アグラバーに王子が生まれた。

なんか書きたくなりました。

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プロローグ〜第二章

砂漠の王国、アグラバー。

 

プロローグ

 

 広大な砂漠の中に存在するこの国は、古くから東西を結ぶ交易の要衝として栄えてきた。周囲を見渡せば果てしなく続く砂丘が広がり、昼には灼熱の太陽が大地を照らし、夜には満天の星々が砂漠を覆う。

 

 そんな過酷な環境にありながら、アグラバーは豊かな国として知られていた。街の中心には巨大な市場が広がり、各地から訪れた商人たちが香辛料や絹織物、宝石などを売り買いしている。入り組んだ路地には人々の生活が息づき、街を行き交う隊商の姿が絶えることはない。

 

 そして、その街を見下ろす高台には、アグラバー王国の象徴とも呼べる巨大な王宮がそびえ立っている。白亜の城壁、黄金に輝く巨大な円屋根、天へと伸びる幾本もの尖塔。その壮麗な姿は、遠く離れた砂漠からでも確認できるほどであり、初めてアグラバーを訪れた旅人は、誰もがその威容に目を奪われるという。

 

 もっとも、この王宮には一つの不思議な伝説がある。今から数百年、あるいは千年以上も昔のこと。アグラバーがまだ小さな集落に過ぎなかった時代、この地には砂を自在に操る不思議な力を持った一人の王が存在していたという。その王は、砂漠を襲う巨大な砂嵐を鎮め、人々の生活を守り、さらには砂を操って街を築き上げたと伝えられている。

 

 そして、現在のアグラバー王宮もまた、その王が自らの力によって造り上げたものだとされていた。無論、巨大な宮殿を砂から造り出すなど、常識では到底考えられない話である。しかし、王宮の建設に関する記録がほとんど残されていないことや、当時の技術では不可能と思われる建築構造が存在することから、その伝説を信じる者も少なくなかった。

 

 さらに、アグラバー王家にはもう一つの言い伝えが存在している。それは、初代国王の血を引く王族の中には、数百年に一度、砂を操る力を持った者が生まれるというものだった。過去の記録には、砂嵐から国を守った王、砂漠に巨大な城壁を築いた王女、敵国の軍勢を砂の海へと沈めた王子など、様々な人物の逸話が残されている。

 

 だが、最後にその力を持つ王族が現れてから、既に数百年が経過していた。そのため、今では王家に伝わる古い伝説の一つとして扱われ、実在を信じる者はほとんどいなくなっていたのである。

 

 そんなアグラバー王国に、一人の王子が誕生した。

 

「おお……! おおおっ! なんと愛らしい!」

 

 王宮の一室に、国王の歓喜に満ちた声が響き渡る。寝台に横たわる王妃の傍らで、サルタンは生まれたばかりの赤子を抱き上げ、満面の笑みを浮かべていた。

 

「見ておくれ! なんと元気な男の子じゃ!」

 

「ええ、陛下。本当に……」

 

 王妃もまた、穏やかな笑みを浮かべている。既に二人にはジャスミンという娘がいたが、今回生まれたのは待望の男子であり、王位を継ぐことになる王子の誕生は、王家にとって大きな喜びであった。

 

「ジャファー! ジャファーはおるか!」

 

「……こちらに」

 

 国王の呼びかけに応じ、背の高い痩身の男が一歩前へと進み出る。アグラバー王国の国務大臣、ジャファー。黒と赤を基調とした衣装に身を包み、蛇の頭をかたどった杖を手にしたその男は、国王に次ぐ権力を持つ人物であり、王国の政務を実質的に取り仕切っていた。

 

「見ておくれ! 男の子じゃ! これで我が国も安泰じゃな!」

 

「……王子殿下のご誕生、心よりお祝い申し上げます」

 

 ジャファーは恭しく頭を下げた。王位継承者となる男子の誕生は、確かに喜ばしい出来事だった。王家の血統が安定することは、国政においても重要な意味を持つ。もっとも、それだけで国が安泰になるほど政治は単純なものではない。そう考えながらも、ジャファーは余計な言葉を口にしなかった。

 

「さあ、ジャファー! お前も顔を見てやっておくれ!」

 

「……では、失礼いたします」

 

 促されるまま、ジャファーは赤子へと視線を向ける。小さな手足を動かしながら眠るその姿は、どこにでもいる普通の赤子と変わらなかった。

 

 ただし、その赤子には誰も知らない秘密があった。彼には、前世の記憶が存在していたのである。もっとも、生まれたばかりの身体では、思考も意識もまだ曖昧だ。自分が以前とは異なる世界に生まれたことも、目の前にいる人物が何者なのかも、正確に理解できていたわけではない。

 

 それでも、意識の奥底には確かに別の人生の記憶が残されていた。そして、その記憶が明確な形を取り始めるのは、もう少し成長してからのこととなる。

 

 それから数年。王子は、周囲の予想を超える成長を見せていた。言葉を覚えるのが早く、物事に対する理解力も高い。幼いながらも大人の会話に興味を示し、王宮に置かれた書物を読みたがるなど、その知的好奇心は非常に旺盛だった。特に、国務大臣であるジャファーに対しては、頻繁に質問を投げかけていた。

 

「ジャファー、この国ってどうして砂漠の真ん中にあるの?」

 

「……それは少々、質問の仕方が違いますな。国が砂漠の真ん中にあるのではなく、この地に人々が集まり、国が形成されたのです」

 

「どうして?」

 

「水源と交易路が存在したからです。人が生活するためには水が必要であり、商人が集まれば富が生まれる。それが都市の発展へと繋がるのです」

 

「じゃあ、水がなくなったら?」

 

「当然、国は衰退するでしょうな」

 

「……だったら、水を大切にしないといけないね」

 

「……そのとおりです」

 

 ジャファーは僅かに目を細めた。幼い子供にしては、随分と理解が早い。国王とは異なり、説明した内容を正確に理解し、そこから新たな疑問を抱くことができる。少なくとも、教育のしがいはありそうだった。

 

 そんなある日のこと。王子が王宮の中庭で遊んでいた時、不思議な出来事が起こった。

 

「……あれ?」

 

 地面に落ちていた砂が、ふわりと浮かび上がったのである。最初は風に舞い上がったのかと思った。しかし、周囲の木々は揺れておらず、風が吹いている様子もない。それどころか、砂は王子の手の動きに合わせるように、空中をゆっくりと移動していた。

 

「……もしかして」

 

 王子が右手を動かす。すると、砂も右へと移動する。左手を動かせば左へ。指先を持ち上げれば、砂は小さな球体となって宙に浮かんだ。

 

「……本当に?」

 

 王子は目を見開いた。前世の記憶がある彼にとって、魔法という存在自体は決して未知のものではない。何しろ、この世界がかつて見た映画『アラジン』の世界に酷似していることには、既に気づいていたからだ。しかし、だからといって自分自身が魔法を使えるとは思っていなかった。

 

「……砂を操れるのかな?」

 

 試しに、もう少し大きな砂の塊を動かそうとする。すると、地面に落ちていた砂が次々と浮かび上がり、王子の周囲を取り囲み始めた。

 

「わあ……!」

 

 その光景に、王子は思わず歓声を上げた。だが、次の瞬間。

 

「……え?」

 

 砂の量が急激に増え始めた。最初はほんの一握りだった砂が、いつの間にか巨大な渦となって中庭を覆い始めていたのである。

 

「ちょ、ちょっと待って……!」

 

 慌てて手を下ろす。しかし、砂の動きは止まらない。それどころか、周囲の地面が崩れ始め、庭園を囲む石造りの柱に亀裂が走った。

 

「……嘘でしょ!?」

 

 王子が後退する。その瞬間、柱の一本が音を立てて崩れ落ちた。いや、正確には崩れたのではない。石そのものが、細かな砂へと変化していたのである。

 

「……な、なんで!?」

 

 王子は必死に魔法を止めようとする。だが、どうすれば止まるのか分からない。意識すればするほど砂の量は増え、周囲の建造物が次々と崩れていく。そして、騒ぎを聞きつけた衛兵たちが中庭へと駆けつけた。

