、だけど数時間前とは全く異なるように感じた。

 その物は変わらないはずなのに、なぜかそれは変化してしまう。変質する意味が、まるで掴み処のないようなその何かがあるように感じた。

 

 花の香りは変わらずそこに在ったし、その香りは風に吹かれて漂い、移ろいゆく。

 シャーレの明かりを避けるように奥へ進むほどに、その芳香はより鮮明に闇に溶けているように感じた。

 

 だけど、その中に少しだけ、花のような匂いとはかけ離れた、何かが燃える匂いを感じ取った。火事にしてはビニールとか、プラスチックが燃えるような焦げ臭さなどの刺激臭はない。何かが燃えた後の匂い、甘いような、燻した匂い。今まで嗅いだことのない匂いは直ぐに風に掻き消えた。

 

 その消えた匂いを辿り、ハナコは菜園の奥へと歩みを進めた。

 再び、その匂いが漂ってきた。風向き的にも、その扉の奥からなにかが漂っているのは容易に想像が出来た。

 

 それは扉。硬質で、開くことのない扉だった。アルミ製のその扉は、硬質な印象と共に固く閉ざされた印象を持っていた。

 

 そうだ、()()()この扉は立ち入り禁止だ。開ければ怒られてしまう。

 この先には何もない()()。きっとあの匂いは()()()()()()()()()。何かが燃えている? 何を言っている、最新の防火設備を持つこのシャーレで燃えるものなんてない()()()

 鍵がかかっているのだ、()()()扉は開かない()()()

 

 そうだ、扉は開かないのだ。

 それに先生は直ぐに帰ってくるだろう。手紙は届くものであり、私は手紙を届けなければならないのだから。

 開くことのない扉。それを―――

 

 再び、鼻腔を燻った香りが刺激した。嗅いだことのないようなその匂い。

 興味というには些か乱暴に過ぎるかもしれないが、その心の衝動は扉の奥へと向いていた。

 

 

 ただ、夜を歩いた先にあった扉。

 

 暗い、暗いその扉の先へと足を踏み入れること。それはきっと砂嵐を抜けるような何か。

 鍵はない、そんな都合のいいものは物語じゃないこの現実(リアル)に存在しない。

 

 ハナコはその扉の把手を握り、力を込めた。

 扉は抵抗もなく開いた。

 

 

 黒々としたその扉の向こう側。さらにその奥に通路が続いていた。シャーレにこんな場所があったのも驚きだ。しかし暗い、明かりのないこの通路の奥からその匂いは続いているようだった。

 昔のハナコなら、たぶんここから先に足を踏み入れることはなかったはずだ。きっと匂いも気のせいとして記憶から消したか、或いは先生にモモトークの一つでも入れて確認していたはず。

 

「……でも」

 

 そうして、ハナコは闇へ足を踏み出した。

 

 その一歩を踏み出したのはハナコの意思だった。

 普段のハナコがしないことを、ハナコは自分の意思で行うということが、つまり自分の意思や理性の超えた何かが働いたことでそうさせたということだ。ハナコは霊や神秘ではない、自分自身の奥にある何かに導かれたのを感じた。

 

 ものが置かれているわけでもない、だけど人が一人やっと通れるくらいの狭い通路。漆黒に包まれるその前に、ハナコはそこを歩くことになる。

 ハナコはその中を歩くのと同時に、砂嵐の中を進むのをイメージした。とても局所的であり、そしてひどいひどい砂嵐を想像する。砂や礫が体を傷つけまるでボロ雑巾のようにずたずたに引き裂いていく。抵抗することは出来ない。なぜならそれは()()だからだ。

 砂が入らぬよう、目と耳を塞ぎながら一歩一歩を歩くのを想像した。それが今の自分の暗喩になっているから。

 

 だけど、ハナコのそれは長くは続かなかった。

 その曲がり角を曲がったとき、そこにいる姿を、暗がりでもはっきりと見ることが出来たから。

 

 暗い中スマホの画面を見ながら、手元に蛍のように灯る何かを持った姿があった。

 口にくわえて息を吸い、そして吐き出した煙が風に乗ってハナコに届いた。燻した匂いと共に、何処か苦みや刺激を感じるような独特の匂い。

 ハナコは手元のそれが煙草と呼ばれる嗜好品だというのは知っていたが、実際に吸うのを見るのは初めてだった。

 

