世界大戦の亡霊たち 作:マピ
──サラエヴォで銃声が鳴り響いたとき、それが人類の歴史を変える運命の合図であったと、誰が予想しただろうか。
︎︎首を撃たれながらも即死を免れたフランツ・フェルディナンド大公。あるいは、世界大戦の引き金を引いた青年ガヴリロ・プリンツィプ本人すら、事の重大さを理解していなかったはずだ。
︎︎その後、まるでドミノ倒しのように各国の宣戦布告が連鎖し、最終的に一千万を超える命が、大地に吸い込まれていった。
︎︎華やかなりし欧州を彩っていた古き良き風景は、砲弾と機銃、そして毒ガスによって容赦なく塗り潰され、かつての国際秩序は音を立てて崩れ去った。
︎︎たった数発の銃弾。
︎︎それだけで、世界は変貌を遂げたのである。
︎︎ハプスブルクの偉大なる帝国は解体され、オスマン・トルコは瀕死の病人として無念のうちに滅び、ドイツ帝国──ライヒは徹底的に打ちのめされた。
︎︎イギリス、フランス、ロシアといった列強もまた疲弊を免れず、相対的に台頭したのが、新興勢力たるアメリカ合衆国と日本帝国であった。国際的パワーバランスの変化は、概して世界地図や経済力にすら影響を与える。
「これは平和などではない。ただの二十年に過ぎぬ休戦だ」
︎︎ヴェルサイユ宮殿で結ばれた対独講和条約について、フランス元帥フェルディナン・フォッシュはそう述べたという。
︎︎この言葉が果たして彼の真意だったのか、それはわからない。だが、その予言は皮肉にも的中することになる。
︎︎やがてアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツが、再び世界大戦の火蓋を切った。花の都パリにハーケンクロイツが掲げられ、遠き北東アジアでは、日本が真珠湾を電撃的に攻撃し、名実ともに人類史上最大の戦争が幕を開けた。
︎︎それが第二次世界大戦──先の大戦とは性質を異にし、より広範で、より苛烈で、そしてより深い悲劇を伴った争いだった。
︎︎その悲しい結末を世界中の人々は記憶している。否、記憶せざるを得なかった。
︎︎この戦場においては数十数百万の兵士が動員された。
︎︎故に、歴史に名を刻む英雄や戦犯よりも、記録にも記憶にも残らぬ無名の兵たちのほうが遥かに多く存在する。
︎︎だからこそ──。
「ここは……何処だ?」
「What in the world happened ?」
「Bin ich nicht tot……」
︎︎太平洋の島で、ルソンの密林で、あるいはアルデンヌの雪原で──忽然と姿を消した三人の軍人たちの行方を、今となっては知る者は誰ひとりとして居なかったのである。
■■■
︎︎緩やかな陽光が、広葉樹の隙間から斑に地表を照らしている。
︎︎朽ちた倒木には深緑の苔がびっしりと張り付き、朝露が葉先に宿って、宝石のように静かに煌めいていた。風は柔らかく、木々をくぐっては枝を揺らし、異国めいた香りを孕んで流れていく。
︎︎まるで絵画の一枚にも思える神秘的な森の風景──だが、その静寂を破るように、場違いな三つの姿がそこにあった。
「なぜメリケン野郎とドイツ兵が一緒に居やがる?」
︎︎第一に、鋭く声を放った若者の姿。
︎︎その身に纏うのは、国防色の九八式軍衣と軍袴。襟元はきちんと詰められ、下肢には乗馬ズボン風の袴が広がっている。黒革の編上靴の足元には確かに地に根ざす意志を感じさせた。腰には儀仗ではなく実戦用の九四式軍刀を佩き、頭には”真新しい”鉄帽──南方戦線で幾多の弾雨を凌いだであろうその防具からは、この若い日本人兵士の過酷な従軍経験がうかがえた。
︎︎その瞳は、緊張を孕んだ鋭い光を放ち、目の前の二人の異邦人を睨み据えていた。
「Luzon? No, the vegetation is different...」
︎日焼けした頬に年季の入った風貌を備えた白人の男。
︎︎肩から下げたジャケットの内側には、明らかに軍用として鍛えられた体躯が覗く。彼の身に着けているのは、カーキ色のクラスCユニフォーム──通称「チノ」。
