綺麗になれない私だから   作:にられば

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(6)闇色の朝

 夢を見た。それは冷たくて暗い夢だった。

 暗い海の底で。凍った海の上にただ一人だった。舟は既になく、島すらどこにも見えず、ただ凍り付いてしまった海が続いていた。

 凍てついた海は何も語らず、ただ寒さだけが確かだった。

 

 海は広く、広大だった。底の方へ行くことも出来ず、割れた氷の上に立っていた私は足を踏み外す。そのまま何もすることが出来ず海に落ちる。冷たい海へ。

 

 暗いくらい、海の中。体温を奪い、私の存在が海と同化していくような感覚を覚えた。それに恐怖を覚えることは無かった。

 だけど。それはまるで引き籠るような昏い海だった。私はそれに問いかける。

 

「なぜ、ここには舟がないの?」

 

 でも海は何も答えない。何も返してはくれない。

 だけどそういうものだった。初めから。

 

 わかっていた、目の前にあったもの。変わらずそこに在るものを。

 

 その海を前にして私はただ沈黙するしか無かったんだ。

 

 


 

 

 雨が降っていた。

 その中をハナコは一人、ふらふらと歩いていた。

 既に遠くトリニティから離れたその街で、ハナコの様子は余りにも異様だった。

 カバンもなく、切れかけの蛍光灯のように点滅するヘイロー。制服は雨に濡れて肌に張り付く。その不快感もハナコには既にどうでもいいものだった。

 すれ違った人は誰もがその様子に声を掛けようとして、しかしその異様な雰囲気に手を出しかねていた。まるで海を割るかのようにハナコはその中を歩いた。

 

 スマホも財布も、そして銃でさえも。

 全てを手放したハナコはこの世界にたった一人でいるかのような感覚だった。

 

 睡眠不足の脳は冷静な思考をとっくの昔に辞めてしまって、今自分がどこに向かって歩いているのかすらわからない。本能というハナコが忘れていた感覚は常に頭へと信号を送り続ける。寒さと不快感、だけどそれを前にハナコは動物的にそれを逃れようとはしなかった。

 だけどただひたすらと歩き続けているのは自覚していた。

 ふらふらと、何処へ行くのかもわからずに。

 

 でも、だた消えるべきだと思った。

 臭い物に蓋をする、お茶を濁して言い訳して、誤魔化してばかりの疲れた言葉たちに意味などなくて。

 そんな世界が嫌になって、そんな自分がとてもいやで。だから消えてしまいたかった。

 

 綺麗になれないままでも、綺麗な思い出だけは持っていたかったから。ただそれだけがハナコの理由だった。

 

 そんな脳裏の思考をスキール音が切り裂いた。それはハナコの滲んだ視界に白い光となって映った。

 白い高そうなスポーツカー(ロードスター)はその道を塞ぐように停車した。

 歩みを止めそれをよけようと動いた瞬間に、その扉が開かれる。

 

「ハナコ」

 

 見覚えのあるその白制服に、ハナコは驚いて目を見開いた。

 

「……セイアちゃん」

 

 なぜ、目の前に彼女がいるの?

 どうして貴方がここに居るの? そんな疑問と、ここはそもそもどこなのだろうという場違いな問いが脳裏をかすめては消えていった。

 

「……なんで」

「なんでとはずいぶんひどいな。私は君を探しに来たというのに」

 

 その小さな体にしては大きな傘を広げながら、セイアはゆっくりと歩みを進める。

 

「その様子だと、手紙を届けたみたいだね」

「……セイアちゃんは、わかっていたんですか」

「何を?」

「…………こうなることを」

 

 セイアはその耳に表情が良く出る。ピクリと動くそれは、何かを誤魔化す時の動きだ。

 そうしている間にも雨が体を打ち付ける。視界を白く覆っていく。

 まるで砂嵐だと思った。体を打ち付ける雨粒は、でもどうしてか痛くて、その柔らかいはずの雨粒はまるで砂のようだった。

 

「別にこうなってしまえと思ってはいないよ」

 

 セイアはそう言いながらも傘をハナコへと傾けた。

 段々と激しくなってくるそれに、セイアは自分が濡れることを厭わずにハナコに傘を差しだした。

 

