ガゼボに背を預けながら、グライスは駆け寄って来た担任教師の姿に目を丸くした。小奇麗な装いに反して目の下にべったりと隈をこさえて速足に寄って来るのは、グライスたちのクラスを受け持つこととなった新人教師だ。
自己紹介を受けたこともなければ、した覚えもなかった。見知らぬ存在と感じるのは、グライスが寝たきりだった此の半年の間に就任した入れ替えメンバーであるからだろう。
「――――……ぉい……、おおい!」
とも、……思ったのだが、転落に応じて受けたダメージで実は彼の記憶は数日間ほど曖昧なのだと医師は言ったので、顔合わせ自体はしていたのかもしれない。
けれど、その期間中以外の記憶は随分とハッキリしたもので、薄ぼんやりと理解のできる空白の記憶については、教師の方もグライスが無事ならばそれでいいと言ってくれたことで話は流れてしまう。被害に遭ったばかりの子どもが大人を気遣わなくっていい、と。はぐらかしつつもやんわりと肯定するような眼差しで心を配ってくる男に、関係性はなんとなしに理解した。つまり、記憶が曖昧になった期間中に出会った教師なのだろうと。
熟練の教職員曰く、旅立ちの日から十数年ほどの半生を共にした相棒・オーダイルを連れる若手ヤンキーのような風貌だが、生徒の一人一人に寄り添う信条を持つ男なのだとか。
「……初めまして、
「あ、ああ、はじめまして。改めて自己紹介するが
どのような人物なのかちょっと気になって初手の挨拶で名前を覚えるつもりはありませんと先制攻撃を仕掛けたものの、ただのあだ名として受け止める器量はなかなかに広い。転落後の対応をしてくれたのが、目の前の人間だと知った後は警戒したことは後悔しないにしろ先制攻撃を仕掛けたことには何かしら考えることになるが。
警戒するのも面倒なほどに真っ直ぐな人間であることは、説明のやり取りでも理解できることだったので素直にあだ名として呼ぶことにした。
今から新設制度にかかわる詳細の説明にあがっても? と首肯し、続けて保護者はどちらにと質問を受けるので、保護者代理人としてオーキド・ユキナリを紹介することになった。
ところで、グライスには三つの世界の記憶がある。一つ目は今現在を生きる此処、ポケモンたちと共存する
中でも人の数だけ―――人の数以上に、末広がりにまだまだ続く異なる世界の冒険譚には、よくよく胸を躍らせたものだ。特に召喚獣系のゲームにはドはまりして。―――閑話休題。
そんな平和な世界で少年時代を謳歌した二度目の人生で、グライスが最も愛した世界は「ポケモン」というゲームだった。ポケモンとは、非常に種類が多く、それぞれが個性的な特徴を持ち、世界や相互との関係がある生き物である。
それはかつての世界でいう、召喚術に通ずるものがあり、記憶の中では深く身体に馴染んだ職でもあったからか、出会ってすぐさま虜になった。
だからこそ、誕生してすぐポケモンと邂逅できたのはグライスにとって歓喜すべき事柄である。しかし、意識もハッキリとせぬままの自分ではあったが、過去の経験を魂魄に刻んだ此の身は周囲の気配には人一倍敏感であった。世に誕生してすぐ喜べない状況を肌身で感じ、不安が伸し掛かってきたのである。
赤子の身はとても非力で、激しく無力で、ただただ何も出来なくて。あまりのやるせなさに震えながら遠ざかる気配にひとつ赤ん坊としての仕事をしてやるぜと意気込んだ瞬間に、何の冗談か最初の一声が零れたのだ。
一般的に赤ん坊の泣き声と言えば、可愛らしかったり、あまりの声量で憎たらしかったりするのだろう。しかし、常識を覆すようにグライスは現状を把握した途端に零れた泣き声は「おぎゃあ」でも「びええん」でも「ふええ」でもなく不可思議な鳴き声であった。自分でも思ったんすよ、流石にねーな、って。
それではどうぞ遠慮なくお聞きください。そしてどうか笑ってください。バックナンバーイチ。こちらが今生におけるグライス・エトワールの第一声――――そして、此度においてはただの口癖である。新設制度の好すぎる待遇改善を前にして、衝撃を受けて打って出た言葉でもあった。
「
たった三文字であると言うのに流暢に喋りおる。とんだ珍妙な生き物だ。羞恥のあまり両手で顔を覆って昔っから口癖ってそれだったんすよねー、と呻く。妙なダメージを受けた気がする。
「ぴ?」
「コホン。それで?」
グライスを含む残り三名も同じ条件だった。ポケモントレーナーになる前に実践経験を積む機会に恵まれる、なんてことは物珍しいのでこう言った授業はたいへん有り難い。
卒業間近の九歳児世代は、近隣の図書館やポケモン研究所に勤める職員のもとで『ポケモントレーナー見習研修』を任意で受講等の申請が出来る、という話である。話を促すように奇妙な声を上げたグライスに動揺するオオダイラ教師を見やると、一瞬どもりながらも言葉を続けた。
「あ、ああ、厳密に言えば、九歳児世代であることと、ポケモントレーナー志望の就学合格ラインが卒業間近であることの条件二点をクリアした者が、だが。」
「なるほど。すでに研修の受け入れてくれる候補先は、幾つか決まってんすか?」
「それはもちろんだ。」