︎熱帯地仕様のこの制服は、ルソン島に展開していた米陸軍第6軍の将校たちに多く見られた軽装であり、その胸には磨かれた階級章と軍功章が光る。袖口から覗く腕は筋肉質で、迷いなく組まれていた。
︎︎見知らぬ敵国の青年から銃口を向けられてなお、男は落ち着き払っていた。かすかな緊張はあるものの、状況の把握を最優先とし、敵意も恐怖も表情には浮かんでいない。
「………」
︎︎そして、最後に立っていたのは、一言も発せず周囲を見つめる男であった。
︎︎彼の着衣は、仕立てられた直後かのように綺麗な野戦灰色──フェルトグラウと呼ばれる色彩の軍服。ドイツ国防陸軍将校たちが着用していたM43型の野戦服であり、実用性と機能性を兼ね備えたそれは、従軍中の現地改良を受けたものと見受けられる。
︎︎襟には中佐の階級章、袖口は乱れておらず、整えられたその軍装は、彼の几帳面な性格を代弁しているかのようだった。
︎︎ただし、彼の瞳には理知の光ではなく、あくまで呆然とした色が宿っていた。無言で、自分の立つこの場所の意味を探るかのように、辺りを見渡していた。
︎︎風が再び吹き抜ける。
︎︎三つの国、三つの軍服、三通りの戦場。時も場所も異なる地獄を生き抜いた三人が、なぜかこの森にいた。
︎︎殺意、困惑、動揺。
様々な感情が交錯するこの場で、まず口を開いたのは、年嵩のアメリカ人だった。
「──You are Japanese and German. Right? I didn't know the Axis powers were fighting together on the Pacific front.」
「あぁ? 何言ってんだオメェ?」
「......You're American?」
「Yes.」
「チッ、英語かよ。んなもん知るかってんだ、馬鹿野郎が」
︎︎明らかに異常な状況だと、三人とも本能的に悟ってはいた。
︎︎だが、つい数分前まで命を賭した戦場に身を置いていた彼らにとって、どんな場所であれ、生き残ることは第一義である。
︎︎特に青年─〈一ノ瀬篤志〉は、迷いなく殺意を向けていた。
︎︎戦場で敵兵たちに向けたものと同じ、いや、それ以上に鋭いものだった。ドイツ兵らしき男はまだいい。なにせ同盟国だ。共に連合国と戦ってきた同志といってもいい。だがこのアメリカ人はダメだ。どう足掻いても自分の敵である。
︎︎本音としては、今すぐにでも撃ち殺してやりたい。
︎︎けれど、眼前のドイツ兵が冷静に英語で話しかけたのを見て、篤志はトリガーにかけていた指を静かに外した。
︎︎粗暴で口の悪い青年だったが、そんな彼といえど、軍人として最低限の分別は持ち合わせている。たとえドイツ軍の階級章を詳しく知らずとも、自分より年上で、かつ味方であろう軍人に銃口を向けるのは愚かだということは理解していた。
︎︎なにより、日本陸軍の風土には根強い親独的な気風があり、彼もまた、少なからずその影響を受けていたのもある。
「I don't understand the situation. This is obviously not where I was just a few minutes ago.」
「Yeah......This is not the Philippines or Germany, that's for sure. Of course it's not Japan either, man. I've never seen trees like this.」
「……」
篤志は話の内容こそ理解できなかったが、二人の声の抑揚や仕草から、今すぐ銃撃戦になるような気配は感じ取れた。
︎︎今は引き金を引くべき場面ではない──それだけは言葉が通じなくても分かる。
とはいえ、ではどうすればいいのか。
判断を仰ぐべき上官は、周囲のどこにも見当たらなかった。そもそも、ここがどこかも分からない。自分は硫黄島にいたはずなのだ。だというのに、いま目に映るのは見たことのない木々と、見知らぬ空。耳に届くのは潮騒ではなく、どこか異様に澄んだ風の音ばかりだった。
