舞う砂よ 道理なる火の楔と化して
丘に立つ新しきキミを庇い燃えよ
確率の丘 / 白虎野 - 平沢進
薄明の空の下には静かな海が広がっていた。ハナコはその海で立っている。
素足を水が擽る。遠浅の海は膝丈の深さしかなく、その中で一人だけだった。
黎明を迎えた空には雲一つない。水平線に僅かに覗かせる茜色から、天頂にかけて薄明のような深い青を湛えた空にはヘイローはなく、ここがキヴォトスではないことを示していた。
今までの海とは異なり、静かにただあるだけの海は何も語らないし、何も与えてはくれない。だけどそれでもいいかとハナコは何故か納得していた。
次第に明るくなる海に、遠くぽつりと島が一つあるのを見た。小さな島だ。何処まで離れているのかわからないが、凪の水面に一つあるそれを、ただ行かなくちゃいけないと思った。
―――行かなくちゃ
ハナコはその島に向けて歩みを進めた。
***
歩くたびに、水面が揺れて遠くまでその波を伝える。
足を交互に動かすたびに波が重なり、そしてすり抜けていく。物理の授業で習ったそれを見ながらも、ハナコはただただ歩いた。
さらさらとした砂地が足裏を擽る、その感覚だけはやけにリアルだった。ぬるいような冷たいような、温度さえ感じない不思議な感覚の中を掻き分けて、不思議と歩き疲れないような感覚が、これが現実ではない夢であることを教えてくれた。
まるで南国の海のように透き通った水は、高い透明度故に底の砂地まで綺麗に見ることができた。陽の光が未だ出ていないのにも関わらず、それをはっきりと見ることができるくらいだから相当に透き通っているのだろう。
底の砂地は白く、だけど生き物の気配は一つもない砂地であった。歩いてもそれは巻き上がらずそこに漂うだけ。その綺麗で小さな砂粒が、歩くたびに巻き上がるそれが、確かにハナコが
遠浅の海の上、透き通るほどのその場所で、視界の先に一艘の舟が近づいてくるのを見つけた。
ゆっくりと、だが着実にそれは近づき、小さな海を渡るには覚束ないその舟が音もなく近づいてくる。それを足を止めてじっと見ていた。
やがてハナコの前に来たそれは、中には何もなく、ただ虚無がそこに在った。空っぽの舟はただ、そこに在るだけだった。
嵐の海を渡って荷物を落としたか、或いは盗まれたのか。誰かが何も積まずにそれを流したのか。考えても答えはわからない。
その舟に手を掛ける。荷物も積まず流れる舟を、きっとみんなは無意味だと言うのだろう。舟の役割なんてとっくの昔に捨ててしまったようなそれを見て、だがハナコは寂しさと同時に、別にそれでもいいと思えた。
そして、ハナコはそれがもう必要ないモノだったことを唐突に理解した。それは了解可能なものという意味ではなく、ただ深い部分でそうだと思うような、何かがかちりと嵌まりあうような納得だった。
得られたのはただそれだけ。でもハナコはもう何も燃やす必要もないし、沈めて海の底に居る必要もない。そうすること以外を
だから、ハナコは舟の舳先をそっと押し出す。そうして再び、舟は波の力もなしにゆっくりと、何処までも流れていく。
―――そうであることを、否定したとしても
それは
しかしそれは
―――それでも、歩くことができる
そうすることが、この何も与えてくれない世界で見つけた
何もない世界の果てのような場所で舟を見送り、再びハナコは歩みを進める。島はもうすぐそこにまで迫っている。
****
その島は、今まで見た中でも一番に小さいと思うようなものだった。だけど今までで一番に綺麗な場所だった。ゴミや漂流物などは一つもなく、ただ白い砂地が広がるそのビーチともいえるかもしれない場所。
それはハナコが海の底で何度も求め、探し続けていたものに他ならなかった。島はつまり、誰かを求め続けることだった。何度も苦しみ、
それでも良かった。そこに行くこと、何かがあることは
きっと海を渡る人にしかわからないようなその満足感が、今のハナコにはわかる気がした。
ハナコはその島を見て、そして再び海へと歩き出す。
空は紅掛空へと差し掛かり、いよいよ陽の光を受け入れんとその場所を赤く染める。もうすぐ夜明けが来る。