「傘を持ってきていて正解だったね」

「……」

 

 雨に濡れるのも厭わず、ハナコが濡れぬように背伸びをしながら傘が上に差し出された。雨が傘を撃つ音がやけに激しく響く。

 しかしそれでも風が体温を奪っていく。冷たい風が熱を奪い去り、そして活力を奪っていくようだった。

 

「これも、セイアちゃんが見ていた未来ですか」

「……それはもう捨てたものだ。だが、君が()()()()()()()とは思っていた」

「……そうであるべき?」

 

 この暗闇も、雨に佇むことも。

 全て、必要なことなの?

 

「これが、そうあるべき、なんですか」

 

 眠れぬ夜は開けても暗く、そして雨が視界を固く閉ざす。

 孤独なその冷たい場所は、まるで何もない暗闇のようで。

 そんな何も言わない世界に対して、どうしてそうあるべきなの?

 

「こんな答えが、正しいのですか」

「そうじゃない。だけど、君が沈黙のうちにただ消えようとしている事は間違いだと言えるよ」

 

 セイアの目はあの庭園の時と同じ、澄んだ目をしていた。まるで何もかも見通すような、何かを知っているようなその目が、ハナコの躰を貫き通すように見えた。

 それは、嘘と欺瞞に満ちたトリニティの言葉たち、返しを伴って突き刺さるそれとは違うまた別の鋭さだった。

 

「それでも、歩くしかないんだよ。その結果、こうして君が雨に打たれようとも――」

「――千の剃刀のように切り裂かれ、血を流す」

 

 ふと、いつぞやかの問いかけを思い出した。同じ庭園で、同じように彼女と語り合っていたあの日を。

 

 少年は砂嵐を歩く。そして何人もの人間が血を流し、そして少年自身も血を流す。

 だけど結局、ハナコはそこに意味を見出すことは出来なかった。だって、歩いた先に何もなく、掴んだ答えはこんなにも空虚で苦しいものだったのに!

 受け入れられるはずがなかった。認められるはずがなかった。そんな無意味(ナンセンス)なものしかない世界を。

 

「そんなものを―――」

 

 結局は何も得られず、そこには答えなんてなかったのだから。

 

「私は!」

 

 衝動的に、セイアの胸倉をつかんだ。身長差故に、その軽い小さな身体は容易に引き上げられる。そうして傘は手を離れ、二人は再びその雨の中に立っていた。

 

「知らなければ、良かった……!」

「……だから、ずっとその場に止まるつもりかい?」

 

 口を開いて、セイアの言葉が、そして鋭い棘を持って突き刺さる。

 

「そうして君は、()()し続けるのかい?」

 

 その言葉に、ハナコは体中をおぞましいほどの虫たちが這いあがるのを幻視した。その虫が、蟲が、無視が、ハナコの隅々を覆って、その手先足先まで伝っていって体をまさぐる感覚、かさかさと背筋を凍らすほどの気持ちの悪い音。精神を蝕み、体を齧り身を喰らいつくさんとするそれを。

 

「やめて!」

「やめない!」

 

 その否定とともに、再びザーザーと勢いを増した雨音が耳によく響いた。セイアは雨に濡れながらも、それでも静かにそこに立つ。

 

「ハナコ」

 

 セイアは再び口を開く。

 

「アズサの話を覚えているかい。彼女は自らの意思で、自分の所属する部隊、そして仲間を殺そうとした。そうしなければ()()()()()()()()()()()()からだ。抵抗することを諦めれば、その先にあるのは緩やかな死だと知っていたからだ」

 

 それが圧迫するかのような攻撃性を持ってハナコを包み込む。最早ここには安全な場所などなかった。

 雨は二人を強く打ち続けていた。痛いほどの水滴が、だが確かなものとしてハナコをそこに惹きつけていた。

 

「誰しも嵐の中を歩くんだ。そして傷つくんだ。切り刻まれて、肌を裂かれてそして血を流す。だけどそれが()()()()()だ。それが()()()()()()()()()()()で、()()()()()ということだ」