 

「な、何事だ!?」

 

「中庭が……!?」

 

「王子殿下! ご無事ですか!」

 

 しかし、彼らが目にしたのは、激しく巻き上がる砂煙と崩壊した庭園だけだった。その中心にいる王子の姿は、砂の渦に遮られて確認できない。衛兵たちが踏み込もうとした、その時。

 

「下がりなさい!」

 

 鋭い声が響き渡った。

 

 現れたのはジャファーだった。

 

「ジャファー様! これは一体……!」

 

「説明は後です。全員、中庭から退避しなさい!」

 

「し、しかし王子殿下が!」

 

「殿下の安全は私が確保します。早く!」

 

 有無を言わせぬ命令に、衛兵たちは慌てて後退した。ジャファーは彼らが十分に離れたことを確認すると、蛇の杖を握り直し、砂の渦へと踏み込んだ。

 

「……これは」

 

 目の前の光景に、ジャファーは息を呑んだ。庭園の石畳は剥がれ、柱は砂へと変わり、周囲の建物にまで亀裂が走っている。その中心で、王子が泣きそうな顔をしていた。

 

「ジャファー!」

 

「殿下!」

 

「止まらないんだ! 僕、止めようとしてるのに!」

 

 ジャファーは状況を理解した。王子が魔法を使っている。しかも、本人の意思とは無関係に暴走している。

 

「殿下! 私の声が聞こえますかな!」

 

「聞こえる! でも、どうしたら……!」

 

「まずは落ち着きなさい! 私の杖をご覧ください!」

 

 ジャファーは蛇の杖を掲げた。蛇の両眼に埋め込まれた赤い宝石が、妖しい光を放ち始める。

 

「……そうです。そのまま、私の目を見なさい」

 

 ジャファーの声が、ゆっくりと王子の意識へと染み込んでいく。彼が得意とする催眠術。本来は相手の精神に干渉し、意識や判断を誘導するための魔術だ。今回はそれを王子の精神を安定させるために使用する。

 

「……大丈夫です。何も考える必要はありません」

 

「……ジャファー?」

 

「ええ。私がおります。ですから、安心して目を閉じなさい」

 

 王子の瞼がゆっくりと下がっていく。それに合わせるように、荒れ狂っていた砂の動きが徐々に弱まり始め、巨大な砂の渦が崩れ落ちた直後、王子はその場に倒れ込んだ。

 

「……殿下!」

 

 ジャファーは素早く駆け寄り、王子の身体を抱き起こした。幸い、目立った外傷はない。ただ、魔力の暴走によって体力を消耗したのか、深い眠りについているようだった。

 

「……ふむ」

 

 ジャファーは周囲を見渡した。中庭は見る影もなく破壊され、石造りの建物の一部まで砂へと変化している。そして、その全てが幼い王子の魔法によって引き起こされたものだ。

 

「……まさか」

 

 ジャファーの脳裏に、一つの伝説が浮かぶ。砂を自在に操り、巨大な王宮を築き上げた初代国王。数百年に一度、王家に現れるとされる砂の能力者。

 

「……伝説は、真実だったということか」

 

 ジャファーは腕の中で眠る王子を見つめ、この出来事を国王へ報告することを決めた。もっとも、王子の能力については、決して公にするべきではない。王族が強大な魔法を持っていると知れれば、国内外に様々な思惑が生まれる。王子を利用しようとする者も現れるだろう。何より、本人がまだ力を制御できない以上、その存在を知られること自体が危険だった。

 

 その日の夜。

 

「……なんと」

 

 ジャファーから報告を受けたサルタンは、驚愕の表情を浮かべていた。

 

「では、あの子が……伝説の?」

 

「恐らくは。王宮に伝わる記録とも一致しております」

 

「おお……! なんということじゃ!」

 

 サルタンは感激した様子で両手を広げた。

 

「我が息子が、伝説の力を持って生まれてくるとは!」

 

「……陛下。喜ばれるのは結構ですが、問題はその力が極めて不安定であるという点です」

 

「む?」

 

「今回の暴走では、王宮の一角が崩壊しました。幸い死傷者は出ておりませんが、次も同じとは限りません」

 

「……それは困ったのう」

 

「ええ。そこで、一つご提案がございます」

 

 ジャファーは蛇の杖を床に突いた。

 

「殿下の魔力を、一時的に封じようと考えております」

 

「……封じる?」

 

「正確には、魔力を引き出すための精神的な働きを制限するのです。私の催眠術を応用すれば、一定の効果は期待できるでしょう」

 

「しかし、それではあの子の力が失われてしまうのではないか?」

 

「いいえ。力そのものを消すわけではありません。成長に合わせて封印を緩め、少しずつ扱える魔力を増やしていくのです」

 

 サルタンはしばらく考え込み、やがて小さく頷いた。

 

「……分かった。ジャファー、お前に任せよう」

 

「御意」

 

「ただし、あの子には無理をさせぬようにな」

 

「無論です」

 

 ジャファーは頭を下げた。こうして、王子の能力は国王とジャファー、そして本人だけの秘密となった。中庭の崩壊については、古くなった建造物の一部が倒壊したものとして処理され、当時その場にいた衛兵たちにも詳細は伏せられた。

 

 そして数日後、ジャファーは王子の寝室を訪れていた。

 

「……ジャファー?」

 

「お目覚めですかな、殿下」

 

「……僕、どうなったの?」

 

「ご安心ください。お身体に異常はありません」

 

「……でも、庭が」

 

「修復は進んでおります。殿下が心配なさる必要はありません」

 

 王子は俯いた。

 

「……僕、魔法を使わない方がいいのかな」

 

 その言葉に、ジャファーは僅かに眉を動かした。

 

「何故、そのようにお考えになるのです?」

 

「だって、またあんなことになったら……」

 

「……殿下」

 

 ジャファーは王子の前に立ち、静かに告げた。

 

「力そのものに善悪はありません。重要なのは、それを扱う者の判断です」

 

「……判断?」

 

「ええ。刃物は人を傷つけることもできますが、人々の生活を支える道具にもなります。魔法も同じことです」

 

 王子が顔を上げる。

 

「殿下には、確かに素晴らしい才能があります。しかし、現状ではまだ、その力を十分に引き出すことができておりません」

 

「……じゃあ、練習すれば?」

 

「無論、強くなれるでしょう。ただし、相応の努力が必要となります」

 

「……僕にもできる?」

 

「それは、殿下次第ですな」

 

 ジャファーは蛇の杖を掲げた。

 

「私が直接、魔法の扱い方を指導いたしましょう。ですが、決して甘くはありませんぞ?」

 

「……うん!」

 

 王子は力強く頷いた。

 

「よろしくお願いします、ジャファー!」

 

「……結構」

 

 ジャファーは満足げに頷いた。そして、王子が蛇の杖を見つめた瞬間、赤い宝石が静かに輝いた。

 

「……では、まずは目を閉じなさい」

 

「うん」

 

「深く息を吸い、ゆっくりと吐くのです。余計なことは考えず、私の声だけに集中なさい」

 

 王子は言われたとおりに目を閉じた。ジャファーは杖に魔力を込め、王子の精神へと干渉する。暴走の際に確認した、あまりにも巨大な魔力。その大部分を意識の奥底へと封じ、僅かな魔力だけを引き出せる状態へと調整、慎重に術式を重ねることで、ジャファーはどうにか封印を完成させた。

 

「……これでよろしい」

 

 ジャファーは杖を下ろし、王子がゆっくりと目を開く。

 

「……終わったの?」

 

「ええ。では、試してみましょう」

 

 ジャファーは小さな砂の入った器を差し出した。

 

「この砂を、少しだけ浮かべてご覧なさい」

 

「……うん」

 

 王子が手を伸ばす。すると、器の中からほんの少量の砂が浮かび上がった。

 

「……あっ!」

 

 王子の表情が明るくなる。

 

「できた!」

 

「ええ。よくできました」

 

「……今度は暴走しない?」

 

「少なくとも、今の殿下が扱える程度の力であれば、心配は不要でしょう」

 

「……そっか!」

 