―――生きたい
その渇望は今までと同じように塗り替えられる。深い黒と変わらぬ青は次第に青く、そして白く染まっていく。薄明から天明へと掛けて空が白く染まる。一度黒く染まれば戻らぬという不可逆と決めたのは誰だったか。だが世界はその存在様式として再び白く戻っていくことを示した。
―――貴方と生きたい
見ろと空は光を受け入れる。何も見ようとしない人にもその陽の粒子は平等に降りそそぐ。
それを前にして、ハナコが見つけたのは自らの意思だった。だからハナコは絶やさぬように、また掴めるように手を伸ばす。その光の方へと。
―――だから私は、行く
暁を振り払うように光が到来した。そうして眩いばかりの光が白く視界を埋め尽くした。
そうして再び目を開いたときに見えたのは、焦点がずれ、曖昧な輪郭のない世界だった。
ぼんやりとしながらも、徐々に焦点があっていくにつれてハナコは周りを見渡した。薄暗く光の落とされたその場所で――白い天井と、周囲から離隔するようなカーテン、点滴や何かの機械――カーテンの引かれた窓を、ただ静かにハナコは見ていた。頭の片隅で、自分が一人ベットに横たわっているのを認識した。
ただ、不思議とだるさや頭の重さもなく、ここ最近の何度目かの起床では一番の目覚めだと思った。
暫く周りを見ていると「浦和さん」と小さく声を掛けられた。ハナコはそれにか弱く答える。その看護師はハナコが意識を戻したとみるや、カーテンから出て、次はぞろぞろと数人の白衣を連れてきた。よくわからぬままに、簡単な受け答えや診察を受けて質問に答える。次第にはっきりとしてくる頭で、ようやくここが何処か大きな病院の一室だということを理解した。
ただ寝ているだけというのはかなり退屈な時間だった。取り留めのないものが頭の中を浮かんでは消えていく。まるで当事者だった舞台から、観客席へと降りてきてしまったような安堵と体のだるさが全身を包み込んでいた。
ハナコは、あの濁流で確かに手を伸ばして、セイアの手を掴んだことを思い出していた。舞台から降りようとしても、だけどなぜかハナコは生きたいと思った。それがなぜなのかは、まだよくわからなかった。
そうして妙な眠気と暖かさを感じながら、ハナコはそこに静かに一人で微睡んでいた時。
ふと誰かが近づいてくる気配を感じた。リノリウムの床を歩く革靴の音。小声で話すそれが、自分の寝ているベットに近づいた。
「ハナコ、入っていいかい?」
「……はい、どうぞ」
聞きなれた声にハナコは安堵と共に言葉を返した。
カーテンが開くと、そこにはいつものスーツ姿の先生が立っていた。
「やぁ、ハナコ……体は大丈夫かい?」
「なんとか、体は大丈夫です」
「そう……よかったよ」
その顔は、ハナコの記憶よりは少し疲れているようにも見えた。
多分、というよりきっと自分のせいなのだろうと思った。苦労を掛けて、それでもこうして笑ってくれている。その気遣いが何よりも嬉しかったし、申し訳なくも感じた。
「……ごめんなさい。ご迷惑をお掛けして」
「いや、良いんだよ」
「それが僕の仕事だからね」そういう先生は、取り繕ったような、気を遣うような態度ではなかったことは直ぐに理解できた。先生はいつも生徒を優先し、生徒の為にその身を捧げる。キヴォトスに来てからずっとそうだったし、その約束を決して違えない。
「その後、どうなりました? セイアちゃんは……」
「セイアはこの前退院したよ。もう治った、公務があるからって言ってね」
「……そう、ですか」
ハナコにはその様子がありありと想像できた。きっと今頃は図書室に籠って本を読んでいるに違いない。その様子を想像しただけで少しだけ安心した。
「よかった」
そう言ってハナコは静かにベッドに体を埋めた。知らず知らずのうちに力が入っていたことを自覚した。
ふと、先生は視線を横へと向け、唐突に問いかけた。
「ハナコは、
そう問いかけた言葉がよくわからなかった。先ほどと同じような問いかけが、どんな意味を包み込んでいたのか見当もつかなかった。それに僅かに首を傾げたが、ベットに寝ているからかうまくできなかった。だけど先生はその様子に微笑みながら、ゆっくりとそのテーブルを引き寄せた。