「……何を知ったように」

「私と君は同じだったからね。全てを知り、そして死を受け入れようとしていた。嘗て未来に絶望して捨て去ろうとしたその経験は君より長い。()()()()()()()()()()

 

 セイアの語ったそれは多分、苦しいことだ。だけどハナコはセイアのそれを想像なんて出来ない。いつもそうだった。トリニティは監獄だ。誰もハナコのことをわかってくれないし、そして誰の事も分からない。暗闇の海の底のようなその場所は、いつしか現実となって久しいものだった。

 

「本当に、余計ですね」

「だから言っただろう、これはお節介だと」

 

 引き攣ったような笑みが顔に張り付いた。だけどそれは雨に濡れて気持ちの悪いように顔に張り付いている気がした。

 

「なんで……」そう言葉が零れ落ちた。決して語りえないその疑問を、でも口にせざるを得なかったから。だけどセイアは諦めなかった。

 

「友達がボロボロになっていくさまを、見ているだけではいられないだろう」

「……友達」

「それ以外に、理由は必要かい?」

 

 わからなかった。セイアの語るその言葉の意味が。

 言葉に苦しみ、だけど具体的な言葉を伴ってその言葉が出てくることは無くて。それはハナコが自ら選択して放棄したものだったからだ。

 

「君が選んだのも、こうして信じることが出来ないというのも構わない。だけど君は、一度は光のある場所を見たはずだ。君が君らしくいられる場所を見つけたはずだ。それを、ヒフミたちの日々を嘘だと言えるのかい?」

「……嘘だなんて、言えるわけ、ないじゃないですか」

 

 だけど、そうして捨てようとしても、捨てることが出来ない過去は否定することも出来ない。

 わかっていた。それはとてもきれいな思い出のような日々だったから。だとしても。

 

「でも、そこに居ても、わたしは綺麗になれないままだったから……信じれなかった。そんな私が、あの子たちの隣に居ちゃいけないんです」

「なぜ、そこまで……!」

 

 雨は二人を包み込んだ。冷たい風が、ハナコの体を包みこんだ。

 静寂のように視界が開けた。弱まった雨の音、濁ったままの視界。それでもあなたは何処へでも行ってしまうだろう。こんな自分とは違って。

 

「君の歩みは確かなものだった。喪っても、絶望の淵でも、君は今まで歩いてきただろう。それを見ないふりなんて――」

「……もう、疲れたんです」

 

 セイアが少しだけ目を見開いた。

 

「いつか言ってましたね。砂嵐の意味……今ならわかります」

 

 白く濁った世界。それはハナコの全てだった。

 偽りでもないその全て。答えや回答なんて物は初めからない。それは幻想であり、言葉遊びに過ぎない何か。

 

「きっと、まだ明けないんです。この夜も、砂嵐も。私はずっと夜を歩いていました。ずっと探していました。でも……そこには何もありませんでした。何かあるかもしれないなんて、そんな意味がない言葉に期待しても」

 

 ――形而上的で象徴的な砂嵐を。その意味を。

 

「……」

「どれだけ向き合って、戦っても終わることなんてないんです。そこには……価値なんてない。お互いに差し出して、手を取り合って、そんな物語をずっと望んでいたのに」

 

 言葉(BOAT)は沈み、燃え上がった海は凍り付いて久しい。海の底は、そんな壊れて沈んだ(BOAT)でいっぱいだ。

 それを食い尽くす蟲。グロテスクで生物的なその蟲が蠢いて、そしていずれその舟は自然へと溶けていく。

 

「無理だったんです。私は、私たちは結局何処までも()()()()()()()。ヒフミちゃんも、コハルちゃんも、アズサちゃんも……私はその美しさを、手に取れない」

 

 セイアはそれを何も言わずに聞いていただけだった。

 

「先生も、補習授業部のみんなも。かけがえのない私の日々でした。とても……大切なものでした。でも私はそれを信じれない。信じれない私が、言葉(BOAT)を失った私は、もうその場所に居ることは出来ないんです」

「そんなこと」

あるんです!

