綺麗になれない私だから   作:にられば

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(5)最後の賭け

 弱みを見せれば付け込まれる。

 強く在れば叩き込まれる。

 そこには望まれる姿があり、生きるために必死にもがいていれば、いつの間にか操り人形になっている。この世界はまるで息苦しい監獄だった。

 誰も信用できない。誰も信用してはならない。そんな場所は本音ですら口にすることは出来ない。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 だから焦げ付いた私を追い求めていた。誰にも何も言われないような、そんな私を。

 本当の私、何も飾ることがない、そんな自分自身のことをずっと追い求めていた。いくら服を脱ぎ、夜の闇に体を晒したところで何も掴めなかった。

 

 だけど本能は優秀だ。そうして彼女が行きついた先は快楽だった。

 ぐちゃぐちゃにされたい、そのペニスで私を滅茶苦茶に犯してほしい。それが生きるということで、ないものを埋めるという、私を肯定するただ一つの手段だと思った。

 そうして私の中に入る誰かは、あなたが良かったから。

 

「先生、こんな何もない私を受け入れてくれますか?」

「なんで、なんだ」

 

 きっと先生は、それを受け入れない。

 みんなの為に働いて、そして誰のものでもない。子供たちだけのこの街であなたは特別だった。

 

「私には、何もないんです。空っぽな私を先生で満たしてほしいんです」

 

 羨望したその欠落を、埋めるほどの熱い想いを。誰にも語られることのない私をそこに見つけたかったから。

 

「ガラクタでもいい、どんなにぼろぼろでもいいんです。だから、()()()()()()()()()

 

 先生というワイルドカードのポテンシャルに、或いは期待していたのかもしれない。

 溢れ出た涙が、その顔にぽたぽたと落ちた。音もなく落ちるその雫でさえ、無意味でグロテスクななにかでしかない。だとしてもそれを止める術なんてものを、ハナコは持ってはいなかった。

 

「ごめん」

 

 だけど、それを拒絶するにはたった数文字の言葉で十分だった。

 

「君を受け入れて、そうだということは、僕には出来ない」

「…………そう、ですか」

 

 風が冷たく吹き抜けた。

 あれほどまでに暑かった体は嘘のように冷え切って、最早体の中にあったそれは見事になくなってしまった。そこに在ったのは空虚な暗闇だった。

 

 ずっと求めていたものなんて、結局は見つからなかった。この場所でさえも。

 

「それを、僕が肯定しても、何かを与えても意味がないんだ」

「……()()()()()()?」

「そうだ。だって本当の私なんてものはこの場所に()()()()()んだから」

 

 その声はさみしそうでもあり、苦しそうでもあった。

 上体を持ち上げた先生は、その体にそっとジャケットを掛けた。

 

「それなら、こうしている私も、夜を歩いていた私も……補習授業部の私も、全てが無意味だと。そうおっしゃるのですか」

「そういうわけじゃない」

「なら」

「君のことを肯定なんて、誰にもできないから」

 

 相手を非難するかのように紡がれた言葉が、零れ落ちて、そして二度と帰らない。

 ハナコが自分の失言に気づいてもなお、しかし先生は静かに言葉を紡いだ。

 

「それは君のものだから。僕は()()()()()、君に答えを教えることは出来ない。教えることは()()()()()()()()じゃないから。それに僕はそもそも答えを持ち合わせてないんだよ」

 

 衒学的な言葉遊び。その景色は前も見たことがある。

『だけど、そういうものだろう』と語るその澄んだ瞳は、だが何処か遠くを見つめていたその言葉は一体何を意味しただろうか。

 

「これ以上何かを伝えることは出来ない。僕はハナコじゃないし、ハナコになることは出来ない。それに、ただその答えを知っているだけでは、君はまた同じ道を帰ることになる」

 

 だから、そう言って先生は再び目を見る。

 

「夜は暗くなるものだし、朝は必ずやってくる。それを変えることは神でもなければ不可能だ。だけど僕たちは神様にはなれない。それでも生きていかなくちゃいけないんだ。それでもそこに、立っている君が居なきゃいけないんだ」

 

 変えられないものを、暗闇を。

 どうしても変えられないそれをどうしてそう在れと言えるのだろうか。

 

「君の答えを聞かせてよ、ハナコ」

 