「ヒフミたちが、ハナコの事を待っている」
「みんなが……私を?」
横のテーブルには、所狭しと果物や花が置かれていた。
その花たちはハナコが燃やして、海の底へと沈めたものと重なった。だけどそれは、とてもきれいで輝いていて、沈めたそれとは似ても似つかない美しい花束だった。
「……そう、ですか」
そこには毒なんか、ある筈もなくて。
「ふふ、そうですね」ただそのことで、なぜか自然に笑みが零れた。「みんなにも、謝らないとですね」
「久しぶりに笑ってくれたね」
「えぇ……もう
そう言って、何もない天井を見つめた。
花を燃やし、舟を沈めた私には何もないと思っていた。綺麗になれないという自分を埋めるために、何もないことを受け入れようとしていた。だけどそれは夜を歩く苦しみであった。
それが、気づけば口から零れ落ちていった。
「ずっと海の底に居ました。そこは暗くて苦しい、何もできない海でした」
ハナコは話し始めてその深い記憶を思い出した。
ずっと一人だった。世界は何も答えてはくれないし、その悪意や無関心の中で一人で立つことは困難を極めた。眠りはハナコにどうしようもない現実を逃れさせてはくれなかった。
世界は空っぽだ。それを変えることもできなければ、何か意味を持たせてしまうこともハナコのエゴでしかなかった。何もないモノを何かあると言ったところで変わるような魔法は持ち合わせてはいない。
「空が落ちて、底が抜けて、そして搔き乱される。わけも分からないそこで……それでも歩くしかないんです。多分ずっとそうなんです。何もありませんでした。でも
先生はハナコの言葉をじっと聞いていた。ハナコの言葉は意味がない。人に伝える意図を持っていないが故に、言葉はこの世界で消えていった。もう何の意味もないというように。
口に出すことで、
「それでも手を差し伸べてくれた人が居ました。私を待っている人が居ました。そこには私がいるんです。他でもない私の居場所が……ずっとそこにあった」
セイアの手を思い出した。濁流の中で、必死にその小さな手を伸ばす少女。
明け方の海が想起された。遠浅の海の上で、視界は白く染まり、そうして少女は再び目を覚ます。
「それでもいいんだと思います。きっとそうだとしても、私は何度も同じことをするでしょう」
だから。そう付け加えて言う。
「もし、また行くことになっても。先生は深い海の底まで着いてきてくれますか?」
「
「……狡い人です」
それは選択をこちらに委ねることに他ならなかった。その選択に、先生は何処までも手を出さない。まるで、どれだけ誘惑してもその手を取らなかったように。
愛してと求めても、決して満たそうとはしなかったように。
「君たちにとってそれが必要なら、そうだと決めたのなら……大人である僕はそれを見守るだけさ。それが先生の役割だし、そうして君たちは自分で歩いていけるようになる」
約束を、先生は決して違えない。
だけどハナコはそれが先生なりの
「……なら、手を握ってくれますか」
ハナコは手を先生に向けて差し出した。白く透き通ったその手を、大きくて暖かい手が包み込んだ。
ふと、どうしようもない眠気がハナコを包み込んだ。心拍の音は落ち着いて、まるで時計の針のように鼓動をとくとくと刻む。それがとても心地よかった。
「本当に、戻ってきてくれて良かった」
先生はそんなハナコの手を握りながら静かに語り掛けた。
「この街は賑やかでいろんなものがある。とても広くて、迷いそうになるくらいに。そこで生きている君たちは、そこでいろんなものを学びながらそれを選んでいく。いや、それを選ぶことさえ君たちは自由だ」
世界は何も語らない。ずっとそうだった。だけど今はそうじゃないって理解できる。
「そこから戦うことも逃げることも
そうであることや変わらないという事実と、不幸であることは根本的に異なる。それを
だから、ふと心地よい微睡みと安堵の中で、思い出したものがあった。
「……ケーキを」
