1
かつて、世界は滅亡の危機に瀕した。
世界最古の竜■■■■■■・■■■■■■・■■■■■は、己を構築する魔力を世界に還元することによって、世界の存続を願った。対価は一寸の狂いも誤りもなく、世界に支払われた。指先も、髪も、鱗も、―――魂すらをも捧げて炉にくべたはずなのである。
完全に意識は解けて消えてなくなり、自己の再生も転生も出来ず、かつてないほどの最高密度を誇るエネルギー体となって世界の延命させるための血脈となるはずなのだ。
だからこそ、今の状況は。
意識があってしまう、という事実は、彼にとっては<ありえないこと>であった。
深く沈むばかりだったはずの意識を救い上げたのは、彼にとって未知の存在―――人間の子どもらに居る” 人の親 ”と云う存在であったことも加味して、ありえないことであったのだ。
そのことにも驚かされたのだけれども、そもそも自分の消滅と引き換えに世界の存続を誓約したと云う斯様な経緯をもってして人生に幕を閉じた最期の記憶のある彼は、自己認識が出来ることや記憶の保持、つまるところ<自分に意識がある>ことに驚愕したのである。意識がある。かつての竜だった記憶もある。自我もある。思考が出来る。
妙なオプションとばかりに<地球>なるところで高校生の身空を過ごした日々も記憶として重ねられており、その最期の記憶もしっかりあった。犬に食われて死亡とは…? あの世界線を鑑みても夢に見た平和な理想郷であるはずの<地球>で、あのような非業の最期を迎えたことには一種の業を感じる。
しかも、その犬を嗾けてきた相手の顔が前世のそのまた前世で友人であった<勇者>の面立ちを匂わせるから余計に。―――もしや本当に裏切りを受けたのでは、と認識が拭えぬ。その記憶は、今もなお、痛みとなって彼の心を締め付けるのだ。
不意に、視界がぶれた。
すぐさま姿勢を立て直したようだが、転んでしまったようだった。肉体も霊体もないくせに、意識ばかりは鮮明にあるものだから映像ばかりがよく視える。転んでしまった彼女に、怪我はないだろうか。そもそも彼にはもう<目>がないので、視界を認識できるはずもないから何も見えないはずのだが、前々回の人生における<竜の巫女>のような力を生まれ持ったのだろう。
どうにも彼女の認識領域を共有しているようだった。あっちやこっちやと視線を向けるたびに、彼は土地勘を知識として吸収する。泥濘に足を取られて、そのまま廃墟の中へと転がり込んでゆく彼女に方向を指し示す声ばかりをかけ続け、彼女はしかとそちらに進む。
「―――ッこっちなのね、こっちね、わかったわ。」
大きな水桶をひっくり返したかのように曇天から注ぐ雨は、彼の意識を胎に抱える” 母 ”なる存在の肉体から無慈悲に体力を削り落としてゆく。
雨風ですっかり冷えた体温だからなのか、全力で駆け抜けたあとの余韻ゆえか、胸に不快感があるのだろう。断続的な呼吸音から嘔吐感があるようだと察することは出来ても、助けてやりたくても彼には動ける肉体がなかったから手出しは出来なかった。
弾んだ肩で息をするたび荒ぐ呼吸。すっかり痩せこけ青ざめた風貌からは見て取れぬが、一本の剣を携えたかのような凛々しき瞳が上品な女性であることが分かる。かつての旅でも遭遇したことのある、” 上品なお嬢さんに恋焦がれた悪漢 ”に追われている状況なのだろうか。しかし、そうだとしても女性を、それも身重の女性をここまで追い詰めるのはどうかと思う。
手足があれば成敗してくれたところであったが、重ねて言うけれど彼には自分で動かせる肉体がなかった。彼の意識だけが、何故だか女性の胎にある。原理は分からぬまま、ただ目の前の景色が流れゆくままに見るしか出来ない。
「大丈夫、大丈夫よ。……お母さまがあなたのことを、守るから。」
彼女は胎をときおり撫でつけ、恐怖心と焦燥感をにじませながらも出来る限り穏やかな声で彼に向かって話しかけてくる。
雨なのか汗なのか分からぬほどにぐっしょりと濡れ鼠の様子では、母体に悪影響を及ぼす。そうなれば彼女が懸命に守り抜こうとしている胎児にも。ぞわりとした。何たることか。<勇者>は、<魔術王>は、<竜の巫女>はオレが居なくなった後に一体何を―――何をしてみせたのだ。世の有り様に憤る気持ちが彼の意識をさらに呼び覚ます。
確かめなければならぬ。平和な世になることを願って、世界の存続を祈って、消滅を覚悟して身をくべたのに、未だに悪辣な気配が蔓延ったままなのか!