 王子は嬉しそうに笑った。ジャファーはその様子を確認すると、静かに杖を下ろす。封印は成功し、今の王子が扱える魔力は、本来の力のほんの一部に過ぎない。

 

 だが、これでよい。まずは限られた力を完全に制御できるようにする。そして成長に合わせて封印を緩め、扱える魔力を増やしていく。その過程で、王子には魔法だけでなく、学問や政治、軍事、外交についても学ばせる必要があるだろう。何しろ、目の前の少年は将来、この国を背負う立場にあるのだから。

 

「……殿下」

 

「何?」

 

「魔法の訓練は、明日から本格的に始めます。ですが、それだけではありませんぞ」

 

「……え?」

 

「王族たる者、魔法が使えるだけでは務まりません。歴史、政治、経済、外交、軍事。学ぶべきことは山ほどあります」

 

「……そんなに?」

 

「当然です。何か問題でも?」

 

「……いえ、ありません」

 

「よろしい」

 

 ジャファーは満足げに頷いた。

 

「では、明日から覚悟なさい。私の指導は厳しいですぞ」

 

 王子は少しだけ困ったような顔をした後、笑顔を浮かべた。

 

「……うん! 頑張るよ、ジャファー!」

 

 その返事を聞いたジャファーは、静かに頭を下げた。

 

「……そのお言葉、確かに承りました」

 

 こうして、アグラバーの王子と国務大臣ジャファーによる、長い師弟関係が始まった。王子は、自分の魔力が封印されていることを知らない。ジャファーの指導によって、少しずつ強くなっているのだと信じている。

 

 そしてジャファーもまた、この時はまだ知らなかった。自らが育てることになるこの王子が、やがてアグラバー王国の運命を大きく変える存在になるということを。

 

 それは、まだ先の話である。

 

第一章 砂漠の王子

 

 それから、何年もの歳月が流れた。

 

 かつて砂の魔法を暴走させ、王宮の一角を崩壊させてしまった幼い王子は、今では立派な少年へと成長した。そして、その成長に最も大きな影響を与えた人物こそ、アグラバー王国の国務大臣、ジャファーである。

 

 ジャファーの教育は、非常に厳しいものだった。歴史、政治、経済、外交、軍事、法律。王として必要になる知識はもちろん、時には商人の帳簿を読み解かせ、時には周辺諸国の情勢を分析させるなど、その教育内容は多岐にわたっている。

 

 王子だからといって特別扱いし、甘やかすことなどなかった。むしろ、王子であるからこそ、誰よりも多くを学ぶ必要があるというのがジャファーの考えだった。

 

「……殿下。この政策案について、もう一度ご説明いただけますかな?」

 

「えっと、南部の農村で収穫量が減少しているから、今年は農民に課す税を軽減するべきだと思うんだ」

 

「なるほど。では、その減収分はどこから補填なさるおつもりです?」

 

「王宮の支出を見直す。特に、今年予定されている庭園の改修工事は急ぐ必要がないから、延期しても問題ないと思う」

 

「……ふむ。では、改修工事を請け負う予定だった職人たちはどうなります?」

 

「……あ」

 

「工事が中止となれば、当然ながら職人たちの仕事も失われます。その者たちの生活については、どのようにお考えで?」

 

 王宮の執務室。机の上に広げられた書類を前に、僕は思わず言葉を詰まらせた。向かい側に座るジャファーは、相変わらず厳しい表情を浮かべている。

 

「……そこまでは考えてなかった」

 

「でしょうな」

 

「うぐっ……」

 

「殿下。政治とは、一つの問題を解決すれば終わるものではありません。ある者を救うために行った政策が、別の者の生活を脅かすこともあるのです」

 

「……分かってるよ」

 

「本当に理解しておられるのであれば、そのような案にはならなかったはずですが?」

 

「……はい」

 

 容赦がない。まったく、本当に容赦がない。前世の記憶を持っているおかげで、同年代の子供より知識は豊富なつもりだったけれど、ジャファーの前ではそんなものは大した意味を持たなかった。何しろ、彼は実際にこの国の政務を取り仕切っている人物なのだ。机上の知識だけでは、到底太刀打ちできない。

 

「……じゃあ、工事を完全に中止するんじゃなくて、規模を縮小するのはどうかな?」

 

「ほう?」

 

「庭園の改修は最低限にして、余った予算を農村の水路整備に回す。そうすれば職人たちにも仕事を回せるし、農村の収穫量を増やすことにも繋がると思う」

 

「……なるほど」

 

 ジャファーは顎に手を当て、しばらく考え込んだ。

 

「悪くありません。少なくとも、先ほどの案よりは現実的でしょう」

 

「本当?」

 

「ただし、実行するのであれば水路の管理費や工事期間、必要な人員についても調査する必要があります」

 

「……まだあるの?」

 

「当然です。政策とは、思いついた時点で完成するものではありません。実行できて初めて意味を持つのです」

 

「……はいはい」

 

「返事は一度です」

 

「はい!」

 

 慌てて姿勢を正すと、ジャファーは満足げに頷いた。こうしたやり取りは、もはや日常茶飯事だった。そして、ジャファーの教育は王宮の中だけで終わるものではない。

 

 僕は定期的に護衛を伴い、アグラバーの街へと視察に出ていた。市場では商人たちから物価や交易の状況を聞き、農村では水路や作物の状態を確認する。時には衛兵たちの訓練を見学し、治安の悪い地区へ足を運ぶこともあった。

 

 もちろん、王子という身分である以上、自由気ままに歩き回れるわけはなく、必ず護衛が同行し、危険な場所では事前に警備が配置される。だが、それでも実際に国の現状を見て回ることには、大きな意味があった。

 

「……思っていたより、ひどいね」

 

 ある日の視察。僕は街の外れにある住宅街を見渡しながら、思わずそう呟いた。建物は古く、道には瓦礫が散乱し、井戸の周囲には水を求める人々が列を作っている。

 

「報告書では、この地区の生活環境は改善傾向にあるって書かれていたけど……」

 

「報告書が必ずしも現実を正確に表しているとは限りません」

 

「……だよね」

 

「だからこそ、殿下にはご自身の目で確かめていただいているのです」

 

 ジャファーは淡々と答えた。

 

「国王が知るべきなのは、臣下が報告したい事実ではなく、実際に起こっている事実です」

 

「……なるほど」

 

 僕は頷き、手元の帳面に気づいたことを書き込んでいく。前世の世界と比較すれば、この国の生活環境には改善すべき点が山ほど存在している。衛生設備、上下水道、教育制度、医療体制。知識として改善方法を知っているものもあるけれど、それを実現するための技術や予算が存在するとは限らない。だからこそ、慎重に考える必要がある。

 

「……ジャファー」

 

「何でしょう?」

 

「今度、この地区の井戸について調べたいんだけど、いいかな?」

 

「構いません。ただし、調査するだけで満足なさらぬように」

 

「分かってるよ」

 

「では、必要な資料を用意させましょう」

 

 そう言って歩き始めるジャファーの背中を、僕は追いかけた。こうして僕は、少しずつ王国の現実を学んでいった。

 

 そして、もちろん魔法の訓練も欠かしていない。

 

「……ふむ。随分と上達しましたな」

 

「でしょ?」

 

 王宮の奥にある、普段は人の立ち入らない訓練場。

 

 僕の周囲には、無数の砂が浮かび上がっていた。

 

 指先を動かすと、砂が細長い槍へと変化し、離れた場所に置かれた標的へ向かって飛んでいく。次の瞬間、砂の槍が標的を貫き、そのまま崩れ落ちた。

 

「……どう?」

 

「威力は十分です。しかし、魔力の使い方に無駄がありますな」

 

「ええ……?」

 

「必要以上の砂を動かしております。あの程度の標的であれば、半分の量でも十分でしょう」

 

「……相変わらず厳しいね」

 

「当然です。実戦では無駄な魔力の消費が命取りとなることもあります」

 

「……はいはい」

 

「返事は一度です」

 

「はい!」

 