 それでも先生は、目をそらさずにハナコを見つめる。

 わかっていたことだ。

 騙る事になれた言葉も、それと向き合うことの無意味も。

 

「そんなものを、持っていたかったです」

 

 そう呟いて、ハナコは静かに息を吐いた。

 体が知らず知らずのうちに固まっていたことを自覚した。

 

「……答えも何も、私は持ってなんかいなかった。言葉も、意味も、そして周りの人たちも。だから私は空っぽなんです。誰にも何も与えられない。あるのはただ求められた仮面をつけただけの私。そうして何もないところに、ガラクタを詰め込んだだけなんです」

 

 いくら言葉を否定して、いくら燃やして沈めたところで変わるわけがないと言うことを。

 それを、ただ私が受け入れられなかっただけということを。

 それがただ自分を慰めることでしかないことだとも。

 

「本当は気づいている、本当はわかっている。求めても手に入らない事なんて……どれだけ言葉を信じても、それに答えは帰ってこなかった。ただ無意味に吐き出るようなそれを……でも」

 

 そんな場所でも、ハナコは信じることのできるものを知った。光を見つけた。仮面をつけた街で、仮面をつける必要のない場所を見つけた。

 

「そんな何もない私を、それでも受け入れてくれた人たちが居ました。悪意から始まった物語だとしても、そこには小さな正義と、そして太陽のような明るさがあった……私の持っていないものを持っていて、そんな私でも受け入れてくれる優しい人たちでした。

 先生、私はこうしてお話しできて嬉しいです。とても……とても楽しいです。ずっとこの日々が続いてほしいと思うくらいに」

 

 去年の私を思い返せば、今の私は想像もできないくらいに恵まれた、それこそ最上の結末を迎えたと言ってもいいかもしれない。先生が来てからの日々はハナコにとっては今までで一番美しく、そしてかけがえのない日々だと感じる。

 でも、それはいつの間にか変容していく。変わりゆく街も、その中で生きる人も。その先の未来も。

 ハナコは身を包み込む闇と同じ何かをここに持っている。かつて失望して仮面を被り、偽ることでしか生きていけなかった私は、ハナコの中にいまだに燻り続けている。

 

「だけど確かなものを――私は確かなものなんて何一つ持ってない。それは言葉だってそうでした。誰かと共に居ること、言葉と共にあるということ。それが私には確かなものだと言えないのです。あの子たちと一緒に居ることなんて、出来ない」

 

 誰そ彼と問い掛けなければならないほどの暗闇の中、仮面の下にあるのは人か、或いは怪物か。

 人が人としてある為に、そして神がそこに在ったとき、既にあったその言葉という幻想を。

 そんな怪物はきっと虎のように変質して、いずれ醜い肉塊に成り下がる。

 

 そんなものが、あんなに輝くあの子たちの隣にふさわしいわけがない。

 

「こんな醜い私は、あの子たちの隣に居られないから」

「……それでも、僕がそうだといっても、そこに在るのはガラクタと変わりないよ」

「それでもいいんです」

 

 矛盾していることなんてわかっている。でもそれでもここに生きるには、嘘でも何でもいいから埋め尽くすような何かが無きゃいけないんだ。

 

「先生になら殺されてもいい。ここに居ても苦しいだけなら、どうしても何かで埋め尽くされるなら、先生がいいんです」

 

 嘘と欺瞞に塗れ、いつの間にかその意味を捨て去った言葉たち。

 伝わることを放棄したそれは、分断された言葉は意味を持たないただの取るに足らない何かに成り下がる。そうしてずれ続け、確定しない意味の世界で永遠に空虚な言葉を抱え続ける。

 

「だから、私は……信じることが出来ません。信じてしまえば、再び失えば、私はもう二度と歩けない。苦しくても、ずっと海の底で、何処かと地続きになっているはずのそこで藻掻いているしかない。あるかもわからない陸地を探して、暗い海をさまよい続けているしかない」

 

 その広大な海のイメージを前にして、私たちは孤独に空を、波を見ることしか出来ないということに。言葉(BOAT)を失った私には歩くことしか出来ないのだから。

 

「ヒフミちゃんも、アズサちゃんも、コハルちゃんも……私のかけがえのない友達です。わかっている。私が心の底から望んだ答えがそれですもの」

 

 だから。

 