「うん?」
冷蔵庫に入れたままのケーキを思い出した。あのシャーレでの夜、ヒフミたちが買ってきてくれたケーキを。
ヒフミたちが持ってきた、その想いを。今も学園で待つその愛しい仲間たちの事を。
溢れんばかりのその気持ちを、ただ拙い言葉でハナコは自ら紡ぐ。
「ケーキを、食べに行きましょう、みんなで、いっぱい」
「あぁ、そうだね。みんなで」
花が静かにうなずいた気がした。
「また、みんなで」
そう言ってハナコは瞼を閉じる。
誰かと共に居ること、そばに居ることが、この世界で最後の希望であり喜びだった。感覚が次第に溶けていくようで、だけど怖くはなかった。その手に伝わる温もりがある限り、もうきっと大丈夫だと思えたから。
きっと眠りから覚めた世界は素敵なものだと信じられるから。
****
何日か入院と検査を続けてようやく退院できることになった。
流石に病院からトリニティまでバスと電車で戻るのは少し大変だ。どうしようかと考えて、先生に退院すると伝えると「迎えが来るから、退院したらそのまま玄関に来てね」と返信が返ってきた。どうやら迎えに来てくれるみたいだ。
退院の日、少ない荷物を纏め、綺麗に洗濯された制服に身を包む。受付で手続きを済ませると、あっけないほど直ぐに病院の外に出ることができた。緑の木々が、暖かい風が久方ぶりにハナコを迎え入れた。
はて、迎えは何処かと周りを見渡すと「浦和さん」と声をかけられた。そこには白制服のトリニティ生――ティーパーティーの生徒――が立っていた。
てっきり先生が来るのかと思いきや、ティーパーティーの専用車が迎えに来ていたのは素直に驚いた。病人を歩かせまいとする気遣いには感謝しているが、高級車が迎えに来ている様子は少し恥ずかしい。
だがそれもハナコのことを考えた気遣いだったのだろう。いざその車に乗れば、フカフカのシートが体の衝撃をうまく吸収し、体力の落ちたハナコにとってかなり負担の少ないものだった。
次第に見慣れた景色が窓に映っていく。流れる街の景色をただぼんやり見つめていた。
だがそれが校舎や寮とは違う方向に向かっていく。それはティーパーティーの庭園へと向かっていたことは直ぐにわかった。
目的地に着いたようで、その白制服の生徒がどうぞ、と扉を開ける。ハナコは車から降りて周りを見渡した。
そこはいつもセイアとお茶会を開いていた庭園だった。何も言わないまでも、その意図はわかった。ハナコはそこへ向けて足を一歩踏み出した。
夕暮れの庭園、そのガゼボは傾いた陽の光によって、その長い影を伸ばしていた。
そこにはいつもと同じように、セイアの姿があった。
「セイアちゃん」
セイアは耳をピクリと動かして、ハナコへと視線を向ける。
「やぁハナコ。元気そうだね」
「こちらこそ。無事でよかった……それにお迎えまでしてくれて」
「構わないよ。けが人を歩かせるわけにはいかないからね」セイアはそう言ってティーカップを置いた。「あれから調子はどうかな?」
「眠れてますよ。もう、苦しくありませんから」
ハナコはそう言って、開いていた向かいの席へ座った。
ここはいつかと同じように二人の姿しかなかった。だがあの日と異なり、ピリピリとした空気はなく、ただゆっくりとした時間だけがそこに在った。
「……ごめんなさい」
それを前に謝罪の言葉を呟いたハナコを、セイアは何のことかわからないというように耳を揺らした。それでも言うべきだと思った。
「セイアちゃんに、私は……許されないことをしました。巻き込んで、心配を無駄にして」
あの日、引き金を引いたのは確かにハナコの意思だった。いろんな人を傷つけて、心配させて、でもその埋め合わせ方をハナコはわからなかった。
過去の自分を変えることは不可能で、それを受け入れることしかできない。できると勘違いした末路は破滅だと知った。だけどそれをどう伝えるべきだったのか、どう贖えばいいのか。言葉を一度捨てたハナコにはその術を理解することはできなかった。
言葉を、そして誰かを信じていたかったという後悔が、でも再びそれに触れることができるのだろうか。