 僕は慌てて返事をすると、再び砂を浮かび上がらせた。ジャファーの指導を受けるようになってから、僕の魔法は着実に成長していた。最初はほんの少量の砂を動かすだけだったのに、今では巨大な砂の腕を作り出したり、砂を圧縮して盾を形成したりすることもできる。それどころか、最近では砂を使って周囲の動きを感知することまで可能になっていた。もっとも、ジャファーはまだまだ満足していないらしい。

 

「……殿下。次は三つの標的を同時に攻撃していただきます」

 

「……三つ?」

 

「ええ。無論、全て異なる方向からです」

 

「……難しくない?」

 

「難しいからこそ、訓練になるのです」

 

「……ですよね」

 

 思わず苦笑してしまう。しかし、ジャファーの指導が正しいことは、僕自身が誰よりも理解していた。だからこそ、どれだけ厳しくても投げ出すつもりはなかった。

 

 そして、そんな僕の成長を見守るジャファーには、一つだけ秘密がある。僕の魔力は、決して増えているわけではない。幼い頃に暴走した際、ジャファーが施した封印。その封印を少しずつ緩めることで、僕が扱える魔力の量を増やしているだけなのだ。

 

 現在、僕が使用できる魔力は、本来の二割程度。それでも既に、並の魔術師を遥かに凌ぐ力を発揮しているという。もちろん、そんな事実を僕が知るのは、まだ先の話だ。今はただ、ジャファーの指導によって、自分が少しずつ強くなっているのだと信じている。

 

 そんな日々を送る一方で、僕には一つだけ頭の痛い問題が存在していた。姉のジャスミンである。

 

「……はあ」

 

 王宮の廊下を歩いていると、聞き慣れた溜息が聞こえてきた。視線を向ければ、窓辺に立った姉さんが、街の方を眺めている。

 

「……姉さん?」

 

「あら。どうしたの?」

 

「それはこっちの台詞だよ。また外を見てたの?」

 

「……ええ」

 

 姉さんは小さく頷いた。

 

「いいわよね。あなたはいつも外に出られて」

 

「……またその話?」

 

「だって、そうでしょう? あなたはジャファーと一緒に街へ出かけられるのに、私はずっと王宮の中に閉じ込められているんだもの」

 

「……姉さんも父上にお願いすればいいじゃない」

 

「お願いしたわよ。でも、危険だから駄目だって」

 

「……護衛を付ければ許してもらえるんじゃない?」

 

「そういうことじゃないの!」

 

 姉さんは不満そうに声を上げた。

 

「私は自由に外を歩きたいの! 誰かに監視されながらじゃなくて、自分の好きな場所へ行って、好きなことをしたいのよ!」

 

「……それは無理だと思うけど」

 

「どうしてよ!」

 

「僕たちは王族だからね」

 

 僕は肩を竦めた。

 

「姉さんが一人で街を歩いていて、もし誘拐でもされたらどうするの? 身代金を要求されるかもしれないし、政治的な問題に発展する可能性だってあるんだよ?」

 

「……そんなこと、起こるとは限らないじゃない」

 

「起こってからじゃ遅いんだよ」

 

「……あなたって、本当にジャファーに似てきたわね」

 

「それ、褒め言葉として受け取っておくよ」

 

「褒めてないわ!」

 

 姉さんは頬を膨らませた。僕は思わず苦笑してしまう。姉さんが自由を求める気持ちは理解できる。生まれてからずっと王宮で暮らし、結婚相手すら自分で選べないのだから、不満を抱くのも当然だろう。ただ、姉さんには一つだけ、決定的に欠けているものがあった。それは、王宮の外に広がる現実を知らないということだ。

 

「……姉さん」

 

「何よ?」

 

「外の世界って、姉さんが思っているほど楽しい場所じゃないよ?」

 

「……どういう意味?」

 

「市場は賑やかだし、色々な人がいて面白い。でも、それだけじゃないんだ。食べるものにも困っている人がいるし、家を失った人もいる。子供が生きるために盗みを働くことだってある」

 

「……」

 

「僕たちは、そういう人たちの生活を守らなきゃいけない立場なんだよ」

 

 姉さんは黙り込んだ。

 

「だから、もし本当に外の世界を見たいなら、ちゃんと護衛を付けて視察に行けばいいと思う。父上が許してくれないなら、僕からもお願いしてみるよ」

 

「……そういうことじゃないの」

 

「……え?」

 

「私は、王女として街を見たいんじゃないの。普通の人みたいに、自由に歩いてみたいのよ」

 

「……姉さん」

 

「あなたには分からないわよ。いつも自由に外へ出られるんだから」

 

 その言葉に、僕は思わず眉を顰めた。

 

「……僕だって、好き勝手に外出してるわけじゃないよ?」

 

「でも、外に出られるじゃない」

 

「仕事だからね」

 

「……仕事?」

 

「そうだよ。僕たちは王族なんだから、国の現状を知るのも仕事の一つでしょ?」

 

「……またそういう話」

 

 姉さんはうんざりした様子で顔を背けた。

 

「もういいわ。あなたと話していると、ジャファーに説教されているみたい」

 

「……それはどうも」

 

「だから、褒めてないってば!」

 

 そう言い残し、姉さんは足早に廊下を去っていった。僕はその背中を見送りながら、深く溜息を吐いた。

 

「……はあ。難しいなあ」

 

「……まったくですな」

 

「うわっ!?」

 

 突然背後から声をかけられ、思わず飛び上がる。振り返ると、そこにはいつの間にかジャファーが立っていた。

 

「……ジャファー。いつからいたの?」

 

「殿下が王女殿下に、王族としての責務について説明なさっていた辺りからです」

 

「……ほとんど最初からじゃないか」

 

「盗み聞きをするつもりはございませんでしたが、随分と大きな声でしたので」

 

「……姉さんがね」

 

 僕は苦笑した。ジャファーは小さく息を吐くと、ジャスミンが去っていった方向へと視線を向けた。

 

「……王女殿下にも、もう少しご自身の立場を理解していただきたいものですな」

 

「……まあ、姉さんにも姉さんなりの考えがあるんだよ」

 

「その考えが国益に繋がるのであれば、私も喜んで耳を傾けましょう」

 

「……手厳しいね」

 

「殿下にも、同じことを申し上げております」

 

「……知ってるよ」

 

 僕は肩を竦めた。

 

「でも、姉さんの気持ちも分からなくはないんだよね。ずっと王宮の中で暮らしてきたんだから、外の世界に憧れるのも仕方ないと思うし」

 

「……それは理解できます」

 

「だったら……」

 

「ですが、だからといって王族としての責務を放棄してよい理由にはなりません」

 

「……ですよね」

 

 ジャファーは淡々と答えた。

 

「自由には責任が伴います。特に王族の場合、その行動一つが国全体に影響を及ぼすこともあるのです」

 

「……うん」

 

「殿下は、その点をよく理解しておられるようですな」

 

「……ジャファーに散々教えられたからね」

 

「それは結構」

 

 ジャファーは満足げに頷いた。そして、しばらく沈黙した後、小さく肩を竦めた。

 

「……まあ、王女殿下については、仕方がありませんな」

 

「……え?」

 

「陛下があれほど大切に育ててこられたのです。外の世界を知らぬのも、ある意味では当然でしょう」

 

「……ああ、そういうこと」

 

 僕は納得したように頷いた。父上は、姉さんを非常に可愛がっている。亡くなった母上によく似ていることもあって、姉さんの願いにはとにかく甘い。ただし、王宮の外へ出ることと、結婚相手に関する話だけは別だった。特に結婚については、父上が姉さんを手放したくないあまり、なかなか話が進まないらしい。

 

「……父上も、もう少し姉さんの話を聞いてあげればいいのに」

 

「……まったくです」

 

 ジャファーの声には、僅かな呆れが混じっていた。

 

「もっとも、陛下には他にも考えていただきたいことが山ほどございますが」

 

「……それは言わないであげて」

 

「事実を申し上げたまでです」

 

「……本当に容赦ないね」

 

「国務大臣ですから」

 

 ジャファーは当然のように答えた。僕は思わず笑ってしまう。昔から、この人は変わらない。厳しく、容赦がなく、そして誰よりもこの国のことを考えている。原作の『アラジン』に登場したジャファーは、国王の座を狙う悪役だったけれど、実際に接してみると、少なくとも僕にとっては非常に優秀な教師であり、頼りになる人物だった。