いま目の前にいるドイツ兵に、せめて何が起こったのかを尋ねてみたいと篤志は思った。だが、彼が日本語を理解する可能性は限りなく低いし、こちらの語学力では「パンツァー」だの、「ジークハイル」だの、せいぜい軍歌で覚えたような単語しか出てこない。口を開けば混乱を増すだけだと、自分でも分かっていた。
意思疎通がままならないこの状況で、しかもあからさまに異常な場所に突然放り出されたとなれば、誰であれ取り乱すだろう。
篤志の場合、それが怒気として現れていただけで、心の奥には焦燥と疑念が渦を巻いていたのだ。
──つい、さっきまで。
確かに自分は、硫黄島にいたはずだった。
暗い壕の中に潜みながら、耳をつんざく砲声と、間断なく飛び交う怒号のなかで、死んだ仲間たちの名を呟いていた。
鉄と泥と血の臭いにまみれながら、神も仏もない地獄の底で、ただ敵兵の足音だけを待ち続けていたのだ。
︎︎敵に殺されるくらいなら自死を選ぶ。そして、拳銃を顎の下に構えた瞬間──とても人工のモノとは思えぬ眩い光が、篤志の視界を塗り潰した。
『……は?』
そして気がつけば篤志は、怪我も空腹もない身体で、まるで”整備された直後のように”清潔な軍服と装備を身に着けたまま、森の中に立っていたのだ。
目の前には、自分と同じように軍服姿の男が二人。ひとりはナチス・ドイツの制帽を被った将校、もうひとりは星条旗のワッペンを付けたアメリカ兵だった。
敵と味方。東と西。
交わるはずのない三人が、言葉も通ぬまま、こうして対峙している──というのが、篤志が理解している、いまの状況のすべてだった。
まるで訳が分からない、という言葉しか出てこない。
いや、言葉を出すことすら、もはや空しいとさえ思える。
篤志が抱いていた混乱と違和感は、他の二人──〈ウィリアム・H・マコーネル〉と〈コンラート・ヴァイスナー〉にとっても同じだった。
ウィリアムは、フィリピンのルソン島で米比連合軍を指揮しながら、日本軍との消耗戦の只中にいた。
そしてヴァイスナーは、西部戦線の最後の大攻勢──アルデンヌの森で、連合軍の包囲下にあったはずだった。
それぞれが敵の銃口の前にいた。死地の只中にあった。
だからこそ、いまこの場所に立っていること自体が、既に非現実なのだ。多くの言葉を交わさずとも、彼らは本能的に、その非現実さを強く感じていた。
ただひとつ、確かなのは──いま、この不可思議な森こそが、彼ら三人を結びつけている唯一の“現実”だということだった。
「……」
「……」
「……」
重たい沈黙が、場を覆う。
篤志は肩に力を込めながら構えていた三八式歩兵銃を、静かに下ろした。胸の奥に渦巻いていた怒りと混乱を、吐き出すように息をつく。冷静になればなるほど、この距離ならば銃よりも軍刀の方が有効だと判断できた。それゆえ、鞘に手をかけた――が、その手を止めたのは、隣に立つドイツ兵だった。
ヴァイスナーが、無言で篤志の肩に手を添え、軽く押さえた。
「Ich weiß, wie Sie sich fühlen, aber jetzt ist nicht der richtige Zeitpunkt, um zu kämpfen.」
篤志は眉をひそめたまま、ドイツ語の意味を汲み取れずに首を傾げた。
「ドイツ語で言われてもわかんねぇよ……」
だが、その視線の静けさと手の重さが、明確な“敵意の否定”であることは伝わった。
篤志は小さく舌打ちし、わずかに身を引く。
それでも、ホルスターから抜いた拳銃は握ったままだ。撃つことはないにせよ、いつでも対応できるようにという警戒は解かない。ヴァイスナーも、それを咎めることはなかった。むしろ当然とばかりに、再びウィリアムの方へ視線を移した。
「Not the Pacific, not Europe. Then……where are we?」
「You're right. First, let's assess the situation. We are enemies of each other, but let's work together here.」
ヴァイスナーとウィリアムのやり取りを聞きながら、篤志は頭の中で言葉の意味を想像する。英語は話せなくとも、その口調や仕草から、アメリカ兵が敵意を抑え、何らかの協力関係を提案していることは分かった。