 

 綺麗になれない自分自身、言葉を失い、孤島のように孤独で一人生きることしか出来なかった私。

 

「一人を選んでしまったの。私は。だからもう遅いの」

「何を言ってる、そんな事で自分を縛り付けるなんて……そんな事間違ってる」

「もうここにはいられないんです。全てを燃やして、いくら私が何かを拒絶しても、それでも世界なんて変わらない。そうして私は離れて、孤独になって消えていくだけ。そんな何もない世界だったら、消えた方がいい」

 

 燃やした舟はそこにはなくて、ただ広い海が何も答えを返さずそこに在るだけなんだ。

 

「それを信じるなんて、出来ない。私はその場所を、受け入れられなかったから」

 

 世界の合意にそぐわなかった人に、居場所なんてものはない。

 その穴のような凸凹に、躓いて、そして立ち上がれなくて。そして水底に沈んでしまうなんて。

 

「ごめんね。セイアちゃん」

 

 だから私は。

 

「あなたみたいに、強くなりたかった」

「ッ! 辞めるんだハナコ!」

 

 とっさに足に着けた拳銃を引き抜くのを見て、ハナコはその動きよりも先に体を近づける。

 こういう時は経験がものを言う。セイアの動きはハナコにとってはあくびが出るほどにわかりやすい。

 

「慣れないことはしない方がいいですよ」

「なっ!」

 

 とっさにセイアが銃を構えた。それを奪い取り、一発。

 腹部に弾を受けるのは、余程訓練されていなければ痛みにうずくまざるを得ない。実弾では死ななくても、それなりに痛みを与えることは出来る。

 

「な、ぜ」

 

 ハナコはその言葉に沈黙を返した。言葉を失った以上、もはや()()()()()()()()()()()()()

 既に分水嶺を超えている。いや、それはもうとっくの昔からだった。

 だから私は行くしかない。

 

「ハナ、コ……!」

 

 その声を振り切って、ハナコはその道を駆け抜けていった。

 

 

****

 

 

 わけも分からずに走る。走って、走って、そしてその場所に。

 橋の上、車がいくつも通り過ぎるその場所で。

 

 それは轟轟と音を立てている川だった。しかし橋梁は大きく、川の濁流をものともせずにそこに在り続けた。

 風と共に雨が体を打ち付けた。冷たい風が体力を奪う。既に限界を迎えたその場所でハナコは倒れこんだ。

 

「ッはぁ、は、ぁ」

「ハナコ、動かないで」

 

 そう、声が聞こえた。何処までも優しいその声は、硬さを伴ってハナコの元へと届いた。

 

「……先生」

 

 空は分厚い雲に隠れ、朝だというのに何処か薄暗い闇を纏っていた。その中で、先生は雨に打たれることを厭わずにそこに立っていた。

 

「ハナコ、どうして」

 

 その心配するような声に、だけど何処か堅いその声がハナコには遠いものに思えた。

 夜のバルコニー、煙草の煙、その優しい表情も。知っていてもなお、それは手の届くところにはないようなものであり、今になってもどんどんと離れていくような気がした。

 

「先生、もう……」

 

 ―――キミは、どうなりたいんだい?

 

「届かない、ですね。もう()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ハナコだってこんな姿を見られたくない。先生という特別な存在を前に、何処までも醜い姿をさらすことはとても恥ずかしいように思えた。でもまだそれを包み隠す夜の闇は遠い。

 朝というのに空は暗く、そして先生は何処までも遠くて、でも雨だけではそんな自分を隠すことなんて出来なくて。

 

 ―――君の答えはどうなんだい?

 

「私は」

 

 ――信じていたい。

 それはずっと心の奥底にあった願い。

 ――ここに居たい。

 初めて見つけた、居心地のいい場所。

 ――でも、そこにはいられない。

 蠱毒は致死性の毒だ。煮込まれ、最後まで残ったその虫が、私の身を亡ぼす。

 

 だって私は、綺麗になれないから。

 

 それでも。

 

「……ハナコちゃん」

「ヒフミちゃん」

「どうして、なんですか」

 

 ペロロのカバンを雨に濡らしながら、その明るい少女は表情を曇らせながらそこに居た。

 

「まだ、眠れないのか」

「ハナコ、どうしてそんなになるまで……!」

 

 アズサに、コハル。二人もそこに立っている。引き籠って以来、久しぶりの邂逅は最悪の形で果たされた。

 