 

 もちろん、権力欲が強く、他人に対して冷淡な一面があることも知っている。それでも、この人が国のために働いていることは間違いない。

 

「……さて、殿下」

 

「ん?」

 

「そろそろ午後の講義を始めましょう。今日は周辺諸国との交易について学んでいただきます」

 

「……ええ。今から?」

 

「何か問題でも?」

 

「……少し休憩したいなあ、なんて」

 

「午前中の講義は既に終了しております。十分に休息は取れたはずですが?」

 

「……はい」

 

「では、参りましょう」

 

 ジャファーは踵を返し、執務室へと歩き始めた。僕はその背中を見つめながら、小さく溜息を吐く。

 

「……本当に、仕方がないなあ」

 

「殿下。聞こえておりますぞ」

 

「……はいはい!」

 

「返事は一度です」

 

「はい!」

 

 こうして、今日もまた、アグラバーの王子としての日常が過ぎていく。政治を学び、魔法を鍛え、国の現状を知るために街へ出る。そんな日々を重ねるうちに、僕は少しずつ、この国を背負う覚悟を身につけていった。

 

 そして、ジャファーもまた、王子である僕の成長を誰よりも近くで見守り続けていた。だが、この穏やかな日々が、そう長く続くことはなかった。やがて国王が下す一つの決断によって、アグラバー王国の運命は大きく動き始めることになる。

 

幕間 王子と泥棒とお喋りなオウム

 

「……なあ、王子様」

 

「何?」

 

「お前、本当にあのジャファーの弟子なのか?」

 

 王宮の一室で書類を整理していた僕は、突然投げかけられた質問に顔を上げた。視線の先にいたのは、赤い羽毛に青い翼を持つ一羽のオウム。国務大臣ジャファーの側近?であり、僕にとっても幼い頃からの顔馴染みであるイアーゴだった。

 

「……何を今更。僕が小さい頃からジャファーに教わっているのは、イアーゴも知ってるでしょ?」

 

「いや、そりゃ知ってるけどよ! あの陰険で、気難しくて、口を開けば説教ばっかりのジャファーだぞ!?」

 

「……本人に聞かれたら怒られるよ?」

 

「へっ! 聞かれなきゃ問題ねえって!」

 

 イアーゴは得意げに胸を張った。まったく、相変わらず口の悪いオウムだ。ジャファーに対しても遠慮がなく、時には本人の目の前で文句を言っているのだから、ある意味では大した度胸だと思う。

 

「でも、ジャファーは優秀な先生だよ? 政治も経済も魔法も教えてくれるし、僕が間違ったことをしたらちゃんと叱ってくれるからね」

 

「……おいおい、冗談だろ? あいつの説教をありがたがる奴なんて、初めて見たぜ」

 

「そうかな?」

 

「そうだよ! 俺なんか毎日どれだけ小言を聞かされてると思ってんだ!」

 

「……それはイアーゴが余計なことばっかり言うからじゃない?」

 

「なんだと!?」

 

 イアーゴが羽を広げて抗議する。僕は苦笑しながら、机の上に置いてあった果物を一つ手に取った。

 

「ほら、これ食べる?」

 

「おっ、気が利くじゃねえか!」

 

 差し出した果物を器用に受け取ると、イアーゴは早速かじり始めた。

 

「……ったく、お前は変な王子様だよな」

 

「今度は何?」

 

「普通、王子ってのはもっと偉そうにするもんだろ? なのにお前ときたら、毎日机にかじりついて勉強してるし、暇さえあれば街に出かけてるしよ」

 

「……王子だからこそ、勉強する必要があるんじゃない?」

 

「ほら、それだよ! そういうところがジャファーそっくりなんだ!」

 

「……褒め言葉として受け取っておくよ」

 

「褒めてねえって!」

 

 どこかで聞いたようなやり取りに、思わず笑ってしまった。すると、イアーゴは不満そうに僕を睨んだ後、ふと思い出したように首を傾げた。

 

「……そういや、今日はジャファーと一緒じゃねえのか?」

 

「うん。今日は一人で街の視察に行く予定なんだ」

 

「……一人?」

 

「もちろん、護衛は付くよ。ジャファーは国王陛下との会議があるからね」

 

「へえ。あいつがお前を一人で行かせるなんて、珍しいじゃねえか」

 

「最近は僕だけで視察することも増えてきたんだよ。いつまでもジャファーに頼ってばかりじゃいられないからね」

 

「……ふーん」

 

 イアーゴは果物をかじりながら、何やら考え込むような仕草を見せた。

 

「ま、せいぜい気をつけるこったな。あのジャファーのことだ、何かあったら説教だけじゃ済まねえぞ?」

 

「……縁起でもないこと言わないでよ」

 

「へっへっへ! せいぜい怒られないようにするんだな!」

 

 そう言って笑うイアーゴを横目に、僕は最後の書類を片づけた。

 

 もっとも、その日の視察で起きたことにより、本当にジャファーから大目玉を食らうことになってしまった。

 

 アグラバーの市場は、今日も多くの人々で賑わっていた。商人たちの威勢のよい声が飛び交い、香辛料の香りが漂い、色鮮やかな布や果物が店先に並べられている。

 

 僕は数人の護衛を伴い、市場の通りを歩いていた。

 

「……なるほど。先月よりも小麦の価格が上がっているんだね」

 

「はい、殿下。西方からの輸送が遅れておりまして」

 

「輸送路の問題?」

 

「それもございますが、最近は盗賊の被害も増えているようです」

 

「……分かった。警備隊にも確認してみよう」

 

 商人から話を聞き、手元の帳面に書き込む。今日の視察は、主に市場の物価と治安状況を確認するためのものだった。ジャファーが同行していない分、自分で判断しなければならないことも多い。

 

 それでも、これまで教わってきたことを実践する良い機会だと思っていた、そんな時。

 

「泥棒だぁぁぁっ!!」

 

「……ん?」

 

 突然、通りの向こうから怒鳴り声が響いてきた。視線を向けると、一人の青年が果物を抱えて走っている。その肩には、小さな猿がしがみついていた。

 

「待ちやがれ、この泥棒!」

 

「悪いね! ちょっと借りるだけさ!」

 

「何が借りるだけだ! 金を払え!」

 

 青年は軽快な足取りで人混みを抜け、追いかけてくる商人から逃げていく。その姿を見た瞬間、僕は思わず目を見開いた。

 

「……あれ?」

 

 黒髪に褐色の肌、紫色のベスト。そして、肩に乗った小さな猿。あれって、もしかしなくても。

 

「……アラジン?」

 

 思わず名前を呟いてしまった。前世で見た映画『アラジン』の主人公。貧しい生活を送りながらも、持ち前の機転と身軽さで街を生き抜く青年。そして、やがて魔法のランプを手に入れ、姉さんと出会うことになる人物。そのアラジンが、今まさに目の前を走り抜けていた。

 

「……殿下?」

 

 護衛の一人が、不思議そうに声をかけてくる。

 

「どうかなさいましたか?」

 

「……いや、何でもないよ」

 

 僕は慌てて首を振った。それにしても、まさかこんなところで出会うとは思わなかった。原作の物語が始まるのは、もう少し先だと思うけど、そもそも僕が存在している時点で、原作どおりに進む保証なんてない。そんなことを考えていると、アラジンが建物の壁を蹴り、屋根の上へと飛び移った。

 

「……本当に身軽だなあ」

 

 思わず感心してしまう。しかし、次の瞬間。

 

「うわっ!?」

 

 アラジンの足元で、古びた屋根瓦が崩れた。踏み出した足が空を切り、身体が大きく傾く。そのまま、彼は建物の縁から落下してしまった。

 

「……危ない!」

 

 僕は咄嗟に動いていた。護衛たちの視線が屋根へ向いている隙に、近くの路地へと足を踏み入れる。そして、誰にも見えない位置で指先を動かした。

 

 地面に積もっていた砂が、音もなく浮かび上がる。細かな砂粒は壁に沿って駆け上がり、落下するアラジンの真下へと集まった。

 

