何故、意識があるのだろう。
何故、自己があるのだろう。
対価は世界に正しく支払われ、グライスの竜体は紛れもなく糸をつなぎ合わせた衣類を解くように崩れ去った感覚があったというのに。――――なぜ、<自分>が残っている?
「……
爪先からゆっくりヤスリを掛けられて行くような感覚があった。流石に頸に差し掛かった時点で意識はゆっくりと沈んで逝ってしまったから、頭まで消えたかどうかの確認は出来ないが。
何処かしらの鱗が一枚、残ってしまったのだろうか。世界の存続に不具合が生じていなければいいが、グライス・エトワールの肉体はポケモンの技にも耐えられぬほど弱かった。まさしく「ただのヒトの子」なので、まかり違っても罠ばかりを張り巡らされた竜体が坐する神殿へと無事に行く手立てはなく、そもそもの話、かの神殿に立ち入る為の識別コードすら忘れてしまったので入室も叶わんだろう。――――ともすれば、もう確かめるすべはない。
怨念をまき散らすようなことはしていないとは思うが、最後に勇者の裏切りを目撃した瞬間のかなしみが漏れ出たとしても精々寒波が続く程度だろう。
「
もうこの年頃から考え事かしら。わたくしたちの子は将来天才になるかもしれませんわね。それはそれとして、今は朝食のお時間よ。難しいことは後にしましょうね。
などなどとサーナイトに諭されたグライスは、ひとまず同意する。伸びてくる緑の手に素直に抱き上げられて、訳も分からないながらに哺乳瓶を差し出されるがまま「あ」と口をあけた。差し込まれた瞬間、鋭利な牙のような歯で容赦なくかぶりつく。犬猫がオモチャ相手にするように首を左右に振ろうとしたところで、サーナイトから訂正が入った。
む。歯を鍛える為のオモチャで無しと。――――ではなんだ、この哺乳瓶とやらは。あまりにも脆弱な肉体であることを自覚したグライスは、食事の為に歯を鍛えるものだと思ったのだ。
竜は生まれながらにして狩人の才をもって生まれる為、母より乳を得て育つことを知らぬ。世界を見守る役割を持ったグライスの以前も同様に、<本能>として魂に刻み込まれて育った。
なんなら精霊や妖精たちが徹底して彼を守った。次第に視界を遮るようになり、世界を見守る最中でも得ることの無かった知識である。あまりにも徹底した純粋栽培であったが故に、旅仲間の誰ひとりも彼にそう言った方面の知識を付けようとはしなかったし、彼の方でも必要性がなかったので積極的に学ぼうとはしなかったので、哺乳類の繁殖についてはからっきしである。
人間初心者のグライスを労しく思うのはポケモンたちであった。順当に往けば、彼は魔王浄化の旅から数千年後には普通に得られるはずだった知識なので。幾ら長寿だからって流石に長ェよ。とは彼の情緒教育に僅かばかりに携わったエルフの魔術師談だった。
こうして使うのよ。
くわえて、ちゅうって吸うの。
サーナイトが身振り手振りで教えてくれるように、グライスも真似る。かぱっと口をあけ、差し込まれた瞬間に息を吸う。思いっきり吸い込むと、ゴウ゛ッ゛と音がして、息が詰まる。
「ゲッホゴッホッッ!!?」
当然のことながら思いっきり噎せてしまい、サーナイトを酷く驚かせてしまった。慌てて哺乳瓶を置いた彼女は、グライスを抱き上げて背中をトントンと優しく叩く。
宥めるように背中をくるくる撫ぜたり、今にも泣きそうな声でずっと安否を問う。「ああ、どうしましょう。わたくしの教え方がよくなかったのね。」 もう言葉を理解する子ですもの、吸うときの力強さを説明しておくべきでしたわ。でもどうやって説明しましょうかしら、とサーナイトは右往左往した。
やわらかなシリコン製のストローを用意して、このくらいよ、このくらいなの、と息を吹きかけてくる。そよそよと綿毛のように柔らかな髪をくすぐり揺らす息吹きの穏やかさを真似て、ふう、ふう、と息をする。
「
息をするだけでも褒められたのは初めてのことだった。
新鮮な体験をした心地になりながら、今度こそ差し込まれた瞬間、吸った。食事をするだけでも人間、とても大変。あの頃が嘘のように、体力を消費した。