「ハナコ」先生が静かに語り掛けた。

「戻ろう、みんなのところに」

 

 手を差し伸べながら、その距離を縮めようとする。

 それを、どうしてか来てはいけないと感じた。その手を取ってしまえば、私は―――

 

「来ないで」

 

 無意識に、後づさりしてその手を遠ざけている自分がいた。

 何故、そうしたのかはうまく言葉に出来ない。ただそうしなければならないと感じていた。そうしなければ、飲み込まれるような想像がハナコを埋め尽くした。

 手が、欄干に当たった。既に行きつくところまで行きついて、その先は濁流の川でしかない。

 

「………来ないで、ください」

「ハナコちゃん、何故なんですか?」

 

 ヒフミが泣きそうな表情でこちらを見つめていた。それを素直に悲しいと、そう思った。

 

「ハナコちゃんは、ハナコちゃんです。それをどうして……受け入れないわけないじゃないですか」

「……」

「私たちはずっと一緒に戦ってきました。一緒にいろんなものを乗り越えてきました。だから今があります。この青春が……一緒にトリニティを、守ろうって……!」

 

 悲痛な叫びだった。悲鳴でもないのに、その声に心が痛い。

 だって、だって、そんな言い訳ばかりが浮かんでは消える。

 

 そんなことをしても、自慰のような仄暗い何かしか生まれないことをハナコは知っている。それでもその濁流のような快感が、恐怖が、既に戻れないほどにハナコを包み込んでいる。

 

「だけど、それが私がここに居ていい理由にはならない」

 

 出た言葉は、何処までも冷たくて、悲しくて苦しいだけの言葉だった。でもそれがハナコの選んだ結末だった。

 当てもなく征く(BOAT)なんて、どうしても届かぬ言葉を乗せたところでどうなるという?

 蠱毒によって残ったその花を詰めたそれが、自分がそうしたように燃やされるというのなら。

 広大な海の底に沈んだ言葉たちのように、ハナコは自らを殺すしかないのだから。

 

「だって、意味がないんですもの。言葉は無意味で届かないのに信じれるはずがないのですもの」

 

 相手に届くと信じたその言葉は終ぞ届かないのなら。

 ずっと傷ついていた。何度も苦しくて、悲しくて、そして毒にさいなまれていた。

 

「蓋をして……見ないふりをして、でもそんな私なんて誰も望んでない、誰も求めていなかった。ずっとそうであることを見てきて、今更未来なんて信じることは出来ない!」

「それは違う!」

 

 アズサが力強くそれを否定した。

 

「わからないよ、言葉にしてくれなくちゃ、私たちもハナコを助けられない……私たちは、ハナコを雑にしたりしない。だって、友達だから」

 

 その表情はどんな感情だっただろう。ハナコはもうそれすらも考えられなかった。

 考えて、思いつめて、でもそんなことはもうしなくてもいい。それを捨てたから、笑うことも泣くこともしなくてもいい。そうだろう?

 

「みんなとの日々は宝物です。でも私はそこにはいられない。いる資格なんてない……綺麗なみんなと、醜い私はどうしても釣り合わない。そこにわたしがいたら貴方たちを不幸に巻き込んでしまう」

「だったら、また振り払えばいい。エデン条約も、赤い空の日も、そうやってみんなで乗り超えた」

「だけどこれからもそうなるわけじゃない。何処かで青春の物語は終わって、私たちはどこかで死んでしまう」

「でもそれは遠い話だ!」

「今すぐかもしれない」

 

 上滑りするような言葉の応酬は、既に心に刺さることもなく、空っぽの胴体をすり抜けるように何処かへ飛んで行ってしまう。

 

「本音も何もかも、私は捨ててしまった。苦しいだけのこの世界で、監獄のようなこの場所で、でも綺麗だった貴方たちの日々が……救いだったから」

 

 体の上を蟲が蠢く。足先から、体を伝って、そして全身を覆うように。

 

「だから、さようならです。私たちは、ここで手を切るしかないんです」

 

 何もない世界に、ただ一片だけでも生きていたことも、どうでもよかったんだ。

 しかし、そんな思考を切り裂くように再び、轟音のような車の音がした。雨の音や川の轟音を切り裂き、そしてクラッシュの音を響かせながらその白い車は再びハナコの前に現れる。