「うわああああっ!?」

 

 悲鳴を上げるアラジン。だが、地面に激突する寸前、その身体が不自然なほどゆっくりと減速した。砂が彼の背中を支え、落下の勢いを受け止めたのである。もっとも、本人には何が起こったのか分からなかったらしい。

 

「……あれ?」

 

 アラジンは目を丸くした。そして、ほとんど衝撃もなく地面へ降り立つと、不思議そうに自分の身体を見下ろした。

 

「……助かった?」

 

 その直後、砂は何事もなかったかのように地面へ戻っていった。ただ一匹。アラジンの肩にしがみついていた猿だけが、その一部始終を目撃していた。

 

「……ウキ?」

 

 アブーは目を丸くし、地面に消えていく砂を見つめた。今、確かに砂が動いている。しかも、誰かに操られているかのように。だが、そんなことがあり得るのだろうか?アブーが不思議そうに首を傾げていると、背後から声が聞こえてきた。

 

「……大丈夫?」

 

「……え?」

 

 振り返ったアラジンの前に、僕は歩み寄った。

 

「随分と危ない落ち方をしたけど、怪我はない?」

 

「あ、ああ……。なんともないみたいだ」

 

「それなら良かった」

 

 僕は安堵の息を吐いた。アラジンは不思議そうに僕を見つめていたが、やがて軽く笑った。

 

「……あんた、もしかして俺を助けようとしてくれたのか?」

 

「まあ、そんなところかな」

 

「そっか。ありがとな!」

 

「どういたしまして」

 

 アラジンは気さくに笑った。……なるほど。原作で見たとおり、なかなか人懐っこい性格らしい。ただし。

 

「……ところでさ」

 

「ん?」

 

「その果物、どうしたの?」

 

「……え?」

 

 僕が視線を向けた先には、アラジンが抱えている果物があった。先ほど商人から盗んだものだ。

 

「……あー、これは、その……」

 

「盗んだんでしょ?」

 

「……うっ」

 

 アラジンが気まずそうに顔を逸らす。僕は小さく溜息を吐いた。

 

「……お腹が空いてるの?」

 

「……まあ、そうだけど」

 

「そっか」

 

 僕は少し考えた後、手を差し出した。

 

「じゃあ、その果物は返してもらっていい?」

 

「……え?」

 

「盗んだものだからね。ちゃんと持ち主に返さないと」

 

「……いや、でも」

 

「大丈夫。代わりに、これをあげるから」

 

 僕は腰に下げていた小さな袋を開き、中から布に包まれたパンを取り出した。今日の視察が長引いた時のために、軽食として持ってきたものだ。

 

「……ほら!」

 

 軽く投げ渡すと、アラジンは慌てて受け取った。

 

「うわっ!? ……パン?」

 

「うん。僕の昼食用だけど、まだ食べてないから」

 

「……いいのか?」

 

「もちろん。その代わり、果物は返してね」

 

 アラジンはパンと果物を交互に見つめた。そして、少しだけ考えた後、苦笑しながら果物を差し出した。

 

「……分かったよ。ほら」

 

「ありがとう」

 

 僕は果物を受け取り、軽く頷いた。

 

「それじゃあ、僕は行くね」

 

「……あ、ちょっと待って!」

 

「ん?」

 

「……あんた、名前は?」

 

 その質問に、僕は一瞬だけ考え込んだ。王子だと名乗れば、余計な騒ぎになるかもしれない。何より、今は護衛から離れている。早く戻らなければ、間違いなく怒られるだろう。

 

「……そのうち、また会うことがあったら教えるよ」

 

「……なんだよ、それ」

 

「それと、一つだけ」

 

 僕は振り返り、アラジンへと声をかけた。

 

「……盗みは駄目だよ?」

 

「……へ?」

 

「お腹が空いているのは分かるけど、盗まれた商人だって生活がかかってるんだからね」

 

「……あー、まあ、そうだけどさ」

 

「じゃあ、またね!」

 

 そう言い残し、僕は足早に路地を離れた。その背中を見送りながら、アラジンはしばらく呆然としていた。

 

「……なんだったんだ、あいつ?」

 

 助けてくれようとしたかと思えば、盗んだ果物を取り返され、代わりにパンを渡された。しかも、最後には説教までされた。変な奴だった。だが、不思議と嫌な気分にはならなかった。

 

「……まあ、パンも貰えたし、いいか」

 

 アラジンは肩を竦め、手にしたパンを二つに分けた。

 

「ほら、アブー。お前の分だ」

 

「……ウキ?」

 

「どうした?」

 

 アブーはパンを受け取りながら、先ほどの路地を見つめていた。あの砂は一体、何だったのだろうか?風も吹いていないのに、砂が勝手に動いていた。しかも、アラジンを助けるように。

 

「……ウキ、ウキッ!」

 

「ん? 砂がどうかしたのか?」

 

「ウキッ! ウキウキッ!」

 

 アブーは身振り手振りで説明しようとした。しかし、アラジンには何を言いたいのか分からなかった。

 

「……何だよ。変なものでも見たのか?」

 

「……ウキィ……」

 

 アブーはがっくりと肩を落とした。どうやら、説明するのは難しいらしい。何しろ、猿なのだから。

 

「……殿下。私が何を申し上げたいか、お分かりですかな?」

 

「……はい」

 

「では、説明していただきましょう」

 

 その日の夕方。王宮へ戻った僕は、ジャファーの執務室で正座させられていた。何故、アグラバーに正座なんて文化があるんだよ?

 

 目の前には、腕を組んだジャファー。そして、その隣には今日の視察に同行していた警備隊長が立っている。二人とも、実に恐ろしい表情を浮かべている。

 

「……その、護衛の人たちから少し離れてしまったことについて……」

 

「少し、ですと?」

 

 ジャファーの声が低くなる。

 

「殿下。あなたは本日、護衛の目が届かぬ場所へ、何の連絡もなく移動なさったのですぞ?」

 

「……はい」

 

「もし、その間に何者かに襲われていたら、どうなさるおつもりだったのです?」

 

「……魔法で何とかーー」

 

「そういう問題ではありません!」

 

「……はい!」

 

 思わず背筋を伸ばした。隣に立つ警備隊長も、深々と頭を下げる。

 

「殿下! 我々の任務は、殿下の安全を確保することです! 突然お姿が見えなくなった時には、心臓が止まるかと思いましたぞ!」

 

「……ごめんなさい」

 

「謝罪では済みません! もし殿下の身に何かあれば、我々は陛下に顔向けできません!」

 

「……はい」

 

 完全に正論だった。僕としては、目の前で人が落下しそうになっていたから、咄嗟に助けようとしただけなのだ。しかし、だからといって護衛に何も告げずに行動してよい理由にはならない。

 

「……ジャファー」

 

「何ですかな?」

 

「……一応、理由を説明してもいい?」

 

「……聞きましょう」

 

 僕は、今日の市場で起こった出来事を説明した。盗みを働いた青年が建物から落下しそうになったこと。咄嗟に魔法を使って助けたこと。そして、盗んだ果物を返してもらう代わりに、持っていたパンを渡したこと。もちろん、魔法については警備隊長に聞こえないよう、ジャファーにだけ小声で伝えた。

 

「……なるほど」

 

 話を聞き終えたジャファーは、しばらく沈黙した。

 

「人命を救おうとしたこと自体は、間違いではありません。ですが、それと護衛から無断で離れたことは、全く別の問題です」

 

「……ですよね」

 

「殿下。あなたは王位を継ぐ立場にあるのです。ご自身の安全が、どれほど多くの人間に関わっているのか、理解なさっているはずでしょう?」

 

「……はい」

 

「であれば、今後は決して同じことを繰り返さぬように」

 

「……分かりました」

 

 僕は素直に頭を下げた。ジャファーは大きく息を吐くと、隣の警備隊長へと視線を向けた。

 

「……隊長。今後の視察では、殿下の行動をより注意深く確認するように」

 

「はっ!」

 

「ただし、今回の件について、あなた方だけを責めるつもりはありません。殿下ご自身にも、十分に反省していただく必要がありますからな」

 

「……はい」

 