故に篤志は、この状況において自分の“判断基準”を求め、ヴァイスナーを見た。
彼は自分より年上であり、明らかに高い階級章を付けている。言語が通じなくとも、目を見れば、その理知的な判断を信じるだけの価値があると感じられた。
篤志の視線を受け、ヴァイスナーはひとつ頷いた。
その仕草に促されるように、篤志は小さく溜息を吐く。
「……ちっ。なんで敵のメリケンと組まなきゃなんねぇんだ」
不満を露わにしながらも、理性を失わなかった。
怒りと納得のいかなさを隠そうともしないが、それでも協力の必要性は否応なく理解していた。彼の中の“兵士としての勘”が、それを強く告げていたのだ。
「日本に、ドイツに、アメリカか。……一体全体、どうなってやがる」
苛立ちを込めて、足元の小石を蹴り飛ばした。
石は低い放物線を描き、木々の奥へと飛んでいき──やがて、「ぽちゃん」と、小さな水音を立てて消えた。
その音に、三人の視線が揃って向く。
水だ。川ではなく、池か、あるいは沼のようなものだろう。
この森の湿度や地形からしても、そう遠くない距離に水場があると見て間違いない。
装備こそ身に着けているが、まともな食糧も、水もない。
異常な事態に巻き込まれた今、行動の指針はただ一つ──まず、生き延びること。
三人は、無言のまま武器を手に取った。
篤志は、木製銃床の三八式歩兵銃を確かめるように握り直す。
ヴァイスナーは、Kar98kのボルトを軽く引き、薬室を確認する。そしてウィリアムは、サム・ブレイクホルスターからコルトM1911A1を抜き、スライドを引いて弾を送り込んだ。
言葉はなかったが、意思は伝わっていた。
自然と、篤志が先頭に立ち、ヴァイスナーがその後ろに続く。殿にはウィリアムが回った。三人の歩幅が、不思議と揃う。
ゆっくりと、しかし確かな足取りで、三人は音のした方へと進む。
森は深く、木々の隙間から差し込む陽光が、まるで浮遊する糸のように揺れていた。どこまでも静かで、どこか不穏で──だが、その中を抜けてなお、歩みを止める理由はなかった。
「───」
ふいに、森の奥から、何かが近づいてくる気配がした。
それは足音でもなければ、風が木々を揺らす音でもない。空間そのものが、何か異質な“存在”によって波打つような、そんな音だった。
三人は即座に銃口を上げた。
訓練された兵士としての本能が、迷いなく反応していた。
次の瞬間、音もなく──“それ”が、姿を現した。
「……は?」
篤志が漏らしたのは、疑念とも驚愕ともつかぬ声だった。
男のようでもあり、女のようでもある。
若者にも、老人にも見える。
その輪郭は定かではなく、目を凝らしても焦点が合わない。
まるで夢の中の幻影のように、像は揺らぎ、実在と非在の狭間に立っていた。
それは、あたかも世界の理から一歩はみ出した何か──。
「──ようこそ、死地から来たる異世界の戦士たちよ」
声が響いた。
柔らかく、深く、冷たく、同時に温もりも孕んでいる。
その響きは性別を持たず、年齢もなく、言語の属性すら超越していた。
「私は、お前たちをこの世界に召喚した魔導師である」
その言葉に、篤志は眉をひそめ、思わず一歩引いた。
「異世界……? 召喚……? 魔導、師? てめぇ、何を言って──いや、そもそも、人間なのか?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。だが、私の性質など、この場では些末なことだ。今は、話を聞いてもらいたい」
「......What is the purpose of calling us here? Where are we, here?」
ウィリアムが慎重な口調で問いかける。その表情には動揺も警戒もあったが、同時に理性が優っていた。
「この森は私の住処であり、名はない。そして、君たちを呼んだ目的──それは単純明快だ。この世界を、救ってもらうためである。それ以上でも、それ以下でもない」
──何かがおかしい、と篤志は思った。
最初、確かに“それ”は日本語で話しかけてきた。
