三人の男たちは、目の前のガキどもが揃って振り返ったのを見て、ようやく自分たちの要求が通じたものと考えたらしい。
実におめでたい連中である。もっとも、十二歳の少年三人を相手に、それも三人がかりで小銭を巻き上げようというのだから、そもそも頭の出来に多くを期待するほうが間違っているのだろう。金のチェーンをぶら下げた男などは、デイヴがにやにやと笑っているのを見るや、随分と偉そうに顎を突き出してきた。
「Oi、何ニヤついてんだ、クソガキ」
「いやあ、別に。テメエの間抜け面が面白えから笑ってんだよ」
デイヴは両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、へらへらと笑っていた。その隣でゲイリーは無言のまま右手を握ったり開いたりしている。一方、ライアンはといえば、既に笑っていなかった。男たちの顔が険しくなるや、さりげなくデイヴの背中に隠れ、そこからさらに半歩ほど後退していたのである。
「……テメエ、俺らを舐めてんのか?」
「舐めてほしいのか? だったら母ちゃんにでも頼めよ、このチンカス野郎」
ゲイリーが小さく鼻を鳴らした。
男の顔が見る見る赤くなる。どうやら、自分たちより六歳も年下の少年にここまで馬鹿にされるとは思っていなかったらしい。何とも気の毒なことである。今まで相手にしてきた小学生たちは、金を出せと脅せば素直に財布を差し出してくれたのだろう。
ところが、残念ながらデイヴはそのような礼儀正しい少年ではなかった。
「このクソガキが!」
男がデイヴの胸倉へ手を伸ばした。
しかし、その指先が上着に触れることはなかった。
デイヴがするりと身体を引いたのである。男の右手が空を切ったかと思うと、次の瞬間には、その鼻先に少年の左拳が飛んできた。
ばきっ、と乾いた音がした。
「ぶっ!」
男の頭が仰け反った。デイヴは間髪を入れずに右拳を顎へ見舞い、男がよろめいたところへ腹を蹴りつけた。男は息を詰まらせ、二、三歩後退してから、鼻を押さえて前屈みになった。
「おら、どうした! 金取りに来たんだろうが!」
デイヴは大笑いした。
さて、ここで一つ、この少年について述べておかなければならないことがある。
デイヴィッド・ジョンソンという少年は、喧嘩が滅法強かった。
それも、同年代の悪ガキ同士で少々腕っぷしが立つとか、学校の喧嘩で負けたことがないとか、そういう可愛らしい次元の話ではない。まだ背丈が今よりずっと低かった頃から、自分より幾つも年上の不良を相手に平然と殴り合い、時には相手を泣かせて帰らせるような、実にろくでもない才能の持ち主なのである。
もっとも、才能というものは必ずしも人格に比例して与えられるわけではない。もしそうであったなら、デイヴは今頃、喧嘩に関しては絶望的なまでに無能な少年になっていたことだろう。
「この野郎、ぶっ殺すぞ!」
男が怒鳴り、血のついた拳を振り回した。
「やってみろよ、腰抜け!」
デイヴは軽く首を傾けてそれを避け、続く大振りにも身体を沈めて応じた。相手が踏み込めば自然に距離を外し、拳を引いた瞬間には、もう自分の間合いに戻っている。誰かから本格的な格闘技を教わったわけでもないくせに、相手の動きを読む勘だけは不思議なほど優れていた。
そして何より、この少年は喧嘩そのものが大好きだった。
「おせえんだよ、バカ!」
デイヴの拳が男の腹へめり込んだ。
「ぐっ……!」
男が身体を折り曲げる。そこへ左拳を叩き込み、さらに足元を蹴り払うと、男は均衡を失って煉瓦塀にもたれかかり、そのまま歩道へ転がった。
「あっはっはっは! なんだよ、テメエ! 随分威勢よかったじゃねえか!」
デイヴは実に楽しそうだった。
しかも、まだ終わらせるつもりはないらしく、倒れた男へ近づいて、その腹を遠慮なく蹴りつけた。
「ぐあっ! クソッ、やめろ!」
「はあ? なんだよ、もう終わりか? さっきまで散々イキがってたくせによ!」
