視界の果てまで暗雲としているのに、ひどい眩暈がした。肌に感じる熱は温かい方だけれど、今日の空模様は曇りなのだろうか。
目蓋を震わせてゆっくり目を開ける。くらりとした。洗濯機のドラムだってまだマシな回転をするだろうと思うほどゴウンゴウンと神経を揺らして、彼の肉体は彼から平衡感覚を失わせる。そうして、ぼんやりと寝過ごしたな、と思う余裕が浮かぶ。ビー、と舞台の幕開けを知らせるブザーのような耳鳴りが何処か遠くで響く中、焼けつくような熱を持った息を吐き出した。
彼女は無事か。此処は、何処だ。確かめたときは軽傷だったはずだが、と思いながらもぐわんと揺れた視界に目蓋が勝手に落ちる。おもい。あつい。
瞼をもっとゆっくり開くべきであった。何故こんなにも重く暑苦しいのかと周辺を確かめようとしたばかりに、窓から差し込む日差しを受けて視界が白む。身体の横に手をつきながら身を起こしてしまったのは、目が覚めたと同時に起きるというグライスの肉体が記憶する習慣だった。普通の病人のように床の間でまどろみを甘受するようには育てられてはおらず、意識が戻ったのならさっさと動けと一瞥された眼を思い出して目をかっぴらく。
「……、ふ」
部屋に誰ぞが居たなれば、病人やら怪我人やらと言葉が飛び交って寝ろ寝ろと寝かしつけただろう重病人の身で彼はしっちゃかめっちゃかな思考をとっ捕まえて記憶をたどる。
ただ起きた時間から責務を全うするだけの機構であったことは、彼の否定できぬ過去だった。ううん、そこまで遡るなと叱咤して、最新の記憶を掘り起こす。力を開放したのであれば、多少の怪我とてすぐに治るだろうに未だなぜ床に臥せているのかとんと理解できなかったのだ。
はて、どうして眠っていたのだろうかと首を傾げる。白みの帯びた浴衣のような衣服。身体の横についたままの手を動かせば感じる肌触りの良いベッド。がばりと前を開けば、ぐるぐるに巻かれて固定された上半身と、そこから訴える鈍き痛み。熱を持った呼吸は、肺の空気を入れ替えるように何度か深呼吸をするうちに平温を保つようになった。――――当然だ、
はるか昔のロータで普及したと聞く
すなわち、彼が覚醒させた力の一部とは、波動のことであり、イコール生命エネルギーのことである。生命エネルギーとは文字通り、ありとあらゆる生命に宿る力の源。自在に操ることが出来れば自然治癒能力の活性化に結び付き、医者の診断よりも回復が早まるのは当然のことだった。
無論、他のことにも活用できるが、ひとまずグライスが無意識下に実行したのはその一点だろう。生命エネルギーが満遍なく通ったのであれば損傷した部分を補い始めるようになったはず。
「それでも完治とはいかなかったか……。」
波導は謂わば、世に流れる生命エネルギーの流動。それらを手足のように操る者を、今の世では波導使いと呼ぶようだった。
身を護る術、相手を攻撃する術、痛みをやわらげる術、気持ちを穏やかにする術、眠らせたり麻痺させたりする術、周囲の索敵をする術、植物や動物の成長を手助けする術。魔法のようであり、その一切は個人の抱える生命エネルギー量に左右する。肉体の成長とともに緩やかな覚醒を促すつもりであったものだが、八つの頃に覚醒させてしまうこととなろうとは思わなかった。
垂れ流しにしてしまえば寿命が尽きるのが早まるのでしばらくはポケモントレーナーのイロハを学ぶでなく、波導のコントロールを身につけるべきだろう。
波動を使う者は命短し冒険譚を歩む。力のあるものの責務と勝手に重荷を背負って、不要と分かりつつもわざわざ抱え込んで往く毛色がある。例にもれなく、グライスもその気配が濃厚なタイプだ。愛する存在の為ならば、自分を使い潰すことになんの忌避感もなければ否定感もない。
率先として受け入れて、ただ静かに己の終わりを見据えてここぞとばかりに自己を爆発させるだろう。――――自分を生贄に世界存続の大博打を成し遂げた実績がある故に、ある意味ではタガが外れた状態だった。誰か早々に制御してやれと、かつての友が居れば発狂していたことだろう。残念ながら誰もいないので、彼のタガは外れっぱなしである。
「……ふ、ーっ……」