「別に謝る必要はないよ」行き詰った言葉をセイアが継いだ。「困っていれば助ける、それだけの事だ。私だって何度も皆に助けられた。それをハナコにも渡しただけ……かつて誰かを救えず、閉じこもってしまったのも君と同じだったから」
「……でも、私は」
「与えられないなんて思う必要もないよ。綺麗であることも、何かを与えたいというのも、全て誰かとの関りの中で生まれるものだ。無理に渡そうとして何もないもので自分を埋めようとしても、その誰かは悲しむだけだよ」
心配ばかりかけていた。友達の事も忘れ、自分のことも見失い、崩れ落ちた世界でハナコは一人でいるしかなかったと思っていた。だけど。
「いいんですか?」
「これからまたやり直せばいいし、また受け取ればいい。君は浦和ハナコというただ一つの存在だ。それは君自身で埋めていくしかない。だとしても君はそれを選び取れるだろう?」
そういってセイアは笑った。
セイアもきっと暗い底を見てきたのだろう。夜を歩き、その嵐の中で血を流したのだろう。その意味をハナコはいまだによくわからないけど、きっと何もないという虚無よりは、遥かにマシなのだろう。
「そんな事、私に……できるのでしょうか」
嵐を抜けたのかもよくわからない。だけどここで語り続けることは、ハナコにとって唯一できることだというのは理解できた。
「大丈夫だ。もう君は
しかし、それをセイアは肯定する。
「君は象徴的なそこで、何かを壊し、苦しみ、苛まれた。そして川という場所に飛び込んだ。そこは旅の果てといってもいい。そこで君は一度
それでも再び君はここに来た。苦しい絶望の中を、拒絶して一度そこから降りようとした舞台へ。それは誰からも強制されていない、君自身の
「私の、掴んだもの」
「意思を貫けることは、君がこの世界で再び生きると受け入れたからできるんだ」
舟はなくとも、私たちはこうして分かり合えることは希望でもなく、既に持っていた可能性だった。それを再び抱けた私は、きっと今までの私とは似て非なるものなのかもしれない。
――その象徴的な砂嵐の意味を
何時ぞやかの問いかけが思い出された。衒学的で確信を持った言葉がハナコの思考を上滑りするように流れる。だけど意味は分からなくとも、その想いは何となく理解できた。
象徴的なその海の凪をイメージした。水が湛えられ、広大なその場所では島へ行くのに舟などいらなかった。天色の空が次第に暮色蒼然となっていく。だけどそれは今までのそれとは異なるものだというのははっきりと感覚できた。
「嵐が過ぎ去れば、そこには大きな青空が広がる。荒野は水に洗い流されて、そこには再び荒涼な大地が広がる。だけど洗い流された場所でも、また新たな命が芽生えるものだ。現実にはそうならないかもしれないけど、でもハナコはそれを選んだ」
セイアは空へ視線を向けた。ハナコも同じように空を見上げた。
そこには青から再び茜色へと染まる空が視界一杯に広がっていた。
「終わったんでしょうか」
そう呟いてハナコはセイアを見つめた。視線に気づいて見つめなおすその目は、君の答えはどうなんだい、と問いかけているようだった。
砂嵐の意味も、手紙を届けることもよくわからなかった。その意味も受け取り損ねたまま、でもなんとなくで来てしまった。だけどハナコは再び戻ってきた。自らの意思で再び舟を送り出し、ここに帰ってきた。
ふと、ハナコは立ち上がった。
ガゼボから踏み出して、その芝生の上で空を見上げた。
―――だけどもう、怖くない
夜の気配が近づいてもなお、自分の中にあった恐怖は、もうそこにはないのだけは確かに感じ取れた。
空は晴れ渡り、陽が沈む。その空はハナコの上を広く埋め尽くしていた。そして街が影を伸ばし、夜の帳が降りてくる。きっとこれから夜の闇が世界を覆うのだろう。
それをただ綺麗だと思った。星空も陽の光も象徴でもなく、現実としてそこに在った。何万年も前から変わらない、この地の道理として。
「ううん、違う」
―――意味なんてない
「私がそれを決める。私の、意思で」
―――それが、生きることだから
そうしてハナコは、本当の意味で手を掴んだ。