なんという見事な騎士道精神であろう。
ところで、読者諸賢は既にご存じだろうが、この少年はれっきとしたホグワーツ魔法魔術学校の生徒である。それも、勇気と大胆さ、そして騎士道精神を尊ぶ、誉れ高きグリフィンドール寮に所属しているのである。
勇気については申し分ない。六歳も年上の男を相手にして、恐怖の色など微塵も見せないのだから、組分け帽子の判断は実に的確だったといえよう。大胆さについても文句なしの満点である。初対面の相手にこれほど遠慮なく悪口を浴びせ、鼻っ柱をぶん殴れる少年はそうそういない。
問題は、最後の騎士道精神であった。
かのゴドリック・グリフィンドールが、自分の名を冠した寮の生徒がマグルの裏通りで年上の男を殴り倒し、倒れた相手を蹴飛ばして大笑いしている姿を見たならば、果たしてどんな感想を抱くのだろうか。
もっとも、グリフィンドール自身も剣を携えていた人物なのだから、ひょっとすると案外気が合うかもしれない。少なくとも、勇猛果敢という点において、両者には共通するものがある。ただし、デイヴにとって勇気とは、弱者を守るために発揮する高尚な精神などではなく、自分より大きな野郎をぶちのめす際に必要な、極めて実用的な能力だった。
ついでに言えば、この少年は魔法使いである。せっかく一年間も呪文学や変身術を学んだというのに、マグルの街角で拳骨を振り回しているのだから、これほど教育の甲斐がない生徒も珍しい。
マクゴナガル教授がこの光景を目撃したなら、グリフィンドールから一体何点減点するだろうか。
いや、そもそも夏休み中の出来事である。寮の得点がどうこうという問題ではなく、まず親元へ連絡が行くに違いない。
実に素晴らしい夏休みの過ごし方であった。
「おい! 何やってんだ、テメエら!」
二人目の男が怒鳴り、デイヴへ向かって突っ込んできた。しかし、その男が少年に手を伸ばすより早く、横から大きな影が割って入った。
ゲイリーである。
「おい」
「ああ!? なんだ、デブ!」
「うるせえよ」
ゲイリーはそれだけ答えると、右拳を振り抜いた。
ごつっ、と実に嫌な音がした。
「――ぐあっ!」
男は顔を押さえてよろめき、その場に膝をついた。頬骨の辺りをまともに殴られたらしく、指の隙間から血が流れている。
「て、テメエ……! メリケンなんか使いやがって!」
男が呻いた。
「ああ」
「卑怯だろうが、このクソ野郎!」
「そうか」
ゲイリーは頷いた。
それだけである。
実に簡潔な返答であった。もう少し何か言ってやってもよさそうなものだが、ゲイリーは元来口数が少ない。普段からデイヴとライアンのくだらない言い争いを聞かされているためか、多少の罵詈雑言など、彼にとっては鳥の鳴き声と大差ないらしい。
ちなみに、ゲイリーの身長と体重を考えれば、彼の拳は素手でも十分に危険である。それに加えてメリケンサックまで嵌めているのだから、まったくもって質が悪い。
もっとも、本人はそんなことを気にするような性格ではなかった。そもそも、喧嘩における公平性という概念を理解しているかどうかすら怪しい。
「このクソッタレども!」
三人目の男が動いた。
彼は仲間が二人もやられたことに腹を立てたらしく、いきなりゲイリーの肩を掴み、力任せに突き飛ばした。体格のよいゲイリーもさすがに一歩よろめき、そこへ男の拳が飛んできた。
拳は左頬を掠めた。
「……痛えな」
ゲイリーは顔をしかめ、口元を手の甲で拭った。
「痛えじゃねえんだよ! ぶっ殺すぞ、この糞デブ!」
その言葉を聞いて、デイヴが振り返った。
「Oi! テメエ、今なんつった?」
「ああ!? なんだよ!」
「俺のダチをデブ呼ばわりすんじゃねえよ、このチンカス野郎!」
大変感心な友情である。
もっとも、デイヴ自身は先ほどまでゲイリーを牛だのデブだのと散々馬鹿にしていたので、説得力という点については甚だ疑問が残る。どうやら彼の頭の中では、自分が友人を罵倒することと、他人が友人を罵倒することとは、まったく異なる行為に分類されているらしい。