だが、ウィリアムの反応を見れば、どうやら意味を理解している様子だった。さらにその後、英語で返された言葉に対しても、“それ”は即座に応じ、しかもその内容が、篤志の耳にも正確な日本語として届いている。
仮にウィリアムが日本語を理解できるのなら、最初から英語ではなく日本語でこちらに話しかけてきたはずだ。
逆も然り。
つまり、“それ”は明確な意図をもって、三人それぞれの言語に合わせて言葉を届けている──いや、正確には、誰にとっても自国語で聞こえているのではないか。
篤志の背に、冷たいものが走る。
理屈では説明できない。だが、確実に異常だ。
これはただの幻覚や翻訳ではなく、言語そのものの認識を、根底から歪める魔の仕業だ。直感的に、彼はそう思った。
「世界を救う、だぁ? そんなもん知ったこっちゃねぇ。とっとと帰せ、日本に」
怒りを押し殺すことなく、篤志は吐き捨てた。
銃口こそ下ろしていたが、三八式歩兵銃を握る手にはなお力が籠り、眼光は鋭いままだ。
“世界を救え”と言われたところで、そんな大仰な使命感を持てるほど、彼は殊勝でも英雄でもなかった。
それよりも先に、救わねばならない場所がある──。
彼の心に浮かぶのは、焦土と化した硫黄島の断崖だった。
サイパンは陥ちたと聞く。硫黄島もまた、いずれ陥落する運命だった。否、それすらも、もう終わった後かもしれない。
地下壕の奥でピストルを握り、命の火を消そうとした直前の記憶が、まだ鮮明に脳裏をよぎる。
あの戦場で、命を捧げて守ったものはなんだったのか。仲間の死は、何のためだったのか。全く知らぬ世界の救済など、その問いに対する答えにはならない。
日本敗戦の気配──その言葉を、彼はまだ口にしていなかった。だが、心のどこかで確信していた。
だからこそ、彼にとっては“帰還”こそが唯一の価値だった。
それはウィリアムにとっても、ヴァイスナーにとっても、おそらく同じことだった。
「それでは困るのだ、青年」
奇妙な存在は、なおも静かな口調で応じた。
怒号も嘲笑もなく、ただ深く、空気の底を這うような声だった。
「……あぁ?」
篤志が苛立ちを滲ませながら顔を上げる。
「私は調停者として、この世界の均衡を保つ責を負っている。しかし今、その天秤は深く片方に傾いている。放置すれば、均衡は崩壊し、世界そのものが瓦解する」
それは、恐ろしく淡々とした語りだった。滅びを語るにしては熱もなく、救済を語るにしては感情もない。
︎︎ただ“それ”にとっては、それが為されねばならぬ使命であり、必要な手続きであるかのように思われた。
「よって、荒療治に踏み切る他ない。世界の理から外れた場所──死地より選ばれし異世界の戦士たちよ。お前たち三人と、私は契約を交わす」
「最初っから最後まで何言ってんのか分かんねぇんだよ、馬鹿野郎」
篤志が憤るのも無理はなかった。
あまりに現実離れした話、そして当たり前のように“世界”だの“契約”だのと並べ立てるその口ぶりが、彼の神経を逆撫でした。
その時、静かに前に出たのはヴァイスナーだった。
銃は下げたままだが、その目は鋭く、沈着だった。
「Wie kann ich in mein Heimatland zurückkehren?」
落ち着いた声色で問う。
その響きには、確固たる信念と、切実な願いがあった。
「君たちの元いた国へ帰還する方法、か。それは、私が“世界のバランス”を取り戻すために必要とするものを、揃えることに他ならない」
「What are those necessities?」
「私が必要とするもの、か」
今度はウィリアムが問いかけた。
その姿勢は威厳を保ちつつも、事態の把握を急いでいる軍人としての冷静さを崩さなかった。
「至宝である」
奇妙な存在は、ほんのわずか、両腕を広げた。
その動作により空気が震え、三人の周囲に淡い光の輪が瞬いた。
「七つ。それぞれが世界の異なる地に点在している。敵を打ち、至宝を手にせよ。そして再び、我がもとへ帰還せよ。それが、この世界における汝らの任務である──果たした暁には、私が契約に従い、君たち三人をそれぞれの祖国へと送り返してやろう」
