《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
――あの男は何者だったのか。
放浪者との邂逅から数日が経っていた。名も名乗らず、ただ灰のように視界に現れては消えた存在。だが、セリスの中で彼の残した一節は、今も燻るように思考を締め付けていた。
「我らは、希望を授けすぎたのだ」
思わず口に出すと、その響きがまるで祈りのように空へと溶けていった。
王都・中枢塔。
魔法学会の奥深く、先日とは別の禁書庫に指定された古い文献の中で、セリスはかつての“記録されなかった歴史”を探していた。
灰色の羊皮紙に書かれた名もなき記録。その中のひとつに、彼女は妙な語を見つけた。
『灯火の継承』
王の血に宿る炎。その熱は人の魂に触れ、意志を紡ぐ。
炎は人を惹きつけ、従え、束ねる。されど狂えば――。
この記述に、セリスの胸が不気味に脈を打った。
「……これは、“魔法”だ」
学術的に言えば、このような“精神的な繋がり”は未定義魔術に分類される。理論立てて体系化されることのない、禁忌に近い曖昧な術。だがこれは明らかに、王家にのみ伝わる秘術だった。名を持たぬまま、人々の心を操るそれは、民衆の語る「王の威光」の正体なのではないか。
セリスはふと思い出す。
最近エリオットと語ると、心が動いた。彼が立てば思わず体が動く様になっていた。
まるで、彼の“熱”に浮かされているかのように。
「心の灯火……いや、心の“炎”か」
背筋を伝う戦慄があった。
その力は確かに“光”を持っている。だが、それがあるがゆえに、人はその熱に酔い、盲目になることもあるのだ。
実際、今の王――エリオットの父に当てはめれば、圧倒的な“炎”をその身に宿しながら、それを暴力と支配の道具として使っていることになる。
民を照らすはずの灯火が、
民を焼き尽くす“狂炎”へと堕ちていたのだ。
セリスは塔を下り、孤児院のある南の区画へと足を向ける。途中、広場で子どもたちが小さな火を囲んでいた。冬の気配がすぐそこまで来ている。だがその火は、温もりではなく、何かを思い出させるように揺らいでいた。
「……火は、人を集める」
そして同時に、試すのだ。
誰が近づき、誰が手を伸ばし、誰が――焼かれるのかを。
その夜。
セリスは書き上げたばかりの報告書を破棄した。そこにあったのは魔術理論でも文化考証でもない。「王家の魔法」という不確かな力の考察など、誰も公には認めない。
だが、確信はあった。
この私の胸の“熱”は魔法だ。理性ではなく、魂を媒介に繋がるおそらく“原初の魔法”。
――そして、かつて滅びた文明も、この炎に焼かれたのではないか。
彼女の頭をよぎったのは、放浪者の声とヴァルデン手記だった。
「かつて、我らは“火”を手にした。
夜を払う灯火として、
飢えた子を温める炎として、
恐怖と無知を追い払う知の象徴として。
だが、火は冠となり、
王たちはその熱を神威と履き違えた。」
「……ただの“放浪者”さ。
君たちが、もう一度火を手にしようとするのを見に来た」
つまりこれは、繰り返されているのだ。
エリオットはその“灯火”を新たな希望として受け継ごうとしている。だが彼の父王は、それを狂気と支配に変えた。
そして、遥か昔にも似たような事があったと――誰かが手記に記していた。
⸻
翌日、セリスはエリオットに会った。
王都の夜は静かだった。
屋根の上を冷たい風が渡り、灯火の揺らぎが街の影をより深く濃くしていた。孤児院の裏庭。まだ再建の途中で、焦げ跡の残る煉瓦塀のそばに、二人の姿があった。
エリオットはうつむいたまま、セリスの報告書と言葉を反芻していた。
「……これは、“魔法”の一種だったのか」
低く、途切れそうな声。
彼は自らの両手を見つめていた。血も傷もない、だがいくつもの民の想いを握ったその手だ。
「知らなかった。本当に……そんなこと、一度も。父からも何も聞いていない。なのに……」
自分が感じた覚悟の熱は、世界を変えようという想いは、誰かを踏みにじり操り人形にした1人遊びに過ぎなかった。
「なのに、俺は……人々の心が、自分に向くのを感じていた。皆が従い、語れば皆が涙した。まるで……それが当然だと思っていた。俺の言葉が届くのは、俺が“正しいから”だと……」
エリオットの声が震えた。拳が強く握られる。血も傷もない手から血が滴り落ちる。
「違ったんだな。全部、あの“熱”のせいだった。父と同じ……結局、同じなんだ、俺も」
彼の瞳が、夜の闇に揺れた。後悔と恐怖が交錯するその顔を、セリスはじっと見つめていた。やがて、彼女は一歩、そっと歩み寄る。
「……違うわ、エリオット」
「なにが違う? 俺が民の声に耳を傾けるのも、貴族を戒めたのも――“炎”がなければ、誰もついてこなかったんだ」
「それでも」
セリスの声はやわらかく、それでいて揺るぎなかった。
「その炎で、あなたが何を“照らしたか”を見ていた。民を踏みにじったのでも、支配したのでもない。あなたは、手を差し伸べた。苦しむ者に、歩く力をくれた。私は……それを見ていた」
エリオットは振り返る。その目に迷いと希望が交錯していた。
「……俺は……選んでいたのか。力のせいじゃなくて、俺自身が」
「そうよ」
セリスは微笑んだ。まるで、まだ揺れている小さな灯に、そっと火を継ぐように。
「炎は道具よ。照らすか、焼くかを決めるのは、持つ者の“心”だわ。
あなたは、燃やさなかった。だから私は、信じられる」
長い沈黙のあと、エリオットは小さく頷いた。
「ありがとう、セリス……」
彼の声は小さかったが、確かな熱を帯びていた。
それは王族としてではなく、一人の“人間”として向けられたものだった。
夜空に浮かぶ月が、焦げ跡の残る煉瓦塀を白く照らしていた。
かつて焼け落ちたものの上に、今また、小さな希望の炎が灯されていた。