「テメエが先に黙れ、このクソガキ!」
男はデイヴに向かって拳を振り回した。
しかし、その拳が顔面へ届くことはなかった。
デイヴは身体を沈めるようにして避けると、男の脇腹へ拳を叩き込み、続けて左拳を顎へ見舞った。
「ぶっ!」
男が横へよろめいた。
「どうした、ボケナス! さっきまで随分元気だったじゃねえか!」
デイヴは笑いながら追いかけた。
男が反撃しようとすると、その拳を避けて再び殴り返す。距離を取ろうとすれば踏み込み、掴みかかってくれば身体を捻って振りほどく。その動きは、十二歳の少年とは思えないほど素早かった。
とはいえ、年齢差というものが完全に消えてなくなるわけではない。
男が捨て鉢になって振り回した拳の一つが、デイヴの右頬をまともに掠めた。
ぱしん、と乾いた音がした。
デイヴの顔が横へ動いた。
「……あ?」
男の手が止まった。
デイヴはゆっくりと顔を戻し、頬に触れた。口の内側が少し切れたらしく、舌で確かめると血の味がした。
そして、笑った。
「はっ……あっはっはっは!」
男はぎょっとした。
何しろ、普通なら殴られて怒るか、怯むか、あるいは痛がるところである。それなのに目の前の少年は、まるで素晴らしい冗談でも聞かされたかのように笑っているのだ。
「お前、やるじゃねえか!」
デイヴは再び飛びかかった。
そこから先は、男にとってほとんど悪夢のような時間だった。
殴っても怯まない。掴もうとしても捕まらない。しかも、相手は始終にやにやと笑っている。これほど腹立たしく、そして気味の悪いこともないだろう。
やがて男はデイヴの左拳をまともに顎へ受け、歩道に尻餅をついた。
「ぐっ……!」
「おいおい、立てよ!」
デイヴは容赦なく近づいた。
男は慌てて後ずさったが、背中が煉瓦塀にぶつかったところで、それ以上逃げられなくなった。
「ま、待てって!」
「なんだよ」
「もういいだろ!」
「よくねえよ、バカ。テメエが先に喧嘩売ってきたんだろうが!」
デイヴは笑った。
男はすっかり青ざめていた。ようやく理解したのだろう。目の前の少年は、ただの生意気なガキではない。
そして、そんなことに今さら気づいたところで、何の役にも立たないのであった。
さて、一方のライアンはどうしていたか。
これがまた、実に素晴らしい働きぶりであった。
彼はデイヴが最初の拳を振るった瞬間、道路脇の大型ゴミ箱の陰へ飛び込んでいたのである。しかも、ただ隠れたわけではない。万が一男たちがこちらへやって来た場合に備え、逃げ道を確認し、ズボンのポケットからなけなしの小銭を取り出して、すぐ差し出せるように握り締めていた。
大変周到な準備である。
その計画性を、借金の返済に少しでも活かせなかったものだろうか。
「ひっ……!」
ゲイリーのメリケンサックが男の顔面を捉えた時、ライアンは思わず首をすくめた。続いてデイヴが殴られると、両手で頭を抱え、ますます小さくなった。
「く、クソ……! マジかよ……!」
彼は誰にともなく呟いた。
その顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいる。つい十分ほど前まで、金がないからカツアゲでもするかなどと豪語していた少年とは到底思えない姿であった。
まったく、人間というものは不思議である。他人の金を脅し取るという行為にはあれほど積極的だったのに、いざ自分が殴られる可能性が出てきた途端、途方もなく慎重になってしまうのだから。
しかも、ライアンは逃げることさえできなかった。
デイヴとゲイリーが勝てば自分も恩恵にあずかれるかもしれないし、負けた場合には自分が次の標的になるかもしれない。どちらに転んでも対応できるよう、彼はその場に留まっていたのである。
ただし、実際には震えていて足が動かなかったという可能性も大いにある。
やがて男の一人が地面に倒れると、ライアンは恐る恐るゴミ箱の陰から顔を出した。
