オーキドには土地を譲渡するにあたる説明の義務がある。何時までも子どもときゃっきゃはしゃぐわけにもいかず、会話のキャッチボールを熟しながら辺りを見渡した。
手続きを終えたからこそフロントに居る。御手洗いにしては長すぎる気もするが、環境が変わったことで不調を抱えるのは致し方なくもあるものだ。もう少し待ってみても不在が続くようであれば、子どもとポケモンたちだけでも時間を潰せるように喫茶店コーナーまで誘導しよう。幾らポケモンGメンの幹部に昇進した我らがチャンピオンが居るカントー地方とは言えども、個々の防犯意識は大事だ。あとでそのことも注意を促して……。
土地権利責任者の名前には、彼の両親らしき夫婦の名前があるからしてオーキドとしては当然の行為である。説明する相手を探して、はたりと気づくのは保護者不在の現実であった。
『どれ、坊やはどんなポケモンに興味津々なのかな?』
『みんな好き! 特に二人が大好き!』
竹を割ったかのようにスパンと即答した子どもの声は役所のフロントに響き渡り、音の届く範囲に居た無関係者の通行人たちにもくまなく被弾した。
しかし、翁が浮かべる朗らかな笑みの奥に携えるのは、今から両親が不在であることの不安と疑心であった。観察するうちに気づけたことだが、当時のオーキド博士は、ニコニコと親し気な雰囲気を作りながらもコミュニケーションの許容範囲を探っていたのである。
難なく近づけたのは母性と父性を爆発させるポケモンたちを前にその庇護下にある子どもへ不用意に近づくのは自殺行為である、と日頃から徹底した態度を貫くからなのだろう。
憧れのポケモン博士の代表者であることも相まってオーキド博士を参考にすべく小さな頃からグライスも真似をはじめてみたのだが、これまた効果的だった。極限に気配を薄くすることで誰にも気づかれることなく移動することが可能な特技を身に付けてしまったことには、あの博士も想定外だったのだろうけれど。
もはやポケモンの領域と零すのには、グライスの幼馴染たちの方がよっぽどである。思わず異論を唱えたが、その抗議が受け入れられたことはない。
それはさておき。
伝家の宝刀、公文書を開示するとオーキドは納得したようにうなずく。サーナイトやエルレイドの時間を借りることの許可をグライスから得て、新居にかかわる相談事はたくさんあった。
休憩エリアで説明を受けたのは、今後の新居における契約の数々である。新居が決まったら早めにやっておくべきことは、固定電話やインターネットの移転や新聞の解約、両親の収入証明書の手続きから駐車場の解約手続きなんかも。
例をあげ出せばキリがなくなるほどには量がある。今はもう現実なのだけれど、ポケモンたちと共存する世界のわりに厭に現実的だ。
そんな引っ越し作業の中でもサーナイトが率先して繋げと言ったのは、電気とインターネットの移転だった。今後の為にも覚えようと思って手続きを見せさせてもらったが、やることが多すぎるし、何なら常識を覚えている途中だったから何が何だかさっぱりなものが多くある。
何の権限も持たない子どもの身ではあったが、ポケモンではなく人間のサインが必要な場所にはしっかりと手形を押す仕事をもらうだとか。
管理人とのすり合わせの為、どのように引っ越しの作業をしたのかと尋ねられるが、それは今後のやり取りの為の確認作業のものだったり。人間のサインがなければ野生のポケモンかどうかの判断がつかないから、家族として登録されて居るものであれば、効力については目を瞑るとしても承認出来るようにするためのものだった。
自分で分かるところから少しずつ答えるようにして、分からなければエルレイドの持つカバンから必要な書類を引っ張り出して見せる。その繰り返しで困ったことがあると判明したのだ。
その困った手続きとは、「転出届」のことだった。
やむを得ない場合代理人が手続きすることも可能だが、原則として「転出届」は本人または同一世帯の人が提出するものだ。また、対象者が未成年かつ、保護者からの一筆がもらえないようであれば、効力のある書類(グライスで言えば「命令書」が最たる例だ)と一緒に、本人の筆跡で作成された「委任状」と、代理人の本人確認書類の提示が欠かせない。
こういった書類はポケモンの手形では不可である為、頭を抱えるサーナイトとエルレイドの様子を見たオーキド博士は、学会で質問をするときのように綺麗に手を挙げて言った。
『ふむ。では、その役目をわしがもらおう。君がこちらで自由に過ごせる手伝いをさせておくれ。』
引っ越してから行う予定の住民票や健康保険、ガス、電気、水、インターネットなど様々な手続きも率先してその翁は執り行ってくれた。
引っ越し先の町の顔役であるから役不足を通り越して、過剰な効力だろう。一緒に手続きをするうちに「こりゃ、いかん」と険しい表情をした翁は、カロス地方の女性と同じ表情だったのに、彼女と同じ行動に出ることはなかった。現状への不満や今後の生活をどうするかとすべてグライスの意思を尊重してくれるのだ。
オーキド博士からは、命令書があれどもまことに残念なことながら、此れは確かに育児放棄のひとつに一致する。それゆえに、大人たちが心配になって過剰な態度も時には取ってしまうこともあると納得できるまで理由を語って聞かせてくれたので、カロス地方で起きた誘拐事件から日が浅かったことも相まってサーナイトたちと一緒になって、ほっと安堵の瞳でやわらげた。
そんなことがあったのじゃな。それでも、わしを信じてくれたのだな。と翁の表情もほんわりとやわらぐ。