背中をベッドに沈めて息を吐く。弾力のある布がグライスの身体をしかと抱き留めてくれる。サーナイトやエルレイドも逝ってしまったし、護身術として修めるのも悪くなかろう。
意識して魂を静める。波動の鍛錬であらば、直接精神を鍛えた方が早いと判断したからだ。しかし、この鍛錬方法の難点は、肉体から意識を切り離してしまうのでほとんど植物人間のように見えてしまうと言うところである。彼は自分がただの人の子である事実を忘れて、彼を案じる声があることも理解できぬままに潜る準備を整えた。
生命活動を行うのに必要最低限の生命力と呼吸や筋肉が固まってしまわぬよう肉体痙攣などの症状を残し、すう、と息を吸って、意識を深く落とし込む。さて、修行をするか。
全治6ヶ月の負傷はグライス・エトワール当人からしてみると精神鍛錬のよい口実になると自己完結も平然としたものであったが、そのようなことなど知っても知らぬでもグライスの
さて、どうして大事件に繋がるのかと言うと、彼らの住居コミュニティが関係する。グライス・エトワールらが居を構えるマサラタウンは、カントー地方の中でも言ってしまえばとても長閑な田舎の村だ。
若者たちはすぐにポケモントレーナーとして旅立ち、それぞれの楽園で職につきマサラタウンには数年に一度は帰省するだろうかと疑問符を打つ程度。外で過ごすことの快適さを覚え、そのまま帰郷せぬ若者も居る。故に、マサラタウンでは若者――――子どもたちを寄ってたかって可愛がる傾向にあった。隣人と隣人の数が少なく、コミュニケーションが発達した村とも言えるだろう。
そんな小さなコミュニティの中で、今現在ポケモントレーナー未満の少年少女は「マサラタウンカルテット」の四名だけ。ともなれば、もう分かろう。
愛の国より齢三つの頃に越して来た日から成長を見守る田舎のじいじばあばからしてみりゃ、グライス・エトワールなる存在は幼少のみぎりから口達者な方であったが、愛嬌のあるカワユイ孫息子のような存在である。孫のように可愛がるお嬢ちゃんや坊やが大怪我を負わされたとあっちゃァ黙ってられんのが、孫バカ爺婆であった。
「ウチの孫が!?」
「階段から突き落とされて!?」
「ぎゃひぃ」
「おおブルーちゃんを庇ったか!よくやったぞ、孫!」
「お菓子をあげようね!」
「なんちゅう漢じゃあ!うおおん!」
「でも怪我をさせられたんですって!」
「事故じゃなくて故意に落とされたそうじゃ!」
「なんじゃって!!!?」
「ひどいんじゃあ!うおおおおんおん!」
「意識不明の重体だそうじゃぞ!」
「なんじゃと!?」
「あんまりじゃあ!!うおおおおい!」
「わしらのガーディちゃんが痛みで魘されておるのか!?」
「かわいそうに……!うぼおおおおいおいおい…!」
そりゃあもう大慟哭であったそうな……。
「怪我人の部屋で何を騒いでおるかァ――――ッ!」
「うおっ、ユキナリが怒ったぞ!退散じゃ退散!」
「全員撤退せよー! おこったユキナリ、オコナリじゃぞー!」
「オオ、くわばらくわばら!」
彼の療養地がオーキド博士の研究所となった経緯は、ひとえにオーキド・ユキナリの尽力あってこそだった。寝たきり少年は目を覚ます可能性が高く、けれども具体的な感覚は不明だと言う。
一人暮らしの少年は、病院から帰宅しても看病してくれる者がいない。何処でも一人と言うは意識がなくとも心細く感じるはずだと案じたユキナリは熟考し、孫娘や孫息子たちの意見を取り入れながら物置を掃除したのだ。先のジジババも一緒であった考慮すると、現場はかなりわりと愉快めで落ち込む瞬間などなかったことだろう。
最初の方は、可哀想なほどに肩をしょんもりとさせて、顔をしおしおさせて、小動物のように小さく震えていた。なんでこんなときに掃除なんか、と口についてしまうあたり、まだまだひよっこで微笑ましいとすら思ったほど。
『おじいさま、掃除なんてしはじめてどうしたんですか……?』
『うむ、ちとな。』
『お爺ちゃん、あの子のことで落ち着かないのは分かるけど……。……もう、……そうね、私たちも手伝いましょうか、グリーン。』
『……うん。』