 普段の生徒に見せる姿とは異なる、ある意味仮面をはずした先生の素の姿。普段の様子からは想像もできないその姿はきっと生徒に見られているということを完全に意識していない。

 ハナコは今の先生と、学園の中を水着で徘徊していたあの頃の自分とを図らずとも重ねてしまった。仮面を被り、そして自分の姿を偽り制服という姿で固めた自分、そしてこうして誰も居ないところで漏れ出てくる自分自身。

 

 ハナコは声を掛けることを忘れ、その姿に見入っていた。だから気づかなかった。自分が後づさりするように、少しづつ、離れている事実に。

 肩から下げたネオストウォッシュ(L85A2)が壁にあたり音を鳴らす。静かな廊下に音が思いのほか大きく響いた。

 

「……!」

「ッ、誰?」

「あ、その」

 

 沈黙を破った末に、暗がりの中でハナコはただ、何を言うべきかもわからなかった。

 

「……すみません、先生」

「その声はハナコ、かな?」

 

 先生は、そこにいるはずのない生徒の姿に驚いているようだった。暗がりでもその様子がはっきりとわかる程度に混乱している。固まったその姿にいつも見る先生の姿はない。

 気まずい何かの間が落ちてくる。それを埋めるべくか、その手元の煙草に目が向いた。

 

「……煙草、吸われていたのですね」

「あぁ、まあ、うん。そうなんだけど。もしかして庭園の扉が開いてたかな? ごめんね、すぐに消すから」

「あ、せん……」

 

 そう言って、ハナコが何かを言う前に、先生は手慣れた様子で火を揉み消した。ごめんね、と言ってスマホや煙草を素早く内ポケットにしまった。見られたものを直ぐに隠すさまは、悪いことを見つかった子供のようでもあり、しかしそんな焦りや後悔の感情は見えず、ただ機械的に一連の動作が行われた。しかし煙草の匂いだけはずっとその場に漂っていた。

 ごめん、と呟く先生は、やはり普段の先生とは違うように思えた。

 

「別に、私は気にしませんよ」

「いや私が気にするというか……まぁ、煙草も生徒が来ない時に吸っていたんだ。消臭も念入りにしていたからね」

「でも、私にはもう隠すこともないでしょう? 見られたのならなおさらです」

「いや、でもそれは良くないというか倫理的に問題があるというか……煙だって有害なんだし」

 

 明らかに匂いやこの場所にハナコがいることを気にしている様子の先生。

 だけどハナコは先生と会話を続けたいと思っていた。もっと話したい。もっと知りたい。もっとあなたの顔を良く見せてほしい。そんな仄暗い感情が浮き出ては消えていく。

 煙草という非日常的なそれが見せたその顔を、裏側をもっと知りたいというのは、私のエゴか。

 それも、この暗い場所のせいなのだろうか。

 

「先生」

 

 ―――――だから、ハナコが近づいて、その手を握ったのも。きっと境界が曖昧になっていく、そんな時間のせいなのだ。暗がりで見えるものの輪郭が覚束ない逢魔が時、化け物が顔を覗かせる曖昧で魅入られる時間のせいだから。

 ここなら、きっと何を見ても闇が隠してくれる。仮面をはずしても、闇は等しくそんな自分を受け入れてくれるはずだから。

 

「どうした?」

「もう少しだけ、お話しませんか?」

 

 ハナコはそう言って体を先生に近づける。意図的に距離を取ろうとする先生を、むしろその握った手に力を込めて自身に引き込む。

 男らしい臭いと、香ばしい煙が入り混じった香りが漂った。

 

「あ、ちょ、臭いが」

「私は気にしませんよ?」

 

 むしろ、その香りをハナコは求めていたのかもしれない。決していいものではないが、その香りは女の園であるトリニティでは絶対に香ることのないモノだった。そして先生という性別と、その生物学的な違いから出る男性の臭い。密着した体の各部から感覚する、先生の筋肉質な体。

 静かな密着、ハナコは自分の体の()()を正確に認識していたし、正しく()()使()()()もわかっていた。

 

「ハナコ、やめなさい」

 

 それでも、先生は大人だった。それは規範と道徳を持った先生としての言葉だった。

 そういわれて、多少強引なその密着をハナコはようやく解くと、先生は瞬時に距離を取った。後ずさりする様子は普段の澄ました余裕はなく、言葉との対比がかえって面白かった。