「何も見えない暗闇はとても怖いものです。息苦しい暗闇も、沈黙も……光は小さく、そして影はさらに濃い闇だと知りました。知れば知るほどそれは色濃く、私から離れることはありません。一人は怖いです。孤独で私の隣には誰も居ない。でも、言葉では何も救われない!」

 

 そうであるならこの世界に対し沈黙するしかないんだ。

 

「この暗闇に……あの子たちの隣に居たら、私は私でなくなってしまう。誰にも求められない何かに変わってしまえば、もう」

 

 埋め尽くす何もない世界で、たった一人だったから。

 

「それでも、歩くしかないよ」

 

 それなのに。

 それでも先生は言葉を話した。

 

「日が登ろうとも、光があれば必ず影が出来る。それは切り離せない。強い光や、例え栄光の光の中にあっても変わらない」

 

 街を見ながら先生はそう言って、再び口に蛍のような火をともした

 

「どんなに信じれないとしても……それを信じることでしか生きていけないのだとしても」

 

 白い息が吐き出されて、そして何もない空に上がっていく。

 

「これもそうだよ。煙草なんて滅多なことじゃ好かれない。先生はみんなの規範にならないといけないのに、こんな姿見せられない。でも、辞められるわけじゃない。僕は、そんな自分の欲望やどす黒い何かがふと出てきたりしないかいつも怯えている」

 

 こうしてハナコにはばれてしまったんだけど。そう苦笑いしながら笑う姿は、仮面の下の先生は、何処までも自然だったし、ハナコには黒い影のようなものだとは思えなかった。

 闇に押しつぶされそうになっているハナコとは対照的に、それを嫌いだとはハナコには思えなかった。

 

「だとしたら、どうしてそんなに自然なのですか」

「それも含めて()だからさ」

「……私、ですか」

 

 私。それが指し示すものは仮面を被った私か? それともその内側の「私」か?

 なにもないはずのその場所にあるそれは、どうしても得られなかったものだったのに。

 

「そうであること、ありのままであること。それを押さえつける必要はないよ。少なくとも、この場所は僕にとってはそうだ……そんな僕を切り離すことは出来ない。僕はそんな自分を抱えながら生きるしかないんだ」

「そんなの!」

 

 ハナコには、それを受け入れられるとは思えなかった。開けない夜はないなんて言葉が事実でも、その事実に押しつぶされる人だっている。

 ハナコは何も持っていなくて、だから求めようとこの場所で藻掻いていたのに!

 

「そんなの……あんまりです」

「だとしても、僕たちはその暗闇を歩かなければならない。これから夜はもっと暗くなるよ。日が昇るまで、あと何時間も暗闇が続く」

 

 暗い空は、既に太陽など最初からいなかったかのように黒々としている。

 明るいD.U.も、トリニティの上にも等しくそれは覆いかぶさっている。否定するには余りにも強大な自然。頭ではわかっているのだ、でもそれを身体は、仮面の下の「私」は決して受け入れない。

 

「青春も、人生も。短いようで長くて、でもそんなに私は強くありません……みんなのように、みんなが思うほど、本当の私はすごいわけじゃないです」

「それはみんな一緒だよ。ハナコも、ヒフミも、コハルに、僕だって弱いんだ。誰だって強く在ろうとしているけど、世界に対して僕たちはとても小さな存在だ」

 

 煙草を灰皿に押しつける。執拗に火を揉み消そうとする姿が、まるで火だけじゃない何かを消そうとしているみたいに見えた。

 

「それでも僕たちはここまで来た。一つ一つ、小さな日々の選択。その帰結としてこの世界はある。あの赤い空の日も、ハナコたちが共に戦ってくれなかったら僕はきっとここにはいない」

 

 ハナコはそう呟いた先生の横顔を見た。

 

「だからこの街明かりもその日々も、君たちの選択の結果だよ。過去が未来を決めつけることはないかもしれないけど、その選択は僕たちの未来を肯定してくれる」

 

 そうしてハナコと先生は視線が交わる。優しい目をしているようだった。照らされた横顔は良く見えなかったけど、でもそれは先生だし、この暗い場所でも前を見据えているようだった。

 ハナコは先生のその感情を理解することは出来なかった。

 

「お互いに顔もわからぬほどに暗い世界で、また互いの姿を見えないままに歩いていかなければなりません。その隣を信じながら歩き続けないといけないんです。恐ろしいほどの闇の中を。

