《Testament of the Last Warden - 世界が歩み始めた日》 作:ケン3ヴァルデン
王都の空は赤く染まっていた。
それは朝焼けではない。立ち昇る煙と、燃えさかる火が各所で上がり、街を包んでいた。
鐘が鳴る。混乱を告げる、不規則で重い音。
叫び、怒号、剣戟。
抑え込まれていた痛みと怒りが、一斉に噴き出す。
石畳を蹴って、フレイは駆けた。
強情な貴族の私兵に囲まれた、手に鍬や棒を持った民たちのために。
その囲いの中では老いた者も、傷ついた者もいた。けれどその目には恐れよりも覚悟があった。
「貴族どもは、塔に籠ってやがるし!こいつらは俺達をなんとも思わねぇで切ってくる!」
フレイはそう叫ぶと、屋根を跳ねるかのように向かってくる剣の腹を飛び越え、呆気に取られた兵に斬り込んだ。
彼の双剣は、まるで風のように舞い、血の雨を拒む。だが、彼は殺さない。
倒れた兵の剣を弾き、民が血に染まらぬよう――まるで“選ぶ”ように動いていた。
「見ろよ、王子。お前の灯火、ちゃんと届いてるぜ……」
小さく呟き、フレイは再び地面を蹴る。
群衆の中心に立ち、怒声に負けぬ声で叫ぶ。
「お前ら、もう怯えるな! 俺たちが正しいってこと、灯火の王子が証明してくれた!」
“蒼く染まった”空には火の粉が舞い、街のあちこちから民の鬨の声が響いた。
それは悲鳴ではなかった――まるで“始まり”の産声だった。
「……君が、あの放浪者と会った時、ワシは見ていたんだよ」
静かに響く声は、炎に包まれた書庫の中心から発せられた。
崩れ落ちる書架の合間、紅蓮の魔方陣が床に広がっている。
その中央に立つのは、かつてこの魔法院の尊敬を一身に集めた導師、アヴェル院長。
その顔には、知性よりも焦燥、理性よりも執念が刻まれていた。
「……見ていた?」
セリスは魔力で煤けた白衣を払い、倒れた書架を背に身構えた。
魔法院からの援護を止めるために魔力炉を停止しにきたセリスは今まで無関心だったアヴェル院長に襲われていた。
しかし彼女の瞳は揺れていない。だが、その手はわずかに震えている。
炎が音もなく燃え上がる中、アヴェルの声は遠くにいるはずなのに耳元で聞こえるかのように執拗に続いた。
「忘れたとは言わせないよ、セリス・ウィンダリア。君が放浪者と接触した夜、私は窓からその光景を見ていた。あの“人ならざる者”の気配に、私は確信したのだ。手記は、実在する」
セリスは言葉を失った。
放浪者の存在を知っていた。彼女が接触したことも知っていた。
……そして、何より――
「……目録を切り取ったのも……あなた、ですね」
「当然だ」
アヴェルは微笑む。それは“知の守護者”が見せるには、あまりに醜く乾いた笑みだった。
「古の目録、その中にあった、“存在しないはずの書”の記録。私は長年、それをあえて放置してきた。誰も信じなかったが、私は知っていた……“予言の書”は、探す者の前に現れると」
「貴方は……私を放浪者に接触させるために、私を泳がせていた……?」
「そうだよ、セリス。君のように純粋に探す者の前だけに彼は姿を現す。そして……君に託すはずだ。《手記》をね」
彼女の瞳には、怒りではなく“憐れみ”が宿っていた。
「手記は、予言じゃない……ただの記録です」
「黙れぇぇええッ!」
雷鳴のような怒声と共に、魔方陣が爆ぜる。
空間が歪み、雷の槍が幾条もの軌跡を描いてセリスへと放たれる。
セリスは瞬時に防御魔法を展開、しかし間に合わず、肩に一本が掠めた。
それでも崩れぬ姿勢。
そしてアヴェルは狂ったように嗤う。
だがその笑い声の中には、焦りが滲んでいた。
「だが、奴は渡さなかった。そして、君は……《手記》の“断章”しか聞いてない。君に語られたのは“灰の玉座”、だろう? “炎を灯し、空を裂き、病を癒し、星を割いた”――!」
セリスの目が見開かれた。知らない一節、アヴェルは確かに、それを知っていた。“断章”の存在、そしてその内容さえも。
「…なぜ、それを」
「私は、“手記”の全てを読みたいのだ。未来を知るためではない。“正しき文明”を築くために!民も、王も……全てが間違えた。我々知の徒こそが導くべきだ。そしてその為ならば純粋に探す者などいくらでも暴いた!」
狂気と共に焔の輪がセリスの足元に迫る。
熱が皮膚を焦がし、呼吸すら苦しい。
だが、この胸の灯火よりは涼しかった。
「違う」
焔が消え、彼女の心に呼応する様に蒼白い火が現れる。そして静かに、しかし力強く、セリスは呟く。
「……手記を書いた者は、未来を導くために“手記”を書いたわけではない。過ちを、繰り返さないために綴った。それを、貴方のように“支配の器”と見る人に、渡すつもりはありません」
アヴェルの顔が歪む。
その瞬間、アヴェルの周りに散乱していた魔導書が一斉に開かれ、魔法院の結界が崩れ始めるほどの荒ぶる魔力の奔流が渦巻く。
「ならばすべてを奪うまでッ!」
焔が轟き、雷が走り、水が膨れ上がり、床が崩れる。魔力の奔流がうなりを上げる中、セリスは自らの発した蒼白い火に手を伸ばす。
蒼白い火を掴んだその手にはあの夜に放浪者から語られたヴァルデン手記が握られているように錯覚した。
そんなセリスの視界の端に見慣れぬあの黒衣が写った。その男はセリスに向けて手を差し出し破壊の音色の中、その他一切の音を置き去りにしてセリスの耳に響く言葉を紡いだ。
これは、かつて人が火を手にした記録……その代償を綴る、告解だ。
我らは知っていた。
あれは、我らの選択の末路だった。
炎はもはや希望ではなく、
焔はもはや灯火ではない。
それでもなお、記す。
この火が再び誰かの手に渡るなら、
せめて、それをどう灯すかを選べるように。
――我らは、希望を授けすぎたのだ。
その果てに、何を失ったかすら知らぬままに。
“これは、過ちの火だ。
だが、手にする者が選ぶなら……灯火にも、なりうる”
その言葉は黒衣の男ではなく。不思議とセリスの口から出ていた。
未知のヴァルデン手記の一節に、アヴェルの感情は魔力の奔流とは違い漣のように静まり返っていた。
「……な……に…?」
「あなたは火に焼かれた者。なら私は……灯火を守る者となりましょう」
まるで水が流れる様に言葉を紡いだセリスは、その蒼白い火を握りしめた。
その瞬間セリスに迫り来るアヴェルの制御を離れた焔は、雷鳴は、水は、魔力の奔流に呼応した炉の暴走は眩いまでの“蒼”に呑まれた。