 

「だけど、先生はまだ足りないのでしょう?」

「……いつの間に取ったんだ」

 

 そうして差し出されたハナコの手には薄いブルーと白のパッケージと銀色のオイルライターが握られていた。それを見て先生は慌てて内ポケットを探る。

 確実に、そこから取られたものだと確認して、その目は暗がりでもよくわかるようなジト目になっていた。 

 

「補習授業部の時も、ふとした瞬間に手を左の内ポケットの方に伸ばしていましたから。夜になると特に。そういう行動が無意識に出るくらいですから、そういうことかと思ったんです」

「……ほんと、よく見ているよ」

 

 そう言って、先生はハナコから煙草とオイルライターを受け取る。

 

「周りを見て、気を配れるのは君の特技だろうな」

 

 そう呟く横顔。暗い街明かりに照らされて、その表情は闇でよく見えない。だけどなぜか、寂しそうでもあり、諦めのような感情を感じ取った。

 

「羨ましい才能だよ。誰かの事をそうやって気遣えるのは」

「そうでしょうか」

「そうだよ。僕は君のことを何も知らないけど、でもよく分かる。誰かの事をそうやって支えることが出来る優しい子なんだって」

「……そんなの、嘘かもしれませんよ。私が勝手に作り上げた影だとしたらどうします?」

 

 ハナコはそう言って微笑む。

 

「ジョハリの窓って知ってます?」ハナコはそう言って先生の方へ顔を向けた。「人間関係での自己開示とフィードバックを格子状に図解したグラフモデルです」

 

 そういって、彷徨うように再び目を逸らした。

 

「先生がタバコを吸われることを私は知りました。先生が他人に開示しなかった自己が、私が知ることで解放された」

 

 先生はハナコの話をしながら、でもその手に握られたその箱に意識を向けた。

 

「それで、どうするの?」

「この場所で、私は先生の秘密を知った。でも私はずっと…………それに何も返せるものなどなく、偽り続けている」

「それは」

「人間は、それほど簡単に割り切れるような生き物ではないのです。言葉は嘘を吐き、態度は私というイメージを纏い、そこに私などいない。与えられたものに対し、私は()()()()()()()()()()()()()

「どういうこと?」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ハナコは再び、その距離を詰めて体を押し付ける。

 言葉にしてようやくハナコは己の欲求を理解した。それはすなわち自らに課した欺瞞と、狡く逃げ続けた結末だった。

 嘘と装飾に塗れ、疲れ切った言葉たちでトリニティは溢れている。だからこそ、先生の飾らない言葉が好きだった。

 こうして二人だけの、そして誰も見ていない、先生がその仮面をはずす場所で、ハナコは先生と言葉を交わすこと。そこにハナコは()()()()()()()()()()()。なぜならハナコはそうすることを知らないし、その術を持たなかった。

 弱みは悟られれば、すなわち()を意味した。生きるために、信用することは出来なかった。だけど既に人も時代も変わっていた。変わらなかったのは、自分自身だった。

 

「私は」

 

 求めていた青春と、煙草はアンバランスなものかもしれないが、ハナコはその香りが嫌いじゃない。声が夜の街に落ちていく。二人の輪郭が溶け合って見えなくなっていく。こんなアンニュイな妄想をしていしまうのは、その恥ずかしいまでの気持ちの代償だろうか?

 

 知ってほしい、聞いてほしい。きっと貴方は受け止めてくれる。だから。

 

「本当の私を、あなたに見てほしいです」

 

 なんて、そう言って服を脱いだのも、この夜のせいなんだ。

 

 

 ***

 

 

 

 『どうしてあなたは夜を歩くの?』

 

 そんな疑問をぶつけられた日のことを思い出した。

 理由なんて最初から分かり切っていた。私は制服が、学生というその立場を受け入れることが出来なかったからだ。

 優秀な人間だというその意味を押し付けられたくなかったからだ。

 だから私は”浦和ハナコ”であるために、こうして夜を歩いた。制服なんてものを脱ぎ捨てて、私が私でいるという意思表示の為に。

 

 

 

 そんな決意をして、初めて夜を歩いた日のことを思い出した。だって服を脱ぐ時はいつだって一人だったから。

 

 風が体を撫でるように、体温を奪うように通り抜けた。

 体を締め付ける制服は、既に地面へと落ちている。

 