 僕は小さくなりながら頷いた。それからも、ジャファーと警備隊長による説教はしばらく続き、解放された頃には、すっかり日が暮れていた。

 

「……はあ」

 

 執務室を出た僕は、深い溜息を吐いた。まさか、あそこまで怒られるとは。いや、完全に自業自得なんだけど。

 

「……おやおやぁ?」

 

 その時、頭上から聞き慣れた声が降ってきた。

 

「随分とお疲れみたいじゃねえか、王子様?」

 

「……イアーゴ」

 

 見上げると、廊下の手すりにイアーゴが止まっていた。その顔には、実に楽しそうな笑みが浮かんでいる。

 

「へっへっへ! 聞いたぜ? ジャファーにこっぴどく叱られたんだってな!」

 

「……誰から聞いたの?」

 

「誰って、本人に決まってんだろ!」

 

「……ああ、そう」

 

 僕は肩を落とした。すると、イアーゴは嬉しそうに羽を広げた。

 

「だから言ったじゃねえか! あいつに怒られたら説教だけじゃ済まねえって!」

 

「……本当に、そのとおりだったよ」

 

「へっへっへ! ざまあみろ!」

 

「……イアーゴ」

 

「何だよ?」

 

「明日のおやつ、僕の分を分けてあげようと思ってたんだけど……やっぱり、やめようかな」

 

「ちょ、ちょっと待て! それとこれとは話が別だろ!?」

 

「……どうしようかなあ」

 

「おい! 王子様! 冗談だって! 冗談!」

 

 慌てて飛び回るイアーゴを見て、僕は思わず笑ってしまった。まったく。このオウムも、相変わらずだ。

 

 こうして、僕とアラジンの最初の出会いは、誰にも知られることなく終わった。そして、あの日の出来事が、後に思いもよらない形で僕たちを結びつけることになるとは、まだ誰も知らなかった。

 

 まあ、僕としては、次にアラジンと会う時には、もう少し穏やかな状況であってほしいところだけど。何しろ、今回の件で十分すぎるほど怒られてしまったのだから。

 

第二章 愚王の決断

 

 アグラバー王国の国王、サルタンには、一つの大きな悩みがあった。それは、娘であるジャスミンの結婚についてである。王女として生まれた以上、いずれは相応しい相手と結婚しなければならない。王家の婚姻は単なる個人の問題ではなく、国同士の関係や王家の存続にも関わる重要な問題だからだ。

 

 無論、サルタンもそのことは理解していた。だからこそ、これまで何度も周辺諸国の王子たちを招き、ジャスミンとの見合いの機会を設けてきたのである。しかし、その成果は芳しくなかった。

 

「……また駄目じゃったか」

 

 王宮の一室で、サルタンは深い溜息を吐いた。つい先ほど、ジャスミンとの見合いを終えたばかりの王子が、怒り心頭といった様子で帰国してしまったのである。

 

 何でも、ジャスミンが相手の傲慢な態度に腹を立て、飼っている虎のラジャーをけしかけたらしい。幸い怪我人は出なかったものの、王子の衣服は無惨な状態となり、見合いは当然ながら破談となった。

 

「まったく、あの子にも困ったものじゃ……」

 

 そう呟きながらも、サルタンの表情にはどこか安堵の色が浮かんでいた。娘が結婚相手を見つけられないことは、確かに困った問題である。しかし、結婚が決まれば、ジャスミンはいずれ他国へ嫁ぐことになる。そうなれば、今までのように毎日顔を合わせることもできなくなる。

 

 そのことを考えると、サルタンはどうしても寂しさを感じずにはいられなかった。ジャスミンは、亡き王妃によく似ている。美しい黒髪も、気の強い性格も、時折見せる優しい笑顔も。妻を失って以来、サルタンにとって娘の存在は、何物にも代え難い心の支えとなっていた。

 

 だからこそ、娘には幸せになってほしい。だが、同時に自分の傍から離れてほしくない。そんな矛盾した感情を、サルタンは長年抱え続けていたのである。

 

「……ううむ」

 

 しばらく考え込んでいたサルタンだったが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。

 

「そうじゃ! そうすればよいではないか!」

 

 そして、近くに控えていた侍従へと声をかける。

 

「ジャファーを呼んでくれ! すぐにじゃ!」

 

しばらくして、

 

「……お呼びでしょうか、陛下」

 

 国務大臣ジャファーが王の私室へと姿を現した。相変わらず黒と赤を基調とした衣装に身を包み、蛇の杖を手にしている。サルタンは彼の姿を見るなり、嬉しそうに手招きした。

 

「おお、ジャファー! よく来てくれた!実はな、お前に相談したいことがあるのじゃ!」

 

「はあ。……何でしょう?」

 

 ジャファーは僅かに眉を動かした。国王からの相談というものは、往々にして面倒な内容が多い。特に、ジャスミン王女に関する話となると、なおさらである。

 

「ジャスミンの結婚についてじゃ!」

 

「……また、その件ですか」

 

「うむ! なかなか良い相手が見つからなくてのう!」

 

「……それは、王女殿下が候補者をことごとく拒絶なさっているからでは?」

 

「まあ、そうなのじゃが……」

 

 サルタンは困ったように笑った。

 

「しかし、無理に結婚させるのも可哀想じゃろう?」

 

「……陛下。王家の婚姻は、個人の感情だけで決められるものではありません」

 

「分かっておる、分かっておるとも!」

 

 サルタンは何度も頷いた。

 

「じゃが、わしはあの子に幸せになってほしいのじゃ。亡くなった王妃も、きっとそう願っておるはずじゃからな」

 

「……」

 

 ジャファーは黙って話を聞いていた。サルタンが娘を溺愛していることは、今に始まった話ではない。そのこと自体は、別に問題ではなかった。問題なのは、その感情が国政にまで影響を及ぼすことだった。

 

「……それで、陛下。ご相談とは?」

 

「うむ! 実はな、わしは良い方法を思いついたのじゃ!」

 

 サルタンは得意げに胸を張った。

 

「ジャスミンが他国へ嫁ぐ必要など、ないのではないかと思ってのう!」

 

「……は?」

 

「つまりじゃ! ジャスミンが婿を迎えればよいのじゃ!」

 

「……婿、ですか?」

 

「そうじゃ! 他国の王子をこの国へ迎え、ジャスミンと結婚してもらう。そして、その者に次の国王となってもらえばよい!」

 

「…………」

 

 ジャファーは言葉を失った。サルタンはそんな彼の反応を気にすることなく、嬉しそうに話を続ける。

 

「そうすれば、ジャスミンはずっとアグラバーで暮らせるじゃろう? わしもあの子と離れずに済むし、王国にも新しい王が生まれる! まさに一石二鳥じゃ!」

 

「…………陛下」

 

「どうじゃ、ジャファー! 良い考えじゃろう?」

 

 ジャファーは、しばらく何も答えられなかった。あまりにも予想外の提案だったからだ。王女が婿を迎えること自体は、別に珍しい話ではない。王家の事情によっては、他国の王子を迎え入れ、王位を継承させることもある。

 

 しかし、アグラバー王国には既に正統な王位継承者が存在している。しかも、その人物は決して幼い子供ではない。長年にわたり王としての教育を受け、政治や経済、外交、軍事について学び、実際に国政にも関わり始めている。他でもない、サルタンの実の息子である。

 

「……陛下。恐れながら、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

 

「うむ。何じゃ?」

 

「……王子殿下については、どのようにお考えなのです?」

 

 サルタンは不思議そうに首を傾げた。

 

「王子?」

 

「ええ。陛下には、ジャスミン王女殿下の他に、もう一人お子様がおられるはずですが」

 

 サルタンは納得したように頷いた。

 

「もちろん、あの子のことも考えておるぞ!」

 

「……ほう」

 

「実に優秀な子じゃからな! お前の指導のおかげで、政治にも詳しくなったと聞いておる!」

 

「……ええ」

 

「だからこそ、次の国王を支える立場になってもらえばよいのじゃ!」

 

「…………」

 

「ほれ、お前のように国務大臣となってもよいし、宰相として国政を取り仕切るのもよかろう! あの子なら、きっと立派に務めてくれるはずじゃ!」

 