よもや勇者一行の頃、彼らもまた食事をするだけの為に体力を消費したのだろうか。本来的には世界を俯瞰する守護竜であるが故に、世界よりエネルギー供給を受けて生活してきたグライスには分からぬ感覚であったけれど。今まさに、食事で体力を使う、と言うことを実感する。
大変なことをして生きて来たのだな、人間は。生きる為に、体力を使ってしまう。寝ることも、起きることも、見ることも、聞くことも、喋ることも。すべて体力を消費する行為だった。
ハァッ……ハァッ……
肩で息をするグライスは、ポケモン基準で散歩に連れ出されて。人間の肉体に不慣れなばかりにあれもこれもと挑戦するうちに、帰ってくる頃には、この有り様であった。
な、情けなさすぎる。体力のなさに悔しさのあまり涙が滲みそうだった。せめて素早さと持久力だけでも付けなくては、此の世界を生きるには肉体があまりにも脆弱すぎる。元の肉体と比較してしまうばかりに、人間の平均値を壊れ物のように感じてしまうのは異種族あるあるなのだ。
呼吸を整えながらもグライスは考える。ポケモンたちが居る世界に生まれた以上、目指したくなるのは無理からぬこと。そして、その好奇心を抑えることも不可だろう。
ともすれば、おそらく自分がポケモントレーナーとなる為の道筋は一つに限られる。慣れ始めた此の肉体の耐久に不安がある故に、一般的な「ポケモンのわざに耐える」型のポケモントレーナーではなく、「ポケモンのわざを回避する」型のポケモントレーナーを目指すべきだと。
一般とは称したが、それでも「火炎放射」等の科学的に太陽の表面熱ほどと言わせしめるようなものではなく、精々が「体当たり」――――それでもかなりのものだと思うが。
うふうふ、と嫋やかな微笑みを見せるサーナイトは、カロスの歴史を語った。大昔に戦争が起こった国であり、大罪を犯した王の一族が居る國なのだと。
カロス地方とは、今から三〇〇〇年ほども昔に<百年戦争>と呼ばれる隣国との数百年にも渡る戦争があった歴史を持つ大国の一つでございます。
物騒な出だしから始まる授業でしたから、恐ろしくはありませんでしたか?
戦ごとを怖がって毛布に閉じこもったまま可愛らしいお顔を見せてくださらなくなったお姫様のことしか存じ上げませんでしたので、御子息様にお教えする時、サーナイトはそのことを案じておりました。
ヒトとヒトが傷つけ合う、悲哀に満ちた痛みの世界。今でこそ冒険をした
しれっとした顔で授業を受けるグライスの姿に、サーナイトは「まあ、まあ。」と柘榴の目をまあるくした。逃げ出す様子もなければ、泣き出す様子もなかった。
流石は男の子でございますね。これからにおいては為になるものばかりで、泣き出す様子もなければお勉強が嫌だと部屋から抜け出されるご様子もなく、あなた様自身もご興味がおありなのか、とても真剣に授業を受けておられて、もう此処まで成長なされたのかと実感のあまり感涙してしまいそうです。足腰がすわり、ようやっと動き回れるようになられたときにホッと安心したのが昨日のことのようですわ。
あなた様の出自に関わる故郷のさわりは、その類稀なる天賦の代価に危機感を御母堂の胎動に置き去りにしてしまったとばかりのあなた様の生き方を周囲が案じた結果のことであって、それ以外の他意はございませんでしたから。他にも御当地ならではのことを教わることが出来ますから、プラス思考とマイナス思考を天秤に乗せて均等をとられておられると感服したほどですわ。
研究者の身ですから、きっと探求を尽くした知恵を誰かに教えることは苦ではないのでしょう。何なら楽しんで遊びに取り入れてらっしゃいますから、サーナイトもこの年になって、とても良いお勉強をさせていただきました。
コホン。
この語り始めから、きっと聡明なあなた様はお気づきでしょう。
サーナイトの
幼少のみぎりより飛行機なる鋼鉄の塊で空を飛来してお引っ越しをしたのであなた様の記憶には故郷の思い出などないに等しくておられるかもしれませんが、此処から遠く離れた海の果ての大陸にある愛と情熱で溢れた大国、世界に名を知らしめるカロス地方にございます。
「無論だ、そも引っ越しを決定したのは齢3つの頃だろう。記憶に新しい。」