「お、おい! スナップス!」
「なんだよ!」
「も、もういいって! 逃げようぜ! なあ!」
「うるせえな! テメエはそこで震えてろ、クソチビ!」
「だ、だってディブルが来るかもしんねえだろ!」
実にもっともな意見である。
ここでいうディブルとは、警官のことを指す俗語である。もっとも、警官が来たところで困るのはデイヴとゲイリーのほうなのだが、ライアンはそうした細かな問題について考える余裕など持ち合わせていなかった。
彼自身が捕まりたくなかったのである。
「おい、ギャッピー!」
デイヴが怒鳴った。
「な、なんだよ!」
「そんなに怖えなら、さっさとママんとこ帰って、おっぱいでも吸ってろ!」
「うるせえよ!」
ライアンは反論した。
ただし、その声はゴミ箱の陰から聞こえてきた。
これほど説得力のない反論も珍しい。
やがて三人の男たちは、すっかり戦意を喪失していた。
金のチェーンをぶら下げた男は鼻血を流し、二人目は頬を押さえ、三人目に至っては壁際に座り込んだまま、目の前で笑っているデイヴを呆然と見上げている。
「……クソッ! もういい、行こうぜ!」
男の一人が仲間に向かって叫んだ。
実に立派な決断である。もし彼にこの判断力が五分前から備わっていたなら、今頃は顔を腫らすことなく、どこかのパブの前で煙草でも吹かしていられただろう。
ところが、問題が一つあった。
彼らを帰してくれる人間が、そこにはいなかったのである。
「おい」
デイヴが声をかけた。
金のチェーンをぶら下げた男が顔を上げた。
「テメエ、どこ行く気だよ」
「……もういいだろ!」
「は? 何言ってんだ、テメエ」
デイヴは心底呆れたような顔をした。
「金出せっつったのはテメエらだろうが」
「だから何だよ!」
「だからよ」
デイヴは男の前にしゃがみ込み、にやにやと笑った。
「今度は俺らが貰う番だろ?」
なんという理屈であろう。
まったくもって救いようのない少年である。自分たちが恐喝されそうになったことを、逆に相手の財布を奪う正当な理由にしてしまったのだから、法律というものを根本から勘違いしているとしか思えない。
もっとも、本人にそのことを指摘したところで、鼻で笑われるのが関の山だろうが。
「ふざけんな!」
「ふざけてねえよ。ほら、財布出せって」
男が抵抗しようとすると、デイヴはその胸倉を引っ掴んだ。
「おい、ビガン。こいつ、まだやる気らしいぜ」
「そうか」
ゲイリーが近づいてきた。
そして、メリケンサックを嵌めた右手をぶらぶらと揺らしながら、男を見下ろした。
男の顔が引き攣った。
「……わ、分かったよ!」
彼は悪態をつきながらポケットをまさぐり、財布を取り出した。
「ほらよ! これでいいだろ!」
デイヴはそれを受け取り、中身を確かめた。
「……なんだよ。二十ポンドも持ってねえじゃねえか」
残念そうな声だった。
「テメエ、そんな金しか持ってねえくせに、よく俺らからカツアゲしようと思ったな」
「うるせえよ!」
「おいおい、口の利き方に気をつけろよ、このクソ野郎。もう一発欲しいのか?」
男は黙った。
実に健全な意思疎通が成立した瞬間であった。
「あと、それ」
「……は?」
「チェーンだよ。金のやつ」
「これは駄目だ!」
「なんでだよ」
「俺のだぞ!!」
「知ってるよ、バカ。だから貰うんだろうが」
男は何やら抗議していたが、デイヴは聞いていなかった。結局、留め具を外させてチェーンまで取り上げると、満足そうにそれを手の中で揺らした。
「へえ。結構重いな、これ」
もっとも、本物の金かどうかは怪しいところである。サルフォードの裏通りで十二歳のガキを恐喝している男が、純金製の立派なチェーンを首からぶら下げているとは、いささか考えにくい。せいぜい金メッキがいいところだろう。
続いてゲイリーも残りの男たちから財布を取り上げた。男たちはすっかり抵抗する気力を失っており、最初の威勢が嘘のように大人しかった。