「ハナコッ、なぜ脱ぐ?!」

 

 ハナコが服を脱ぎ、夜を歩く理由。かつていろいろな人に聞かれたその本音。

 グロテスクなその優しさを、ずっと拒絶し続けたのは、そこに既に答えがあったからだ。

 

「なぜ? そんなのわかり切っていますよ」

 

 何度問われたところで、その答えは自明だ。

 スカートが地面へと落ちていった。白い肌に、下着が暗闇の中で嫌に目立つような気がした。

 

()()()()()()()()()

「それ、まって……」

 

 制服という鎧を脱いだ後、そこに残るのは何も飾るものがない自分自身だ。その意味で、私は()()()()に成れた気がした。私は脱ぐことでしか本当の自分になれない。

 先生が目をそらそうとするのを、その手をハナコは掴む。開いた手で、先生の顔を掴む。そして自分の方へ無理やり向ける。肌に手がのめりこむのを感覚した。

 

「これが、私の望みです。本当の私の姿です」

「ハナッ、コ、やめ、ろッ……!」

 

 産毛が、目が、吐息がかかるほどに近いその距離で、ハナコは先生の男らしい強烈な香りと、煙草の焦げたような匂いを感じた。脂汗のようなべたべたが手にまとわりついたような気がした。

 

 男がそこに在った。それは原始的な快楽であり、生の欲動(リビード)があった。

 力がこもる手で、先生は苦しさに目を白黒させている。

 ハナコは笑う。だけど乾いたようにうまく笑えない。

 

「私は……」

 

 手が、首へと伸びていった。

 反射的に上体を逸らす先生は、しかしハナコに手を抑えられており、結果的に後ろにたたらを踏んでしりもちをつく。その上に引きずられるようにハナコは自分の体を重ねた。首にかけたままの手に少しだけ力を籠めれば、先生の表情は苦悶にゆがみ、それがさらにハナコの欲望を満たしていく。満たされる仄暗い感情が堰を切ったように流れ込むのを感覚した。神秘が、ヘイローが闇に一層輝いた。その胸を満たす法悦がハナコをさらに突き動かしていく。

 暗い闇に二人は沈む。まるで快楽の奥へ沈んでいくように。

 

「先生……」

 

 甘い声が漏れ出てきたことを、ハナコは驚きを持って自覚した。それは自身が何度も空想(ファンタスム)し、しかしなお現実に降り立つことは無いと押し込めていた仄暗い感情。そして目の前の先生は、ハナコのその欲動一つで全てを壊すことが出来る。

 

「な、んで」

「私の気持ち、受け取ってくれますか?」

 

 だけど、先生の手がハナコの手首を掴んだ。

 ハナコは性的なその関係が正しいとは思っていない。その理性は間違いなくハナコの中にある。だけどその快楽に抗うことは出来なかった。

 

「私は本当はこういう人間なんですよ、服を脱ぐのも、夜を歩くのもこれが理由。優秀な人間なんて、私はそんな人間じゃない」

 

 爽快な気持ちだった。何も縛るものはなく、そして自分を偽る必要もない。

 

「醜い肉の塊だって、そんなことずっと昔から知っていたはずでしょう?」

 

 ただの肉塊で、動物であり醜い生命体。それでも、きっと分かり合える。何処かでそんなことを想っていた。それなのに私たちは余分な何かをずっと抱えている。性欲を超え、そして倒錯した感情は暴走し、成り代わり私たちを狂わせる。

 それでも求め続けていた。そんな風に誰かと心を開いて語り合える瞬間を。心の底から待ち望んでいたんだ。

 何かを心の底から信じて、安心できるその何かに。どうしても受け入れられることのない特異的な何かを受け入れてくれる存在に。

 それはきっと、先生だけなんだって。

 

「私は私であると同時に、それが()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから」

 

 だから。

 

「………ハナコ?」

 

 その一言が出てこない。何かを言おうとして、でもそれ以上言葉が出てくることは無くて。

 本当の私、と信じてきたものは、ここにはなくて。

 言葉にすればするほど、それは遠くへ逃げていくようで。先生の首に掛けた手が、次第に緩んでいく。

 

「どうして泣いているんだ」

 

 

 理由はただ一つ。

 

 

「貴方は、どう思いますか?」

 

 

 本当の私、こんな私でも。

 

 先生は愛してくれますか(受け入れてくれますか)

 

 

 

 

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