ラルトスの年の瀬から連れ添ったあなた様にとってはお婆様にあたる淑女が愛した幼き乙女は、蝶や華に囲まれて過ごす姿がよく似合っておられましたが、ふと気づけば同じ大学に通う殿方と心を通わせて、研究の為に生まれ育った故郷を飛び出すおてんば娘となっておりました。関係性を認めてくれないのなら出て行く、の言葉を実行したのです。
サーナイトの一人目の主人を亡くしたばかりの御父上と半ば仲違いするかたちで家を飛び出した二人目の主人は、意地もあったのでしょう。若旦那様の故郷から。北の遺跡。たくさん巡って参りました。
研究を進めるうちに身柄を追われるようになりながらも、愛し連れ添った夫と仲睦まじく過ごしておいででございました。逃げ隠れるように移り住み、世界を一周まわって灯台下暗しとばかりに故郷にお戻りになったことにはサーナイトも思わずくすりと笑んでしまいましたわ。
そんな彼女の逃亡生活も続かず、あのような悲劇が襲ったのです。出産からすぐに、また逃げ隠れする必要がございました。
なので、彼女は生まれたばかりの赤ん坊であるあなた様を連れて逃げるよう、サーナイトたちは指示を受けたのです。産後の肥立ちが思わしくはなく、座ることすらやっとの彼女に寄り添ったのはエルレイドの主人である、あなた様の御父上でございましたわ。
瞳に悲しみを称えながら若旦那様は仰いました。
サーナイトやエルレイドに■■■ を賭けてくれと願ってくださったのです。人間には、忌避するべき懇願なのでしょう。
けれど、生涯を捧げると誓った相手からのそのようなもったいなきお言葉は、サーナイトたちにとっては至福の命でございました。しかし、サーナイトたちが了承を返すと、お優しい若旦那様は表情を曇らせて決断を為さったのです。お顔を曇らせてしまったことだけは、今でもどうにか出来やしなかったのかと考えさせられることでございました。
とある装置で■の■■を■■の■■と■■させることに成功した若旦那様は、サーナイトとエルレイドへと続けて命をくださったのですが、当時はなかなかに無茶なことを申し上げられると思ったものです。
「俺を連れて逃げろ、ということだろう。」
想像がつく。
そのようなことを申し上げておられなければ、今頃にでも側に居たであろうと聡明なあなた様は力無く眦を下げて微笑まれる。
その御顔を見て、なるほど、と納得いたしましたわ。今までは若奥様のときめきポイントとやらをきちんと理解はしておりませんでしたが、サーナイトとて乙女な個体なのです。確かに種族は異なれど、多少なりとも<乙女心>なるものの見解はございますもの。
ですから若奥様のお言葉通りの状況を体感した今、正しくときめきを理解いたしましたわ。年甲斐もなくときめきましたもの。こうして、サーナイトのお姫様は射止められたのですね。
手を温かな量の手で握りしめて、柘榴の瞳をただ見つめてくるお顔は。サーナイトが愛したお姫様のワガママを聞き入れる若旦那様の面立ちを感じさせて、お姫様の面影を色濃く宿します。
その御顔にサーナイトたちが弱いことを存じておられるあなた様は、お爺ちゃんお婆ちゃんの身である我々に長生きせよと申し付けてくださいましたね。残念なことでございますが、それだけは叶えて差し上げられそうもなく、あなた様に悲しみばかりを残してしまわぬか心配です。
「円満な別れ、とは何を指すのか此の身は未熟ゆえに分からぬまま。――――しかし、もはや旅立つ前の身。優しい人、どうかオマエは自分のことを案じなさい。」
嗚呼、やっぱり遺して逝くのは厭ですわ。
もっとあなた様の成長を見届けたかった。
もっと御身をお守りしたかった。
「連れ立つ輩が居ようとも、最初の一歩はたった一人きりなのだから。踏み外さぬよう、しかと自己を持ちなさい。道を外れてしまえば、魂が引き裂かれてしまうよ。」
サーナイトはもっとあなた様の旅路を見守りたかったと強く思うのです。
ゆるすよ。柔らかく瞳を撓ませて薄っすら口角をお上げになる表情は、無理をさせてしまったことが分かるのに、たまらなく嬉しいのです。今なお死にゆくサーナイトたちのためだけに、安寧を抱かせようとしてくださるその心配りがあなた様の優しさそのもののようで。―――だからこそ、心配なのに。どうして