何しろ、殴られて顔を腫らした挙げ句、今度は自分たちが金を巻き上げられているのである。およそ強盗として考えられる限り、最悪に近い業績であった。
やがて三人分の財布を確かめ終えたデイヴは、奪った紙幣を折り畳んでポケットに突っ込み、金のチェーンを指先でくるくると回した。
「よし。もう行っていいぜ」
男たちは顔を見合わせた。
「……本当か?」
「ああ。けど、また俺ら見かけたら金持ってこいよ。今度はもっとな」
デイヴは歯を見せて笑った。
男の一人が悔しそうに唇を噛んだ。
「……クソガキが。俺らが誰の仲間か分かってんのか?」
おお、出た。
自分の腕力ではどうにもならなくなると、今度は他人の名前を持ち出して威張り始める。世の中には、こうした便利な人間関係を大切にしている連中が少なくないらしい。
デイヴは鼻を鳴らした。
「知らねえよ。テメエの母ちゃんか?」
「ふざけんな! 俺らは――」
男が何やら名前を口にした。
しかし、デイヴは一向に感心しなかった。
「誰だよ、そいつ」
「……お前、知らねえのか?」
「知らねえって言ってんだろ。そんなに有名ならサインでも貰ってこいよ、このクソ間抜け!」
男の顔が真っ赤になった。
だが、ここで再び殴りかかるほど愚かではなかったらしい。彼は仲間たちを促すと、足早にその場を立ち去ろうとした。
ところが、数歩進んだところで、ふと思い出したように振り返った。
「……おい、ガキ」
「あんだよ。まだいんのか?」
「お前、名前は?」
デイヴは眉を上げた。
「は?」
「名前だよ。なんていうんだ、テメエ」
デイヴはしばらく男の顔を眺めていたが、やがて口元を吊り上げた。
「スナップス」
男の表情が変わった。
「……スナップス?」
「ああ。なんだよ、知ってんのか?」
男は答えなかった。代わりに、デイヴの顔をもう一度まじまじと見つめた。幼さの残る整った顔立ちに、妙に長い手足。そして、何より腹立たしいのが、先ほどから一度たりとも消えない、人を食ったような笑い方である。
「……待てよ」
男は低く呟いた。
「お前、まさか……ジョニー・ドイルと一緒にいた、あのガキか?」
デイヴの指先で、金のチェーンがぴたりと止まった。
ほんの一瞬のことである。
先ほどまでへらへらと笑っていた少年の目から、ふっと笑みが消えた。しかし、それも長くは続かなかった。すぐにいつもの、人を小馬鹿にしたような薄笑いが戻ってくる。
「……へえ。サンのこと知ってんのか、お前」
「サン?」
「ジョニーのことだよ。あの赤毛のバカ」
デイヴはポケットから煙草を取り出し、安物のライターで火をつけた。
ジョニー・ドイル。
かつてサルフォードの裏通りを我が物顔で歩いていた、赤毛のとんでもない不良である。
その名を聞いて顔色を変えるチンピラは少なくなかったし、本人もその評判に恥じないだけの悪事を働いていた。何しろ、「サルフォードの赤い悪魔」などという、いささか大仰な異名までつけられていたのである。
もし自分で考えたのだとしたら相当に恥ずかしい名前であるが、それを本人の目の前で笑える人間がどれほどいたかは、また別の話だった。
もっとも、デイヴは平然と笑うだろう。おそらく、腹を抱えて。
「……お前、あいつの何なんだよ」
男が尋ねた。
「あん?」
「ジョニー・ドイルだよ。あいつとどういう関係なんだ?」
デイヴは煙を吐き出し、少し考えるように首を傾けた。
「さあな。ダチじゃねえの?」
実に投げやりな答えであった。
しかし、男はそれ以上尋ねなかった。
どうやら彼は、かつてジョニー・ドイルが妙に可愛がっていたガキの話を聞いたことがあるらしい。まだ小学校にもまともに通っていない頃から、年上の不良を相手に喧嘩を繰り返していたという、とんでもない悪童の話である。
そして、あの赤毛の悪魔は、そのガキについて随分と面白そうに話していたそうだ。
いずれ自分よりも強くなる、と。
「……クソッ」
男は低く吐き捨てた。
「なんだよ。もう帰んのか?」