扉から見て北壁と西壁に二つずつ、計四つある窓をあけて空気を換気する。埃っぽさもしばらくすればなくなるだろう。綺麗さっぱりになったそこに、たっぷり日光浴した絨毯を敷き詰めて家具を運び込むと――――そこまですると、分かったようだ。
『お、ッお爺様!もしかして!』
『お爺ちゃん!』
すっかりしょんぼり落ち込んだ様子のグリーンだったが、ぱあっと輝きに満ち満ちた新緑の瞳を祖父に向け。これまた似たような瞳のナナミも堪え切れずと言ったふうに祖父の顔色を見つめて。期待が宿る。
『うむ、そのつもりじゃ。』
ぱああっと照りつく笑みが眩しすぎる。秋風を迎え入れたばかりのマサラタウンに、寝たきりのままであるものの彼の話題は温かな春の陽光を運んだ。
『け、ケンタロス! ケンタロスー!仕事だ、運ぶの手伝ってくれ!』
『ブモォー!』
その声で、ジジババが連れてしまったのは誤算であるが。聡明なオーキド・ユキナリの孫たちは諸手をあげて次々に内装を整えに行った。
まずは彼を寝かせるところからである。一人きりだけのあの家より、ずっとうんと素敵にしようねと気合を入れる姉弟の微笑ましさと言ったら……。うちの孫がカワイイと後方祖父面をされてしまったけれど、理解は出来る。ワシの孫じゃ。そう、ワシの孫じゃからな。オーキド・ユキナリはしみじみ言って、翁フレンズに囲まれた。
ベッドは
そのままでも充分柔らかな雲に包まれるかのような柔さだが、体温調節をしやすいようにイトマルのきめ細かな糸で編まれたシーツをササっと敷く。マサラタウンの山にそびえ立つ彼の家にあるようなものと比べると安物だが、安価でもそれなりの品質のものを直々に選び抜いて来たのだから大丈夫なはず。
背中から階段をゴロゴロ転がって落ちたのであればそこかしこの傷もなるべく刺激せぬよう出来るだけ表面が滑らかな品を選んだのだ。緊張から唾を飲み込みながらユキナリチェックを乗り越えて、これで彼が寝転ぶだけであれば問題なくなった。
『グリーン、忘れものよ。ほら。』
『ありがとう姉ちゃん。』
さっと渡されたシーツと同じイトマル印の枕とクッションを並べる。人体はまっすぐ一本線なのではなく、何処かしこに曲線があるものだと聞く。彼の負担を軽減するようマットと肉体の隙間を埋めるような配置に、ユキナリもジョーイもにっこりした。
ポケモンたちの治療をフォーカスにあてて勉学するうちに、人間の医学も多少なりとも修めたユキナリは点滴もお手の物。加えて、オーキド・ユキナリはその身体一つでも身分証明として成り立つ男でもある。物置部屋の大開拓を完了させ、ジョーイの監査を突破したオーキド家には恐れるものなど何もなかった。
そこで、オーキド・ユキナリは正式に病院へ保護を申し出た。兼ねてより相談していたグライスの身柄を、預かることにしたのである。
病院側は太鼓判を押して、グライスの身体の状況と必要な看護を支援し、てきぱきと必要な設備を運び込んだ。オーキド・ユキナリ自宅兼研究所の一角に、グライス用の部屋をこさえて看病を始めると、何処からか聞きつけた老齢の友人たちがコゾってやって来た。
最初はぴくりとも動かぬグライスの顔を戦々恐々と覗くだけであったが、不安定だった呼吸がなだらかに安定し始めると天岩戸でお隠れする太陽の御前のようにワァワァ部屋で騒ぎ始めるものだから静寂を保ちたいユキナリからしてみればたまったもんじゃない。休ませてやらんかと意味で叱りつければ、同年の翁も婆も在りし日の頃のようにギャアギャアどんちゃん騒ぐ。
時には孫娘であるナナミや恥ずかしがるグリーンも混ざることもあったので、溜息をつきながらコメカミを揉み込む日もしばしば増えてしまった。酒盛りに人ン家の孫を巻き込むな。
まあ。こうして一人暮らしの少年のみを案じたオーキド・ユキナリによって、意識不明のグライス・エトワールの肉体は、保護を受けたと言うわけである。
※処刑人(ねずみ)
命や身体的な
規則として、処刑人になったら、処刑人になる前までの自分を捨てねばならない。呼び名に困ったら「ねずみイチ」「ねずみニ」「ねずみサン」とねずみの後に番号を振っただけの呼び方をするのだとか。ポケモンリーグ協会で処刑人たちの組織名は「ねずみ衆」として登録されており、所属ポケモンの分類は分かりやすく「齧歯類」限定である。