 それを、先生は信じるのですか?」

「それを照らす仲間は、ハナコにもいるだろう?」

 

 でも言葉はそこに在り続けた。目に見えないものだとしても、ハナコはそれをそういうものだと受け入れた。

 たとえどれだけそれを恐れようとも、信じることが出来ないとしても。

 

「失うことを恐れるのも、闇に潰されそうになる時にも。その隣にいる人のことを忘れないで。ハナコは何も持っていないなんてことは無い。それでも君はここに居るんだ……その意味を消そうとしなくてもいいんだ」

 

 そんなの、詭弁じゃないか。そう出かかった言葉がつっかえて、そのまま吐息となって消えていく。

 隣に誰かがいるとしても。それが孤独を癒すことがないなんて、ハナコはそういうことは出来なかったから。

 

「……それでも」 

 

 でも、たったそれだけ。

 それだけでもよかったのかもしれない。

 この薄暗い廊下も、きっと一人だったら怖くて、足を踏み入れることなんてしなかっただろう。きっと、一人でシャーレに行こうとは思わなかったはずだ。

 でもそこに先生がいるから。貴方がいると知っているから。

 だったら一歩踏み出すことも出来るのかもしれない。

 

「いつか、そんな自分をそうだと言えるのでしょうか」

 

 天才、学園始まって以来の才媛。次期ティーパーティー入りは確定。そんな上辺だけの言葉じゃない、本当の私を見て紡がれた言葉は何処までもハナコに寄り添い続ける。

 それが光であり、闇を照らすものだと知った。

 

 何処までも暗い夜闇の中を、先生は否定も肯定もしない。だけどそこにただ()()ことだけが事実で、それを抱えることがハナコに出来る唯一のことだから。

 

「先生。私にはわかりません。何もない、綺麗になれない私も。この寂しい何もない世界で意味を持つことだって」

 

 夜の街は変わらず輝いている。夜の闇はまだ明けない。

 影からは逃れられない。影は切ることは出来ない。

 それでも世界がいずれ朝を迎えるように。

 愛せない自分を、壊れそうなこの世界を、いつか愛することが出来るのだろうか。

 

「でも逃れられないのなら、せめてそばに居てほしいです。隣にいてほしいです。せめて今だけは」

「……うん、いいよ」

 

 そうして冷たい手に暖かい手が触れた。

 満たされない感情が、今だけは深く満ちるような感じがした。

 

 嘘でもよかった。それでもこの空っぽな私を埋めてくれる。

 それが、どうせ何も埋まらないその世界を歩くことなら。それでもいいかと思えた。

 

 

 夜は相も変わらず昏く在り続ける。

 

 

***

 

 

 きっかけは簡単だった。

 思えば随分と遠回りをしてきた。それはきっと高望みをしてしまったから。

 でも最初から、それはその場所にあり続けた。ずっと探していた答えだった。どうしようもないくらいの答えだった。

 

 だったら私は歩かなければならない。綺麗になれない私だけど、でも私は歩くしかない。

 どんなに苦しくても、辛くても。そうするほかに、答えなんてないのだから。

 

 

 

 雨の音がした。夜は暗く、そして未だに朝は来ない。

 

 だけど雨が降ることも、この世界に生きる事も同じ答えを提示する。

 届かない言葉は何を乗せようと意味がない。それを前に出来ることはない。

 それ故に歩かなければならない。

 

 だったらもう、どうしても歩くしかないのだとすれば。

 

 私は、世界を―――

 

 

 

 

 


 

 

 夜を乗り越えることは出来る。

 人間はきっと幸せになれる。そんな言葉を信じてあげることは簡単だったのかもしれない。でも簡単なことじゃない。矛盾は重なり合い、それでもその何かを抱え続けて生きていくしかない。

 

 ハナコは静かに体を起こした。

 ソファの上、明かりが落とされたオフィスの外はまだ暗く、あの夜とは異なり静かなオフィスにノイズのように雨の音が響いていた。

 今日の朝はきっと曇り空だ。

 

 だけどもうこれ以上はここに居ることは出来ない。

 ここには答えはない。いや、ここだけじゃない。この世界に。

 

 

 夜の狭間から朝に向かって歩くこと、それは当たり前なんかじゃないってことを。

 

 

 