しかし、ポケモンたちの庇護はあれど子どもがひとりで生きるには世界は過酷すぎるから、成人するまでの保護を名乗り出した時にはサーナイトもエルレイドも否やを唱えることはせず、保護者の欄に「オーキド・ユキナリ」の文字が連なった。
聖地巡礼の中に遭遇したポケモン学の化身から
研究者に対しては、とくに思い入れがあるわけではない。世界のことに興味があるかと尋ねられたら” ある ”と云えるだろうけれど、己が実験動物になったかのような感覚が襲うのはサーナイトが封印した記憶に理由が在るのだろう。今生だけで考慮するなら、両親と同じ役職の人たちだな、とだけ。
両側に佇むサーナイトとエルレイドの気配が強張り、どうにも不信感あふれるような雰囲気だったろう。オーキド博士自体を拒絶するかのような、そうともとれるような態度をしてしまったにも関わらず、オーキド博士は終始、優しさを見せて接してくれた。
新しいことの連続でたくさん歩き回って迷惑をかけたし、我儘を言って困らせもしたが、その都度ポケモンに関することばかりに関心を寄せるグライスへ丁寧な説明をもしてくれたよなあ、と木箱に思い出の品々を入れていく。
「ふ。ほんと、なつかし。」
オーキド博士が無償で与えてくれるその優しさを、まるで祖父のようだと受け入れられるようになったのは、ひとえに側に居てくれた彼らのおかげだろう。
包帯まみれの腕を手首まですっぽり覆う長袖で隠したグライスは、彼らが
グライス・エトワールの名は、このままでは正式名称とは言えない。数年ほど前に儚くなったエルレイド曰く、グライスと、エトワールの間に、隠された字があるそうだ。
そして、母が身籠ってから、彼女の実家より放たれる追手。ミドルネームがあるカロス人と言えば、王族、貴族なのだけれど。――――特定することは出来るが、手に負える状況ではなさそうだったので目下様子を見るだけに徹しておく。
こうして思えば、たったの十年だというのに濃厚な人生だ。
逃げ延びる為に数多の旅路を重ね、多くの絆を結んで別れを告げたことだろう。命からがらに逃避行を続ける両親の間に誕生したグライス・エトワールは、ポケモンたちに連れられた土地であたたかな隣人に囲まれながら暫く生まれ故郷であるカロス地方で育った。時として、波乱万丈な事件に巻き込まれながら。
普通の人とやらの枠組みに、なかなか馴染めなかったことも理由の一つだけれど。追手とは無関係の。一般市民による誘拐事件が発生し、注目を集めてしまったことが決定打となり、カロス地方から離れることになった。引っ越した先は、高校生の記憶曰く、ポケモンの発祥地。全ての原点と言わせしめるカントー地方である。
あれほどまでにグライス・エトワールなる存在を求めた故郷の手は、不思議なことにマサラタウンへと居を構えてからは蜃気楼のように気配が消えた。
ポケモンリーグの初代チャンピオン。
ポケモン研究者界隈の権威。
『……あれ、お客人っすか?』
『うむ、じゃがちィとばかしオイタが過ぎるからの。お説教をしておったんじゃ。』
『なら席を外そう。エルレイド、人手が要るようなら手を貸して、』
『ああ、大丈夫じゃ――――今終わったところじゃよ。さ、ケンタロスよ、後片付けは任せたぞ! グライスはワシと一緒に、ナナミとグリーンを呼んでお茶でもしよう。手を貸してくれんかの?』
『? わかった。』
守られている。
守られていた。
盾となり、抑止力となり、抑圧となってくれたことを知ったのは、オーキド研究所の裏手でケンタロスの下敷きになる異郷の民族を見た時だった。
保護者を名乗り上げてくれたオーキド・ユキナリ博士のネームバリューが程よくグライスたちを守り、今なお迫りくる脅威を振り払ってくれている。流石に旅立ち前の歳の瀬にもなると周囲のことをよく見なくてはならなくなるので、現状の把握も出来てしまう。度重なる迷惑をかけたことを謝ろうとすると、あまり強くは出られぬグライスを茶会に誘ってくるので、謝罪に関しては一度たりとも成功した試しがない。
せめて我が身が追われる理由を問い質そうと、竜であった頃の感覚で魂を肉体から剥離させたところ――――ゴーストタイプのポケモンに攫われて、肉体へ帰還できなかった時期がある。
魂が剥離した状況である為、肉体はほぼ動くだけの傀儡――――人形……否、マネキンのようであったはずなのに、気味悪がらず、甲斐甲斐しく看病してくれた幼馴染たちには頭が上がらない。目を覚ました時、周囲の焦燥ぶりがあまりにも疲弊した様子を見せるので、必要に駆られることがなければ二度としないようにひっそりと誓った。
しない、と誓わなかったのは幼馴染たちを救うために必要になったのであれば、自分の為に容赦なく使うと断じたからだ。
魂を剥離させたにもかかわらず、結果を伴わずに生還したグライスは未だに追われる理由が不明のまま姿を眩ませるほかない。
マサラタウンの抑止があったとしても、何度か誘拐事件に遭遇したけれど。週の何度かに発生する事件の多くは、オーキド・ユキナリ博士の孫娘であるナナミや孫息子であるグリーンを狙ったものであり、ナナミやグリーンの友好関係を洗って炙り出された囮のようなものでもあった。
間接的にも、直接的にも、グライスを狙ってやって来るのは月に一度や二度程度。生きて連れ帰ることを目的としているのかして、実力行使だとしても「糸を吐く」による粘着糸で絡めとられかけた程度で。「切り裂く」やら「ミサイル針」やらと直接的な攻撃を受けたことは、今のところなく、比較的穏やかな日常を送っていると言えるだろう。
マア、たとえ、腕の一本や二本を切り裂かれたとしても相手の思惑通りに行動してやるつもりなど毛頭ないが。