セイアはその様子を見て隣に立ち、そしてハナコの手を取った。
「さぁ、時間も時間だし、そろそろ行こうか」
「えっと、何処へ?」
いつの間にか隣に立っていたセイアの言葉に、ハナコは思わず問いかけた。
「みんなの元へだよ」セイアはハナコの手を引きながら言う。「ここはもうじき暗くなる。それに皆を待たせ続けるのも悪いだろう」
「……ふふ、確かにそうですね。また怒られちゃいます」
二人は庭園から、そうして人のいる街へ一歩踏み出した。
誰かと問い掛けなければわからないほどの暗い街。歩き続けるには休むことが必要で、誰かの助けが必要なものだ。
だから、ハナコは再び街へ帰る。
一度拒絶したその世界へ。
その街で、再び歩くために。
****
その道中を、セイアは片時も手を離さないで歩いていた。「こうでもしなければ、また道に迷うかもしれないだろう?」そう言いながらも、とても楽しそうに鼻歌を歌いながら歩く姿は何処か微笑ましい。
トリニティの無駄に豪華なつくりの校舎は、数か月前と同じようにそこに在った。
中心部から少し離れたその校舎は、ハナコがかつて補習授業部として使っていた校舎だ。古い建物ではあるが、それは丁寧に維持されて綺麗な外観を保ち、そのプールには水が湛えられていた。
建物の中に足を踏み入れる。薄暗い廊下を二人で歩いた。
そうしてたどり着いた、見慣れた教室の扉を前に、だがハナコは立ち止まった。
「……みんな」
私がその部屋に入らないのは、ひとえにそれを一度捨てたものだったからだ。そこに居ることは出来ない、そこに入ることは出来ない、そんな幻想を重ねていたから。
「大丈夫」
セイアはその様子を静かに、だが手を握り締めて見守っていた。
「えぇ、そうですね」
だが、そんな幻想は今日でおしまいだ。そう決めたんだ。
ハナコは扉に手を掛けて、それを開く。
そして光が溢れて―――
「ハナコちゃん! 退院おめでとう!」
溢れんばかりの音と、そして精一杯にみんながハナコを包み込んだ。
「ハナコ、今までどこに行ってたのよ!」
「良く帰ってきてくれた、みんな心配していたんだ」
ヒフミに、コハル、アズサだけでなく、そこには先生やイチカ、さらにナギサの姿もあった。
「皆さん、ほんとうに―――」
開口一番、皆に迷惑をかけたことを謝ろうとした手前、それを遮るかのように手を引かれる。
その教室はまるでパーティー会場の如く飾り付けられ、真ん中に集められて作られたテーブルには色とりどりのケーキがおかれていた。
「ハナコ! 心配かけて、私はッ……ずっと心配だったんだがら!」コハルは涙をこらえながらハナコを罵倒した。
「ハナコ」アズサはその冷たい目をハナコに向ける。視線の鋭さはなりを潜め、その瞳は涙を湛えていた「次は私が一緒に歩く。絶対だ」
「ハナコちゃん」
ヒフミがハナコの前に立った。それ以上何も言わずにハナコを抱きしめた。弱弱しく、まるで壊れ物を扱うかのように。
「……ハナコ、ちゃん」その声は涙交じりの嗚咽と共に紡がれる。何かを言いたげな、でも嗚咽をこらえようとしているそれが、ハナコがどれほど心配されていたのかを物語っていた。
「大丈夫です、もう勝手に行きません」
ヒフミは泣いていた。その涙はヒフミ自身の為に流されたものではない。ハナコが生きている事、ここに居ることに涙を流しているのは直ぐにわかった。
自分の流した自分の為の涙とは大違いで、それでも綺麗だと思えた。
だから、ヒフミをそっと抱きしめた。それが多分、彼女を受け入れることだったから。
ヒフミはそれを、何も言わないでさらに強く抱きしめ返した。
「ハナコさん」イチカはその薄い目を少しだけ開きながらハナコを見つめる。
「イチカさん、それに……ナギサ様も」
ナギサはハナコの目をまっすぐに見ていた。
「もう、眠れますか」
「……はい」
ハナコはナギサとイチカに向き合う。今度は容疑者としてではなく、唯一人の生徒として。
胸をはって、唯一人の浦和ハナコとして。
「私に夢は、必要なくなったものですから」