 ハナコはそっと足を地面に置いた。

 明かりが落とされたオフィスの中に、一つだけ明かりがついている場所があった。

 その場所へ向けて足を向け、ハナコは横に立つ。デスクライトに照らされて机で眠る人が照らし出されていた。

 

「先生」

 

 いつの間にか眠っていたハナコと同じように、先生は昨日の夜が嘘のように綺麗な身なりだった。その内側にある煙草とその欲望を知っていてもなお、その顔は何もなかったかのように整えられ、そして先生という役割を抱えていた。

 

「ありがとうございます、先生」

 

 だけど私は知っている、その顔の裏側を。

 その感情の、脳裏にこびりついた匂いを。

 誰だって知らない何かを抱えていて、それでも誰かと生きなきゃいけないなんて知っていた。

 知らないことは暗闇と同じだ。だけどその暗闇を航海する術なんて誰も教えてくれなかった。

 

 ハナコはカバンから手紙を出す。

 中身に意味はなく、そして届けることに意味があると告げたセイアの言葉を思い出した。今ならその意味も分かる。その手紙は誰かに宛てて書かれる言葉であり、舟でもあった。

 それを失い、無くして見失ったハナコにとって、それを届けることは嵐を航海するのと同じような困難と危険を抱えていた。

 

 もしかしたらその先は氷山かもしれない。もしかしたら、その行きついた島は蛮族のような何かがいる島かもしれない。

 それでも冒険しないでひきこもっていては、いずれ舟も私も風化して波にのまれてしまうのなら。

 

「だから、さよならです」

 

 その頬に、口づけを一つ。

 それが、ハナコのできる精一杯で、信じるということ。

 そしてテーブルにその手紙を置いた。まるで本人へと伝えることを放棄した言葉が、そこへとぽつりと置かれいるようだった。それでも。

 

「少しだけ、もう少しだけ」

 

 何もない世界を、歩いてみるから。

 

 暗いオフィスの扉が開いて、そして静かに閉まった。

 

 

 


 

 

 

 

 

「先生!」

 

 悲鳴のような、脳に劈くその声に、ぼんやりしていた意識が一気に覚醒する。

 声を辿り、しょぼしょぼする目を何とかしてピントを合わせる。黒い制服に、黒い髪。トリニティ総合学園の仲正イチカがそこに居た。

 

「先生、すみません!」

「いや、大丈夫だ。何かあったんだね?」

 

 心臓がどくどくと、鼓動を早め血を身体の各所に送り出しているのを感じた。

 

「ハナコさんを、見ませんでしたか?」

「ハナコ、それなら」

 

 周りを見渡した。

 昨日の夜、あの庭園を抜けた先のバルコニーで話した後。

 

「……いない」

「やっぱり、来てたんですね」

「あぁ」寝かせていたソファにはハナコの姿はなく、荷物ですらなくなっていた。まるで最初から居なかったかのように。

「昨日の夜、ここに来ていたんだ」

「……ここまで、っすね」

「もしかして昨日から?」

「はい、行方不明です。連絡も取れず、現在トリニティ内部を捜索しています」

「そう、か」

 

 行方不明。その言葉に一気に背中が冷たくなるのを自覚した。

 小鳥遊ホシノと、黒見セリナの一件。カイザーによる誘拐事件。いくらこの世界のこどもたちが強くたって、僕たち大人が何も手を出さないわけじゃない。

 机においてあったタブレットを手に取る。

 

「アロナ」

『ハイ! 何でしょう、先生』

「大至急、ハナコの行動をサーチしてほしい。先にICカードの乗車履歴、それとバスとタクシーも。その後は追えるならGPS、最後にカメラの映像解析で追ってほしい。出来るかい?」

『お任せください! 先生』

 

 タブレットを置いて、連絡先を確認する。

 カンナにキリノ、そして連邦生徒会。だがその上を指が滑っていく。探すにしても情報が足りない。

 

「イチカ、トリニティは何処まで動いている?」

「一応ヴァルキューレには捜索願いを出すようにしてます。恐らく先生のところだろうからとセイアさんが言ってたので、トリニティでも本格的にはまだ」

「つまり、他校は全くノータッチでいいんだね?」

「はい、協力要請もまだ……正直判断しかねてますけど」

「いや、大丈夫」

 