「だ、大丈夫よ……ううっ、ぅッ…!」
いけない。このままでは人の子が死んでしまう。誰か、オレの代わりに、この気丈な乙女に祝福をかけてやってはくれぬか。オレにはもう血肉が非ず。鱗も非ず。何一つとしてして人の子にしてやれることなぞなくなってしまったのだ。
此処に人の子が、寒さで凍えている。精霊たちよ、愛しき自然の愛しき子らよ。封じられた魔族も我が還元してみせよう。何者でも声に応えておくれ。誰か気にかけてやってはくれぬか。
「キィィ……キィ……」
「くるるるるぅ…?」
応えた声があった。
その直後、ずん、とないはずの身体が重たくなるのを感じた。地球で得た表現を使うなら、電池の切れたおもちゃのようにカクリと意識が落ちかける。あまりにも唐突のことだったけれども竜の身だった頃には幾度か経験したことだ。
かろうじて演算領域の一部を停止させて完全に無くなるのを防ぎはしたが、おそらく長くは持たないだろう。慌てふためく応える声と、乙女の慟哭が廃墟の壁にぶつかって反響する。
「ッああ、駄目、駄目よ。駄目ですッどうか、どうかお待ちになって。…大丈夫、大丈夫なのよ。あなたのお母さまは元気ですから。」
擦られながら語りかける声に同調するようにして、彼も胎の子に声を掛けようとして。ふわりと意識がほどけて、ゆったりと横たえる。
不意に、どうしようもなく眠たくなって、ただ揺り篭のような振動に身を委ねることしか出来なくなってしまった。一体どうしたと云うのだろう。昔はこんなことにはならなかったのに、痛みを与えて目を覚まさせる荒療治を試したこともあるからだろうけれど。
―――そんなわけで。
誕生した際に、彼は記憶がずるりと抜け落ちたのだろう。
次に目を覚ました頃にはすっかりと自分の声で魔獣たちを呼び招き、<己の母>を守ってくれと願ったことなど忘れてしまっていたのだ。人懐こい彼らはそれをニコニコと許してくれたし、彼の<両親>が野生の魔獣たちに謝意を込めて接したおかげで何事もなく終わったが。
幼少のみぎりよりずっと側に仕え続けた魔獣だけは、彼女の身に御子の魂が宿ったその瞬間から全てを見聞きして、知っている。
胎児のあの子は我々魔獣が次こそはお守りするべき最も尊きお方であることも、魔獣が愛する彼女から誕生したあの子が<母>なる存在のために魔獣たちに無意識に呼びかけてお力を使われたことも、魂の断片を集めきれずに疲弊して、その意識をゆっくりと横たわらせたことも。
サーナイトだけは、全てを感知した上で口を閉ざした。
愛する彼女に御子がお抱えする秘密を告げることは容易かったけれど、魂の奥底に焼き付く魂がもう二度とあの方を失ってはならぬと、ただならぬ気迫で本能が訴えるから。
そして何より、どんな存在であっても彼女は御子を愛するのだと共感性で認識したから。どうか嘆きの物語とはなりませんように。輝ける希望と温かな幸せだけが、そこにありますように。彼女の抱える善性を、幼少のみぎりよりお仕えするサーナイトだけは信じることにしたのだ。