「ハナコは一人じゃないからね」先生はそう言って隣に立つ。「もう川に飛び込むのは勘弁してほしいけど」
「……セイア様まで飛び込んだのは本当に心臓に悪いっす」
「……あの、セイアさん?」ナギサが青筋を立てながらセイアを睨む。
「あぁ、なかなかの筋の通し方だろう?」だが本人はどこ吹く風のように言い退ける。横でナギサが溜息をついた。
そしてナギサはハナコへ再び視線を向ける。
「ハナコさん、ご退院されてよかったです。私は貴方の事を少し、勘違いしていたかもしれません」そういってナギサは微笑んだ。
「でも、ハナコがいなくなった時、ナギサ様もいっぱい動いてくれましたから。おかげでみんなこうしてここに居るっす」
「そうだ、ナギサはよくやってるよ」
「セイアさんは少し自重してください……でも、二人が無事で、よかった」
「それは私のセリフだろう」
「セイアさん?」
「まぁまぁ、セイア様もハナコちゃんも、どっちも無事だったんだからいいじゃないですか」
イチカはパタパタと羽を動かした。その様子にハナコもつられて笑った。
「そうだ。それにこれはハナコの快方祝いだ。今回は特別にティーパーティー御用達の店からスイーツも取り寄せた。みんな存分に食べてくれ」
セイアがそう言うと、やったと皆の声が響いた。
サプライズ、というものだろうか。ハナコは自然に、涙が流れるのを感覚した。
それは自分の為に流されたものではなく、ただ悦びと、嬉しさが混ざり合ったものだった。
「あ、待ってください、まだ大事なことを忘れていました!」
だがそれをヒフミが静止する。皆が一瞬止まった後、あぁ、そういえばと思い出す。
「あぁ、そうだね。まだ言っていなかったね」
「もう……みんないきなり抱き着いちゃうから!」
「コハルも抱き着きに行ってたっすよね?」
「ちょ、イチカ先輩!」
みんな口々に言いあいながら並び始める。
「あの、皆さん……?」
「ハナコはそこに立ってて」
そうして皆がそこに並んで―――
「ハナコちゃん、これは私たちからのプレゼント」
ここでは皆が笑っていた。それはハナコがこの世界に見つけた居場所だった。
せーの、とヒフミが合図する。そして皆が声を揃えて。
『おかえり!』
ハナコはその言葉に、涙が溢れた。
それは旅立ったものの帰還を受け入れるための言葉であり、そして自分がここに居たことを証明するものだった。
捨てたと思っていた。そこにはいられないと思っていた。だけど、そうじゃなかった。
一度見失った物を、二度と見失わないように。でも世界はそう簡単にはうまくいくわけじゃない。
見失うことだってある。落として取り戻せない物もあろう。それでも手を伸ばしてその手を掴むことができるということはきっとありふれた事だ。疲れたら休めばいい。見失ったら誰かを頼ればいい。
―――生きたい
その渇望を前に、だけどこの世界は嵐に包まれている。
キヴォトスでは誰もが戦い、先の見えない嵐を歩くことになる。避けられない嵐を前にいくつもの挫折や絶望が生まれ続ける。
そうして残った残滓が棘となり、痛みや疲れに染まり切った言葉は空虚に満ちていく。
透き通ったその空の下で、その言葉を引き裂くように銃声が鳴り響くだろう。
綺麗になれないとしても、そこで生きるしかないのだという事実が足枷のように皆を縛り付けるだろう。
―――それでも、私は歩き続ける
それでも歩き続けるしかない。たとえ血を流しても、濁流にのまれても。切り裂かれる体も、無意味だと感じても。
何もないという絶望を前に、でも歩くことだけは自分のもので確かなことだ。それに価値があるかは関係がない。その意思を前に、どれだけ貫き、歩き続けられるのだろうか。
―――それが生きることだから
そんな世界で、それでも
一度自分が死んだ場所で。生まれ変わった自分自身と共に。
涙を流しながら、だが自然とハナコは笑っていた。ただ、笑っていた。
また明日を歩くために。この街で生きるために。だけど物語は帰ることで終わるものだから。
言うべきことはただ一つ。
涙をぬぐって、浦和ハナコはその言葉を口にした。
「―――ただいま」
『綺麗になれない私だから』おしまい