 イチカは自分のような素人とは違いプロだ。組織の動きや機動性、という観点でいえば、動きを少数に留めたのは正しい。捜索は大規模になれば見つかる可能性は上がるが、今回はどうもハナコが逃げたがっているようにしか思えない。むしろ大規模な動きを警戒され見つけにくくなる可能性もある。

 それに情報はシャーレの方が集まる。学園に跨ぐ事案はとにかく動きが鈍くなるから、最初にここに来たのも間違っていない。大人を頼ることはいい判断だ。

 

「こっちでも捜索掛けるから、とにかくトリニティには報告を。あとは僕のほうで何とかしておこう」

「わかりました」

 

 そして、イチカたちが期待している情報は第一にハナコの位置情報。正確な場所までなくとも、絞り込めれば話が早い。普通は見ることの出来ないそれも、シャーレを使えば見ることが出来る。

 

『先生! 交通系ICの履歴です!』

「OK、タブレットと、イチカにも転送して」

 

 アロナの声がして、即座にデータが並ぶ。

 ここ数日のデータが並んでいく。普通生徒は閲覧できないが、シャーレの権限でイチカにも転送する。

 

「先生、これって」

 

 同じくスマホのデータを見たであろうイチカが声を漏らす。

 

「今日の未明にシャーレを出て、その後は始発の快速で……アビドス方面に移動、か」

「すぐに即応小隊出します」

「いや、まって」

 

 イチカが何処かへ連絡しようとしたのをとめる。

 それを横目に、履歴と見ながら大体の時間を計算する。二時間で移動できる距離と、その際の移動手段を脳内で簡単にサーチする。

 

「始発が出て2時間、そろそろアビドス周辺で降りてもいいはず、だけど」

「でも早めに動かないと、時間が経つと見つけれなくなるっす!」

「いや、わかりやすいな」

「え?」

 

 時間的にはそろそろ到着してもいいはず。だけどアロナによれば駅からの出場の記録がない。つまり列車を降りてもまた別の列車に乗っている可能性が考えられる。そうなれば時間と共にさらに特定は難しくなる。

 

 だけど。ハナコなら?

 もし自分だったら、本気で何か……警察や国家組織から逃げようとするなら、簡単に足がつく電子的手段は使わない。僕が思いつくくらいなら、ハナコだって気づいているはず。ハナコは頭が回る。シャーレを使って追ってくることを容易に想定して逃げるだろう。

 

『私の気持ち、受け取ってくれますか』

 

 昨日の言葉と共に最悪の想定が頭をよぎる。

 このキヴォトスでも、死因の第一位というのは元居た世界と変わらない。

 イチカの言葉に、どんどんと思考が悪い方へと逸れていく。だがそれでももう止まれない。

 

「もしかしたらICカードじゃなくて紙の切符を使って移動している可能性だってある。そうなるとこの履歴も信用できないし、電子決済を入れてないオフラインの個人タクシーを使われればもう無理だ」

「……そんな」

「だけど、予想は出来るはずだ」

 

 考えろ。何を言っていた。あのバルコニーを思い出す。

 ヒントはある筈だ。

 

『先生! 防犯カメラ映像です、取り合えず中央駅の改札口を出します!』

「頼む」

 

 オフィスのモニターが自動起動し、駅の改札口の映像が映し出される。

 そこにはハナコがスマホをタッチして入場した様子か映し出されていた。

 画面が切り替わってホーム。そこでハナコが自動券売機で券を購入している様子が映し出されている。

 

「やっぱり別方面か。行き先は」

「この列車はゲヘナ行きっす」

 

 イチカが横からそう呟いた。

 

「以前も乗りました。あのテロリストと」

「あぁ、なるほど。なら」

 

 そこまで絞られていれば追跡は可能だ。しかしイチカに行こうか、と言おうとしたところでそれを着信音が遮る。

 画面を確認した、ナギサの名前が表示されている。スワイプして耳にスマホを当てた。

 

『先生、朝早くに申し訳ありません』

「かまわないよ。どうかした?」

『単刀直入ですが、セイアさんがそちらに行ってませんか?』

「セイアが?」

 

 ハナコに続いて、セイアも。

 次々に更新される情報をひとつも聞き漏らさないように耳を澄ませた。

 

『えぇ、今朝、行き先も言わないで車を出して、それ以降連絡が取れないんです』

「……わかった。こっちで履歴を追ってみる」

『お願いします。それと、イチカさんがそちらに居ますね?』

「居るけど、ハナコのことだね?」

『えぇ、その通りです』

 