デイヴは笑った。
男は答えなかった。仲間たちを促し、今度こそ足早に通りを曲がっていく。
その背中を見送りながら、デイヴはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「なんだよ、あいつら。最後までしょっぺえ野郎どもだったな」
ゲイリーは黙ってメリケンサックを外し、ポケットにしまった。その頬には殴られた痕があり、口元も少し切れていたが、本人はさして気にしていない様子だった。
「おい、ビガン。大丈夫かよ」
「ああ。お前は?」
「こんなの屁でもねえよ」
「ならいい」
「お前もなかなかやるじゃねえか」
「お前もな」
デイヴはにやりと笑い、差し出されたゲイリーの拳に、自分の拳を軽くぶつけた。
なかなか絵になる光景である。夕暮れのサルフォード、薄汚れた煉瓦塀を背にして、十二歳の不良少年二人が拳を合わせる。顔には喧嘩の痕が残り、片方は煙草を咥え、もう片方はメリケンサックをポケットに突っ込んでいる。
不良漫画であれば、ここは見開きにしてもよい場面だろう。
もっとも、現実にはその傍らに、もう一人の情けない少年がいた。
「……お、おい」
ゴミ箱の陰から、か細い声が聞こえてきた。
デイヴが振り向くと、ライアンが恐る恐る顔を覗かせていた。どうやら、男たちが完全に姿を消したことを確認するまでは、出てくるつもりがないらしい。
「……もう、いねえよな?」
「あん?」
「さっきの連中だよ。もう行ったよな? 戻ってこねえよな?」
デイヴは呆れたように目を細めた。
「おい、ビガン。あれ見ろよ」
「ああ」
「お前、何やってんだよ、そんなとこで」
ライアンは答えず、まず右を見た。次に左を見た。それから、通りの向こうまで念入りに確認し、ようやくゴミ箱の陰から這い出してきた。
その手には、先ほど男たちに差し出そうとしていた小銭が、まだ大切そうに握られていた。
「……お前ら、勝ったのか?」
「見りゃ分かんだろ、このボケナス!」
「いや、だってよ……マジで? 三人とも?」
「そうだよ」
「……すっげえ」
ライアンは心底感心したように呟いた。
そして、ようやく危険が去ったことを理解したのか、途端に顔を明るくした。
「いやあ、俺も最初から勝てると思ってたぜ!」
デイヴが煙草を口から離した。
「……は?」
「だからよ! お前らならやれると思ってたって! あいつら、見た目だけで大したことなかったな!」
ライアンは急に威勢よく喋り始めた。
そればかりか、先ほどまで自分が隠れていたゴミ箱を蹴飛ばし、さも自分も一緒に戦っていたかのように胸を張っている。
なんという見事な変わり身であろう。
彼はつい数分前まで、殴られるのが怖くてゴミ箱の陰に潜み、警察が来るかもしれないと半泣きになっていたのである。それが今や、すっかり勝利者の一員になったつもりでいるのだから、人間の記憶というものは実に都合よくできているらしい。
「おい、ビガン」
デイヴはゲイリーを見た。
「ああ」
「こいつ、最初から勝てると思ってたんだとよ」
「そうか」
「テメエ、さっき泣いてなかったか?」
ライアンの顔が引き攣った。
「な、泣いてねえよ!」
「嘘つけ! 目真っ赤じゃねえか!」
「風が強かったんだよ!」
「あっはっはっは! 風だってよ! おい、ビガン、聞いたか!」
デイヴは腹を抱えて笑った。
ゲイリーも珍しく、口元を緩めていた。
ところが、笑われたライアンは面白くなかったらしい。彼は顔を赤くし、何か言い返そうと口を開いた。
しかし、その瞬間、通りの向こうで車のドアが閉まる音がした。
「ひっ!」
ライアンは飛び上がった。
そして、反射的にデイヴの背後へ回り込み、その上着をぎゅっと掴んだのである。
「……おい」
デイヴの声が低くなった。
「な、なんだよ」
「テメエ、何掴んでんだよ」
「い、いや、今なんか音がしただろ!」
「車のドアだよ、バカ! クソったれ、テメエは本当にどうしようもねえな!」