 サルタンは満足げに笑った。その言葉を聞いた瞬間、ジャファーの表情から感情が消えた。

 

「……陛下」

 

「何じゃ?」

 

「……つまり、王子殿下には王位を継承させないと?」

 

「うむ。ジャスミンの婿が国王となるのじゃから、そういうことになるのう」

 

「……それは、既に決定なさったことなのですか?」

 

「いや、まだじゃ。じゃが、わしは良い考えだと思っておる!」

 

 サルタンは嬉しそうに頷いた。

 

「そこで、お前にも相談しようと思ったのじゃ!」

 

「…………」

 

 ジャファーは静かに目を閉じた。王子が幼い頃から、どれほど努力を重ねてきたことか。政治の基礎を学び、経済を理解し、外交の駆け引きを覚え、軍事や法律についても知識を身につけてきた。

 

 机上の学問だけではない。自ら街へ足を運び、民衆の暮らしを知り、国が抱える問題を理解しようとしている。時には失敗し、時には叱責され、それでも決して努力を投げ出さなかった。その全てを、ジャファーは誰よりも近くで見てきた。

 

 そして今、目の前の国王は、その努力を当然のように脇へ置こうとしている。理由は、ただ一つ。……娘を手元から離したくないから。ジャファーはゆっくりと目を開いた。

 

「陛下。……恐れながら、そのご判断には賛同いたしかねます」

 

「……む?」

 

「王子殿下は、長年にわたり王位継承者として教育を受けてこられました。既に国政についても相応の知識と経験をお持ちです」

 

「うむ、そうじゃな!」

 

「であれば、その殿下を差し置き、他国から迎えた人物に王位を与えるというのは、いささか問題があるかと」

 

「……そうかのう?」

 

「……はい」

 

 ジャファーは言葉を選びながら続けた。

 

「他国の王子が必ずしもアグラバーの国益を優先するとは限りません。また、王子殿下を支持する貴族や官僚たちが反発する可能性もございます」

 

「ううむ……」

 

「何より、殿下ご自身のお考えを確認せずに決定するべきではありません」

 

 サルタンは困ったように腕を組んだ。そして、しばらく考え込んだ後、何とも気楽な調子で答えた。

 

「……じゃが、あの子なら分かってくれるのではないか?」

 

「……何ですと?」

 

「ほれ、あの子は昔から物分かりがよいじゃろう? 姉のことも大切にしておるし、きっと協力してくれると思うのじゃ!」

 

「…………」

 

 ジャファーは、再び言葉を失った。

 

 物分かりがよい。だから、王位を譲るだろう。あまりにも身勝手な理屈だった。王子がこれまで努力してきたのは、国王になるためだけではない。この国をより良くするために、自分に何ができるのかを考え続けてきたのだ。その姿を見てきたジャファーにとって、今の言葉は到底受け入れられるものではなかった。

 

「……陛下」

 

「うむ?」

 

「……王位継承は、王家のみならず国全体の将来に関わる問題です。どうか、今一度慎重にお考えください」

 

「うむ。もちろん、よく考えるつもりじゃ!」

 

 サルタンは笑顔で頷いた。

 

「じゃが、ジャスミンが幸せになれるのであれば、わしとしては是非とも実現させたいと思っておる!」

 

「…………承知いたしました」

 

 ジャファーは深々と頭を下げた。

 

「それでは、私はこれにて失礼いたします」

 

「うむ! ご苦労じゃった、ジャファー!」

 

 サルタンは満足げに手を振った。ジャファーは一礼すると、静かに部屋を後にする。国王の私室を出た直後、ジャファーは低い声で呟いた。

 

「…………愚か者め」

 

 廊下には誰もいない。それを確認すると、彼は蛇の杖を強く握り締めた。

 

「……あれほどの愚か者が、よくも今まで王位に就いていられたものだ」

 

 吐き捨てるような声だった。国王がジャスミン王女を溺愛していることは、以前から理解していた。亡き王妃の面影を残す娘を手放したくないという気持ちも、理解できなくはない。だが、だからといって王位継承を私情で決めてよいはずがなかった。ましてや、そのために実の息子を後継者から外すなど。

 

「……ふざけおって」

 

 ジャファーの脳裏に、幼い王子の姿が浮かぶ。初めて砂の魔法を扱った時、力を制御できずに怯えていた少年。それでも、努力を重ねれば強くなれると信じ、何度失敗しても訓練を続けてきた。

 

 学問についても同じだった。難しい問題に直面すれば、自分なりに考え、答えを導き出そうとする。時には間違った判断を下すこともあったが、そのたびに反省し、次へと繋げてきた。

 

 今では、王国の現状を理解し、民衆の暮らしを改善するための政策を考えるまでになっている。そのような人物が、何故、王位を継ぐことを許されないのか。

 

「……あの方が、どれほど努力を重ねてこられたと思っている」

 

 ジャファーは奥歯を噛み締めた。無論、王子自身は王位に固執しているわけではないだろう。むしろ、姉の幸せのためだと言われれば、あっさりと譲ってしまう可能性すらある。それが、ジャファーには容易に想像できた。だからこそ、腹立たしかった。

 

「……まったく、あの方も……」

 

 ジャファーは深く息を吐いた。王子は優秀だ。しかし、他人のために自分の利益を後回しにしてしまうところがある。それは美徳であると同時に、為政者としては危うい性質でもあった。……そして、今回の国王の提案は、その性質に付け込むようなものだった。

 

「……認められるものか」

 

 ジャファーは静かに呟いた。王子が王位を望まないのであれば、それは本人の意思として尊重する余地がある。だが、本人の意思すら確認せず、勝手に後継者から外すなど論外だった。何より、アグラバー王国にとって、王子以上に相応しい国王が存在するとは思えない。

 

「……ならば、私が動くしかあるまい」

 

 ジャファーは踵を返し、自らの執務室へと向かった。そして、部屋に戻ると、奥に置かれた書棚へと歩み寄った。そこには、王宮に伝わる古い文献や、一般には公開されていない魔術書が保管されている。ジャファーはその中から、一冊の古びた書物を取り出した。

 

「……確か、この辺りだったはずだが」

 

 頁をめくりながら、目的の記述を探す。やがて、ある頁で手を止めた。そこには、古代の魔法に関する記録が残されていた。かつて、王子の砂の魔法について調査していた際、偶然発見した文献である。当時は王子の能力との関連性が薄かったため、詳しく調べることなく保管していた。しかし、その記述だけは鮮明に記憶していた。

 

 ――魔法のランプ。

 

 古代の魔術師によって封じられた、強大な魔人が宿るとされる秘宝。その魔人は、ランプを手にした者の願いを叶えるという。

 

「……願いを叶える魔人、か」

 

 ジャファーは静かに呟いた。もし、この伝説が真実であるならば、国王の気まぐれなどに左右されることなく、王子を正統な王位継承者として確立することも可能かもしれない。あるいは、王国そのものの仕組みを変えることすらできるだろう。

 

 もっとも、願いを叶えるという話を、そのまま信じるほどジャファーは愚かではなかった。魔法には必ず仕組みがあり、強大な力には相応の制約が存在する。それでも、調べる価値は十分にあった。

 

「……ふむ」

 

 ジャファーは書物を閉じた。そして、蛇の杖を手に取り、窓の外に広がるアグラバーの街を見下ろした。夕日に照らされた王宮の向こうには、果てしない砂漠が広がっている。そのどこかに、願いを叶える魔法のランプが眠っているという。

 

「……待っておられよ、殿下」

 

 ジャファーは低い声で呟いた。

 

「あなたが積み重ねてこられた努力を、あのような愚かな判断で無に帰させるわけにはまいりません」

 

 その瞳には、冷たい決意が宿っていた。

 

「……このジャファーが、必ずや道を開いてみせましょう」

 

 こうして、国務大臣ジャファーは、魔法のランプを手に入れるために動き始めた。その行動が、やがてアグラバー王国を揺るがす大事件へと発展していくことを、彼はまだ知らなかった。そして、何も知らない王子は、この時も変わらず、国の未来について考え続けていたのである。

 


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