 恐らくハナコに関してだろうことは容易に想像がつく。身構えながら耳を澄ませたが、だがその答えは予想していなかったものだった。

 

『セイアさんが出発前に伝言を残していました。その……トリニティとゲヘナの境界へ行けと先生に伝えて、と』

「境界?」

『えぇ、それだけで伝わるだろうから、と言っていましたが』

「……あぁ、いや、なんとなくわかった」

 

 思い当たるそれはエデン条約の際、ゲヘナの風紀委員会と戦った場所。ハナコはどういった経路をたどるかはわからないが、ゲヘナ行きの、そしてセイアもハナコも知っている場所はそこだけだ。

 理由はわからないし、その行動は賭けのようなものだ。だけどそうするだろうという予感は確かに先生の中にあった。

 通話口を抑えながらイチカに視線を向ける。

 

「イチカ、今日は車で?」

「はい、すぐに出します」

「頼む」

 

 意図を直ぐに察したイチカがパタパタと走り出すのを横目に、意識を通話に戻す。

 

「ナギサ、僕もすぐに急行する。何かあったら遠慮なく連絡して」

『わかりました』

「それと、ハナコの事だけど」

 

 少しだけ考える。

 不安定なその顔を、ただハナコに向けられたその感情を。

 

 ハナコの抱える何かを、これだと断言することは出来ない。

 欠けた何かを埋めることは出来ないし、それを埋め尽くすことはハナコの存在を消してしまうことだと理解していた。だから何も言えなかった。

 

「人を掛けて探さないように。多分、ハナコはそれをすれば……」

 

『私には、何もないんです』と呟いたあの泣きそうな表情を思い出した。

 何もないことから逃げようと、それでも向き合おうとしたその姿をうまく言葉にはできなかった。ただ、その恐れを無理に追いかけるなら、きっと彼女は欠落に向けて突き進んでしまう。そんな危うさを孕んだ彼女を追い掛ければ、それは追い詰めるだけにしかならない。ハナコは何もない自分を恐れている。きっとハナコはその欠落に突き進んでしまうと思ったから。

 

「戻ってこない、かもしれないから」

『……わかりました。人員は最小限に留めます』 

 

 そう言って通話終了のトーンが流れた。

 

『何も持っていないんです』

 ハナコはそう言っていなくなった。なにも持たないことを恐れ、言葉を捨て、それでも夜を抜けたいと思っていた。

 ふと、机に見覚えのない手紙が置かれているのを見た。何も書かれておらず、高級そうな封蝋が押されたそれを手に取った。

 ハナコが置いていったものだろうか。それを剥がして中の便箋を取り出した。そこにはハナコの字ではない言葉があった。

『ハナコがこれを届けたとき、既にそこに居ないのならすぐに追いかけて』

 たった一行の短い手紙は、しかし自分に向けられた言葉ではなく、ただハナコの為に書かれたものだった。そして同時にその手紙の意味も正確に理解することも出来た。ハナコがそれを届けた事実と、その届いた言葉の意味を。

 書いた人はきっと、ハナコの事を止めることができないとわかっていたから、そしてハナコがこれを先生へと届けると信じていたから、こうして手紙を託したのだろう。

 託された言葉は最後の賭けだ。そして祈りだった。少女がたった一人で歩かないようにという願いだった。

 

「先生、車の準備が出来ました、それと救急セットも……先生?」

「あぁ、いや、大丈夫だ」

 

 思考に沈む姿を見て、イチカが心配そうにこちらを見つめる。だけど、脳裏に残るハナコの姿を無視することはできなかった。

 そもそも、先生というのは生徒に答えを与えることはできない。それは彼女たち自身で掴むものだからだ。だから与えるのではなく、掴みとるそれを助けるのが先生なのだ。

 その結果、彼女たちが夜を歩くというのなら。

 その隣を歩くことが自分の役目だ。暗い道でも、どれほど苦しい海の底でも。それが大人の責任であり、そして自分の選択だった。

 だから、一つ手を打つことにした。

 

「イチカ、今すぐに出るけど、寄り道してもらいたい」

 

 闇色の朝であっても。孤独から逃れられないとしても。

 

「ヒフミたちも一緒に連れて行こう」

 

 人は、仲間と共に生きていくのだから。

 

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