 いたるところをぶつけ、ぼろぼろになったそれは残念なことになっている。だけどその煙を上げたそこから出てきた人に、ハナコは目を見開いた。

 

「ハナ、コ」

 

 白い制服に赤い血を滲ませ、それでも車からはい出てきたセイアは既にぼろぼろで、その表情は苦痛に歪んでいた。

 

「なん、で」

「君を、助けに来たんだ」

 

 セイアはそう言って、その間の距離を無遠慮に近づいてくる。

 

「セイア、体が」

()()()()()()、先生。これは私の、()()だから」

 

 セイアは思わず近づいた先生の手を拒絶する。既に立っていることもつらいだろうに、それでもその細い躰は歩くことを辞めなかった。

 

「やめて、こないで」

「ダメだ、それでは君は、何処までも行ってしまう、だろう?」

 

 セイア様、セイア、そう口々に声を掛けるヒフミたちなど聞こえないかのように、虚ろなその足取りはしかし、ハナコへと一歩一歩寄っていく。

 

「なんで……なんで!」

「あの時、君を助けることが出来なかった。私は、生徒会長だと、いうのにね」

 

 言葉に詰まらせながらも、口から血を流しながらもセイアは言葉を紡ぐ。

 

「私は、君を……自分の一時の感情で救えなかった。だけど、先生たちのおかげで生きている、アズサやヒフミたちの、おかげでね」

「……それ、は」

「もう、十分に貰っている。だから、次は助けられなかった、ハナコの番だ」

 

 そんなの、勝手な思い違いだ。

 こうしてぼろぼろになって、自分で拒絶して、ここで雨に濡れたのも自分のせいだというのに!

 

「そんなの、セイアちゃんは関係ないじゃないですか!」

「それでもいい。理由なんて、必要ないッ、さ……ハナコ、戻ろう、学園に」

「いや、やめて」

 

 だってそんな風に来てしまっては、未練が残ってしまうようじゃないか。

 私が勝手にやったことで、あなたが苦しむなんて。そんなの私が拒絶した他の言葉と同じになってしまうじゃないか。

 消えてしまえばすべて終わるというのに、それでもセイアは近づいてくる。

 

「帰ろう、()の元へ」

 

 そう伸ばした手を、私は。

 

「もう、無理なんです」

 

 掴み損ねて。

 

「ハナコちゃん!!」

「ハナコ!」

「やめろ、止まれハナコ!!!」

 

 躰をゆっくりと後ろに倒して、みんなが走る姿が見えた。セイアの表情が、絶望の表情に染まっていく。

 先生の手が伸びてくるのを見て、でも数舜先に体が欄干を超えて、その目の前で滑り落ちる。体は重力に従って柵を超えていく。

 こうして最後に呟く言葉は、たった一つだけ。

 

「だから、さようならなんです」

 

 最後の言葉は、綺麗なままで終わりたかった。 

 結局、あの子たちみたいに綺麗になれなかったな、なんて、場違いなことが頭に浮かんで、そして衝撃をその身に受けて視界が黒く染まった。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 そこは不思議なことに海の底だった。

 ただ、水の重さと息苦しさ、耳や鼻を圧迫するその水圧が本物だと感じた。

 

 そうして次は凍った海の上に居た。多分、この海たちは夢の世界なのだろう。

 でもその海の底は苦しくて、悲しくて、冷たくて。

 その道を選んだのは自分自身だ。もう引き返そうにも、この場所は戻れない。ここから先は、海の底しかない。

 

 ―――寂しい

 暗くて冷たくて、苦しくて。

 抵抗することを辞めた体はどんどんと水の中に沈んでいく。怖くて辛くて、それでももう、戻れない。

 

 ―――苦しい

 でもそれは次第に溶けていく。

 そうして私は貴方(わたし)と一つになる。私と貴方を隔てるその海に、だけどそれはどうしても通り抜けることができないものだと知っていたから。

 海の上で舟が燃え盛る。人を近づけぬ孤島に引きこもって、舟を失って。

 海はそこにある。無いといってもそれはずっとある。だってそれが世界そのもので、想像(イマジナリ―)を超えた現実(リアル)なんだから。

 それでも海の底を歩いていけば、きっとあなたに出会えるだなんて、

 