告げられたそれは、まるで神話のようだった。
七つの至宝。異世界。契約──理解が及ばぬことばかりだ。
だが唯一確かなのは、その言葉がただの“冗談”でも“幻覚”でもなく、現実として目前に突きつけられているという事実だった。
「……」
︎︎三人は互いに目を合わせた。
言葉はない。だが、そのまなざしの奥には、それぞれが背負ってきた“もの”の重さが沈んでいた。
国も、敵味方も、言葉さえも違う。けれど今この瞬間、彼らは等しく、理解不能な世界の只中にいた。
「──まず、君たちの壁を崩そう」
その“何か”が、すっと手を前へ差し出す。
瞬間、淡い光がふわりと三人を包み込んだ。
それは熱くも冷たくもなく、ただ静かに、しかし確実に、身体の奥へと染み渡っていくような感触だった。
「うっ……てめ、何しやがったッ!」
咄嗟に篤志が叫び、反射的に引き金を引いた。
だが動揺した指先は狙いを定めることなく、三八式の弾は大きく逸れ、空しく木々の間に消えていった。
発砲音だけが森の静寂を破ったが、奇妙な存在は微動だにせず、弾丸もすり抜けたかのように影響を与えなかった。
篤志が再び構えようとしたとき、光はふっと消えた。
森が、元の沈黙を取り戻す。
まるで何事もなかったかのように。
「……これ、は」
ぽつりと呟いたのはヴァイスナーだった。
彼の声が、篤志の耳に、まるで日本語のように届いた。
「日本語……? いや、響きが違う。けど──分かる」
続いたウィリアムの言葉も、まるで流暢な日本語のように耳へ入ってきた。
だが、それは英語ではない。ドイツ語でもない。どの国の言葉でもないのに──意味だけは確かに通じてくる。
「……は?」
訳が分からず、篤志は思わず呻いた。
今しがたまで、英語もドイツ語も満足に理解できなかったはずだ。なのに今は、ヴァイスナーの声もウィリアムの声も、はっきりと意味を成して聞こえている。
戸惑いの表情を浮かべる三人を前に、”ソレ”は静かに口を開いた。
「言語の壁を一時的に取り払った。今の君たちは、互いの言葉を“理解できる”。加えて、この世界の言語も、一定の基礎までは会得している。あくまで刹那的な処置だがな。長くこの地で生きるほど、自然に言葉は馴染んでいくだろう」
あまりに当然のように言われ、三人はしばし言葉を失った。
理解できる──それは、単なる翻訳ではない。
耳に届く音が変わったわけではなく、脳がそれを意味として認識してしまっている。
知識として知らぬはずの語句すら、なぜか“分かってしまう”。
そんな異常な感覚が、言葉のやり取りを現実離れしたものにしていた。
「……冗談じゃねぇ、冗談じゃねぇぞ、クソっ!」
荒々しく吐き捨てるように言いながら、篤志は銃を肩から下ろした。だが指はなおもトリガーにかけられ、眼差しは鋭く、敵意を緩める気配すらない。
理不尽に引き裂かれた現実、あり得ぬ光景、突きつけられた“使命”──その全てが、彼の中の怒りに火をつけていた。
ウィリアムも、ヴァイスナーも、沈黙のまま目の前の“それ”を見つめていた。しかし彼らの表情に浮かぶのは、恐れでも、拒絶でもない。ただ深く計算された沈思と、静かな決意。
風が、森を揺らす。光と影が緩やかに移ろうなか、“ソレ”はゆっくりと口を開いた。
「──改めて、我が名を告げよう」
その声は、もはや人のものではなかった。
温かさと冷たさが同居し、老成と幼さが同時に響く。理を語る者の声音。夢と現のあわいから届く声。
「我が名は──オルド・ケシェト。均衡を司り、秩序を繋ぐもの也」
その名が放たれた瞬間、森の気配が一変した。
空気が澄み、風が止まり、まるで森全体がその名に耳を傾けているかのようだった。
「異なる戦場より来たる契約者たちよ。この歪んだ世界を救うため──汝らの力を、貸してほしい」
三人は言葉を失ったまま、ただ立ち尽くしていた。
世界を救う。それは空虚な響きだった。
だが、元の世界へ帰るための唯一の道でもあるというなら──彼らはその道を進むほかない。
それが、始まりだった。
命を懸けて戦場に身を置いた三人の兵士が、異なる世界において銃を取り、戦うことになる長い旅路の。
︎︎その──最初の一歩である。