二月前に提唱し、教育委員会に納得させるまで企画書を叩きつけて承諾と実行計画の立案書をもぎ取って来たのだと言う。地域への根回しは、企画書を捏ねまわした時期に済ませており、ポケモンリーグ協会を中心とした教育委員会の名の下に集った有志の中から選出したものだ。
「トキワシティの最先端技術を取り入れたポケモントレーナーズスクールやニビシティの博物館、ハナダシティの町興し委員会、マサラタウンのポケモン研究所と多岐にわたって御協力いただけることになったんだ。――――だから、あとは研修の希望先を申告書に記入して所属のポケモントレーナーズスクールに提出してもらうこと必要性がある。」
ぺらりと持ち上げられたのは、件の希望申告書なのだろう。
一枚つづりの用紙を受け取って、内容を確かめた。説明を受けた通りの内容が、つらっと学校の配布文書らしく並んでいる。すぐ名前と生徒番号を書き連ね、希望先を一切迷わずポケモン研究所と、第二希望はニビシティの博物館とした。
「博士」
「うん?」
「最高の贈り物だ、ありがとう。」
普段は最年長のように振る舞うのに、時折ただの少年のような
隣町のトキワシティにまで御裾分けしに行くこととなったホールケーキタワーを筆頭としたやらかしっぷりも、しっかり新設制度の特別授業で挽回できただろうと、ユキナリも満足な結果としてパーティーを幕締めとした。
回復を祝う席で希望した研修と称される特別授業――――通称、特別課外授業とするものへの参加を記入したからと言って、第一希望、第二希望と両方から声がかかるとは思わなかった。
めったにないことなのですよ。せっかくですから。と校長が嬉しそうに笑って、続けて言う。許可は受け取ったのだから「どっちに行っても大丈夫ですよ。」と太鼓判を押してくれるので、さっそくニビシティにある博物館を見学することにした。
行ってくる。の一言で察したグリーンの嘆き様は、「オマエはオレの彼女なんか?」と言ってしまいたくなるほどに湿度が高かったものの、伝家の宝刀ナナミお姉さまのおかげで彼は第二希望の見学に赴くことが出来た。療養中であることも加味して、基本的には第一希望であるオーキド研究所で過ごさせてもらうことになるだろうからと状況を配慮してもらった上での見学である。実質、施設見学の遠足のようなものだった。
オーキド研究所には、マサラタウンに帰れば療養所として顔を見せるようにと口酸っぱく言われており、ストレス源を断つことに余念のないナナミのおかげで内装やら雰囲気の確認やらは何時でもさせてもらえるからという甘えの含んだ選択肢でもある。だから、見学が終わったら此処に帰って来るつもりだ。
普段から大人びた彼から、「自分たちに甘えてるから違うところに行く。」「見送りと出迎えをしてくれたら嬉しい。」「必ずオマエたちの側に帰って来る。」なぞと柳の枝のような声で真剣に伝えられたグリーンとブルーは、ひっくり返りそうになる足を叱咤した。お前はぜってェ一家の花も恥じらう愛妻家に育つよ、まだ一桁の年齢で
生まれたての小鹿のように震える膝を無視し、やけに声をひっくり返しながら「ま、まあ? おまえが帰ってくるのは? 俺様たちが居るところなのは? ととととっとと当然だし?」と虚勢を張れるのは、男の意地だった。
「あ、……っう……」
「わわわわわぁってっしィ……!?」
なかなか返事がなくて困惑したのは彼の方だ。怪我の治りは早くなったとは言えども、かなりの重症だったのだから途中で倒れたりせぬかという懸念は当然のことだろう。少しでも安心してもらえるように、真摯に、誠実に応答したのだが。……はて、と首を傾げた彼は行動に出る。
ナナミは「あっ」と言った。オーキドは「あっちゃあ、」と顔を覆う。レッドは経験則や直感から来る信頼を前面に振りかざすタイプの男児だったので
慈雨の瞳が、向けられて。手をやわく握られただけでもう駄目だった。女の子にされる。温もりが手から伝わり、雪原を閉じ込める瞳に宿る真摯に焼かれるようだ。「オレを見ろ。」やめてくださいお客様。やさしい吐息のような声が、案じるように耳から脳へと染み渡ってゆく。女の子にされちゃう。お待ちになって。お待ちになって。女の子になるう…っ。花も恥じらう乙女のような蕩けた瞳と赤らんだ頬を晒す二人は、とっくの昔に乙女であった。
二人はお互いを守り合うように肩を寄せていたので、その間に声を落とすだけで十分だろうとグライスも顔を寄せる。異国情緒の美貌がゆっくりと近づくだけでも心臓がドッカンバッタンドックンドッタン大太鼓を奏でると言うのに、彼に緊張感はなかった。
王子様然とした顔立ちの接近だぞ緊張しねぇってのか!? 理不尽にも、それはグライス自前の
そのまま囁くようなあまい声がそれぞれの片耳にそよぐ風のように落ち、よりにもよって夫が妻に出先を伝えるような甘くやさしいセリフを吐くものだから――――。
「ひ、ひゃい……♡」
「ひょあい……っ!ッッじゃねええーっ!」
グリーン、ブルー、無事に撃沈。
裏返って少女のような声色で返してしまったことを恥じ入り、グリーンは姉の背後にコッソリと隠れ潜んで「ぐわぁぁぁぁーっ」と悪意も悪気もない彼の行動に羞恥を昇らせて爆散させた。