 ―――()()()()()()

 

 でも、愛することは、()()ことだから。向き合った言葉の数々に裏切られ、押し込まれ、騙されてもなお信じれるほどハナコは綺麗になれなかった。そんなくらい私はこんなにも綺麗なキヴォトスという街にふさわしくなかった。それだけだった。

 だけどその死をもっても、世界は何もなかったように回り続ける。それはなんと美しい話だろうか?

 

 でもそれを恐れない。どうして?

 

 そこにあなたがいるのだから。海底で繋がるその島たちに、もう言葉(BOAT)なんていらないんだから。

 海なんていらない。凍って舟さえ出せぬ海の上に、なんの価値もありはしない。

 そうでしょう?

 

 そんな自問自答が、夢と現実の混濁するハナコの頭を駆け抜ける。

 だけどそれでも良かった。だってもう物語は終わりなんだから。そうやって終わればまた、新しいものが始まる。

 

 終わった後は流されるだけ。

 ぼこぼこと水の音がした。薄くなる視界を、空気の泡が浮かんでいくのが見えた。

 岩が、枝が、体の横を流れて消えて、そして当たって消えていって。

 

「―――!」

 

 闇が包み込む。

 水が体を押し込める。何か見えない力の行く先へ。今のハナコは満たされている。

 

「―――!、―――!」

 

 

 暗闇へ。

 

 

 

 ボゴ、ボゴ。

 音が聞こえた。

 腕を引っ張られる。とてもか弱い力だった。

 

 暖かい手を感じた。それが何を示すのかを知らぬまま。

 ただ、溶けた海の底で、その水の中で私はまだ生きていた。

 だから。

 

 

 

 

 ――例え虚しくても、今日を全力を尽くさない理由にはならない。

 

 虚しい世界だ。孤独で、寂しくて、言葉なんて届かなくて。

 

 ――抵抗することを、諦めてはいけない。

 

 答えは既にそこに在った。世界は変わらない。広大な海を前に、人間は無力だった。

 それでも、あの子たちの隣に居ることが出来たら。

 

  ―――生きたい

 

 グイっと、体が持ちあげられ、浮き上がるのを感覚した。

 水面が近づいて、凍った海のその上に。

 

 

 

 光の方へ。

 

 

 ***

 

 

 水面の波風が吹き荒れるそこで、顔に水がかかり、息を吸うたびに水が肺に入っていく。

 風の音、水が流れる轟音が体中を撃つ。

 震える鼓膜と思うように動かない体で、それでも浮いてきた自分自身。

 

「ハナコ!」

 

 水に満たされた耳に、それははっきりと聞こえた。

 

「ハナコ、しっかり、するんだ!」

 

 綺麗な毛並みが乱れた姿が、まるで幼い無邪気な子供のようで。

 そしてその小さな手が私を包み込もうと弱い力を籠める。でも既に力を失いかけている私は、それを掴めなくて。

 

「ハナ――、―――り!」

 

 轟音が、暗い空が、雨が見える。

 暗いくらいその底から浮かび上がった私は見た。

 セイアが手を伸ばし、必死にハナコの躰を包み込もうとしている。体格的にもハナコの方が上なのに、それでも彼女が手を伸ばして掴もうと足掻いていて。

 

 ―――生きたい

 

 それが何でだったのかを、私はついぞ知ることは無く、でもそうすることが正しいと思っていた。

 

 ―――生きたい

 

 ただ、私は欠けたままに生きることなんて出来なくて。求めたものは手に入らなかった。

 それでも私は手を伸ばしたいと、そう思ったから。

 

 そうするしかできないのなら。

 

 ―――貴方たちと、生きていたい

 

 それが、きっとこの寂しくて苦しい世界の、最後の希望なんだ。

 手が離れる。セイアが遠ざかる。それでもハナコは手を伸ばす。

 

 手を伸ばして、その先へ。

 何処までも遠ざかるその手を。

 

 

 掴んで。

 

 

 

 

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