デイヴが振り返ると、ライアンは慌てて手を離した。
その顔は、先ほどまでの威勢が嘘のように青ざめている。
「お前、もう帰れよ」
ゲイリーがぽつりと言った。
「なんでだよ!」
「邪魔だから」
「ひでえ!!」
ライアンは抗議したが、デイヴはもう聞いていなかった。彼は奪った財布から紙幣を取り出し、ゲイリーと一緒に勘定を始めていたのである。
すると、ライアンが途端に身を乗り出した。
「なあ、スナップス」
「あんだよ」
「俺の分は?」
デイヴの手が止まった。
「……は?」
「だからよ、俺の取り分」
しばらく沈黙が流れた。
デイヴはライアンを見た。
次にゲイリーを見た。
ゲイリーは無言で首を横に振った。
そして次の瞬間、デイヴはライアンの耳を引っ掴んだ。
「いでででででで!!」
「テメエ、どの面下げて取り分なんざ要求してんだよ、このクソチビ!!」
「だ、だって俺がカツアゲしようって言ったんだろ!!」
「提案料でも寄越せってか、この厚かましいチンカス野郎! だったら一発くらい殴ってみろってんだよ!」
「耳!! 耳が取れるって!!」
ライアンは悲鳴を上げながら爪先立ちになった。どうやら本日二度目の耳の受難である。彼の耳がこの調子で引っ張られ続ければ、いずれ身長よりも先に耳の長さが伸びてしまうかもしれない。
デイヴはさんざん耳を引っ張った挙げ句、ようやく手を放した。
ライアンが赤くなった耳を押さえて呻いていると、デイヴは財布から一枚の硬貨を取り出した。
「ほらよ」
ちん、と硬貨がライアンの足元へ落ちた。
「……なんだよ、これ」
「見物料のお釣りだ」
「はあ!?」
「よかったな。今日の稼ぎだぜ、このクソ間抜け!」
デイヴはにっこり笑った。
ライアンは硬貨を拾い上げ、それをしばらく見つめていたが、やがて何とも情けない声を出した。
「……これじゃチップスも買えねえじゃねえかよ」
まったく、最後まで食い物の心配である。
「じゃあテメエの母ちゃんにでも買ってもらえよ」
「うるせえな! 俺だって腹減ってんだよ!」
「ならさっきの野郎ども追いかけて、もう一回カツアゲしてこいよ」
「い、嫌だよ! また殴られたらどうすんだよ!」
「あっはっはっは! テメエ、ほんっとに救いようがねえな!」
デイヴはとうとう我慢できなくなったらしく、煉瓦塀に片手をついて大笑いした。ゲイリーも肩を震わせている。
ライアンは何やら聞くに堪えない悪口を並べ立てていたが、二人は一向に取り合わなかった。
やがてデイヴは金のチェーンをポケットへ突っ込み、新しい煙草に火をつけた。
「おい、ビガン。次どこ行く?」
「知らねえ。どっか」
「どっかってどこだよ」
「腹減った」
「テメエ、まだ食うのかよ!」
「ああ」
デイヴは呆れたように鼻を鳴らした。
「クソったれ……お前、そのうち本当に牛になるぞ」
ゲイリーは答えず、残っていたフィッシュ・アンド・チップスの包みを開いた。
ライアンがそれを見て、またしても物欲しそうな顔をした。
「なあ、ビガン……」
「嫌だ」
「まだ何も言ってねえだろ!!」
三人は再び歩き始めた。
煤けた赤煉瓦の家々が並ぶサルフォードの通りには、相変わらず薄ら寒い風が吹いていた。遠くのパブからは酔っ払いの馬鹿笑いが聞こえ、道路を走り抜けるバスが、濡れたアスファルトに排気ガスを撒き散らしていく。
デイヴは煙草を吹かし、ゲイリーは黙々と魚を食い、ライアンは相変わらず腹が減ったと文句を垂れていた。
まったく、何とも将来有望な少年たちである。
勇気と騎士道精神を尊ぶグリフィンドールの生徒と、その悪友二人。
片や天才的な喧嘩の才能を持つ凶暴な魔法使い、片やメリケンサックを常備した大食漢、そして残る一人は、ゴミ箱の陰で震えていただけのくせに分け前を要求する、どうしようもない腰抜けである。
英国の未来は、実に明るい。
もっとも、その未来が刑務所の鉄格子の向こう側にある可能性については、誰も否定できないのであった。